目線の先には、マンション街に並ぶ建物の中のうちの一つがある。それは少し灰色がかった建物だ。十二階建てのマンションだ。昼の光をまともに反射しているせいか、最上階は眩しくて見ることができない。懐かしい思いを抱えながら中に入ると、外が明るすぎるせいか暗く感じた。エレベーターよりもなんとなく早い気がして、階段を駆け上がる。息を弾ませて四階まで行くが、七階までこの足で上り切るのは流石に無理があったので、エレベーターに乗ることにする。勝手に加速するわけではないとは分かっていても、焦ってしまう。ドアが開く。見慣れた通路を歩き、ある部屋の前で立ち止まる。───七五三。それは、つい一ヶ月前まで私が過ごしていた部屋の番号だ。ゆっくりと重いドアを押す。身長百八十センチほどの男の人が迎えてくれる。
「花乃、おかえり」
微笑んでいる彼の声は、落ち着いている。彼からタバコの匂いが漂ってくる。
「ただいま」
私は満面の笑みを返した。他の人には分からないらしいけれど、私には分かる。彼が見た目以上に喜んでいること、そして、この日をずっと待ちわびていたこと。彼は私の後ろから、急かすようにリビングへと誘導した。精一杯に装飾されたリビングを見て、思わず感嘆の声が漏れた。
「───すごい」
「まぁ……」
そう言った彼の顔を見ると、耳と頬が少し赤くなっていて、私はクスッと笑った。
「あ、心配しなくて大丈夫だから、ボクが全部片付けるから」
彼は照れ隠しのように間を詰めてそう言った。
「それは私も手伝うよ」
歓迎されてばかりでは私も落ち着かない。私はもう一度部屋を見渡してから言った。
「これ全部、一人で飾ったの?」
「まぁ、そうだけど……」
彼は口をもごもごさせる。
「えー、一人でできるんだ!」
私が茶化すと、口は尖ったが、顔は嘘をつけないらしかった。私が顔を覗き込んでいると、彼はすぐに目を逸らして、その飾りを片付けようとする。
「そんなに焦らないでさ、今日中はずっと飾っておこうよ。せっかく頑張って飾ってくれたしね」
彼はまた、顔を赤らめた。
「今日はすぐに顔が赤くなるじゃん。いつもはそんなことないのに……も
しかして、彼女できたとか?」
「できてないから!」
真剣な顔をした彼は、もっと顔を赤くする。トマトよりも真っ赤になった彼の顔がおかしくて、私はツボってしまった。
「……今日は晩御飯、どっか食べに行く?」
今まで聞いたことのないような彼の声だった。
「急に?」
「うん」
彼の目には、首を傾げる私が映っている。
「まあ、今日くらいはいいか」
私の言葉を聞いても、彼の表情は変わらなかった。
「どこ行く?」
「花乃が決めていいよ」
「え?」
私は、空気を読まずに自分の好きな飲食店を言ってしまう、彼のそんなところも好きだった。けれど、今日だけは違った。
「いつもは、そば屋に行きたいって言うのに」
「今日くらいは花乃が好きなところ行こう」
彼は優しい顔で微笑みかけた。
「じゃあ……あのマケドナレド行きたい」
「どこの?」
「学校の近くの」
「え……」
「嫌だった?」
「いや、花乃が行きたいなら、そこ行こう」
なんとなく乗り気ではないことは分かる。
「どれぐらい?」
「何が?」
「時間」
「え?行ったことあるじゃん」
「家からは行ったことない」
そう言われてみれば、そうかも知れない。今まではそんなことを考えたこともなかった。
「学校行くのと同じくらいじゃない?」
「あ、そっか……自転車で十五分」
「遠いけど」
彼は私の声に頷く。
「晩御飯の時間に行ったら、混んでるかな」
そう言って息を吐く。今度は彼の言葉に頷く。
「みんなお腹空く頃だしね」
「仕方がないか」
やれやれといった顔に影を作っている。その中には、笑みも浮かんでいる。
「食べに行くまで、一緒に映画観よう?」
晩御飯を食べに行くまで、まだ三時間以上ある。彼はなぜか不安そうに、でも楽しそうに私の目の奥を覗き込む。
「映画……?」
いつもは私が提案する側で、彼は賛成する側だった。前までは。
「うん、お気に入りの映画があって、それを花乃にも観てほしいなって」
「いいけど……どういう系?」
彼は少し前のめりになって、いたずらっ子のようにニヤッと笑ってから言う。
「ヒューマンドラマ、みたいな?」
「何?そのニヤニヤ」
こうやって笑い合えることが、昔のいつもの日常に戻ったようにも思えてしまう。
「え?別に?」
少し企みがあるような言い方をする。
