春風、君を待つ

 春、彼女との出会いは本当に突然だった。

大学2回生になったばかりの4月。
僕は大学の履修選択を派手に失敗した。その結果、どうしようもなく退屈で長い「空きコマ」という名の空白がぽっかりと並ぶことになってしまったのだ。

最初のうちは図書館で時間を潰していたが、それもすぐに飽きてしまった。

「さて、今週はどうやって時間を潰そうかな」
大学の薄暗いラウンジにある、とても座り心地が良いとは言えない硬い椅子に座り、スマートフォンに表示されたスカスカの時間割画面を眺めながら、僕はため息をついた。

賑やかなキャンパスに一人でいるのも少し気恥ずかしくて、
僕はなんとなく、大学から少し離れた場所にあるという喫茶店にでも行ってみようと思い立った。

大学の門を一歩先に出ると、優しく生い茂る桜並木がどこまでも続いていた。テレビのニュースで「桜の満開予想」が発表されたのは先々週のことで今の桜は、緑の若葉をのぞかせながら、徐々にその花びらを風にのせている。

僕はこの季節がとても好きだ。
どこか優しくて少し切ない、あたたかさのいっぱい詰まった、あの、春の匂い
それを感じるだけで胸の奥がくすぐったくなる。

ふわりと風が吹くと、視界が桜の花びらでピンク色に染まっていく。秋から冬にかけて、枯葉が地面に落ちていくのを見ると、少しずつ自分のいる世界が小さくなっていくようでどうしようもなく寂しい気持ちになるのに、桜の花びらが落ちていくのを見るとなぜかワクワクしてしまうから不思議だ。

桜はよく「散る」よりも、まるで意思をもって「舞う」と言われるけれど、本当にその通りだと思う。風にのってひらひらと踊っている花びらを見ているだけでその一瞬を華やかに彩るのだから。
やっぱり、いいなと思う。この季節の空気感そのものが僕の心をわずかに、けれど確かに高揚させていた。

心地よい風に吹かれながら、30分ほど歩いただろうか。
学生街の喧騒がすっかり消えた静かな路地にぽつんと佇む雰囲気の良い喫茶店を見つけた。

古びたレンガの外壁に、控えめに掲げられたシックな看板。店の外観だけで十分に素敵だったが、何よりも僕の心を奪ったのは、お店の前が溢れんばかりの満開の桜の木々で溢れていたことだった。風が吹くたび花びらがお店の屋根に舞い落ちる。

ここはきっと、春の匂いをめいっぱいに溜め込んだ、世界でいちばん優しい喫茶店だ。そう直感的に思った。

カランカラン__。

 静かな店内に優しい鈴の音が響く。
中に足を踏み入れると、店内は壁や床、天井に至るまでのすべてが深みのある木で作られた空間が広がっていた。それはまるで、何十年、何百年、あるいは何千年もの長い年月を経て育てられた大木の懐に飛び込んだかのように、圧倒的なあたたかさを持っていた。

あまりの素晴らしさに立ちすくんでいると、この店のマスターと思われる初老の男性が「好きな席に座っていいですよ」と穏やかな様子で促してくれた。
僕は少しだけ店内を見渡したあと、一番奥の隅の席に座った。

窓際の特等席に座るべきか一瞬だけ迷った。けれど僕はなるべく大きなフレーム、一枚の絵画のような広い視野で、この美しい春の光景を眺めていたかった。ここなら店内の様子を視界が遮られることなくよく見渡せるし、何より大きなガラス戸の端から端まで、外の桜並木を見渡せると思ったからだ。

 いくら過ごしやすい春とはいえ、暖かい日差しが降り注ぐ日中の外を30分も歩き続ければ、じっとりとおでこに汗がにじむ。
僕は席につくと、すぐにアイスコーヒーを注文した。

しばらくして運ばれてきた、水滴が側面にびっしりとついたグラス。ストロー使って一口飲むと、キリッとした苦味と冷たさがスーっと心地よく喉を通り抜けていく。全身に染み渡るのを感じる。本当に美味しいと思った。

 そのままストローで氷をカラカラと小さく回しながら、落ち着いた店内をぐるりと見渡した。

平日の午前中という時間帯のせいもあり、お客さんの姿はまばらであった。けれど、一人で静かに文庫本のページをめくる人、パソコンに向かって静かに仕事をする人、低い声で楽しそうに談笑する老夫婦など、誰もが他人に干渉することなく、各々自由に同じ空間で同じ時間を過ごしていた。

自分だけの秘密基地にしたくなるような、そんな素敵な喫茶店を見つけられたことが純粋に嬉しかった。

 一応、空きコマの言い訳として持ってきていた大学で使うパソコンや筆記用具などをテーブルの上に広げてみる。
けれど、木漏れ日の心地よさと、コーヒーの香りに包まれていると、全く勉強する気にはなれなかった。ディスプレイに表示された文字を追うのを諦め、ペンを置き、ぼーっと大きな窓の外の景色を眺める。

そうして意識が緩んでいたとき、僕の視界の端で、何かが気になる動きをしていることに気がついた。

 窓際の、一番端にある小さな席。そこに、何やら本当に楽しそうに、熱心に作業をする一人の女性の姿があった。

耳にイヤホンでもつけて、お気に入りの音楽でも聴いているのだろうか。時折、彼女のゆるく巻かれた茶色のウエーブヘアが、リズムに合わせるように左右にるんるんと揺れていた。
その様子が、まるで小動物のようで、言葉にできないほどに可愛らしかった。

別に凝視するつもりはなかった。けれど、なんとなく彼女の存在から目が離せなくなってしまった。僕は視線こそ正面の外の景色に向けているものの、意識のすべては視界の端で揺れる茶色のウエーブヘアに集中していた。彼女がノートにペンを走らせ、時折満足そうに小さく頷く姿を、僕はただぼんやりと盗み見見ていた。


