*
大学三回生の秋。キャンパスを鮮やかに彩っていた木々の葉が、日に日に赤や黄色へと染まり、朝晩には肌を刺すような冷たい風が吹き抜けるようになっていた。
あの満開の桜の下での出会いから、僕たちの時間は確実に、けれどあまりにも自然に重なり続けていた。極端な空きコマがなくなった三回生になってからは、かつてのように週に一度、あの喫茶店へ二人で並んで向かうようなルーティーンこそなくなってしまったけれど、月に一度の特別なデートと、週に一度の夜の長電話が、僕たちの関係をより深く、確かなものとして繋ぎ止めていた。
その日は、夕方からデートの予定だった。
前日の夜から、僕はどこか遠足前の子供のような高揚感を胸に抱き、クローゼットの前で着ていく服をあれこれと選びながら、彼女と過ごす秋の一日を想像しては一人で小さく微笑んでいた。
しかし、約束の日の朝。僕の眠りを覚ましたのは、アラームの電子音ではなく、枕元で短く震えたスマートフォンの振動音だった。
画面を点灯させると、そこにはメッセージアプリの通知が表示されている。送り主は、もちろん純花からだった。
画面の最上部に表示された時刻に、僕は思わず目を細めた。
「朝の、五時……?」
早起きの得意な澄花だが、朝の苦手な僕に気を遣って早朝に連絡をくれることはあまりない。だからこんなに早くメッセージを送られてくることは今までにないことだった。
嫌な予感を胸に抱きながら、僕は画面をタップしてメッセージの詳細を開いた。
『急に風邪ひいちゃって、今日行けないかもー本当ごめんね、また埋め合わせるね!』
語尾に付けられた明るいマークや、いつもと変わらない軽快な文体。画面から伝わってくるトーンは、文字通り「いつもの明るい純花」そのものだった。体調を崩してしまって申し訳ないという気持ちと、次はもっと楽しいデートにしようという前向きなニュアンスが、短い文章の中に綺麗に詰め込まれている。
けれど、僕はそのスマートフォンの画面を見つめたまま、どうしても親指を動かすことができなかった。
胸の奥に、ざらりとした、言葉にできない奇妙な違和感が芽生え、それがじわじわと広がっていくのを感じていた。
確かに、文字だけを見ればいつもの彼女だ。しかし、朝の五時という送信時刻の異様さと、あまりにも「完璧に明るすぎる」その文面が、かえって僕の心に小さな棘のように突き刺さる。
彼女はこれまで、どんなに困ったときも、どんなに思い通りにならないときも、すべてを笑顔というキャンパスの上に表現してきた人だった。眉を八の字に曲げた困り顔の笑みや、悪戯っぽい企みのニヤニヤ顔。彼女の感情のグラデーションは、いつだってその眩しい笑顔の裏側に隠されていた。
「本当に……ただの風邪なんだろうか」
もし、その明るい文面が、僕を心配させまいとして必死に作り上げられた「笑顔の仮面」の延長線上にあるものだとしたら。そう考えると、じっとしていられなくなった。
時計の針は六時を回ったところだった。まだ電話をかけるには早いかもしれないと一瞬躊躇したが、どうしても彼女の「生の声」を確かめずにはいられなかった。
通話ボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てる。
静まり返った部屋の中に、規則的な電子音が響き渡る。
プルルルル、プルルルル……。
呼び出し音が長くなるにつれて、僕の心臓の鼓動も比例するように速くなっていく。出ないのではないか、という不安が頭をよぎったそのとき、カチャリ、というかすかな雑音とともに、回線が繋がった。
「もしもし?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、少し掠れた、けれど意識してトーンを高く上げた彼女の声だった。
「もしもし、暁、おはよー。今日、せっかくのデートなのにドタキャンしちゃってごめんねー」
やはり、声の調子はメッセージと同じように弾んでいた。いつものように僕を「暁」と呼び、申し訳なさそうに、けれど努めてカラリとした調子で喋っている。
「いや、それは仕方ないよ。体調不良なんだから気にしないで。……それより、体調はどう? 平気?」
僕は自分の声をなるべく穏やかに保ちながら、受話器の向こうの微かな呼吸の乱れや、声の震えに全神経を集中させた。
「んー! 大丈夫、大丈夫! 自分でもびっくりするくらい、体調自体はすごい元気なんだけどね! ちょっと微熱があるのと、喉がちょっと痛いかなーってくらい! だからさ、せっかくのデートなのに暁に移しちゃ悪いなーって思って! ごめんね、ほんとに」
純花は一気にまくしたてるようにそう言った。どうやら本当らしい。考えすぎだったようだ。電話の後ろからガチャガチャと台所で何か作っている音が聞こえる。
声にも掠れや震えはないし澄花の言う通り、たいしたことはなさそうだ。
それに安心して僕はアルバイトへ向かった。
