六時間目の授業の終わりを告げるチャイムが、生徒たちを一気に解放する。私は教科書やノートをカバンに詰める。担任が教室に来るまでの間、クラスのほとんどの人は、教室で友達と楽しそうにワイワイ話している。そんな中、私は読書に浸る。本の中の世界は楽しそうで、羨ましい。ただ、私が好きなジャンルは、決してハッピーエンドと呼ばれるようなものではない。むしろ、バッドエンドだ。こんなに羨ましく思うのは、自分の世界とは違うからなのだろうか。
──ガラッ
教室のドアが開いて、教室が一気に静まり返る。
「はい、みなさん席に着いてー」
担任のその一言で、クラスが一気に整う。みんなが姿勢良く席に座って、前を向く。私は栞を挟み、本を閉じる。
「今日は配布物があります。はい、これを後ろに回してください」
私は、前から回ってきたプリントを丁寧に後ろに回す。その時の後ろの人の目線はプリントに注がれていて、私と視線が合わない。私は静かにそのプリントをファイルに入れ、カバンにしまう。
「今日の連絡は……明日、健康診断があります。なので、体操服を忘れないようにしてください。今日は以上です」
こんなに早く終わってしまう終礼に、何の意味があるのだろうか。健康診断なんて、学校から配られている年間予定表を見れば分かる話なのだ。
「起立!礼!」
「ありがとうございました」
日直を先頭に、元気な声が教室に鳴り響く。私はカバンを背負い、早歩きで教室を出て、校門をくぐる。友達と歩く人たちをどんどん抜かしていく。駅に着いて、改札を抜け、ホームに向かう。電車が来るまで数分待って、来た電車に乗る。座らずに、ただボーッと外を眺める。まだ日は暮れていない。白に似た黄色の光が私を照らす。眩しい。数駅で電車を降りて、また改札を抜け、外に出て、早歩きで向かう。白い建物が見えてきて、歩くのを止める。───私が通っていた、私立の中高一貫校。深く深呼吸をして、また歩き始める。たくさんの生徒の流れに逆らって、ズンズン目的の場所へ向かう。見覚えのある人にもすれ違った気がするが、誰であってもスルーする。
「───着いた……」
私が通っていた中学校の校門の前に立つ。数十分待つと、目的の人がこちらに近づいてくる。
「あ、花乃。もう来たの……早くない?」
「ごめん、迷惑だった?」
「いや、そんなことないけど」
「それならよかった」
もう半年近く続いているルーティンなのに、何度目か分からない会話をする。
「せっかく早く来てくれたけど、今日はまだ仕事が終わりそうにないからさ……家の鍵、渡しておくから、先に帰ってて。頑張って早く終わらせるからさ」
一緒に帰れるのが一番だけれど、先に帰る時にしか見れない、申し訳なさそうにする彼の顔も好きだった。
「全然いいよ、仕事は仕方ないもんね。ちなみに晩御飯は何がいい?」
「うーん……あっさり系かなぁ」
彼は、少し考えてから、疲れた顔でそう言った。
「分かった。お疲れさまー」
私が笑顔で返すと、彼は一瞬だけ口角を上げ、小走りで白い校舎の中へ再び戻っていった。私はもらった家の鍵をカバンに入れて、再び駅へ向かう。その途中、同じ中学校だった仲の良い男の子がトボトボと一人で歩いているのを見つけた。後ろから近づいて来た私に気づいて、その男の子は振り返った。
「あ、花乃。今日はマー先は一緒じゃないの?」
