*
あの花火大会での告白の日から、驚くほどあっという間に一年の歳月が流れた。
季節は巡り、澄花と過ごす二度目の夏休みを迎えている。
強い日差しがアスファルトを容赦なく照らしつけ、駅のホームには陽炎がゆらゆらと立ち上っていた。容赦のない蝉の鳴き声が遠くから響いてくる中、僕は駅の改札口に近い柱の陰で、胸の高鳴りを微かに覚えながら時計へと視線を落としていた。
今日から、澄花の強い誘いによって、二人きりで旅行に行くことになっている。
実は、付き合い始めてからここに至るまで、「そろそろどこか遠出の旅行にでも誘ってもらえるんじゃないか」と密かに期待していた自分がいた。けれど、待てど暮らせど彼女から具体的な提案はなく、少し寂しく思った時期もあったのだ。
しかしそれは僕の早とちりで、どうやら澄花の側が「初めての二人旅」という大イベントに対して並々ならぬ気合を入れすぎていた結果、プランを温め直しているうちに、気がつけば一年の大台を迎えるこの夏休みまでタイミングが連れ込んでしまったらしい。
そんな彼女の不器用なまでの生真面目さと熱量を愛おしく思いながら、僕はじっと彼女の姿を探していた。
旅行客や帰省の人々でごった返す駅の雑踏の向こうから、見覚えのある茶色のウェーブヘアが小さく跳ねるのが見えた。
「あ、」と声を出すよりも早く、彼女がこちらに気づいて大きく手を振る。それはもう、遠目から見ても一目でわかるほど全身から「ルンルン」としたオーラを放ちながら、澄花がこちらへ向かって嬉しそうに駆け寄ってきた。白いサンダルが軽快な音を立て、夏の爽やかな風をこちらへ運んでくる。
「おはよう!!いい天気だね!!1年も熟考したの!もうっ完璧よ!」
僕の目の前でピタリと足を止めると、澄花は両手に抱えた手作りの旅行ノートを誇らしげに掲げながら、弾けるような満面の笑顔を咲かせた。眩しい夏の太陽の光すら、彼女の笑顔の前では色褪せてしまうのではないかと思えるほどの輝きだった。
「おはよー。計画やら予約やら全部任せちゃってごめんね、ありがとう」
苦笑まじりに、けれど心からの感謝を込めて僕がそう言うと、彼女はノートを胸にきゅっと抱きしめ、満足そうに鼻を鳴らした。
「良いんだよー、全部やらせてってお願いしたの私だし!むしろ任せてくれてありがとうだよー」
彼女のまわりにはいつも、周囲の空気を一瞬で明るくしてしまう特別な引力がある。自分にすべてを任せてくれたことを、義務ではなく純粋な喜びとして受け止めてくれる彼女の心の温かさに、旅の始まりから僕の胸の奥はすっかり満たされていた。
「いやでもさ、楽しむだけじゃ贅沢すぎるなと思ってこんなの持ってきた」
そう言うと、僕は肩に下げていた鞄のチャックを開け、中から大切に包んでいたカメラを出してみせる。それは決して最新式の高価なプロ仕様のものではなかったけれど、この旅の景色を、何よりも彼女の姿を一枚でも多く残したいと思って用意したものだった。
「良いやつじゃないんだけどね、思い出残せたら嬉しいなーって」
少し照れくささがあり、言い訳のように言葉を添えてカメラのボディを差し出すと、澄花は一瞬だけ、丸い目をさらに丸くして驚いた顔を見せた。けれど、次の瞬間にはすぐにいつもの愛らしい笑顔を咲かせて、
「さいっこう!」
と、親指を立ててぐっと力強くサインをしてみせた。彼女がそうして大袈裟なくらいのリアクションで喜んでくれたことが、何よりも嬉しくて、僕の緊張は完全に消え去った。
そこからの旅路は、まさに澄花の独壇場だった。