「いいよ、それ観よ」
「変なの思い浮かべた?」
「いやぁ?」
図星のような、違うような、私の気持ちそのままが返事になった。
「別に?」
彼はいそいそとテレビのリモコンを取り、ボタンを焦って操作する。
「一旦、部屋に荷物置いてくる」
返事はなかったが、私は部屋に向かう。ドアを開けると、暑い空気が部屋からムワッと漏れてくる。部屋に入ると、ムシムシとしていた。部屋に荷物を置いて、ドアを閉める。リビングに戻ると、テーブルの上に袋菓子を広げて待っていた。ソファーでくつろいでいる彼は手招きをする。
「なんか私の部屋、物置みたいになってない?」
「違うって!」
その顔には、どこか焦りも見える。
「今日は片付いてるけど、もしかして、家ごと物置?」
私の声を聞いて、彼の顔が一気にしかめっ面になる。
「物置って何?」
今、彼の声が少しだけ低くなったような気がした。
「えー、来たー」
「え?何が?」
彼の顔は不服そうにしている。けれど、どこか明るい影も見える。
「なんでもなーい」
つい声が漏れそうになる。頬が上がっているせいか、口をつぐむのが難しい。
「文句なのはわかってる」
泳いでいる私の目は見ずに、彼はただ私の耳元に話しかけた。
「いや、文句なんかじゃないよ」
急に振り向いたせいか、私の長い髪の毛が、馬の尾のように勢いよく宙を舞う。彼と目が合う。
「じゃあ何?」
彼は私の温度を受け取ろうとする。どんな表情かは分からない。棚の上には、木目のフレームに収められた写真がある。そこには、彼と私が並んでいる。楽しそうに笑っている彼と目が合う。
「なんだろうね」
自分でも、本当は何なのか分からない。けれど、確かに文句ではない。どこかで、私はあのモノたちの正体を知りたがっているのかもしれなかった。
「その映画、観ようよ」
「実は、もう四回は観た」
待ってましたと言わんばかりのドヤ顔……なのかどうか分からない顔で、でも鼻を大きくして言った。
「え?じゃあ、もういいんじゃないの?」
「見てほしいから」
「ふぅーん」
映画が始まる。彼が何度も見たという映画だ。どんな内容なのだろうか、少し気になった。プリズン・サークルという映画らしい。私は画面を見る。ふと暗くなった画面越しに目が合う。隣に座っている彼も、黙って画面を見つめている。しばらくすると、彼が一度だけ私のほうを見た。
「ん?」
彼のほうを見ると、首を振って言った。
「別に」
彼はまた画面に目を戻した。私はそれを見届けて、再び映画に集中した。
気づけば、映画は終わっていた。
「この映画の、どんなところが好きなの?」
ふと聞いてみると、彼から意外な答えが返ってきた。
「僕らがこういう、犯罪を犯してしまうような存在を生んでしまってるの
かもって思った」
「へぇー」
深く反省するように言う彼の声は、どこかの誰かを想像しながら言っているようにも聞こえた。
「花乃はどうだった?」
「面白かったよ。あんまりメディアで向けられないような視点で描かれてるところとか」
「あー」
「やっぱ、世の中って理不尽だよね」
「なんで?」
「だってさ、自分に害があったら避けるわけでしょ?」
「まあ」
「なのにさ、後々それに利益があったって分かったら群がるでしょう?」
「うん」
「そんなのエゴじゃない?」
「うん」
「そっちはそういうことに対して何か思わないの?」
「確かに、この世は理不尽だと思う。でも、僕らも結局はエゴ中心で動いてると思う」
「あー」
「だから、腹が立つとかはあんまりない。僕らだって理不尽なことしてると思うから」
「なるほどね」
「うん」
私たちも理不尽なことをしている、か。ちゃんと考えればそうだ。自分では、そこまで考えたことがなかった。彼と話していると、自分の考えの浅さを思い知らされる。それでも、私は彼のそういうところを尊敬している。
「花乃はそういうのに対して腹が立つなとか思ってる?」
「世の中が理不尽なことに対して?」
「うん」
「腹が立ってるつもりはないんだけど、やっぱどこかで嫌だなって思ってる気がする」
「うん」
「この映画みたいに犯罪じゃなくても……例えば、親が夜に仕事してるだけで、その子供は避けられる」
「あー」
「もし、それが工事関係だったとしても、風俗関係だったとしても、きっとそれは関係ない。なぜか、夜に仕事する人が身近にいる人と一緒にいると、自分に害があると思ってる」
「なんで夜に仕事することには良いイメージがないんだと思う?