マー先とは、さっき私と話をしていた眞間翔ノ介のことで、私が中学生の時に、同学年で違うクラスだった先生だ。「眞間先生」は呼びにくいため、省略して「マー先」と呼ばれている。
「うん、今日は残業だって」
私が苦笑いを浮かべてそう言うと、男の子も苦笑いを浮かべた。
「碧こそ、今日は部活ないの?」
碧とは、私の目の前にいる男の子の名前で、中村碧という。
「今週は定期テスト一週間前だからね」
「あ、そうだったね」
部活に入っていないせいか、定期テスト前に部活がないことをいつも忘れてしまう。少しの沈黙のあと、碧が口を開けてこう言った。
「ねぇ、今日は一緒に帰らない?」
「え?」
「いいの?」
「もちろん」
家以外では久しぶりに、胸が高鳴った。自然と口角が上がる。
歩き始めて少し経った頃、碧は立ち止まった。
「どうしたの?歩くの早かった?」
「うんん、全然。そんな心配そうな顔しないでいいよ」
どうやら私は心配そうな顔をしていたらしい。
「───明日も一緒に帰ろう?」
その言葉を聞いて、今、私はきっと、ポカンとした顔をしているのだろう。彼はクスッと笑った。私の頭の中は混乱どころか真っ白で、心臓がドクドクと鳴り続けている。
「顔、赤いけど、大丈夫?」
そんなことを言われると、もっと恥ずかしくなってしまった。恥ずかしさのあまり、予定も確認せずに言った。
「明日も……もちろん」
それからの記憶はほとんどなく、たしか世間話をして、同じ電車に乗って、乗り換えのために先に降りた───。今は家なのに、一緒に乗っていた電車から降りてからの記憶が全くない。人間の脳は都合よく出来すぎていて、怖い。九月十九日のカレンダーを見ても何も書かれていなかったことを確認して、安堵の溜息が漏れた。時計を見ると───
「……十七時半⁉︎」
翔ノ介は早く帰るために帰宅後に仕事を回すことが多いので、残業があっても十八時半頃には帰ってくる。まだ買い出しにも行っていないので、時間があまりない。
「ほんとにヤバい。今日、何にするかも決まってないのに……!」
とりあえず制服から着替えて、鍵と財布とスマホとエゴバックを持ち、家を飛び出す。
「ヤバい、ヤバい、ヤバい!」
スーパーに入って、まず野菜コーナーで安かった小松菜を買い、精肉コーナーに行くと、鶏ささみが安かったので、それを買う。
「今日は……トマトと鶏ささみの中華風にしよっと」
私はそうつぶやいて、野菜コーナーに戻り、トマトと小ネギを買い、冷蔵コーナーに向かう。
「えーっと、豆腐、豆腐……あった!」
豆腐と卵をかごにいれた。
「よし、これで全部かなぁ?」
かごの中を確認して、私はお菓子コーナーに向かう。翔ノ介が遅くまで仕事をしそうな時は、お菓子を買うようにしている。急いでお会計を済ませて、早歩きで家に向かう。
家に着いて、手を洗い、買って来たものを並べ、私は台所に立つ。小松菜を洗い流し、サッと茹でる。その間にボウルに水切りした豆腐を入れ、軽く潰しておき、醤油、すりごまを入れて混ぜる。茹で終わった小松菜を一口大に切り、豆腐と混ぜ合わせて前菜の完成!
次は、鶏ささみの下処理をし、耐熱容器にのせ、塩、酒を回しかけ、数分おく。ふんわりとラップをかけ、電子レンジで加熱し、そのまま冷まして予熱で火を入れる。トマトはヘタをとり、一口大に切る。鶏ささみをほぐしてボウルに入れ、酒、鶏がらスープの素、ラー油、ごま油を加えて混ぜ合わせる。器に盛り付け、白ごまをふり、刻んだ小ネギを散らして完成!