電車を乗り継ぎ、目的地に到着してからの移動に至るまで、彼女は意気揚々とどんどん先頭を切って進んでいく。カランコロンと響く駅の足音も、バスの時間をチェックする手際の良さも、すべてが完璧だった。さすがに丸一年を費やして熟考されたクオリティーだけのことはある。澄花の手際が良すぎて、僕がスマホの地図アプリを開く隙すらなく、リードする側の男としての出る幕なんてどこにも残されていなかった。
けれど、僕専任のガイドさんは終始本当に楽しそうで、時折振り返っては「暁、遅れないでね!」と髪を揺らして笑う。その姿を見ているだけで、僕はこれ以上ないほどに満足だった。
もちろん、持ってきたカメラも大活躍だった。
澄花が案内してくれる場所は、どこもかしこも心が躍るような美しい景色ばかりだった。澄み切った夏の青空、瑞々しい緑の山々、歴史を感じさせる古い街並み。僕は何度も夢中でシャッターを切った。
「澄花ー」と、ファインダーを覗きながら彼女の名前を呼ぶと、彼女はいつだって、レンズの向こう側でこれ以上ないほどの満面の笑みをこちらに向けてくれる。カシャリ、カシャリと刻まれる思い出の断片。
そうして、めいっぱいに旅の初日を満喫した僕たちは、澄花が予約してくれていた古風な宿へと到着した。
案内された部屋は、い草の香りが優しく漂う、畳の暖かい和室だった。窓の外からは、昼間の騒がしさが嘘のように静まり返った室内で外の夜の虫の声が心地よく聞こえてくる。
夕食を終え、お風呂上がりですっかりリラックスした僕たちは、座布団の上に足を崩し、冷たいお茶を飲みながら、今日一日の出来事を振り返って寝るまで談笑してくつろいだ。
「いやー、ほんとに今日は楽しかったよ。ありがとね」
畳の上に寝転びそうになる身体を起こしながら、改めて澄花に視線を向けて告げた。心の底からの言葉だった。すると、浴衣姿の澄花は少し照れたように髪を耳にかけながら、嬉しそうに微笑んだ。
「いえいえー。喜んでもらえて何よりだよ!!旅行の良いところってさ、自分が楽しいのはもちろんなんだけど、自分がこうしたら喜んでくれるかなー?って一個一個積み上げていったやつを目の前で楽しんでもらえることだと思うんだー」
彼女はそう言って、膝の上に置いた旅行ノートの表紙を愛おしそうに撫でた。
自分の頭の中で描いた「誰かの幸せ」が、現実になって目の前で花開く瞬間が好きなのだという。他人の喜びを自分の喜びとして昇華できる、そんな澄花の真っ直ぐで優しいところが、僕はたまらなく好きだなと改めて思った。
もちろん、本人の前でそんな風に真面目に褒めちぎったら絶対に照れて嫌がるので、口には出さずに胸の奥にそっと仕舞い込んでおいたのだけれど。
静寂が部屋を包み込む中、お茶の入った湯呑みを回しながら、僕はかねてから胸の中にあった一つの疑問を口にしてみることにした。
「ねえ澄花、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
少しトーンを落とした僕の声に、澄花は悪戯っぽく口元を吊り上げてニヤニヤと笑ってみせた。
「なーに?可愛さの秘訣?」
「そうそう、って!違うよー、いや気になるけども」
いつものお決まりのやり取りに、澄花はケラケラと笑いながら聞き返してくれる。
「ごめんごめん冗談だよ、んで、聞きたいことって何ー?」
彼女の笑顔が少し落ち着くのを待って、僕はあの日のことを切り出した。
「初めて僕が話しかけたときあったじゃん?あのときさ、普通知らない男に声かけられたら適当言って逃げるでしょ、澄花もできるでしょー?なんか、やたらつきまとってくるとか思わなかったのかなって。警戒しないでいてくれたのはどうして?」
あの日、喫茶店の前で呆然と立ち尽くしていた僕が、半ば不審者のように声をかけた時。彼女は拒絶するどころか、毎週ここにいると教えてくれた。それがずっと不思議だったのだ。