「夜に仕事するのが、昔は下級身分の人だけだったからじゃない?」
「それが現代ではどう関係してると思う?」
「なんとなく、昔のそういう感覚が人間に染み付いているんだと思う」
「どうやって?」
「周りの環境があるからかも。昔に生きている人は、当然のように夜に仕事する人を避けるでしょう?」
「昔がそうならね」
「避ける人が多かったら、新しくそこで生きる人も夜に仕事をする人を避けるようになる」
「うん」
「それがどんどん連鎖していくと、理由も分からずに避ける習慣だけが残った、こんな感じじゃないかな?」
「花乃は避けてるつもりはある?」
「ないと思ってたし、そんなことは人格に関係しないから気にしてないつもりだったけど……どこかで避けちゃってるかもしれない」
「うーん」
「そっちはどう?」
「ボクもどこかで避けてしまってるかもしれない」
「避けようとは思ってないよね?」
「もちろん。もし避けてしまってても、悪気はない」
「悪気なくて誰かに嫌な思いをさせてるって、なんかタチ悪いっていうか、嫌だよね」
「なんで?」
「だって、あなたは私に嫌な思いさせてますよって直接言いにくいでしょ?。悪気はないんだもん」
「悪気なかったら言いにくいのはなんで?」
「んー……責めるみたいになるからじゃないかな?」
「嫌な思いさせてたって言われて、もし悪気なかったら花乃は責められたように感じる?」
「……感じないかも。そうだったんだって次回に生かそうと思うかな」
「じゃあ何で?」
「なんでだろ?そっちはどう思うの?」
「ボクは、人間関係を壊したくないからだと思う」
「なるほど?」
「自分は器が小さい、花乃が言った通り相手を傷つけたくないって思うからだと思う」
「あー。心理的なものってこと?」
「うん」
「なるほどねー」
「うん」
「ふぅー、むずかしっ!」
気づけば、私がこの家に着いてから三時間以上経っている。
「もうそろそろご飯食べに行こう」
「うん」
彼が部屋に戻り、何やらガサゴソしている。
「玄関で待ってて」
「おっけー」
荷物を持ち、靴を履く。そういえば、学校にはローファーを履いて行っていた。スニーカーで外に出るのは休日に出かける時だけで、ワクワクしていたっけ。リビングの方を覗くと、彼が大きなため息を吐いているのが見えた。仕事で疲れているのだろうか。教師という職業は大変なのだ、とにかく。平日は日が暮れてからの帰宅。帰宅後も仕事を夜遅くまですることがほとんどで、日付をまたぐ前に彼が布団に潜っているのを見たことがなかった。今も、そんな生活を繰り返しているのだろうか。そんな中で、ここまで私を育ててくれた。そうだ、彼に恩返しをしよう。精一杯の恩返しを。
「お待たせ」
「全然。鍵、持ってくれた?」
「あ……」
まずは、ちょっとしたことから始めよう。
「いいよ、私が持ってくる」
「ありがとう」
机の上に置かれたキーホルダーがついた鍵を掻っ攫って、急いで玄関に戻
る。
「お待たせ」
「ありがとう」
「行こう」
彼がドアを開けた先は、もう既に暗くなり始めていた。
「帰りにスーパー寄っていい?」
「いいけど……なんで?」
「明日の朝ご飯買おうかなって」
「明日の朝ご飯はボクが作るから」
「え?うそ?」
一緒に過ごしていた時も、朝ご飯を作ってもらったことは一度もない。
「本気」
頬を少し膨らませて拗ねている。
「え、作れるのー?」
「一人暮らしの時は作ってたから」
「えー?忘れちゃってるんじゃない?」
「大丈夫だから」
横目で少し睨みつけられる。そんな顔も可愛いと思ってしまう。だからこそ、ちょっかいを出してしまうのだが。
「じゃあ、任せた!」
「だからスーパー行こう」
「うん」
自転車で大体十分かけて、スーパーに向かう。風に逆らえずになびいている、センター分けにしては短い髪の毛。その隙間から、鼻の高い横顔がチラチラと見えている。家に真っ直ぐ帰るより少しだけ遠回りになってしまっても、自転車に乗っている時にしか見られない彼の顔を見られるなら、許してしまう。キュッと音を立てて曲がり、駐輪場に自転車を止める。
「あ!」
彼が声を上げる。
「どうした?」
「エコバック忘れた……」
「あっそうだ、忘れたー!手に抱えて持つ?」
「多分無理」
そんな量を買うのか。もしくは、冷蔵物を買うのだろうか。一体、何を買うのだろう。
「仕方がないかー」
「うん」
自転車の鍵を閉めて、彼と合流する。明かりが漏れている入り口に向かうと、自動ドアが私たちを迎えてくれる。カートとカゴをとって、彼の後ろについていく。スーパーはいつも色とりどりで、気持ち悪いほどに整列されている。厳密に言えば客の手によって商品はめちゃくちゃにされているのだが。彼が真剣な目で商品とスマホを交互に見ている。どうやら鮮度を確認しているらしい。彼はスマホを見ながら商品をカゴに入れる。