「ただいまー!」
晩御飯が完成してすぐ、翔ノ介が帰ってきた音がした。
「おかえり!」
私は笑顔で迎えた。
「ただいま。お!今日はトマトと鶏肉?希望通りあっさりにしてくれたんだ、ありがとう。」
嬉しそうに料理をのぞいている。
「疲れてそうだったもんね。お仕事、お疲れさま。食べる前に手を洗って来たら?」
私は、翔ノ介が体調を崩してしまわないように、常に気配りしている。カバンを置いて急いで洗面所に向かい、ダッシュで帰ってくる。
「お腹減ったから、食べよう!」
なぜか焦ってそう言う。
「いただきます!」
私は、自分が作った料理を美味しそうに、口いっぱいに頬張る翔ノ介の顔が好きだ。
「これ、うま!」
「よかったぁー!」
こうやって褒めてもらえると嬉しくて、また翔ノ介のために、美味しい料理を作ろうというやる気が湧く。
「花乃、料理上手いよね」
「そんなことないって!翔ノ介が料理下手なんじゃなくて?」
「褒めなきゃよかった」
翔ノ介は不貞腐れた顔をする。
「えー?なにそれ?」
おかしくなって笑っていると、そっぽを向いている顔がみるみるうちに赤くなっている。
ご飯を食べ終わり、食器を片付けていると、翔ノ介はパソコンを睨みつけていた。疲れている顔をしているにも関わらず真剣に仕事に向き合う姿は、私と出会ってから四年が経った今でもずっと変わらない。
「はい、仕事頑張ってるから、お菓子買ってきた」
そういって私が渡したのは、某ポテトチップだ。翔ノ介がこのお菓子が好きなことは、同居するまでは知らなかった。それどころか、お菓子を食べるタイプではないと思っていた。
「え、ありがとう……」
「ちゃんと休んでよ?」
「分かってる」
この会話も何度目か分からない。これだけは、何度確認しても心配で仕方がない。
私もリビングに課題を持って来て、一緒に机に向かう。
「今日は学校、どうだった?」
翔ノ介がふとパソコンから目を逸らして聞いてきた。
「んー……特に何もなかったかな。明日、健康診断があるくらい」
事実、私は何もないと感じていて、嘘をついているつもりはない。けれど、いつも確認のように聞いてくる。
「本当に何もない?ちょっとしたことでもいいから、遠慮せずに言ってね?」
この言葉を発する時はいつも、心配そうに私の顔をのぞきこむ。
「遠慮なんかしてないよ、本当に何もないんだもん」
これは嘘だ、絶対嘘だ。やっぱりどこか遠慮してしまうし、“素の自分”というものが何かは分からないけれど、なんとなく違う感覚がしている。
「ならいいんだけど……」
いつも翔ノ介は何か言いたげな表情をする。これ以上聞かれると、自分の中の何かが溢れ出してしまいそうで怖くて、いつもこの言葉でホッとしてしまう。私が再び机に向かうと、翔ノ介もパソコンを睨みつけなおした。高校に入ると勉強が難しくなるとは中学生の頃から聞いていた。聞いていたことではあるけれど、こんなに難しいなんて想像をするわけがない。中学生の頃は学年トップだったけれど、高校に入るとそう簡単にはいかない。私は、周りには完璧主義だと言われている。例えば、課題は範囲どころか範囲以上をして提出するだとか、校則はきっちり守るだとか……。私はそれは人間として当たり前なのではないかと思うけれど、他の人はそうでないらしい。課題が終わったので、学校の用意をするために自室に向かおうとした。その時、翔ノ介がパソコンを睨みつけながら言う。
「花乃?学校の用意が終わったら、お風呂に入るの?」
もう何回続けて来たか分からないほどのルーティンに対して、わざわざ翔ノ介が質問したことに私は違和感を覚えた。