アルバイトが終わって夕闇迫る夕方、あれから体調は改善したかと澄花にもう一度電話をかけてみた。
「もしもし?澄花、体調はどう?」
「元気だよー!朝より良くなった気がするー暁もバイトお疲れさま」
努めて元気そうに振る舞う澄花の声。聞き方によっては朝と同じ。
けれど、僕は騙されなかった。
声を大袈裟に弾ませれば弾ませるほど、その奥にある痛々しいほどの無理が、受話器を通じて僕の胸に刺さるように伝わってきたのだ。言葉の端々に混ざる、いつもより明らかに重い吸気。熱で頭が朦朧としているのを必死に堪えているような、わずかなタイムラグ。
彼女は、僕の前で「完璧な純花」であり続けようとしている。弱っている姿を見せて、僕に心配をかけることを、何よりも恐れているかのように。
「ありがとう。そっかそっか、、。あったかくしてね。本当にお大事にね」
「うん! ありがとう! じゃあね!」
ガチャ、と、僕が返事をする間もないほどの素早さで、電話は一方的に切られた。まるで、これ以上話し続けたら、自分の声が維持できなくなることを知っているかのような、そんな逃げるような切られ方だった。
電話が切れたのが先か、僕が動き出したのが先か、自分でもよく分からなかった。
考えるよりも先に、僕の身体は弾かれたように動いていた。スマートフォンの画面が暗転するのと同時に、身を翻し澄花の家へと向かう。
冷たい秋の空気が、肺の奥まで一気に流れ込んでくる。駅へと向かう道を走りながら、僕の頭の中には、ただ純花のあの無理に作った明るい声だけがリフレインしていた。
「純花は上手だから分かりにくいけど……やっぱり、いつもとどこか違う。もっとはやく、朝から気づいていれば良かった」
出会ったあの日から、僕は彼女の笑顔のグラデーションを見つめ続けてきた。本当に嬉しいときの陽だまりのような満面の笑み、困ったときの八の字の眉。だからこそ、今の電話の声が、彼女にとっての「精一杯の防衛策」であることに、確信が持ててしまったのだ。彼女は今、一人きりの部屋で、誰にも見せられない弱さと戦っているに違いない。
彼女のマンションへ向かう途中、駅前の大きなドラッグストアに立ち寄った。店内で、僕はカゴを手に取り、熱を下げそうな冷却シートや、喉を潤すスポーツドリンク、ゼリー状の栄養食品、そして彼女の好物であるプリンをいくつか手に取った。
どれが本当に必要なのか分からず、ただ思いつく限りの「お見舞い品」をカゴに詰め込んでいく。袋を両手に下げて店を出ると、僕は再び彼女の家へと足を急いだ。
純花の住むマンションの前に到着したとき、秋の日差しが少しずつ街の灯を落とし始めていた。エレベーターに乗り、彼女の部屋の前の前に立つ。
インターホンの前に右手を伸ばしたところで、急に激しい迷いが僕を襲った。
「……本当に、これで良かったんだろうか」
彼女は僕に心配をかけたくないからこそ、あんな風に明るい嘘をついてデートを断ったのだ。それなのに、こうして勝手に押しかけていくことは、彼女の気遣いを無下にし、余計な気を遣わせてしまうのではないだろうか。
熱でしんどい身体を引きずって僕を迎え入れ、また「笑顔の仮面」を貼り付けなければならないのだとしたら、それはお見舞いどころか、ただの迷惑でしかないのではないか。
僕の独りよがりな心配が、彼女を余計に苦しめてしまうかもしれない。そんな思考が頭の中でぐるぐると渦を巻き、伸ばした指先が呼び鈴のボタンの手前でピタリと止まってしまう。
けれど、しばらくの間、静まり返った廊下で立ち尽くしたあと、僕を動かしたのは、理屈ではない純粋な心配だった。
もし本当に迷惑だったら、荷物だけを渡して帰ればいい。でも、もし彼女が本当に限界を迎えているのなら、、今ここで引き返すわけにはいかない。
僕は意を決して、ピンポーン、と呼び鈴を鳴らした。
静かな廊下に、その音が妙に大きく響く。
しばらくの間、部屋の中からは何の音も聞こえてこなかった。やはり寝ているのだろうか、それとも居留守を使われているのだろうか、と不安が極限に達したそのとき、部屋の奥からドタドタ、と何かが倒れるような、慌てた物音が聞こえてきた。
続いて、内鍵が外されるガチャリという音がして、ゆっくりとドアが開いた。
隙間から顔を覗かせた純花は、僕の姿を見た瞬間、その丸い目をさらに大きく見開いて呆然と立ち尽くした。
「え、暁……!? どうしたの、来ちゃったの?」
驚きと困惑が入り混じった声。その表情には、いつもの完璧にコントロールされた笑顔はどこにもなかった。
「お姉さん、1人で寂しいんじゃないかと思って。お届け物でーす」
僕はあえて、いつもの日常と同じような、ちょっとふざけたトーンで茶番を始めてみた。両手に持ったドラッグストアの袋を、まるでピザの配達員のように恭しく差し出してみせる。彼女の緊張を少しでも和らげたい、という僕なりの精一杯の配慮だった。
僕のその姿を見て、純花は一瞬だけ呆気に取られていたが、すぐにいつもの、見慣れたにこにこ笑顔をその顔に浮かべた。