「精肉コーナー行こう」
「あ、うん」
ズンズン進んで行く彼に置いていかれそうになる。ガタガタと音を立てるカートを押して、もう二メートルは離れた背中を追いかける。
「ん」
彼は振り向かずにまたカゴに入れる。
「卵」
その言葉で、今度は置いていかれないように足を早める。横に並んで歩幅を合わせてみる。足が長いのか、一歩が大きい。足取りが急に止まって、驚いて顔を見上げる。
「これ」
今度はちゃんと振り向いて、丁寧にパックを入れた。
「ミックス」
「ミックス……?」
「小麦とか」
「あー」
今度は私が先頭に立って前に進む。彼が言ったミックスは、おそらくホットケーキミックスのことだろう。
「ここであってる?」
彼は返事をせずに、棚に沿ってカニ歩きで移動する。普段は上を向かなければ顔が見えない彼が、今は見下げなければ見えない。だからか、小さくて可愛く見えてしまう。
「これ」
そう言って急に立ち上がるので、頭がぶつかりそうになる。慌てて避ける。袋をドサっとカゴに入れた。こんなに使うこともないと思うのだが。
「小さいのじゃなくていいの?」
「うん」
頑固だから変えないのか、何か思惑があるのか。
「お菓子買う?」
「買う?」
「どっちでも」
この言葉を待っている自分がいる。
「じゃあ、買おう」
二人でゆっくりとお菓子コーナーに向かう。
「グミは正義だから」
そう言って私はグミをカゴの中に入れた。
「出会ってからずっと好きって言ってるけど」
「確かに」
同じ学校になったのは中学入学の時で、ちゃんと話すようになったのは中三だ。そう考えるとまだ五年しか経っていない。
「まず正義って何?」
ふとそんな疑問を投げかけられる。
「正義……本当の意味は分かんないけど、グミは私を救うよね」
「言葉の意味としては?」
「んー……その人が正しいと思ってるとか、人のためになると思ってやる
こと、とか?」
「なるほどね」
「グミは花乃に食べてもらうことが正しいとか思ってると思う?」
側から聞けば、変な会話だ。
「どっちかというと、人のためになるって思ってそう」
「あー」
「彼は、これは正義!みたいなのはないの?」
「タバコと酒」
「だよねー」
彼はタバコと酒が大好きで、私が健康に良くないからといくら止めても、彼は聞かなかった。彼にはタバコの匂いが染み付いている。もちろん、家にも。いつも、家のベランダに出て吸っているのだ。
「もう帰れる?」
「いけそう」
棚の列から出て、レジの列に並ぶ。
「帰ったら何する?」
「何でも」
「なんかないの?」
「何?」
首を傾げる。
「えー、なんか」
特に何かやりたいことがあるわけではないのだ。とにかく、彼と何かやり
たいだけだ。
「ない」
「えー?」
あっさり断られて、項垂れる。そうこうしているうちに、レジの順番が回ってきた。
「ピッピッピッ」
赤く光る機械の前で、店員が機械のように、アーチを描いて商品をスライドさせる。
「二千五百二十七円です」
「ピイピイで」
店員に手で示された機械に彼がスマホをかざす。
「ピイピイッ」
スマホ、もしくはその機械から可愛らしい音が鳴る。
「これ、よろしく」
「はーい」
渡されたレジ袋をカゴに入れ、カートに戻して窓際の台まで運ぶ。順に丈夫なものから袋に入れていく。
「入った?」
頷くと、彼は安堵の笑みを溢した。
「実は、前スーパー来た時に入らなくて……」
「新しいの買ったの?」
「いや……自転車のカゴに入れて帰ったんだけど、落とした」
どこかを見つめて、肩をすくめて言った。
「なるほどね」
彼が落として焦っているところを想像すると、笑いが込み上げてくる。彼が急に手を伸ばしてきた。
「え?何?」
「荷物」
「手、繋いでくれるのかと思った」
彼は苦笑いをして、袋を受け取る。手の平にビニール袋の持ち手が食い込んでいる。
「重いんじゃない?」
「まあ……そんなこと言うなら持って?」
「いや、ちょっと無理」
スーパーを出ると、すっかり街灯が役割を発揮している。
「もう暗いね」
「うん」
空では数少ない星が自分の居場所を光り示していた。彼は袋を自転車のカゴに入れ、ガチャっと自転車の鍵を開けた。周りの自転車との絡み合いを解きながら、自転車をゆっくりと後ろへ出す。
「帰ろう」
「うん、帰ろっか」
私は再び、彼の背中を追うようにして自転車を漕ぎ始めた。昼間の暑さを優しく追い払うように、冷たい風がそよそよと吹いている。しかし、まだまだ夏で昼間は暑さが続くのだろう。
「いい風だね」
彼はチラッと後ろを振り向いてそう言った。後ろを向いても、彼の自転車がよろめくことはなかった。
「うん」
