春風、君を待つ

*
同棲してからの日々は、僕の予想を遥か斜め上に行くほどに、とても楽しいものだった。


それまでの、お互いのアパートを行き来するだけの生活も十分に幸せだったけれど、一つ屋根の下で同じ時間を共有するというのは、それとは全く違う次元の、深く、じんわりとした温かさに満ちていた。
朝、目が覚めた瞬間に隣に彼女の寝顔があること。夜、どちらからともなく「おかえり」と言い合えること。そんな、かつては特別だったはずの出来事が、少しずつ、けれど確実に僕たちの新しい「日常」として溶け込んでいく。
幸いなことに、僕たちがお互いに勤めている会社は、それなりにリモートワークが推奨されている環境だった。そのため、平日の日中であっても、わざわざ満員電車に揺られてオフィスへ向かうことなく、自宅の自室でそれぞれ仕事に取り組むことが多かった。
リビングから繋がる二つの扉の向こうで、お互いに別の社会と繋がりながら、キーボードを叩く音がかすかに響き合う。そんな程よい距離感が、僕たちの生活をより心地よいものにしていた。


そんな在宅ワークの時間、僕の身体は決まったルーティーンを求めて自然と動き出す。
時計の針が区切りの良い時間を指すと、僕は椅子から立ち上がり、キッチンへと向かう。お気に入りの電気ケトルでお湯を沸かし、茶葉がゆっくりと開いていくのを待ちながら、棚からお決まりの「水色のマグカップ」を取り出す。


淹れ立ての、湯気がふわりと立ち上る紅茶をそのマグカップに注ぎ、僕は彼女の部屋のドアを静かにノックする。
「澄花、ちょっと休憩にしない?」


ドアを開けると、パソコンの画面に向かって少し難しい顔をしていた澄花が、僕の姿と、その手にある水色のマグカップを見た瞬間に、パッと花が咲いたような笑顔を見せる。
「わあ、ありがとう、暁!」
彼女が嬉しそうにマグカップを受け取る、その一連のやり取りが、僕にとっても最高の息抜きであり、何よりの癒やしになっていた。


この水色のマグカップを見るたびに、僕は二人の新しい生活が始まる直前、あの慌ただしくも輝いていた準備期間のことを思い出す。
同棲を始めるにあたって、僕たちの間で「どこの家具を持ち寄り、どのくらい新調するのか」という議題について、何度も熱い会議が行われた。


僕が一人暮らし時代に使っていた実用性重視のテレビ台や、純花が大切に使ってきた小さなローテーブルなど、使えるものはそのまま使おうということになったが、やはり二人で新しくスタートを切るための家具や生活雑貨は、新しく揃えたいという結論に至った。
ある程度、お互いの希望や必要なもののリストを決めた状態で、僕たちは週末、新居の近くにある少し大きめの家具屋さんへと向かった。


休日の家具屋さんは、僕たちと同じようにこれから新しい生活を始めるのだろうカップルや、小さな子供を連れた家族連れで賑わっていた。


広々とした店内には、洗練された北欧風のソファや、木の温もりが感じられるダイニングテーブルが綺麗にディスプレイされている。
「ねえねえ、暁! このカーテンの色、リビングに合いそうじゃない?」
「こっちの照明も可愛いよ」
そんな風に、あちこちの売り場を歩き回りながら、色々なものを購入していく中で、僕は澄花がふと、ある一つの商品に完全に気を取られていることに気がついた。


それまで弾むように歩いていた彼女の足が、生活雑貨の並ぶ棚の前でピタリと止まっていたのだ。
不思議に思った僕が、彼女の背中に近づいていく。
彼女がじっと見つめていた視線の先。そこには、オレンジ色と水色のペアマグカップが並べられていた。


それは、ただの単色のものではなかった。カップの表面には、白いグラデーションがまるで本物の雲のようにふわりと描かれており、見ているだけで心が洗われるような、本当に素敵なデザインだった。
純花は、そのペアマグカップからどうしても目が離せないといった様子で、愛おしそうに見つめている。