「もー、大したことないよ〜。わざわざ来なくても平気だったのに」
彼女はいつもの軽い口調でそう言った。
けれど、そんな言葉とは裏腹に、彼女の顔は誰が見ても分かるほど真っ赤に火照っており、大きな瞳は熱のせいで潤んで、今にも零れ落ちそうにきらきらと光っていた。呼吸は浅く、ドアノブを握る指先が微かに震えている。
微熱どころじゃない。そんなこと、彼女の顔を見れば一目で分かった。熱はかなり高いはずだ。
「とりあえず、中に入らせて。立ち話もなんだし」
僕がそう言うと、純花は「う、うん……」と小さく頷き、身体を引いて僕を部屋の中へと迎え入れた。
一歩足を踏み入れた瞬間に、部屋の空気がいつもと違うことに気がついた。
いつもなら、どんなに急な来客であっても、純花の部屋は彼女のこだわりが詰まった綺麗な空間に保たれている。それなのに、今の部屋の中は明らかに散らかっていた。
リビングのローテーブルの上には、中身がこぼれたのか横倒しになったままのコップがあり、その側には床に直接落ちたままの、くしゃくしゃになった薬の袋が転がっている。ベッドの脇には、着替えようとして途中で諦めたのか、脱ぎかけの服が無造作に丸められていた。
その光景を見ただけで、彼女が今朝、どれほど心細い時間を過ごしていたのかが痛いほど伝わってきた。
一人で起きて、薬を飲もうとしてコップを倒し、着替える体力すら残っていなくて、そのままベッドに倒れ込んでいたのだろう。何か色々やろうとして、けれど身体が思うように動かなくて、全部失敗してしまったのだ。
大丈夫じゃなさそうなことが痛いほど分かった僕は、余計な追求は一切せず、「ちょっと部屋、借りるね」とだけ言って、買ってきた袋からプリンを取り出した。
「これ、純花の好きなやつ。食べられそう?」
プリンの容器を見せると、純花は熱で潤んだ目を少しだけ輝かせて、
「わあ、ありがとう……!」
と、本当に嬉しそうに声を漏らした。
ベッドの背もたれに身体を預け、スプーンを受け取った彼女は、いつもなら大喜びで勢いよく食べるはずのプリンを、本当にゆっくりと、一口ずつ確かめるようにして口へと運んでいった。その様子を、僕は少し離れた場所に座って、静かに見守る。
美味しい、と呟く彼女の声は小さく、半分ほど食べたところで、スプーンを持つ手が止まった。やはり食欲もあまりないのだろう。いつもならペロリと平らげてしまう量なのに、残されたプリンを見つめる彼女の肩が、どこか小さく見えた。
僕はそっと立ち上がり、彼女が残したプリンをトレイに片付け、部屋の隅に転がっていた薬の袋を拾い、倒れたコップを起こしてキッチンへと運んだ。彼女に余計な気を遣わせないよう、ごく自然な動作で、散らかった部屋を少しずつ片付けていく。
一通りの片付けを終えた頃、僕は再び彼女のベッドの横へと戻り、床に腰掛けて、手元にあった温かい手拭きをそっと彼女の手のひらに渡した。
「ありがとう……」
純花はそれを受け取り、指先を小さく拭いた。
そのあと、部屋の中に、微かな秋の風の音だけが聞こえる、静かな無言の時間が流れた。
いつもなら、どんなに沈黙が訪れそうになっても、純花が自分から進んで「ねえねえ!」と茶番を始めたり、楽しい話題を提供してその場を明るく盛り上げてくれる。けれど、今の彼女には、その笑顔の仮面を維持するだけの気力が、もう一滴も残っていっていないようだった。
彼女の顔から、あの完璧なにこにこ笑顔が、徐々に、ゆっくりと消えていく。
僕は彼女の横顔をじっと見つめ、静かに声をかけた。
「食欲ない?……朝から、何か食べた?」
僕のその問いかけに、純花は俯いたまま、しばらく何も答えなかった。手拭きを握りしめる指先に、ぎゅっと力が込もる。
「……食べてない」
蚊の鳴くような、いつもとは比べものにならないくらいに小さな、掠れた声だった。
「作ろうとしたけど……何もできなくて。……食べなきゃいけないのは分かってるんだけど、お腹が空いてなくて……。何をやっても、上手くいかなくて……」
言葉を紡ぐごとに、彼女の声はどんどん震えていった。
そして、その長い睫毛の隙間から、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、彼女の赤い頬を伝ってシーツへと落ちていった。
出会ってから二年半。映画館のどんなに泣ける名作でも、一滴の涙すら見せなかった純花が、今、僕の目の前で、堰を切ったように涙を流している。
彼女は、自分が泣いていることに戸惑うように、困ったような、ひどく歪んだ笑みを浮かべながら、必死に手の甲で目を擦った。
「あれー……ごめんね、なんで泣いてるんだろうね……。私、平気なのに。ただの風邪なのに、おかしいな……」
泣きながらも、彼女はまだ、笑おうとしていた。「平気な自分」を演じ、僕の前で泣いてしまった不甲斐なさを、その笑顔で誤魔化そうとしていた。
