春風、君を待つ

*
その日の朝は、まるですべての祝福を凝縮したかのような、雲一つない快晴だった。


窓枠に切り取られた空は、どこまでも高く、透き通るような青さを讃えている。


まだ三月の心地よい冷たさを含んだ春風が、薄手のカーテンをふわりと押し上げる。


ベッドの中で目を覚ました僕は、隣に眠る愛おしい存在の気配を感じて、自然と口元が緩むのを抑えられなかった。
澄花は、まだ浅い眠りの中にいた。
柔らかそうな茶髪が枕の上に乱れ、朝の光を浴びて綺麗な栗色に透けている。規則正しく刻まれる小さな寝息と、布団の合間から覗くほんのりピンク色に染まった頬。その無防備で、愛くるしい寝顔を見つめているだけで、僕の胸の奥には、名前のつかない温かな感情がじわじわと満ちていくのだった。


時計の針は、いつも彼女が起きる時間よりも少し前を指している。
普段なら、朝が弱い僕は彼女に起こされる側であることがほとんどだ。澄花が「暁、朝だよー!起きて起きて!」と、僕の体をゆすりながら楽しそうに笑う声で目覚めるのが、僕たちの日常の風景だった。


しかし、今日だけは違った。僕の心臓は、昨夜からずっと、静かな、けれど確かな興奮でドクドクと高鳴り続けていた。そのせいで、アラームが鳴るよりもずっと前に、まるではじき出されるように目が覚めてしまったのだ。


なぜなら、今日の夜、僕は人生で一番大きな決意を形にする予定だったからだ。


クローゼットの奥の、彼女には絶対に絶対に見つからないであろう洋服の隙間に、小さな四角い箱が隠してある。その中には、何度もジュエリーショップに足を運び、彼女の指のサイズを思い浮かべながら選び抜いた、一本の指輪が眠っていた。


今日の夜、彼女が仕事から帰ってきたら、あの出会った頃の話をして、それから——。


そう考えるだけで、喉の奥がキュッと引き締まり、手のひらにじっとりと汗がにじむような心地がした。プロポーズなんて、人生でそう何度も経験することではない。いや、僕にとってはこれが最初で最後だ。絶対に成功させたい。彼女を世界で一番幸せな笑顔にしたい。その緊張と期待が、僕の頭を完全に覚醒させていた。


「ん……、暁……?」


不意に、布団が擦れる音とともに、微かな声が響いた。
澄花が、長い睫毛をゆっくりと揺らしながら、眠そうに目を細めて僕を見上げている。まだ夢の住人であるかのような、とろんとした瞳が、僕の姿を捉えると、すぐにふにゃりと柔らかく、陽だまりのような笑みを形作った。


「おはよ。めずらしいね、暁が先に起きてるなんて。明日は雪でも降るのかな?」
「おはよう、澄花。失礼だなー、僕だってたまには早く起きることくらいあるよ」
「ふふ、そうだね」
澄花はそう言ってケラケラと笑うと、ベッドから勢いよく飛び起きた。
僕たちパタパタと忙しなくキッチンへ向かい、朝食の準備を始めた。トースターからパンの焼ける香ばしい匂いが漂い始め、コーヒーメーカーがコトコトと音を立てて雫を落としていく。どこにでもある、ありふれた、けれどこれ以上ないほどに幸福な朝の音が、部屋を満たしていく。
朝食のテーブルに並んだのは、こんがりと焼けたトーストと、半熟の目玉焼き、それから簡単なサラダ。


「はい、食べよ!」とエプロン姿の澄花が笑顔でこちらを見つめる。僕たちは向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせた。


他愛のない会話が交わされていく。今日の仕事の予定、今週末に観に行きたい映画の話、最近大学の友人から届いた近況報告のメールのこと。澄花はいつも通り、身振り手振りを交えながら楽しそうに話し、髪をるんるんと揺らしていた。


しかし、僕はその会話の端々に、いつもとは違う「何か」を感じ取っていた。
澄花は時折、僕の目をじっと覗き込むように見つめては、ふふっと意味深に微笑むのだ。その視線は、まるで僕の心の奥底にある秘密を、すべて見透かしているかのように優しく、そしてどこかイタズラっぽかった。


まさか……、気づかれてる?


僕の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。昨夜、指輪を隠すときに物音を立ててしまっただろうか。それとも、ここ数日の僕のソワソワした態度が、あまりにも不自然すぎたのだろうか。


澄花は、直感が恐ろしいほど鋭い女の子だ。僕が何かを隠そうとしたり、サプライズを仕掛けようとしたりすると、いつも言葉に出さずとも、その空気感を敏感に察知してしまう。


朝食を終え、澄花は洗面所へと向かった。
カチャカチャと食器を洗う僕の耳に、ヘアスプレーを吹きかける音や、化粧品の小さな容器がぶつかり合う音が聞こえてくる。いつもなら十五分ほどで終わる身支度が、今日は少しだけ長くかかっているようだった。


しばらくして洗面所から出てきた澄花を見て、僕は思わず洗っていた皿を落としそうになった。
いつもは緩くウェーブのかかった茶髪をそのまま下ろしているか、後ろで一つにラフにまとめていることが多い彼女が、今日は違った。耳の上の髪を後ろで上品にまとめ、残りの長い髪をふわりと肩に垂らす、ハーフアップの髪型にしていたのだ。


まとめた部分には、小さなパールのついた、大人っぽいバレッタが光っている。メイクも、いつもより少しだけ念入りにされているようで、唇には春らしいコーラルピンクのグロスが、朝の光を反射してみずみずしく輝いていた。