「澄花、それ気になるの?」
後ろから声をかけると、澄花はハッと我に返ったように僕を振り返った。そして、少し照れくさそうに頬を緩めながら、自分の両手を小さく動かして語り始めた。
「うん……。暁は『暁』じゃん? だから、赤色とか、そういう朝焼けの色。……あ、でも、私はさ、澄花って名前だけどさ……個人的には、澄み切った空をイメージするの。お父さんとお母さんが、そういう想いを込めてつけてくれたんだって。だからね……」
彼女は、少し早口で、けれど宝物の由来を明かすように大切に言葉を紡いだ。
『暁』という僕の名前にある、夜明けの太陽の色をオレンジに重ね、『澄花』という自分の名前に、両親が込めた「澄み切った空」のイメージを水色に重ねる。このペアマグカップは、まるで僕たち二人の存在そのものを形にしたような、そんな運命的なデザインに、彼女の目には映ったのだろう。


僕は何も言わずに、棚に手を伸ばした。
そして、そのオレンジ色と水色のペアマグカップを手に取ると、そのまま買い物カゴの中へとそっと入れた。
澄花は本当に驚いた様子で、丸い目をさらに大きくしてこちらを見つめてきた。
「えっ……!? まだ何も言ってない、のに……!」
「欲しい」とも「買って」とも言っていないのに、僕が迷わずカゴに入れたことが、彼女にとっては予想外だったらしい。


僕は少し悪戯っぽく微笑みながら、彼女の顔を見返した。
「うん、聞いてないよー。でも、僕が欲しかったからさ」
僕がそう言うと、澄花は一瞬だけ呆気に取られたような表情をしたあと、すぐに胸の奥から込み上げてくる嬉しさを隠しきれないといった様子で、本当に嬉しそうに、くしゃりと顔を崩して笑った。
「そっかそっかー!」
彼女は弾んだ声でそう言うと、ステップを踏むような軽い足取りで、再び前を歩き出した。カゴの中で小さな音を立てるペアマグカップを見つめながら、僕の胸の中にも、彼女の笑顔と同じくらいの温かい光が広がっていくのを感じていた。


僕は知っている。澄花は、こういうロマンチックなことを口にしたり、表現したりするのが、本当はすごく苦手なのだということを。
人によっては「たかがマグカップの色を名前に見立てただけで、大袈裟な」と思うかもしれない。けれど、彼女にとっては、そのささやかな関連性を僕に伝えることすら、かなりの勇気が必要だったはずだ。そのくらい、彼女は自分の内側にある繊細でロマンチックな感性を表に出すのが苦手なのだ。


だからこそ、僕は思った。


あの夏の日、僕たちが一緒に行った初めての花火大会。
あのとき、彼女が普段は着慣れない浴衣を一生懸命に着てきてくれたこと。そして、お祭りの喧騒から少し離れた静かな場所で、小さな線香花火の火をじっと見つめながら、僕の手をそっと握り返してくれたこと。
あれは、彼女にとってどれほど大きな、かなりの勇気を出してくれた行動だったのだろう。


マグカップを嬉しそうに見つめる彼女の背中を見ながらそんな澄花に対して愛おしさでいっぱいだった。


家具屋さんでの買い物を終え、両手にたくさんの荷物を抱えながら、僕たちは夕暮れ時の帰り道をのんびりと歩いていた。秋の涼しい風が、火照った身体に心地よく吹き抜ける。


その途中、駅前の賑やかな通りを通りかかったとき、小さなチャンスセンター――宝くじ売り場が目に入った。
色鮮やかな看板には「本日大安!」といった文字が躍っている。
「ねえ、暁、ちょっと運試ししてみない?」
純花が楽しそうに提案してきた。これからの新しい生活に、ちょっとしたワクワクをプラスしたくなったのだろう。


「いいね、じゃあ二人の運試しに、一枚だけ買ってみようか」
僕たちは顔を見合わせ、二人で一枚の宝くじを買うことにした。
窓口で一枚のクジを受け取り、僕はそれを手にしながら、隣に立つ純花に問いかけた。


「澄花ー、何番が好き?」
何気ない、本当にただの雑談のつもりだった。宝くじの数字を選ぶときの、よくあるやり取りだ。
すると純花は、一瞬の迷いもなく、人差し指を立てて元気よく答えた。
「私の一番好きな数字? 3だよー!」
「3?」
僕は聞き返した。ラッキーセブンの「7」や、末広がりの「8」ならーよく聞くけれど、「3」というのは少し意外な気がしたからだ。