その痛々しい姿を見て、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。彼女がどれほどの長い間、この「笑顔の呪縛」に縛られ、一人で抱え込んできたのだろう。
僕は何も言わず、ベッドの縁に腰をかけると、彼女の細い背中にそっと手をまわし、トントン、と優しく、規則正しいリズムで叩いた。子供をあやすように、ここに僕がいるよ、と伝えるように。
「泣いてもいいよ、純花」
僕は彼女の耳元で、静かに、けれど明確に言葉を紡いだ。
「僕は、いつも笑顔の純花が大好きだよ。周りの空気を一瞬で明るくしちゃう、あのまぶしい笑顔が本当に大好きだ。……でもね、ずっと笑顔でいてほしいわけじゃないんだ」
純花の手の動きが、ピタリと止まる。
「怒ってるところも、困ってるところも、今みたいに泣いてるところも……。上手くいかなくて、ボロボロになってる姿も、全部。全部含めて、僕は純花を守りたいんだよ。君の綺麗なところだけじゃなくて、その弱さも全部、僕に預けてほしい」
僕の言葉を聞いた純花は、涙でいっぱいの、真っ赤になった目を大きく見開いて僕を見つめた。そして、掠れた声で、小さく吹き出すようにしてケラケラと笑った。
「……ふふっ、キザだなぁー」
泣きながら、けれどその笑い声は、今日の中で一番、彼女自身の本物の感情がこもっているような気がした。
僕が彼女の正面に向き直り、その涙を拭おうとした瞬間だった。
純花は何も言わずに、僕の胸の真ん中へと、思い切りその顔を埋めてきた。
彼女の熱い額の温度が、僕のシャツを通じてダイレクトに肌へと伝わってくる。
すんすん、という、小さな、小さな子供のような泣き声だけが、僕の胸の中から聞こえてきた。彼女の細い肩が、規則的に大きく揺れている。僕はその背中を、今度は両腕でしっかりと抱きしめた。彼女の身体は、驚くほど軽くて、小さかった。いつもあんなに大きく見えていた彼女の存在が、今は守るべき一つの儚い命として、僕の腕の中に収まっていた。
胸に顔を埋めたまま、純花が篭った声でぽつりと言った。
「暁はさ……笑ってる子が好き?」
「そりゃあそうだね。好きな子には、いつだって笑っていてほしいと思うよ」
僕は正直に答えた。誰だって、愛する人には幸せでいてほしいと願うものだから。
すると、純花は僕の胸にさらに深く顔を押し付けるようにして、消え入りそうな声で言葉を続けた。
「じゃあ……笑えない私は、嫌い?」
その問いかけに、彼女の人生のすべてが詰まっているような気がした。楽しくなくても、嫌なことがあっても、笑っていなければ周りに受け入れてもらえない。笑顔を失った自分には、価値がないのではないか。そんな、彼女の心の奥底に深くこびりついた、歪んだ恐怖が伝わってきた。
「それは違うよ、純花」
僕は彼女の髪を優しく撫でながら、一文字ずつ丁寧に返した。
「あくまで『好きな子には笑っていてほしい』だけ。無理して作った笑顔が見たいわけじゃない。とびきり楽しいことがあったときに、心から一緒に笑い合いたいんだ。笑えないときは、無理に笑わなくていい。それでね、僕は……純花が、何もしなくても安心できる場所になりたいんだ」
「……安心?」
純花が僕の胸の中で、小さく呟くように繰り返した。
「うん。安心。……大木みたいな男になるよ、僕は。どんな嵐が吹いても、どんな雨が降っても、絶対に倒れないで、純花がいつでも寄りかかって、羽を休められるような、そんな大きな木に、僕がなるから」
自分の口から出た言葉の恥ずかしさに、少し顔が熱くなった。
けれど、僕の胸に顔を埋めていた純花は、しばらくの沈黙のあと、ふふっ、と声を立てて、それからケラケラといつものように楽しそうに笑い出した。
「大木かぁ……。ふふ、これ以上大きくなったらさ、私、暁に抱きつけなくなっちゃうじゃん」
彼女は僕の胸から少しだけ顔を離し、涙で濡れた顔で、いつもの悪戯っぽい満面の笑顔を見せた。
「あ、そんな物理的な話?」
僕が苦笑しながら突っ込むと、純花は「そうだよー、大木は固いしねー」と、また少しだけ笑った。その笑顔は、いつもの防衛策の仮面ではなく、心の底からリラックスした、本当に愛おしい表情だった。
ひとしきり笑ったあと、彼女は安心したように、再び僕の胸へとそっと顔を預けた。
トントン、と背中を叩く僕の手の動きに合わせるように、彼女の呼吸は少しずつ、ゆっくりと深く、穏やかなものへと変わっていった。
高い熱のせいと、長い間張り詰めていた緊張が一気に解けたせいもあるのだろう。気づけば、純花は僕の腕の中で、小さな寝息を立てて深い眠りへと落ちていた。
僕は彼女をそっとベッドに横たえ、毛布を優しく首元までかけ直した。
枕元に腰掛け、眠る彼女の穏やかな寝顔をじっと見つめる。熱でまだ少し赤い頬には、先ほど流した涙の跡が白く残っていた。
僕は指先でその跡をそっと拭い、心の中で何度も繰り返した。
これからは、君の笑顔だけじゃなく、その涙も、全部僕が隣で受け止めるからね、と。