「先に入りたいのなら全然いいよ?」
翔ノ介の体調が悪いのではないかという心配ばかりが頭の中を彷徨う。
「そう......いや、大丈夫。先に入って」
「本当にいいの?疲れてるんでしょ?」
「“大丈夫”」
大丈夫という言葉は、大丈夫ではないときにしか使わない。だから私は気が気でない。
「しんどいんじゃないの?ちょっとくらい休んだら?」
「今やってるの、期限が明日までなんだよね……」
翔ノ介は苦笑いを浮かべてそう言った。
「それは……翔ノ介にしかできないことなの?」
「他の人に頼んでみたら?、みたいなこと?」
少し怪訝そうな顔をしたのを見て、私は言葉を一つひとつ選びとりながら言う。
「全部とは言わないけど……その方が翔ノ介が楽なんじゃないかなと思って。翔ノ介がやりたいのならそれでいいんだけどさ」
翔ノ介が言葉を搾り出すように言う。
「うーん、どちらかといえば、やらないといけないかなぁ。他の人に頼めないようなものだから」
翔ノ介がやりたくてやっているのならば、仕方がない。けれど私にも、翔ノ介が他の先生に迷惑をかけないように意識していることは、なんとなく伝わった。
「そっか。頼りたい時は私のことも頼っていいんだよ」
そう言うと、翔ノ介は俯いたまま頷いた。課題を終わらせたあと、お風呂に入る準備をしに部屋に戻る。部屋から出てきても翔之介はまだパソコンを睨みつけていた。
「お風呂、入ってくる」
「うん」
翔ノ介の返事が小さく聞こえたような気がした。が、返事はせずに脱衣所兼洗面所のドアを開こうとした時。
「遠慮、してるだろ?」
体が硬直してしまっているのか、動かない。返事を待たずに翔ノ介は続ける。
「別にいいんだけどさ、ボク以外に信頼できるような人がいるなら」
背中の方で、ただ悲しそうな声だけが浮かんでいる。
「遠慮なんてしてないよ」
自分自身の心に言い聞かせるような小さい声になってしまう。
「ボクにも分かるよ、それくらい」
翔之介の声が震えているのかどうかは分からない。視界が下の方から段々とぼやけてくる。
「ごめん」
それが自分が発した言葉だと気づくまでに、少し時間がかかった。いつの間にか、視界がぼやけるのと、はっきり見えるようになるのが繰り返されるようになる。目が、顔が熱い。ドアノブに手をかけたままの腕はいつの間にか濡れている。これは、自分の涙か。
「でも──」
翔之介が発しているであろう声が詰まる。声を押し殺すように、しゃくりあげて泣く。翔之介が何か言ってるかどうかさえも分からない。
「ひぇっ」
思わず変な声が出た。背中が、温かい。息が、吸いにくい。肩に、少しだけ重い何かが乗っている。
───翔之介が後ろから抱きついているのだ。
「ボクも、気づかなくてごめん」
耳元で聞こえるのは小声で、震えているにも関わらず、反省の色と凛とした芯がある。後ろから回ってきている腕は濡れている。私の涙か、それとも───。
「ごめん、制服が濡れちゃう」
そう言って私から離れようとする手を、後ろも向かずに私は掴む。声を出せずに、ただ首を振る。翔之介が、もう一度ギュッと強く、優しく抱きしめてくれる。今度は息が苦しくなかった。幸せに包まれているようで、からだも熱くなる。
「ありがっ、とうっ」
どうしようもなく、背を向けたままその言葉を発した。
「うん」
翔之介は、自分の腕を私の胸元からそっと抜いた。手に持っていた自分の寝巻きも、いつの間にか落ちていた。振り返り、顔を見上げると、翔之介の目は赤く腫れ上がっていた。鼻を思いっきり赤くして、顔も濡れてぐしょぐしょにしている。
「ごめん」