僕の問いかけに対して、澄花はそれまでの快活な笑顔から一転して、少し困ったような、眉を八の字に曲げた独特の笑い方になった。彼女が何かを誤魔化そうとしたり、真剣な本音を照れ隠しする時の表情のグラデーションだ。
「うーーん、それね、。なんとなく断りにくかったんだよ、暁の言葉」
「なるほど?」
身を乗り出す僕を少し眩しそうに見つめながら、澄花はぽつりぽつりと、これまで語られることのなかった彼女側の記憶の扉を開いていった。
「あの初めて会ったときね、暁のこともっと知りたいって思ったの。カフェで店員さんがグラス落としちゃったの覚えてる?周りの人、もちろん私も気付いたし、助けに行こうかなと思った。
でもあの割れ方だと私じゃどうにもできないかも、行ったは良いけど逆に迷惑になっちゃうかな、なんて考えて結局行けなかったから、。
でも暁はさ、店員さんが謝るより早く立ち上がって自分のおしぼり使ってどんどん破片拾ってたよね。
それを見てすごいかっこいいなって。拾い終わった後もさ、店員さんに向かってニコッと微笑むだけ。
だからねどんな人なんだろうってすごい気になっちゃったの」
澄花が語るそのエピソードを聞きながら、僕は懸命に脳内の記憶を遡ろうとした。けれど、記憶の霧の向こう側を探っても、そんな出来事があったような、なかったような、ひどく曖昧な感覚しか得られなかった。
そもそも、あの日の僕は、視界の端でるんるんと揺れる彼女の茶色の髪の毛と、その圧倒的な可愛らしさに頭のすべてを乗っ取られていたのだ。周囲で何が起きていたか、自分がどう動いたかなど、覚えているはずもなかった。
僕が眉間にシワを寄せて首をかしげ、真剣に考え込んでいる様子を見て、澄花はふふっと声を立てて笑った。
「やっぱりー?覚えてないと思った。暁はさ、そういうの無意識でサラッとできちゃうんだよ。だからね、あのあと暁から声かけてもらえて嬉しかったんだよ。」
彼女の瞳は、どこか遠い春の日を慈しむように優しく細められていた。僕がストーカーだの不審者だのと怯えていた裏側で、彼女もまた、僕という存在に強い関心を抱いてくれていたのだ。
「そうだったんだ、ドン引きされてたらどうしようって心配してたから聞けてよかったよ」
ホッと胸を撫で下ろす僕を見て、澄花はまたふふっと小さく笑った。
けれど今度は、その笑顔の奥に少しだけ寂しそうな、気まずそうな色彩が混ざり込んでいくのを僕は見逃さなかった。
「それからはもうずっとだよ、。暁ってば優しいからさ、私すごい振り回されちゃって。みんなに優しくできるから期待してるのは私だけなんじゃないのかな、みんなにもおなじことしてるのかなーって悩みまくりだったよ」
少しだけ声を小さくして、膝を抱え込むようにしながら澄花が溢した本音。
誰にでも分け隔てなく親切にできてしまう僕の「平等な優しさ」が、彼女にとっては自分だけが特別ではないのかもしれないという不安の種になっていたのだ。あの眩しい笑顔の裏側で、彼女がそんな風に一人で悩み、胸を痛めていたなんて想像もしていなかった。
けれど、それは僕も全く同じだったのだ。澄花があまりにも魅力的で、誰に対しても明るく接するからこそ、自分だけが空回りして期待しているのではないかと、僕も一年の間、ずっとぐるぐると悩み続けていた。
「それは僕も。だから言えてほんっとに……」
僕はそこまで言いかけて、言葉を一度飲み込んだ。畳を叩く虫の音が、僕たちの間に流れる沈黙を優しく埋めていく。同じように悩み、同じように互いを見つめ合っていたのだという事実が、この静かな和室の中で、僕たちの距離をこれまで以上に深く、確かに繋ぎ止めてくれているような気がした。