大学三回生の秋。キャンパスを鮮やかに彩っていた木々の葉が、日に日に赤や黄色へと染まり、朝晩には肌を刺すような冷たい風が吹き抜けるようになっていた。
あの満開の桜の下での出会いから、僕たちの時間は確実に、けれどあまりにも自然に重なり続けていた。極端な空きコマがなくなった三回生になってからは、かつてのように週に一度、あの喫茶店へ二人で並んで向かうようなルーティーンこそなくなってしまったけれど、月に一度の特別なデートと、週に一度の夜の長電話が、僕たちの関係をより深く、確かなものとして繋ぎ止めていた。
その日は、夕方からデートの予定だった。
前日の夜から、僕はどこか遠足前の子供のような高揚感を胸に抱き、クローゼットの前で着ていく服をあれこれと選びながら、彼女と過ごす秋の一日を想像しては一人で小さく微笑んでいた。
しかし、約束の日の朝。僕の眠りを覚ましたのは、アラームの電子音ではなく、枕元で短く震えたスマートフォンの振動音だった。
画面を点灯させると、そこにはメッセージアプリの通知が表示されている。送り主は、もちろん純花からだった。
画面の最上部に表示された時刻に、僕は思わず目を細めた。
「朝の、五時……?」
早起きの得意な澄花だが、朝の苦手な僕に気を遣って早朝に連絡をくれることはあまりない。だからこんなに早くメッセージを送られてくることは今までにないことだった。
嫌な予感を胸に抱きながら、僕は画面をタップしてメッセージの詳細を開いた。
『急に風邪ひいちゃって、今日行けないかもー本当ごめんね、また埋め合わせるね!』
語尾に付けられた明るいマークや、いつもと変わらない軽快な文体。画面から伝わってくるトーンは、文字通り「いつもの明るい純花」そのものだった。体調を崩してしまって申し訳ないという気持ちと、次はもっと楽しいデートにしようという前向きなニュアンスが、短い文章の中に綺麗に詰め込まれている。
けれど、僕はそのスマートフォンの画面を見つめたまま、どうしても親指を動かすことができなかった。
胸の奥に、ざらりとした、言葉にできない奇妙な違和感が芽生え、それがじわじわと広がっていくのを感じていた。
確かに、文字だけを見ればいつもの彼女だ。しかし、朝の五時という送信時刻の異様さと、あまりにも「完璧に明るすぎる」その文面が、かえって僕の心に小さな棘のように突き刺さる。
彼女はこれまで、どんなに困ったときも、どんなに思い通りにならないときも、すべてを笑顔というキャンパスの上に表現してきた人だった。眉を八の字に曲げた困り顔の笑みや、悪戯っぽい企みのニヤニヤ顔。彼女の感情のグラデーションは、いつだってその眩しい笑顔の裏側に隠されていた。
「本当に……ただの風邪なんだろうか」
もし、その明るい文面が、僕を心配させまいとして必死に作り上げられた「笑顔の仮面」の延長線上にあるものだとしたら。そう考えると、じっとしていられなくなった。
時計の針は六時を回ったところだった。まだ電話をかけるには早いかもしれないと一瞬躊躇したが、どうしても彼女の「生の声」を確かめずにはいられなかった。
通話ボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てる。
静まり返った部屋の中に、規則的な電子音が響き渡る。
プルルルル、プルルルル……。
呼び出し音が長くなるにつれて、僕の心臓の鼓動も比例するように速くなっていく。出ないのではないか、という不安が頭をよぎったそのとき、カチャリ、というかすかな雑音とともに、回線が繋がった。
「もしもし?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、少し掠れた、けれど意識してトーンを高く上げた彼女の声だった。
「もしもし、暁、おはよー。今日、せっかくのデートなのにドタキャンしちゃってごめんねー」
やはり、声の調子はメッセージと同じように弾んでいた。いつものように僕を「暁」と呼び、申し訳なさそうに、けれど努めてカラリとした調子で喋っている。
「いや、それは仕方ないよ。体調不良なんだから気にしないで。……それより、体調はどう? 平気?」
僕は自分の声をなるべく穏やかに保ちながら、受話器の向こうの微かな呼吸の乱れや、声の震えに全神経を集中させた。
「んー! 大丈夫、大丈夫! 自分でもびっくりするくらい、体調自体はすごい元気なんだけどね! ちょっと微熱があるのと、喉がちょっと痛いかなーってくらい! だからさ、せっかくのデートなのに暁に移しちゃ悪いなーって思って! ごめんね、ほんとに」
純花は一気にまくしたてるようにそう言った。どうやら本当らしい。考えすぎだったようだ。電話の後ろからガチャガチャと台所で何か作っている音が聞こえる。
声にも掠れや震えはないし澄花の言う通り、たいしたことはなさそうだ。
それに安心して僕はアルバイトへ向かった。