私がそう言うと、翔之介は微笑みながら首を振る。
「ボクも悪かった。こっちこそ、ごめん」
私と目線を合わせるためにしゃがんだ翔之介は、小さい子供のように見える。俯いている翔之介には私の顔は見えない。それでも私は、微笑みながら全力で首を振った。そして、翔之介の頭を撫でる。
「私、どうしても、やっぱり、遠慮してた」
「うん」
翔之介は私の声が聞こえてハッと顔を上げて、頷いた。
「でも、翔之介のせいじゃない」
「本当に?」
翔之介は首を傾げる。
「うん、これは本当」
私が頷くと、翔之介はほっとしたような顔をした。
「知ってると思うけど、私、元から、自分を全部開けて話せる人が、昔からいなかったからさ」
「うん」
しゃくりあげながらゆっくりと話す私の声に、翔之介は一生懸命に頷く。
「だから、翔之介にも、どう接すればいいか、分かんなかった」
「うん」
「今も、分かんない」
「うん」
ボクには分かるよ、と言わんばかりの顔で、私の言葉を優しく聞いている。
「翔之介はバカにしたりなんかしないって分かってたんだけど、やっぱどこかで信用してなかったのかなって」
「うん」
「……ごめんね」
「謝らないでよ、ボクも悪かった」
「そんなことない」
「ボクは、花乃を守る役割なんだよね、親として」
「うん」
「それなのに、ボクが気づけなかったから」
「翔之介は、自分を責めなくていいよ」
「でも、ボクには“責任”があって」
「“責任”?」
「その“責任”を果たさなければいけないんだよ」
「そっか」
「花乃を立派な大人にするっていう、使命だよ」
「うん」
「だから、もう謝らないでよ。ボクの聞き方も悪かったんだけど」
「分かった。もう謝らないね」
「これからは、ありがとうって言って」
「ありがとう」
「うん、ありがとう」
そうしてお互いしばらく見つめ合った。
「明日、目、腫れてるかな」
翔之介に言われて、私も冷や汗が出てくる。
「明日も学校なのに……」
「保冷剤で冷やそう」
「え、私も!」
慌ててキッチンに行く翔之介についていく。
「ん」
そう言って渡された保冷剤を目元に充てる。翔之介を見ると、保冷剤を当てている姿がおかしくなる。
「なんかシュール」
「花乃も変だから」
こうやってお互いを笑い合えるような関係がいつまでも続いてほしい、そう願う。その日はお互い泣き疲れたのか眠くて、お風呂も入らずに翔之介の部屋に布団を並べて二人で寝た。
次の日の朝、私が起きると翔之介は隣にいなかった。追いやられたタオルケットを整えてから、ドアを開けて翔之介の部屋を出る。すると、翔之介がダイニングでパソコン作業をしていた。
「おはよう」
私が声をかけると、翔之介はまだ眠そうな目でこちらを振り向いた。
「おはよう」
「仕事?」
「うん、昨日寝ちゃったから」
「あ、そっか。ごめ……ありがとう」
「これは完全にボクが悪いから。あと、ごめんの言い換えはありがとうだけじゃないんだけど」
「だって、翔之介が、これからはごめんじゃなくて、ありがとうって言ってって言うから」
「それくらい考えて」
「えー、分かった」
時計を見ると、まだ六時。私はキッチンで朝ごはんの用意をする。今日は簡単に、おにぎりと味噌汁にする。まずは、ワカメ、薄揚げ、豆腐、長ネギをそれぞれ一口大に切る。鍋に水と出汁のもとを入れて、火にかける。沸騰したら具をどんどん入れていく。一、二分ほど火を通したら、一旦火を止めてお味噌を溶き入れる。最後に長ネギを加えて弱火で温め直して完成!おにぎりは、前日の夜に炊いておいたご飯を熱々のうちに塩を振って、愛ってやつを込めて握る。海苔を巻いて完成!