あの花火大会での告白の日から、驚くほどあっという間に一年の歳月が流れた。
季節は巡り、澄花と過ごす二度目の夏休みを迎えている。
強い日差しがアスファルトを容赦なく照らしつけ、駅のホームには陽炎がゆらゆらと立ち上っていた。容赦のない蝉の鳴き声が遠くから響いてくる中、僕は駅の改札口に近い柱の陰で、胸の高鳴りを微かに覚えながら時計へと視線を落としていた。
今日から、澄花の強い誘いによって、二人きりで旅行に行くことになっている。
実は、付き合い始めてからここに至るまで、「そろそろどこか遠出の旅行にでも誘ってもらえるんじゃないか」と密かに期待していた自分がいた。けれど、待てど暮らせど彼女から具体的な提案はなく、少し寂しく思った時期もあったのだ。
しかしそれは僕の早とちりで、どうやら澄花の側が「初めての二人旅」という大イベントに対して並々ならぬ気合を入れすぎていた結果、プランを温め直しているうちに、気がつけば一年の大台を迎えるこの夏休みまでタイミングが連れ込んでしまったらしい。
そんな彼女の不器用なまでの生真面目さと熱量を愛おしく思いながら、僕はじっと彼女の姿を探していた。
旅行客や帰省の人々でごった返す駅の雑踏の向こうから、見覚えのある茶色のウェーブヘアが小さく跳ねるのが見えた。
「あ、」と声を出すよりも早く、彼女がこちらに気づいて大きく手を振る。それはもう、遠目から見ても一目でわかるほど全身から「ルンルン」としたオーラを放ちながら、澄花がこちらへ向かって嬉しそうに駆け寄ってきた。白いサンダルが軽快な音を立て、夏の爽やかな風をこちらへ運んでくる。
「おはよう!!いい天気だね!!1年も熟考したの!もうっ完璧よ!」
僕の目の前でピタリと足を止めると、澄花は両手に抱えた手作りの旅行ノートを誇らしげに掲げながら、弾けるような満面の笑顔を咲かせた。眩しい夏の太陽の光すら、彼女の笑顔の前では色褪せてしまうのではないかと思えるほどの輝きだった。
「おはよー。計画やら予約やら全部任せちゃってごめんね、ありがとう」
苦笑まじりに、けれど心からの感謝を込めて僕がそう言うと、彼女はノートを胸にきゅっと抱きしめ、満足そうに鼻を鳴らした。
「良いんだよー、全部やらせてってお願いしたの私だし!むしろ任せてくれてありがとうだよー」
彼女のまわりにはいつも、周囲の空気を一瞬で明るくしてしまう特別な引力がある。自分にすべてを任せてくれたことを、義務ではなく純粋な喜びとして受け止めてくれる彼女の心の温かさに、旅の始まりから僕の胸の奥はすっかり満たされていた。
「いやでもさ、楽しむだけじゃ贅沢すぎるなと思ってこんなの持ってきた」
そう言うと、僕は肩に下げていた鞄のチャックを開け、中から大切に包んでいたカメラを出してみせる。それは決して最新式の高価なプロ仕様のものではなかったけれど、この旅の景色を、何よりも彼女の姿を一枚でも多く残したいと思って用意したものだった。
「良いやつじゃないんだけどね、思い出残せたら嬉しいなーって」
少し照れくささがあり、言い訳のように言葉を添えてカメラのボディを差し出すと、澄花は一瞬だけ、丸い目をさらに丸くして驚いた顔を見せた。けれど、次の瞬間にはすぐにいつもの愛らしい笑顔を咲かせて、
「さいっこう!」
と、親指を立ててぐっと力強くサインをしてみせた。彼女がそうして大袈裟なくらいのリアクションで喜んでくれたことが、何よりも嬉しくて、僕の緊張は完全に消え去った。
そこからの旅路は、まさに澄花の独壇場だった。