アルバイトが終わって夕闇迫る夕方、あれから体調は改善したかと澄花にもう一度電話をかけてみた。
「もしもし?澄花、体調はどう?」
「元気だよー!朝より良くなった気がするー暁もバイトお疲れさま」
努めて元気そうに振る舞う澄花の声。聞き方によっては朝と同じ。
けれど、僕は騙されなかった。
声を大袈裟に弾ませれば弾ませるほど、その奥にある痛々しいほどの無理が、受話器を通じて僕の胸に刺さるように伝わってきたのだ。言葉の端々に混ざる、いつもより明らかに重い吸気。熱で頭が朦朧としているのを必死に堪えているような、わずかなタイムラグ。
彼女は、僕の前で「完璧な純花」であり続けようとしている。弱っている姿を見せて、僕に心配をかけることを、何よりも恐れているかのように。
「ありがとう。そっかそっか、、。あったかくしてね。本当にお大事にね」
「うん! ありがとう! じゃあね!」
ガチャ、と、僕が返事をする間もないほどの素早さで、電話は一方的に切られた。まるで、これ以上話し続けたら、自分の声が維持できなくなることを知っているかのような、そんな逃げるような切られ方だった。
電話が切れたのが先か、僕が動き出したのが先か、自分でもよく分からなかった。
考えるよりも先に、僕の身体は弾かれたように動いていた。スマートフォンの画面が暗転するのと同時に、身を翻し澄花の家へと向かう。
冷たい秋の空気が、肺の奥まで一気に流れ込んでくる。駅へと向かう道を走りながら、僕の頭の中には、ただ純花のあの無理に作った明るい声だけがリフレインしていた。
「純花は上手だから分かりにくいけど……やっぱり、いつもとどこか違う。もっとはやく、朝から気づいていれば良かった」
出会ったあの日から、僕は彼女の笑顔のグラデーションを見つめ続けてきた。本当に嬉しいときの陽だまりのような満面の笑み、困ったときの八の字の眉。だからこそ、今の電話の声が、彼女にとっての「精一杯の防衛策」であることに、確信が持ててしまったのだ。彼女は今、一人きりの部屋で、誰にも見せられない弱さと戦っているに違いない。
彼女のマンションへ向かう途中、駅前の大きなドラッグストアに立ち寄った。店内で、僕はカゴを手に取り、熱を下げそうな冷却シートや、喉を潤すスポーツドリンク、ゼリー状の栄養食品、そして彼女の好物であるプリンをいくつか手に取った。
どれが本当に必要なのか分からず、ただ思いつく限りの「お見舞い品」をカゴに詰め込んでいく。袋を両手に下げて店を出ると、僕は再び彼女の家へと足を急いだ。
純花の住むマンションの前に到着したとき、秋の日差しが少しずつ街の灯を落とし始めていた。エレベーターに乗り、彼女の部屋の前の前に立つ。
インターホンの前に右手を伸ばしたところで、急に激しい迷いが僕を襲った。
「……本当に、これで良かったんだろうか」
彼女は僕に心配をかけたくないからこそ、あんな風に明るい嘘をついてデートを断ったのだ。それなのに、こうして勝手に押しかけていくことは、彼女の気遣いを無下にし、余計な気を遣わせてしまうのではないだろうか。
熱でしんどい身体を引きずって僕を迎え入れ、また「笑顔の仮面」を貼り付けなければならないのだとしたら、それはお見舞いどころか、ただの迷惑でしかないのではないか。
僕の独りよがりな心配が、彼女を余計に苦しめてしまうかもしれない。そんな思考が頭の中でぐるぐると渦を巻き、伸ばした指先が呼び鈴のボタンの手前でピタリと止まってしまう。
けれど、しばらくの間、静まり返った廊下で立ち尽くしたあと、僕を動かしたのは、理屈ではない純粋な心配だった。
もし本当に迷惑だったら、荷物だけを渡して帰ればいい。でも、もし彼女が本当に限界を迎えているのなら、、今ここで引き返すわけにはいかない。
僕は意を決して、ピンポーン、と呼び鈴を鳴らした。
静かな廊下に、その音が妙に大きく響く。
しばらくの間、部屋の中からは何の音も聞こえてこなかった。やはり寝ているのだろうか、それとも居留守を使われているのだろうか、と不安が極限に達したそのとき、部屋の奥からドタドタ、と何かが倒れるような、慌てた物音が聞こえてきた。
続いて、内鍵が外されるガチャリという音がして、ゆっくりとドアが開いた。
隙間から顔を覗かせた純花は、僕の姿を見た瞬間、その丸い目をさらに大きく見開いて呆然と立ち尽くした。
「え、暁……!? どうしたの、来ちゃったの?」
驚きと困惑が入り混じった声。その表情には、いつもの完璧にコントロールされた笑顔はどこにもなかった。
「お姉さん、1人で寂しいんじゃないかと思って。お届け物でーす」
僕はあえて、いつもの日常と同じような、ちょっとふざけたトーンで茶番を始めてみた。両手に持ったドラッグストアの袋を、まるでピザの配達員のように恭しく差し出してみせる。彼女の緊張を少しでも和らげたい、という僕なりの精一杯の配慮だった。
僕のその姿を見て、純花は一瞬だけ呆気に取られていたが、すぐにいつもの、見慣れたにこにこ笑顔をその顔に浮かべた。