「うん! 3度目の正直、って言うでしょ? それに仏の顔も3度まで、って言葉もあるし! なにより、3って人生のターンニングポイントだと思うのねー。しかもさ、3って最後は絶対に勝てるんだよ! トーナメントの準決勝で負けちゃってもさ、3位決定戦で3は勝てるの! ターンニングポイントかつ、最後は勝って終わまれるなんて、最高の数字じゃない??」
彼女は、身振り手振りを交えながら、一気にまくしたてるように熱弁した。


あまりにも強引で、けれどどこか妙に説得力があるような、純花らしい独特な理由のオンパレードに、僕は堪えきれずに吹き出してしまった。
「あはは、なるほどね。すごい強引な理由だけど……純花らしいや」
「もー、暁笑いすぎ! 大真面目なんだからね!」
純花はぷくっと頬を膨らませて抗議する。僕は笑いを収めながら、少しだけ真面目なトーンで言葉を返した。


「いや、でもさ、日本人なら『三本の矢』とか『三種の神器』とか、割り切れない奇数として色々好まれる理由は他にもあるでしょうに。まさか3位決定戦が出てくるとは思わなかったよ」
「いやー、まあそうなんだけどね……」


純花は少しだけトーンを落とし、照れくさそうに頭を掻いた。けれど、その瞳の奥には、先ほどまでの冗談めかした雰囲気とは違う、少しだけ真剣な光が宿っていた。


「私はね……自分の人生で、気持ちを切り替えるのに、この『3』っていう数字にすっごくお世話になったからさ」
「というと?」
僕は、歩みを少しだけ緩めながら、彼女の言葉の続きを促した。


「3ヶ月、とか3年、とか。あるいは3月とかさ、そういう区切りのいいの。ずっと変えたかったこととか、やめたかったこと……逆に、新しく始めたかったこととかは、いつもこの『3』のつくときにやろうって、自分の中で決めてるの。そうしたらさ、不思議となんとなく、全部上手く行く気がして。もし失敗しても最後は絶対成功するんじゃないかって。私にとってはお守りみたいな数字なんだよね」
澄花は、遠くの夕焼け空を見つめるようにしながら、ぽつりとそう言った。


彼女がこれまでの人生で、何かに行き詰まったとき、あるいは新しい一歩を踏み出す勇気が必要だったとき。彼女はいつも、この「3」という数字を心の拠り所にして、自分自身を奮い立たせ、気持ちを切り替えてきたのだろう。笑顔の裏にある、彼女なりの人生の乗り越え方が、その言葉の中に詰まっている気がした。
そんな彼女の真面目で、少し愛おしい告白を聞いて、僕は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


「へー、じゃあこれでどうだ!」
僕はポケットから、先ほど窓口で購入したばかりの宝くじの券を彼女の目の前に差し出した。その宝くじの番号を指差す。


「ほら、澄花。3で埋め尽くされた宝くじだよ」
そこには、「3333番」これでもかというほどに「3」の数字が並んでいる配列があった。さっき澄花の話を聞きながら僕が塗りつぶしたものだ。


澄花はその券面をじっと見つめたあと、すぐに僕の意図を察して、眉を八の字に曲げながら呆れたような声を上げた。
「ねー、バカにしてるでしょ」
「してないよー。ほら、澄花の大好きな3がいっぱいだよ?」
「絶対バカにしてる! 」


僕たちがそんな風に言い合いながら歩く帰り道。
新しく買ったオレンジと水色のペアマグカップが入った袋が、僕の手元でカサリと音を立てる。


澄花はまだ「もう、暁ったら!」なんて言いながらも、その顔には、夕暮れ時の街灯よりも温かい、心からの笑顔が咲き誇っていた。
「3」というお守りの数字と、僕たちの名前の色をしたマグカップ。
これから始まる二人の長い日々に、これ以上の幸運の兆しはないんじゃないかと、僕は心の中で確信していた。街を包む秋の夜気が、少しも冷たく感じられないほどに、僕たちの周りには、新しく、けれど確かな幸せの空気が満ち満ちていた。