すぐに前を向いてしまった彼には分からないけれど、出来るだけ笑みを浮かべて私は返事をした。私は前までは、彼に追いつこうと漕ぐのが精一杯だった。でも、自転車が速くなるごとに吹く向かい風も、漕がなくたって吹いている横風も、今日は簡単に感じられる。信号で止まるのが惜しいほどに気持ちいい。一年中、こんな風が吹いていたらいいのに───そんな野望さえ生まれてくる。でも、楽しいことはすぐに終わってしまう。もう家の前に着いたのだ。明かりが漏れている下にある駐輪場で、自動点灯に照らされた彼から家の鍵をもらい、彼と一緒にエレベーターに乗り込む。七階のボタンを押す。ドアが開くまではなぜかお互い無言でいた。
「ピロン」
自動ドアが開いた。私はふと、通路のベランダから少しだけ身を乗り出した。すると、下の方にまだ満月にはなれない───待宵の月が浮かんでいた。
「明日には、満月なのかな」
「ん?」
彼も少しだけ顔を乗り出して、月を見る。
「うん、明日の夜か」
彼はどこか月とは違う方向に焦点を合わせて言った。腰壁から離れて再び並んで歩き出す。七五九、七五八、七五七…七五三。ガチャッと鍵を回してドアを引く。彼が先に入って私が後から部屋に入る。ガタンという音と共にドアが閉まる。私が電気をつけると、一気に部屋が明るくなる。彼は袋に入っていた商品をどんどん冷蔵庫に入れていく。私はそれをただぼーっと見ていた。
「あ、晩御飯分のお金返すよ」
「いや、いいよ」
「私、これでもバイトやってるから、全然払えるんだよ?」
「いいって…花乃が帰ってくるの楽しみにしてたから…」
彼は耳を赤くして言った。ボソボソ言っているからか、ところどころ聞こえないところがある。
「え、なんて?もうちょっと大きくはっきり言ってもらわないと」
私が茶化すように言うと、彼は少し怒ったように言った。
「せっかく花乃が帰ってきたんだから、ボクにもこれくらい払わせて」
「おー!そんなこと言ってくれるなんて、嬉しいな」
「言わせるなって…」
下を向いてまたブツブツと何か言った。
「何恥ずかしがってんの?」
「花乃のせいだから」
彼は私を睨んでそう言った。そこに怒りの感情は感じられなかった。
「手、洗いに行こ?」
そう言って私が洗面所に向かうと、彼も後ろについてきた。
「先に洗う?」
私がそう聞くと、彼は首を振って言った。
「花乃が先に洗っていいよ」
私は素直に先に手を洗う。石鹸をつけて、手の甲、手の平、手首、指の間、爪の間も念入りにしっかりと。石鹸を洗い流して、水を切ってタオルで拭く。前よりも、タオルの肌触りがよくなったような気がする。彼に順番を交代する。彼が洗い終わるまで、私は彼の手をずっと見つめて待っていた。
「あ、待っててくれたんだ」
「あ、うん」
曖昧な返事をしながら洗面所を出ると、彼は私と壁の間をすり抜けて、い
そいそと冷蔵庫に向かった。
「これ」
そう言って彼が取り出したのは、今SNSで話題のケーキだった。
「それ、どうしたの?」
「買ってきた」
「え?それ、めっちゃ並ぶんじゃないの?」
「まあ」
そう言って照れくさそうに私にケーキを差し出してくる。
「食べていいの?」
「もちろん」
「ありがとう」
私は心があったかくなるのを感じながら、ウキウキして食器棚からフォークを取って、彼から受け取ったケーキを机に並べた。
「じゃあ、食べるよ?」
「うん」
そう言って彼は私の向かいの席に座り、少しだけ身を乗り出す。私はケーキの箱を開け、ケーキ全体に視線を注ぐ。それは果物の形にそっくりで、まるでフルーツ飴のようだ。どこから見ても可愛くて、綺麗。一瞬、どこから入れるか迷いながら、ゆっくりとケーキにフォークを入れると、フォークがスッと沈んだ。そのまま口に運ぶ。私は思わず頬が緩んだ。ふふっと声を出しそうなほどに口いっぱいに幸せが広がっている。ケーキは見た目からは想像がつかない食感で、とてもしっとりとしている。後からくる酸味…一口を飲み込むと、唾液がじわりと滲む。
「どう?」
「美味しい…」
もう一口、とフォークを再び入れた瞬間、食い入るような視線を感じた。
「一口、食べる?」
「いや、いい」
そう言って彼は首を振る。
「でも、買ってきてくれたんじゃん」
「花乃のために買ってきたから」
今度は、もう顔を赤くするようなことはせずに彼はそう言った。
「本当に食べなくていいの?」
「うん」
そうは言っても、どこか食べたそうにしている。これ以上聞くのもよくないかもしれないので、彼の言葉に甘えて、もう一口と幸せを噛み締める。
「やっぱ、食べたいんじゃん」
「いや…」
私の言葉を期待していたかのように彼は首をゆっくり振る。
「食べたいのは分かってるって」
「え、うん…」
そう言って、彼は素直に頷いた。
「くださいは?」
「ちょっとほしい」