「もー、大したことないよ〜。わざわざ来なくても平気だったのに」
彼女はいつもの軽い口調でそう言った。
けれど、そんな言葉とは裏腹に、彼女の顔は誰が見ても分かるほど真っ赤に火照っており、大きな瞳は熱のせいで潤んで、今にも零れ落ちそうにきらきらと光っていた。呼吸は浅く、ドアノブを握る指先が微かに震えている。
微熱どころじゃない。そんなこと、彼女の顔を見れば一目で分かった。熱はかなり高いはずだ。
「とりあえず、中に入らせて。立ち話もなんだし」
僕がそう言うと、純花は「う、うん……」と小さく頷き、身体を引いて僕を部屋の中へと迎え入れた。
一歩足を踏み入れた瞬間に、部屋の空気がいつもと違うことに気がついた。
いつもなら、どんなに急な来客であっても、純花の部屋は彼女のこだわりが詰まった綺麗な空間に保たれている。それなのに、今の部屋の中は明らかに散らかっていた。
リビングのローテーブルの上には、中身がこぼれたのか横倒しになったままのコップがあり、その側には床に直接落ちたままの、くしゃくしゃになった薬の袋が転がっている。ベッドの脇には、着替えようとして途中で諦めたのか、脱ぎかけの服が無造作に丸められていた。
その光景を見ただけで、彼女が今朝、どれほど心細い時間を過ごしていたのかが痛いほど伝わってきた。
一人で起きて、薬を飲もうとしてコップを倒し、着替える体力すら残っていなくて、そのままベッドに倒れ込んでいたのだろう。何か色々やろうとして、けれど身体が思うように動かなくて、全部失敗してしまったのだ。
大丈夫じゃなさそうなことが痛いほど分かった僕は、余計な追求は一切せず、「ちょっと部屋、借りるね」とだけ言って、買ってきた袋からプリンを取り出した。
「これ、純花の好きなやつ。食べられそう?」
プリンの容器を見せると、純花は熱で潤んだ目を少しだけ輝かせて、
「わあ、ありがとう……!」
と、本当に嬉しそうに声を漏らした。
ベッドの背もたれに身体を預け、スプーンを受け取った彼女は、いつもなら大喜びで勢いよく食べるはずのプリンを、本当にゆっくりと、一口ずつ確かめるようにして口へと運んでいった。その様子を、僕は少し離れた場所に座って、静かに見守る。
美味しい、と呟く彼女の声は小さく、半分ほど食べたところで、スプーンを持つ手が止まった。やはり食欲もあまりないのだろう。いつもならペロリと平らげてしまう量なのに、残されたプリンを見つめる彼女の肩が、どこか小さく見えた。
僕はそっと立ち上がり、彼女が残したプリンをトレイに片付け、部屋の隅に転がっていた薬の袋を拾い、倒れたコップを起こしてキッチンへと運んだ。彼女に余計な気を遣わせないよう、ごく自然な動作で、散らかった部屋を少しずつ片付けていく。
一通りの片付けを終えた頃、僕は再び彼女のベッドの横へと戻り、床に腰掛けて、手元にあった温かい手拭きをそっと彼女の手のひらに渡した。
「ありがとう……」
純花はそれを受け取り、指先を小さく拭いた。
そのあと、部屋の中に、微かな秋の風の音だけが聞こえる、静かな無言の時間が流れた。
いつもなら、どんなに沈黙が訪れそうになっても、純花が自分から進んで「ねえねえ!」と茶番を始めたり、楽しい話題を提供してその場を明るく盛り上げてくれる。けれど、今の彼女には、その笑顔の仮面を維持するだけの気力が、もう一滴も残っていっていないようだった。
彼女の顔から、あの完璧なにこにこ笑顔が、徐々に、ゆっくりと消えていく。
僕は彼女の横顔をじっと見つめ、静かに声をかけた。
「食欲ない?……朝から、何か食べた?」
僕のその問いかけに、純花は俯いたまま、しばらく何も答えなかった。手拭きを握りしめる指先に、ぎゅっと力が込もる。
「……食べてない」
蚊の鳴くような、いつもとは比べものにならないくらいに小さな、掠れた声だった。
「作ろうとしたけど……何もできなくて。……食べなきゃいけないのは分かってるんだけど、お腹が空いてなくて……。何をやっても、上手くいかなくて……」
言葉を紡ぐごとに、彼女の声はどんどん震えていった。
そして、その長い睫毛の隙間から、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、彼女の赤い頬を伝ってシーツへと落ちていった。
出会ってから二年半。映画館のどんなに泣ける名作でも、一滴の涙すら見せなかった純花が、今、僕の目の前で、堰を切ったように涙を流している。
彼女は、自分が泣いていることに戸惑うように、困ったような、ひどく歪んだ笑みを浮かべながら、必死に手の甲で目を擦った。
「あれー……ごめんね、なんで泣いてるんだろうね……。私、平気なのに。ただの風邪なのに、おかしいな……」
泣きながらも、彼女はまだ、笑おうとしていた。「平気な自分」を演じ、僕の前で泣いてしまった不甲斐なさを、その笑顔で誤魔化そうとしていた。