だが、楽しい時間には限りがある。次の講義に間に合わせるためにはそろそろ店を後にしなければならない。
時計を確認した僕は、グラスの底に少しだけ残ったアイスコーヒーをズズっと音を立てないようにして吸い込み、広げていた勉強道具を鞄にしまった。名残惜しさを覚えながらも席を立つ。

入り口近くのレジへ向かい、お会計をしていると、背後の奥の席で誰かが不意に立ち上がる気配がした。直感で分かった。さっきの、あの彼女だった。

背後に彼女が近づいてくる気配を察知した瞬間、僕は妙に緊張してしまい、手元が狂った。店員さんから受け取ろうとしたお釣りの小銭を、よりによって床にバラバラと落としてしまったのだ。
慌てた店員さんの「わ!すみません!!」という声が遠くで聞こえたような気がしたが、僕の頭はそれどころではなかった。なぜなら目の前で、彼女が僕と一緒に床にかがみ込み、小さな小銭をひとつひとつ拾ってくれていたからだ。

「あ、すみません、ありがとうございます、、」
情けない声を出す僕の目の前で、彼女は「大丈夫ですよ」と言うようにただ優しく微笑んでいた。

 僕は昔からドラマや映画が好きで、邦画洋画問わず、様々なジャンルの作品をよく鑑賞している。当然、王道の恋愛ものも例外ではない。
けれど、作品の中で描かれる「一目惚れ」や「運命の出会い」といったロマンチックな現象について、僕はフィクションとしては大いに楽しむが、「そんなものは現実じゃあり得ない」と、どこか冷めた目でいつも冒頭のシーンを眺めていた。一目惚れなんて単なる錯覚で、そこから本当の恋に発展するはずがない。そんなことすら本気で思っていたのだ。

それなのに、まさか自分が、こんなベタなシチュエーションで一目惚れしてしまうなんて、夢にも思わなかった。

 拾い上げた小銭をすべて丁寧に集め、僕の掌の上にそっと戻してくれた彼女は実に見事な満点な笑みを浮かべていた。
きっと、あの席て一人で作業に没頭している間も、彼女はこんな素敵な表情をしていたんだろうなと、瞬時に理解した。
春の柔らかい光をそのまま反射したかのような、笑顔が眩しい本当に可愛らしい人だった。

これまで僕は、一目惚れというものは、相手の顔の造形が完璧に自分好みだから落ちるものだと思い込んでいた。しかし、それはどうやら間違いだったらしい。
もちろん彼女の顔は可愛かった。けれど、彼女の顔そのものに惹かれたというよりは、春の陽だまりのように暖かくて柔らかい、彼女のまとう「雰囲気」そのものに、一瞬で心を奪われてしまったのだ。
 
 胸の高鳴りを必死に抑えながら、お礼を言って、僕は彼女よりも一足先に店を出た。
しかし、店を出て数歩歩いたところで、大学に戻るはずの僕の足はピタリと止まってしまった。どうにも足が動かせない。
今ここでこのまま帰ってしまったら、二度と彼女に会えないかもしれない。いや、でも、いきなり話しかけたら気持ち悪がられるんじゃないか。不審者と思われるだけだ。いや、しかし、、、。
春の風が吹き抜ける歩道の上で、僕は一人、激しい葛藤を重ねていた。

カランカラン__

再び、あの優しい鈴の音音が静かな路地に響いた。
会計を済ませ、扉を開けて出てきた彼女とバッチリ目が合う。
まだその場に突っ立っていた僕を見て、彼女は少し驚いたようき丸い目をパチクリとさせた。そりゃあそうだ、さっき小銭を落とした男が、店の前で呆然と立ち尽くしているのだから。

こんな機会はもう二度とない。僕は人生でいちばんの勇気を振り絞って、声をかけた。
「あ、あの、、!さっきは拾うのを手伝っていただいて、本当にありがとうございました!」

彼女は一瞬、不思議そうに首を小さく傾げた。けれどすぐ思い出したようにニコニコとした先ほどまでの表情に戻り
「いえいえー気にしないでくださいー」と答えてくれた。
それは、ふわふわとこのまま桜の花びらと一緒に、春の風に飛ばされてしまうんじゃないと思わせるような、心地の良い透き通った声だった。

「それじゃあ」と言って、軽く会釈をして去ろうとする彼女の背中に、僕は思考が追いつくよりも早く、また声をかけてしまっていた。
今度こそ絶対に不審がられる、ストーカー扱いされるのではという恐怖と迷いが脳裏をよぎった。しかし、それとは裏腹に、僕の口から出た声は気持ちいいくらいによく響いた。
「あの、!また、ここに来たら、あなたに会えますか?」

彼女は歩みを止め、先ほどの笑顔を崩さないまま、少しだけ目を見開いて驚いた素振りを見せた。僕の突拍子もない発言に面食らったのだほう。けれど、彼女はすぐに悪戯っぽく微笑んで
「いますよー、毎週この時間に」

「じゃ、じゃあまた来週、ここに来てもいいですか」
半ば必死な僕の言葉を聞くと、彼女は堪えきれないというようにふふっと声を立てて笑った。

「ここは私のお店じゃないですよー」
と、彼女は冗談っぽく笑ってみせた。それは拒絶ではなく、「YES」のサインだと僕は勝手に解釈した。

来週も、またあの喫茶店に行けば彼女に会える。
そんな言葉にできない嬉しさと期待感でいっぱいになった胸を抱えて歩く、大学への帰り道。行きに30分かかったはずのその道のりは、なぜか驚くほど短く感じられた。