上から目線を気にすることもなく、私の言うことを素直に聞いてしまう今日の彼は、小さい子供のようにも見える。なんだか可愛らしい。私がフォークを渡すと、彼は少しだけではあるが、嬉しそうにケーキにありついた。
「美味い…」
「うん」
顔をほころばせる彼を見て、私は思わず吹き出してしまった。
「え?何かおかしい?」
「ケーキ、口についてる」
「え?」
そう言って彼は頬を手で触ったので、私はティッシュを渡した。ちゃんと拭けない彼に、私は指示をする。
「ちょっと下!右!違う!もうちょっと下!」
やっぱり、今日の彼はおとなしく私の言うことを聞いている。でも、もしかしたら、前もそうだったのかもしれない。
「拭けた?」
「うん、拭けた」
そう言って彼はフォークを私に返そうとする。
「もうちょっと食べていいよ」
「ありがとう」
彼はもう二口ほど口いっぱいにケーキを詰めて、私にフォークを返した。
「そんなに焦らなくて大丈夫。喉詰まるよ?」
口いっぱいに入れすぎて話せないからか、彼はただ頷いた。
「もういいの?」
「お腹いっぱいだから」
彼にそう言われて、私は残りのケーキをゆっくり味わう。やはり、美味しい。いくらでも食べていたいが、終わりはくる。食べ終わり、フォークを片付けた。彼が先に座っているソファーの隣に座る。
「そういえば、今日どこで寝ればいいの?」
「どっちでも」
どことどこのことだろうか。
「まず寝る場所あるの?」
「花乃の布団は棚の中に入れてある」
なんだか会話が成立していないような気がする。
「でも、私の部屋で寝れないじゃん」
彼は当たり前だと言うように頷いた。
「何?何かあるの?」
彼はモジモジとする。
「あ、やっぱなんかあるんだ?思惑みたいなのが」
彼は、より一層顔を赤くして、首を傾げる。思惑なんてないよ、みたいな
顔をしているつもりなのだろうけれど、私にはバレバレだ。
「予想通り」
「な、何が?」
彼は焦って噛んでしまう。
「私に何してほしいの?」
「そんなこと言うならもういい」
彼は膨れっ面で私と目を合わせずに言った。自分で言ったことを後悔しているくせに、それでも拗ねることをやめない彼に、私は吹き出してしまった。
「そーんなこと言っちゃうんだ?」
「え?」
彼が下手にとぼける。本当に分かりやすい。
「何?私と一緒に寝てほしいの?」
「え?そんなわけ…違うし…」
彼は口を尖らせる。そっぽを向いて、顔を思いっきり赤らめる。
「そんなに拗ねないの!」
「花乃に言われる立場じゃないから!」
彼が座りながら、加減して地団駄を踏む。私は声を上げて笑った。
「確かに」
年上だとは分かっていても、彼にはなぜか上から目線で言ってしまう。
「花乃がいいなら、今日は一緒に寝よう」
「うん、いいよ」
彼がそれ以上何も言わなかったので、私はスマホを見る。メールは何十件
と来ていた。そのほとんどが迷惑メールと呼ばれるものだ。メッセージは数件。おそらく、了解です、分かりました、のような、必要のない返事の数々だろう。
「花乃は大学どう?」
私はスマホの画面を閉じる。
「授業は面白くて友達もできて楽しいけど、やっぱり大変」
「通学は大変?」
彼がそう聞いてきた。
「大変だけど、中学の時を思うとマシかな」
私がそう言うと、彼はなるほどといった様子で苦笑する。
「どんな授業?」
彼は興味津々に聞いてくる。
「先生の講義みたいなのを聞いたり、生徒同士で授業し合ったり」
「変わらないな」
彼は期待外れなのか、面白くなさそうにした。
「大学卒業してから、あんま時間経ってないじゃん」
「確かに」
彼はそこまで考えていなかったらしい。
「散歩行こう」
「え?」
彼が突然言い出したので、私は声が裏返ってしまう。
「どこに?」
「散歩は行き先がないものだから」
私は鼻から息を吐いて、納得した。
「いいよ、行こう」
彼が早々に玄関に向かったので、私は慌てて彼について行った。外へ出る
と、冷たい風が私の肌を撫でた。
「川の方行こう」
「うん」
私は彼と並んで、真っ直ぐ河川敷まで歩く。河川敷に着くまでは私も、彼も黙っていた。河川敷に着くと、彼は手で腕をさすり出した。
「ちょっと肌寒い?」
「肌寒いね」
「上着、取りに帰る?」
「いや、私はいいよ」
「あ、そう?」
「上着、着ないじゃん」
「いや、そんなことないけど」
彼は私の言葉に苦笑いでそう返した。私は、河川敷沿いを彼の後ろについ
て歩く。ひんやりと冷たい風が吹く。草たちが揺れて、擦れ合う音が静かに響いている。突然、彼は立ち止まった。
「どうしたの?」
私が聞いても、彼は一点を見つめて返事もしない。私は彼の見つめている
先を彼の目線から探し出そうとする。
「いや、何もない。ぼーっとしてた」
そう言って彼は再び歩き出した。
「ふぅん」