その痛々しい姿を見て、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。彼女がどれほどの長い間、この「笑顔の呪縛」に縛られ、一人で抱え込んできたのだろう。
僕は何も言わず、ベッドの縁に腰をかけると、彼女の細い背中にそっと手をまわし、トントン、と優しく、規則正しいリズムで叩いた。子供をあやすように、ここに僕がいるよ、と伝えるように。
「泣いてもいいよ、純花」
僕は彼女の耳元で、静かに、けれど明確に言葉を紡いだ。
「僕は、いつも笑顔の純花が大好きだよ。周りの空気を一瞬で明るくしちゃう、あのまぶしい笑顔が本当に大好きだ。……でもね、ずっと笑顔でいてほしいわけじゃないんだ」
純花の手の動きが、ピタリと止まる。
「怒ってるところも、困ってるところも、今みたいに泣いてるところも……。上手くいかなくて、ボロボロになってる姿も、全部。全部含めて、僕は純花を守りたいんだよ。君の綺麗なところだけじゃなくて、その弱さも全部、僕に預けてほしい」
僕の言葉を聞いた純花は、涙でいっぱいの、真っ赤になった目を大きく見開いて僕を見つめた。そして、掠れた声で、小さく吹き出すようにしてケラケラと笑った。
「……ふふっ、キザだなぁー」
泣きながら、けれどその笑い声は、今日の中で一番、彼女自身の本物の感情がこもっているような気がした。
僕が彼女の正面に向き直り、その涙を拭おうとした瞬間だった。
純花は何も言わずに、僕の胸の真ん中へと、思い切りその顔を埋めてきた。
彼女の熱い額の温度が、僕のシャツを通じてダイレクトに肌へと伝わってくる。
すんすん、という、小さな、小さな子供のような泣き声だけが、僕の胸の中から聞こえてきた。彼女の細い肩が、規則的に大きく揺れている。僕はその背中を、今度は両腕でしっかりと抱きしめた。彼女の身体は、驚くほど軽くて、小さかった。いつもあんなに大きく見えていた彼女の存在が、今は守るべき一つの儚い命として、僕の腕の中に収まっていた。
胸に顔を埋めたまま、純花が篭った声でぽつりと言った。
「暁はさ……笑ってる子が好き?」
「そりゃあそうだね。好きな子には、いつだって笑っていてほしいと思うよ」
僕は正直に答えた。誰だって、愛する人には幸せでいてほしいと願うものだから。
すると、純花は僕の胸にさらに深く顔を押し付けるようにして、消え入りそうな声で言葉を続けた。
「じゃあ……笑えない私は、嫌い?」
その問いかけに、彼女の人生のすべてが詰まっているような気がした。楽しくなくても、嫌なことがあっても、笑っていなければ周りに受け入れてもらえない。笑顔を失った自分には、価値がないのではないか。そんな、彼女の心の奥底に深くこびりついた、歪んだ恐怖が伝わってきた。
「それは違うよ、純花」
僕は彼女の髪を優しく撫でながら、一文字ずつ丁寧に返した。
「あくまで『好きな子には笑っていてほしい』だけ。無理して作った笑顔が見たいわけじゃない。とびきり楽しいことがあったときに、心から一緒に笑い合いたいんだ。笑えないときは、無理に笑わなくていい。それでね、僕は……純花が、何もしなくても安心できる場所になりたいんだ」
「……安心?」
純花が僕の胸の中で、小さく呟くように繰り返した。
「うん。安心。……大木みたいな男になるよ、僕は。どんな嵐が吹いても、どんな雨が降っても、絶対に倒れないで、純花がいつでも寄りかかって、羽を休められるような、そんな大きな木に、僕がなるから」
自分の口から出た言葉の恥ずかしさに、少し顔が熱くなった。
けれど、僕の胸に顔を埋めていた純花は、しばらくの沈黙のあと、ふふっ、と声を立てて、それからケラケラといつものように楽しそうに笑い出した。
「大木かぁ……。ふふ、これ以上大きくなったらさ、私、暁に抱きつけなくなっちゃうじゃん」
彼女は僕の胸から少しだけ顔を離し、涙で濡れた顔で、いつもの悪戯っぽい満面の笑顔を見せた。
「あ、そんな物理的な話?」
僕が苦笑しながら突っ込むと、純花は「そうだよー、大木は固いしねー」と、また少しだけ笑った。その笑顔は、いつもの防衛策の仮面ではなく、心の底からリラックスした、本当に愛おしい表情だった。
ひとしきり笑ったあと、彼女は安心したように、再び僕の胸へとそっと顔を預けた。
トントン、と背中を叩く僕の手の動きに合わせるように、彼女の呼吸は少しずつ、ゆっくりと深く、穏やかなものへと変わっていった。
高い熱のせいと、長い間張り詰めていた緊張が一気に解けたせいもあるのだろう。気づけば、純花は僕の腕の中で、小さな寝息を立てて深い眠りへと落ちていた。
僕は彼女をそっとベッドに横たえ、毛布を優しく首元までかけ直した。
枕元に腰掛け、眠る彼女の穏やかな寝顔をじっと見つめる。熱でまだ少し赤い頬には、先ほど流した涙の跡が白く残っていた。
僕は指先でその跡をそっと拭い、心の中で何度も繰り返した。
これからは、君の笑顔だけじゃなく、その涙も、全部僕が隣で受け止めるからね、と。