春風に揺れるカーテンを背景に、お気に入りのブラウスに袖を通す澄花。
その姿は、出会ったあの葉桜の並木道で、僕の乏しい語彙力では言い表せないほど綺麗だと思った、あの瞬間の彼女と完全に重なった。いや、あの時よりもずっと、大人の女性としての洗練された美しさと、僕への深い愛情が、彼女の全身から溢れ出しているように見えた。


やっぱり、完全にバレている。彼女の中で、今日の夜に対する期待と喜びが、このハーフアップという髪型に、そしていつもより少し背伸びをしたメイクに現れているのだ。
僕を喜ばせたい、僕の特別な決意に、彼女なりの最高の姿で応えたい。そんな健気で、愛おしすぎる彼女の想いが痛いほど伝わってきて、僕の胸は苦しいほどの幸福感で満たされた。


「さ、そろそろ行かなきゃ。遅刻しちゃう」
壁の時計を見上げて、澄花が小さく声を上げた。


玄関へと移動し、彼女は用意していたスプリングコートを羽織る。ベージュ色のコートが、今日のハーフアップの髪型にとてもよく調和していた。靴箱から、お気に入りのパンプスを取り出して足を入れる。
僕は、彼女のバッグを手に持って、見送るために玄関のたたきに立った。


ドアを開けると、まばゆいばかりの春の太陽の光が、ダイレクトに玄関口へと差し込んできた。外からは、チュンチュンと賑やかな雀の鳴き声と、どこか遠くを走る車の走行音が、穏やかなBGMのように聞こえてくる。


「はい、澄花、これバッグ」
「ありがとう、暁」
バッグを受け取るとき、彼女の指先が僕の手に触れた。その小さな手の温もりが、僕の心の中に残っていた最後の緊張を、完全に溶かしてくれたような気がした。
「今日の夜、まっすぐ家まで帰ってきて」
「うん、分かった!行ってきます! 」
少し照れくさそうにはにかんだ笑顔を僕に残して、澄花はドアを開けて外へと一歩踏み出した。「バタン」と、いつも通りにドアが閉まる。


僕は玄関のたたきに立ったまま、彼女が鍵を閉める音を待っていた。
澄花はいつも、家を出てドアが閉まると、すぐに外側からガチャリと鍵を閉める。それが出勤日の彼女の習慣であり、聞き慣れた朝の終わりの合図だった。


けれど、数秒が経っても、あの金属の擦れ合う「ガチャリ」という音が聞こえてこない。
外は静まり返ったままで、ただ春の柔らかな風の音だけが微かに響いている。


あれ……? 今日はすぐ閉めないのかな。何か忘れ物でもしたんだろうか


不思議に思った僕は、「澄花?」と声をかけながら、内側のドアノブに手を伸ばした。
ドアを開けようと指先に力を込めた、まさにその瞬間だった。
僕が引くよりも先に、ドアが外側からすっと、ほんの数センチだけ、滑らかに押し開けられた。


驚いて目を見開いた僕の視界に、ドアの隙間から、まばゆいばかりの朝の光が差し込んでくる。
そして、その光の中に、耳まで真っ赤に染めながらも、言葉にできないほど眩しい満面の笑みを浮かべた澄花の顔があった。


弾けるような、太陽みたいな最高の笑顔。
澄花は、僕と視線がしっかりと交わったのを確認すると、弾むような、でもどこか震える小さな声で、一気にその言葉を投げ込んできた。
「……大好き!」
「え、?、、、僕も」


僕の声は彼女に届いたのだろうか、言い切る前に澄花は自分の大胆さに耐えかねるようにガチャンとドアを閉めた。
その直後、今度はものすごい勢いで「ガチャン! ガチャン!」と鍵が閉まる音が廊下に響き渡る。


恥ずかしくてたまらないから、僕の追撃から逃げるように、そして自分の心臓の音を隠すように、大慌てで鍵を閉めたのだろう。そのあと、パンプスがアスファルトを「タタタタッ!」と、まるで走るようにして遠ざかっていく音が聞こえてきた。


あまりにも不意打ちすぎる、そして彼女の精一杯の勇気が詰まった愛の告白に、僕は完全にノックアウトされて立ち尽くしてしまった。触れられたわけでもないのに、胸の奥がぎゅっと熱くなり、自分の顔が耳の先まで一激で沸騰していくのが分かった。


ドアの向こうには、もう彼女の姿はない。
けれど、閉まったドアを見つめる僕の目の前には、さっきのハーフアップを揺らして満面の笑みを浮かべた澄花の残像が、いつまでも鮮烈に焼き付いて離れなかった。
、、ずるいな、本当に


恥ずかしがり屋な彼女が、あんなに可愛い仕草で、あんなにストレートに想いを伝えてくれたのだ。今日の夜、自分がどれほど特別な目で見られているかを分かっていて、それでも僕を喜ばせようと、からかわれ覚悟で戻ってきたのだ。


トク、トク、と、さっきまでとは違う、愛おしさで破裂しそうな鼓動が胸の中で暴れている。


「よし」
僕はもう一度、誰もいない玄関で、自分に深く気合を入れるように呟いた。


これほどまでに僕を想い、愛してくれる女性を、僕は今日の夜、世界で一番幸せにする。彼女のあの満面の笑みに、男として最高のプロポーズで応えるんだ。


部屋に戻り、窓から降り注ぐ祝福のような春の光を浴びながら、僕は今日という人生で最高の、はじまりの一日を一歩ずつ進めるために、ゆっくりと歩き出した。