私は彼の後を遅れてついていく。下に視線を落とすと、草がひしめき合い、お互いの葉を擦り合わせていた。葉に平行な脈が通っているものや、
まだ緑色の、ネコジャラシと呼ばれるものもある。
「これ、河川敷とかではよく見るよね」
そう言って私が指差したのは、穂のようなものが枝分かれしているものだ。
「多分、イネ科だ」
彼は、私の示した先を探してそう言った。
「これが花粉症の原因か」
私の言葉に彼は頷く。
「恨めしいようで、そうでもないような…」
「どういうところが?」
「生命力が強くてウザいかもしれないけれどさ、この植物にとっても一生は一度きりでしょ?」
「うん、確かに」
「この雑草だって言われてる植物だって、星と一緒じゃない?」
「え?」
「星だって、宙をただ見上げてる私たちからすれば、綺麗だとは思うよ。
でも、言っちゃえば、星もただの大きな石ころでしょ?地球みたいに大きいホシたちが作られる過程でできた、ゴミでもある」
「でも、地球とか月って、そういうゴミとも言えるホシたちが衝突して出来た、違う?」
「うん。だからこの雑草も、私たちからすると一見邪魔かもしれないけれど、どこかで必要とされてるってこと」
「へぇー」
彼は私の熱っぽく語ったことについて、少しだけ感心したように頷いた。そこからは、私と二人並んで、ただ黙々と歩き続けた。時々彼を見ると、何か考えているような、ぼーっとしているような───何とも言えない表情をしていた。私は、遠くを見つめたり、上を見上げたり、目を瞑ってみたりしていた。
「そろそろ帰ろう」
腕時計もスマホも持って来なかった私は、時間感覚を忘れて歩いていたの
で、段々と怖くなっていた。
「そうしようか」
彼が頷いたのが暗がりの中に見えて、安堵のため息を吐いた。
「今、何時?」
「知らない」
「え?スマホは?」
「いらないと思って。花乃も?」
「私もいらないと思って…」
二人の考えが一緒なのが妙に嬉しくて、私は笑ってしまう。
「一緒だね」
そう言うと、彼もシワという影を作って笑った。
「帰ろうか」
「うん」
私は笑顔で頷いた。もうほとんど明かりが消えた家々の間で、暗闇の中に光る蛍のように、二人の声がお互いを照らすように静かに響いていた。家に着くと、まず温かい空気───外が寒かったからそう感じているだけであろう空気が私たちを包み込むように迎え入れる。
「ただいまー」
なぜか反射的に言った声の大きさに自分でも驚く。気にしていた時間を見
ると…
「え?」
「時間?」
「…一時間も散歩してたんだ」
「うん。早い」
「え?」
彼は今、何と言ったのだろうか。聞き間違えでなければ、彼は早いと言っ
た。彼には不思議な時間感覚があることを、私は思い出した。
「普段は何時間くらい歩いてるの?」
「日による」
私は呆れ半分、懐かしさ半分で笑ってしまう。
「多い時でどれくらい?」
「えー…どうだろう?」
「三時間くらいは散歩してるんじゃない?」
「朝から夜までの時もある」
私は息ができなくなるほど笑ってしまう。どこを歩けばそんなに時間がかかるのだろうか。想像だにつかない。彼のことだろうから、どこを歩いたかもきっと覚えていないのだ。
「明日の朝ご飯、何?」
「秘密」
彼はいたずらっ子のように、下手なウィンクをしながら言った。
「教えてよ」
「明日まで待って」
「あー、ケチ!」
あと数時間なのだから、ちょっとくらい教えてくれても良いとは思うのだが。
「眠くないね」
「うん」
私が言った言葉に、でも彼はどこか眠そうに頷いた。夜二十一時を過ぎて
も眠くないのは、私にとっては久しぶりだ。家でこうやってくつろいでいるのも。
「明日は何時に起きるの?」
「知らない」
なんとテキトーなのだろう。
「朝ご飯は?」
「朝ご飯は何時でも朝ご飯だから」
「何それ?」
そう言って私は苦笑いを浮かべた。
「お風呂はどうする?」
「花乃が先に入って」
「いいの?」
彼は、うたた寝しているのかと思うような頷きをした。私がお風呂から上がってくると、彼は休みにも関わらず、ダイニングで瞬きもせずに画面と対峙していた。
「ただいまー」
「あ、風呂入ってくる」
「いってらっしゃい」
休みの日まで仕事をしている彼に少し引きながら、私はソファでゆっくりして、彼がお風呂から上がるのを待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「布団取ってくる」
私がそう言うと、彼も後ろからついてきた。
「懐かしい」
私が見つけたのは、山積みになっている紙の束───私が中学校で使ったプリントの数々だ。
「これ、まだ残してるの?」
「うん」
「捨ててもよかったのに」
「花乃がわざと置いてるのかもしれないし、ボクも残しておきたかった
し」
「なら良いんだけど」