電車を乗り継ぎ、目的地に到着してからの移動に至るまで、彼女は意気揚々とどんどん先頭を切って進んでいく。カランコロンと響く駅の足音も、バスの時間をチェックする手際の良さも、すべてが完璧だった。さすがに丸一年を費やして熟考されたクオリティーだけのことはある。澄花の手際が良すぎて、僕がスマホの地図アプリを開く隙すらなく、リードする側の男としての出る幕なんてどこにも残されていなかった。
けれど、僕専任のガイドさんは終始本当に楽しそうで、時折振り返っては「暁、遅れないでね!」と髪を揺らして笑う。その姿を見ているだけで、僕はこれ以上ないほどに満足だった。
もちろん、持ってきたカメラも大活躍だった。
澄花が案内してくれる場所は、どこもかしこも心が躍るような美しい景色ばかりだった。澄み切った夏の青空、瑞々しい緑の山々、歴史を感じさせる古い街並み。僕は何度も夢中でシャッターを切った。
「澄花ー」と、ファインダーを覗きながら彼女の名前を呼ぶと、彼女はいつだって、レンズの向こう側でこれ以上ないほどの満面の笑みをこちらに向けてくれる。カシャリ、カシャリと刻まれる思い出の断片。
そうして、めいっぱいに旅の初日を満喫した僕たちは、澄花が予約してくれていた古風な宿へと到着した。
案内された部屋は、い草の香りが優しく漂う、畳の暖かい和室だった。窓の外からは、昼間の騒がしさが嘘のように静まり返った室内で外の夜の虫の声が心地よく聞こえてくる。
夕食を終え、お風呂上がりですっかりリラックスした僕たちは、座布団の上に足を崩し、冷たいお茶を飲みながら、今日一日の出来事を振り返って寝るまで談笑してくつろいだ。
「いやー、ほんとに今日は楽しかったよ。ありがとね」
畳の上に寝転びそうになる身体を起こしながら、改めて澄花に視線を向けて告げた。心の底からの言葉だった。すると、浴衣姿の澄花は少し照れたように髪を耳にかけながら、嬉しそうに微笑んだ。
「いえいえー。喜んでもらえて何よりだよ!!旅行の良いところってさ、自分が楽しいのはもちろんなんだけど、自分がこうしたら喜んでくれるかなー?って一個一個積み上げていったやつを目の前で楽しんでもらえることだと思うんだー」
彼女はそう言って、膝の上に置いた旅行ノートの表紙を愛おしそうに撫でた。
自分の頭の中で描いた「誰かの幸せ」が、現実になって目の前で花開く瞬間が好きなのだという。他人の喜びを自分の喜びとして昇華できる、そんな澄花の真っ直ぐで優しいところが、僕はたまらなく好きだなと改めて思った。
もちろん、本人の前でそんな風に真面目に褒めちぎったら絶対に照れて嫌がるので、口には出さずに胸の奥にそっと仕舞い込んでおいたのだけれど。
静寂が部屋を包み込む中、お茶の入った湯呑みを回しながら、僕はかねてから胸の中にあった一つの疑問を口にしてみることにした。
「ねえ澄花、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
少しトーンを落とした僕の声に、澄花は悪戯っぽく口元を吊り上げてニヤニヤと笑ってみせた。
「なーに?可愛さの秘訣?」
「そうそう、って!違うよー、いや気になるけども」
いつものお決まりのやり取りに、澄花はケラケラと笑いながら聞き返してくれる。
「ごめんごめん冗談だよ、んで、聞きたいことって何ー?」
彼女の笑顔が少し落ち着くのを待って、僕はあの日のことを切り出した。
「初めて僕が話しかけたときあったじゃん?あのときさ、普通知らない男に声かけられたら適当言って逃げるでしょ、澄花もできるでしょー?なんか、やたらつきまとってくるとか思わなかったのかなって。警戒しないでいてくれたのはどうして?」
あの日、喫茶店の前で呆然と立ち尽くしていた僕が、半ば不審者のように声をかけた時。彼女は拒絶するどころか、毎週ここにいると教えてくれた。それがずっと不思議だったのだ。