「翔之介、ご飯できたよ」
「うん」
翔之介はパソコンを閉じて、仕事用のカバンに入れる。目を擦りながら椅子に座った。
「ありがとう」
「全然」
私も翔之介の向かいの椅子に座る。
「いただきます」
翔之介は一番最初に、おにぎりを口いっぱいに頬張る。私はお味噌汁を啜った。
「おいひい」
「よかった」
翔之介は焦っているのか、美味しいのか、次々に口に入れていく。
「喉詰めないでね?」
翔之介は私の言葉に頷いた。昨夜泣いて塩分が不足したらしく、塩味がより一層美味しく感じる。食べ終わった後、食器を洗っていると、髪の毛をセットした翔之介が洗面所から帰ってきて、また仕事を再開する。忙しいんだろうなと心のどこかで思いながらも、教師という仕事柄、私にできるのは声をかけることくらいだ。翔之介には、それで十分だといつも言われるのだが。ふとカレンダーを見ると、今日は九月十九日で、隣にはケーキの絵が書かれている───明日、九月二十日は翔之介の誕生日だと気づいた。ケーキを買おうか、作ろうか、迷いながら風呂掃除を終えた後、私は洗面所で歯を磨いて、顔を洗う。鏡に映る自分を見る。目は腫れていなくて安心した。髪の毛をセットして、洗面所を出ると、用意が終わって家を出る気満々の翔之介が待っていた。
「もう家、出れる?」
「うん」
私はカバンを背負って、ローファーを履く。ドアを開けると、眩しい光が差し込んできた。
「いってらっしゃい」
「いってきます、いってらっしゃい」
私は答えて、同じように言葉を翔之介に返す。
「いってくる」
翔之介は言いながら自転車でサーっと過ぎ去っていった。私はそれを見届けてから、駅に向かって歩き出す。
───それから、三ヶ月ほどが過ぎた。
十二月十七日。私はいつも通り翔之介と一緒に家を出る。学校に行くため、駅に向かう。大きい道路に面している道なので、朝はトラックがビュンビュン飛ばして通っている。駅に着いて改札を抜けて、ホームに着くと、すぐに電車が来た。平日は必ず、女性専用車両に乗り込む。都会では痴漢に遭うことも多いと聞くからだ。乗り換えも含めて数十分、電車に揺られる。学校の最寄り駅に着いて、電車を降りる。徒歩で十分ほど歩くと、学校に着く。私が通っているのは公立高校で、いわゆる最難関校だ。学校の正門をくぐり、校舎の中に入る。教室に行って、席に着く。まずはカレンダーの日付を書き変えて、日直の名前も書き、教室の整理整頓と掃除をする。これは全部、私が善意でやっていることであって、誰かに頼まれて始めたわけではない。ただ、高一にこういうことをすると、続けざるを得なくなったのも確かだ。ちりとりに集めたゴミをゴミ箱に捨てに行くと、大体、同じクラスの生徒が登校するのに出くわす。少し挨拶を交わした後、私は教室に戻って朝礼まで勉強する。その間に、生徒がゾロゾロとやってくる。そして生徒がだいぶ集まった頃、担任がやってくる。
──ガラッ
「おはようございまーす。みなさん席についてください」
その言葉は声量が大きいだけで、存在は小さい。なのに、みんな従順にその言葉の通りに動く。呪いの言葉のようだ。
「今日休みの人は……いませんね」
担任が黒板の日直の欄に書かれた名前と、日直である人に交互に視線を送り、圧をかけている。視線に気づいた日直が、ダルそうに立ち上がる。
「きりーつ、礼!」
「おはようございまーす」
朝はみんなまだ眠いからか、いつもこのだらっとした雰囲気だ。
「今日は健康診断が三時間目にあります。他に何か生徒の方から連絡事項はありますか?……ないですね、では終わります」
毎度のことだが、朝礼も終礼も早い。意味があるのか分からないほどに早い。いや、おそらく意味はないのだろう。いわゆる、暇つぶしというやつだ、きっと。今日の時間割は、一時間目が体育、その次が現代文、英コミュ、数Ⅱ、日本史B、総合的な探究だ。総合的な探究の時間と言っても、ただSDGsについて考えるだとか、環境問題について考えるだとか、小学生でもできるような浅い内容しかない。探究という科目でいうと、中学校のほうがマシだった……いや、自分を成長させてくれる、自分のためになる授業だったと思う。私がみんながゾロゾロ教室を出ていくのを見計らって、数人ほどになった頃、もう担任がどこかに行った代わりに、私が声をかける。
