春風、君を待つ

 部屋の中には、いくつかの音が等間隔で存在していた。
 壁に掛けられた丸型の時計が刻む、チ、チ、チ、という秒針の乾いた音。
 キッチンの方から断続的に聞こえてくる、冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸る駆動音。
 それから、時折思い出したように遠くの道路を走り抜けていく、自動車のロードノイズ。


 それらの音が重なり合って部屋の静寂を一定の周期で満たしていた。
 時計の長針が、カチリと音を立てて十二の数字を指した。午後七時ちょうどだった。


 少し遅いな、駅まで向かいに行こうかと思い携帯と家の鍵をポケットに入れる。


 その瞬間、スマートフォンのバイブレーション音がズボン越しに肌を激しく震わせた。


ブー、ブー、ブー。
規則的な振動が、自分一人の部屋に鳴り響く。


 画面が明るく発光し、そこには「澄花実家」の固定電話の番号が表示されていた。市外局番から始まるその数字は、以前澄花の実家を訪れたとき登録したものだった。発光する液晶の強い白光が、薄暗くなり始めた室内で奇妙な存在感を放っている。


 指先には、振動の余韻が微かな痺れとなって伝わってきた。画面をスワイプし、スピーカーを耳に当てる。

「……暁くん?」
受話器の向こうから聞こえたのは、押し殺したような、けれどどこか空虚に響く澄花の母親の声だった。

「さっきね、警察から電話があったの『交通事故で、即死です』って_____」


「嘘よね? 暁くん、お願いだから嘘だって言って。私たちもすぐに行くけれど、今すぐには行けないの。だから、お願い……先に行って確認してきてくれない? 何かの間違いよね、あの子が死ぬわけないでしょう?」


澄花の母親の言葉が、僕の中で反芻する。

即死

即死?


即死。



 その言葉が、まるで硬質な石のように脳内で跳ね回り、何もかもを押し潰していく。

「……はい」と僕は答えた。

 自分の声が驚くほど平坦で、まるで他人事のように聞こえる。そのときを境に、僕は自分の人生から切り離されたような感覚に陥った。

 それからの記憶は、酷く曖昧だ。

 病院へ向かった足取りも、冷たい廊下の空気も、僕には関係のない、どこか遠い国の出来事のように思える。
到着した先で見た光景も、どこかピントがずれた映像のようだった。

 絶望のあまり崩れ落ち、獣のような声を上げて泣き叫ぶ澄花のお母さん。
 ただただ立ち尽くして、そのやり場のない怒りや悲しみをどこにぶつければいいのか分からずに彷徨うお父さん。

 彼らが僕の目の前でどれほど壊れていようとも、僕の心は驚くほど静かだった。

 自分の目の前で冷たくなっているのが澄花だと理解しているはずなのに、僕の脳はそれを「他人事」として処理し続けている。僕もまた、彼らの隣で警察や医者と同じ、傍観者になっていた。

 自分が泣き叫ぶべきなのか、怒るべきなのか、それとも同じように崩れ落ちるべきなのか。

 感情の正解が分からず、ただ白い壁に映る蛍光灯の光をぼんやりと見つめていた。

 すべてがただの、事実だった。


 感情というフィルターを完全に失った世界の中で、情景だけが、冷酷なまでの解像度で脳裏に刻み込まれていく。
 昨日まで、同じ部屋で笑い、水を飲み、キーボードを叩いていた人間が、今はこうして白いシーツの上で、微動だにせず横たわっている。その間にあるはずの決定的な境界線がどこにあるのか、僕には全く見つけることができなかった。

 予兆なんて、本当に、何一つとしてなかった。


ブラインドの隙間から差し込む光の角度が、時間の経過とともにゆっくりと床の上を移動していく。その光の動きだけが、この部屋の中で唯一、時間がまだ動いていることを示していた。