僕の問いかけに対して、澄花はそれまでの快活な笑顔から一転して、少し困ったような、眉を八の字に曲げた独特の笑い方になった。彼女が何かを誤魔化そうとしたり、真剣な本音を照れ隠しする時の表情のグラデーションだ。
「うーーん、それね、。なんとなく断りにくかったんだよ、暁の言葉」
「なるほど?」
身を乗り出す僕を少し眩しそうに見つめながら、澄花はぽつりぽつりと、これまで語られることのなかった彼女側の記憶の扉を開いていった。
「あの初めて会ったときね、暁のこともっと知りたいって思ったの。カフェで店員さんがグラス落としちゃったの覚えてる?周りの人、もちろん私も気付いたし、助けに行こうかなと思った。
でもあの割れ方だと私じゃどうにもできないかも、行ったは良いけど逆に迷惑になっちゃうかな、なんて考えて結局行けなかったから、。
でも暁はさ、店員さんが謝るより早く立ち上がって自分のおしぼり使ってどんどん破片拾ってたよね。
それを見てすごいかっこいいなって。拾い終わった後もさ、店員さんに向かってニコッと微笑むだけ。
だからねどんな人なんだろうってすごい気になっちゃったの」
澄花が語るそのエピソードを聞きながら、僕は懸命に脳内の記憶を遡ろうとした。けれど、記憶の霧の向こう側を探っても、そんな出来事があったような、なかったような、ひどく曖昧な感覚しか得られなかった。
そもそも、あの日の僕は、視界の端でるんるんと揺れる彼女の茶色の髪の毛と、その圧倒的な可愛らしさに頭のすべてを乗っ取られていたのだ。周囲で何が起きていたか、自分がどう動いたかなど、覚えているはずもなかった。
僕が眉間にシワを寄せて首をかしげ、真剣に考え込んでいる様子を見て、澄花はふふっと声を立てて笑った。
「やっぱりー?覚えてないと思った。暁はさ、そういうの無意識でサラッとできちゃうんだよ。だからね、あのあと暁から声かけてもらえて嬉しかったんだよ。」
彼女の瞳は、どこか遠い春の日を慈しむように優しく細められていた。僕がストーカーだの不審者だのと怯えていた裏側で、彼女もまた、僕という存在に強い関心を抱いてくれていたのだ。
「そうだったんだ、ドン引きされてたらどうしようって心配してたから聞けてよかったよ」
ホッと胸を撫で下ろす僕を見て、澄花はまたふふっと小さく笑った。
けれど今度は、その笑顔の奥に少しだけ寂しそうな、気まずそうな色彩が混ざり込んでいくのを僕は見逃さなかった。
「それからはもうずっとだよ、。暁ってば優しいからさ、私すごい振り回されちゃって。みんなに優しくできるから期待してるのは私だけなんじゃないのかな、みんなにもおなじことしてるのかなーって悩みまくりだったよ」
少しだけ声を小さくして、膝を抱え込むようにしながら澄花が溢した本音。
誰にでも分け隔てなく親切にできてしまう僕の「平等な優しさ」が、彼女にとっては自分だけが特別ではないのかもしれないという不安の種になっていたのだ。あの眩しい笑顔の裏側で、彼女がそんな風に一人で悩み、胸を痛めていたなんて想像もしていなかった。
けれど、それは僕も全く同じだったのだ。澄花があまりにも魅力的で、誰に対しても明るく接するからこそ、自分だけが空回りして期待しているのではないかと、僕も一年の間、ずっとぐるぐると悩み続けていた。
「それは僕も。だから言えてほんっとに……」
僕はそこまで言いかけて、言葉を一度飲み込んだ。畳を叩く虫の音が、僕たちの間に流れる沈黙を優しく埋めていく。同じように悩み、同じように互いを見つめ合っていたのだという事実が、この静かな和室の中で、僕たちの距離をこれまで以上に深く、確かに繋ぎ止めてくれているような気がした。