「もう電気消すよー」
そう言って私は返事も待たずに消して、体操着を持って更衣室に向かう。いつも、あの人たちからの返事は返ってこないのだ。クラス替えがなく、一年以上一緒になると、そういうことも分かるようになる。更衣室では、女子がワチャワチャしながら着替えている。うるさい。着替えるだけなのに、キャーキャーキーキー言う必要があるのだろうか。とにかく騒音なのだ。私はそれから逃げるように、さっさと着替えて更衣室を出る。今日は運動場だと、前回先生が言っていた記憶があるので、靴を履き替えて外に出る。まだ夏の名残りを感じる日差しが私を照りつけた。すでに男子数人が走り回っている。チャイムがなる三分ほど前になると、やっとクラスの半分の人数が集まってくる。
──キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン
「ヤバい、ヤバい、セーフ!」
どう見てもチャイムが鳴り終わってから運動場に入ってきている。けれど、それでもここの学校の教師は許すのだ。
「はい、早く並んでー」
女性特有の甲高い声が運動場に響き渡る。体育委員を先頭に準備運動が進められた後、走り幅跳びの準備をする。倉庫にスコップと、トンボと呼ばれる砂をならす道具を男子たちが砂場まで持って行って、かけられたブルーシートを数人がかりで退けて、砂場を整える。その間、女子は端っこでキャーキャー言い合っている。
「女子も手伝ってー」
「はーい」
そう明るく返事はするものの、この女子たちは近くまで行くだけで、手伝うわけではないのだ。準備が終わって、出席番号順に並ぶ。私は名字が本田なので、後ろの方だ。次から次へと、砂を巻き上げて順番に飛んでいく。そして、私の順番がくる。軽く走って、引かれた線の前で踏み切る。
───だいたい、二メートル五十センチ。
私は、女子の中では比較的運動神経が良い方、らしい。二回ほど跳ぶと、チャイムが鳴った。整列して、授業が終わる。
「ありがとうございましたー」
そう言って礼をしながらみんなはバラけていく。私は、片付けを手伝ってから更衣室に向かう。着替えて、教室に行って次の授業の準備をする。そのあと、ちょっとだけトイレで身だしなみを整えてから、教室に戻って勉強する。そしてまた、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴る。
──キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン
確かに、授業内容は違う。でも結局、また同じことの繰り返しだ。
何個か授業があって、昼休みには一人でお弁当を食べて、また授業を受ける。そして、暇つぶしの終礼が終わる。駅に向かってひたすら歩いて、きた電車に乗って、ただ揺られる。また駅を降りて、生徒たちの流れに逆らう。そこまでは、いつも‘無’でいる。途中で、中村碧が向かってくる。
「迎えにきた」
「ありがとう」
私は微笑む。碧も私に微笑み返す。そして、二人で並んで歩く。
「新しい学校生活はどう?」
「うーん、普通に楽しいよ。碧はどう?」
「相変わらずうるさい」
私は中学の頃のうるささを想像して苦笑いする。
「授業は難しい?」
「花乃の学校のほうが難しいと思うよ」
私は、その返し方がなんとなく引っかかる。私は、本人がどう思っているかを知りたいだけなのにな、と思う。
「そっか」
私はそう返すことしかできなかった。二人で担任がウザいだとか、中学であいつが最近は学校に来ないだとか、あの二人が付き合ったとか……。そうして二人で電車に乗って、私が乗り換えのために先に降りる。笑顔で手を振った後、私は電車を乗り継いで、また数駅。そうしてやっと家に着く。通学時間が長いな、と毎日のように思う。翔之介が帰ってくるのが最近、とても遅い。理由は教えられないらしいけれど、体調を崩さないか心配だ。
───その後も、翔之介の帰宅は遅かった。いくら早く寝るように言っても、ただ大丈夫としか言わずに、夜遅くまで内容は教えてくれないパソコンの仕事をして、目の下にクマを作らせていた。それでも、翔之介はご飯の時間になると、食卓に座って、私と一緒に、私が作ったご飯を美味しそうに食べてくれた。一方、中村碧とは毎日のように一緒に帰るようになった。