私は棚を開けて、布団を取り出す。
「いいよ、ボクがするから」
「ありがとう」
二人で布団を彼の部屋まで運び、それぞれ自分の布団を敷いた。
「もう電気消すよ?」
「うん」
私は彼の声を聞いて電気を消す。すると、窓の外の光が一気に明るくなったように感じた。夏にしては分厚い掛け布団にくるまる。
「誰かと一緒に寝るの、久しぶり」
窓の外の光に照らされてかろうじて判別できる彼の顔は微笑んでいた。彼はそのまま、私の目をじっと見つめている。
「え、何?」
「いや、何も」
彼は、また何かを隠すように取り繕う。
「今日、なんか変だよ?」
「どこが?」
彼は焦っているのか、窓の外の光に反射しているのか、顔が青白く見え
る。
「ご飯食べに行く場所選ばせてくれたり…」
彼の顔が一瞬曇ったのが見えて、慌てて付け足す。
「でも、嬉しかったよ」
「花乃が、帰ってきてくれたからかな」
彼は口元を布団で覆ってそう言った。私は彼が目を閉じたのを確認してか
らも、何となく気になって眠れないでいた。目を瞑っている彼の横顔をじっと見る。頬の部分にはほくろが二つある。ふと、彼が起きたと思えば、部屋を出て行った。ドアの隙間から見ると、彼はトイレに行った。それを見届けて、私も部屋を出る。彼が私がお風呂に入っていた間に何をしていたのか、やはり気になって、私はテーブルの上に置かれたパソコンを触ろうかと悩む。なぜか心臓がバクバクするわけでもなければ、冷や汗が出るわけでもなかった。悩んだ末に、結局、やめることにした。私の理性が働いたらしい。触ろうとしたことが、自分でも怖くなる。恩返ししようと今日、決めたばかりなのだ。早々に破ってしまっては、三日坊主どころの話ではなくなる。そう、自分の心の中で何度も唱えた。水を飲んで、再び部屋に戻る。布団の中に潜ってみても、掛け布団を端に追いやってみても、眠れなかった。ドアの隙間から様子を見てみると、ちょうど彼がトイレから帰ってくるところで、慌てて布団に潜り込む。椅子を動かす音が聞こえたのを見計らって、再びドアの隙間から覗く。すると、彼はパソコンを目の前にして大きなため息を吐いた。彼が再び立ち上がり、どこかの部屋に行く。ドアを静かに閉める音がして、私は部屋から出る。彼に気づかれないようにそっと開いているパソコンに近づく。その白い背景に書かれた文字の内容を見ようとした、その時───
「…花乃?」
「えっ?」
背後から不意を突かれた声に、心臓が飛び上がりそうになる。
「何してるの?」
「水、飲みにきた」
「ふぅん」
私は、なんとか切り抜けたと安堵して、水を飲む。そして再び部屋に戻ろうとする。
「待って」
その言葉で私は振り返る。
「リビングに来たのは何で?」
「水を飲もうと思って」
彼は私の目の奥を覗き込む。私は彼を見つめ返す。しばらく沈黙が続いて、私は耐えきれなくなって彼に質問をする。
「疲れてる?」
「ちょっと」
彼は肩をすくめて言った。
「仕事で?」
「忙しいから」
彼が今、少し本音を吐いた気がする。私はもう一度、彼に質問する。
「疲れてる?」
「“大丈夫”」
「“大丈夫”?」
私は、彼が口にした言葉をそのまま繰り返した。彼は私の言葉に戸惑いながら頷く。彼は、疲れているのだろう。きっと、彼の、“大丈夫”は嘘だ。どうすれば、彼のためになるのだろうか。
「パソコンの中身、見た?」
また、彼に不意を突かれる。
「見てない」
私は咄嗟に、そう言った。
「本当に?」
「…うん」
心臓が爆発しそうになる。なんとかそれを押さえようとしても、なかなかおさまらない。心臓の音と、彼の声が同じ大きさに聞こえるほど、鼓動が大きくなってしまっている。彼にも聞こえてしまっているだろうか。
「パソコン、見ただろ?」
彼にもう一度聞かれる。これだけ彼に疑われていては、もうこれ以上、嘘は突き通せないと感じた。
「…ごめん。でも、ちょっとだけだから」
私が焦りながらそう言うと、彼はまた大きな溜め息を吐いて、今まで見たこともないような、渋い顔をする。私は申し訳なくなって、俯いてしまう。
「…ごめん」
しばらくの沈黙の後、彼は口を開いて、ゆっくりと話し始めた。
「これは、ボクのクラスで、実際にあった話───」
私は反射的にバッと顔を上げる。
「え、待って?それって第三者に口外とかしたらダメなんじゃ…?」
「いいから」
彼は首を振って話を続けようとする。一瞬、戸惑ったが、私は彼の言う通り、素直に聞くことにした。彼は、私には分からないどこかに焦点をあわせて、噛み締めるように、ゆっくりと、話し始めた。
「さっきも言った通り、これはボクが担任だったクラスの話で……ある子を生徒A、もう一人の子を生徒B、と呼ぶことにするね。
生徒Aは、花乃が高二の一学期くらいの時から、クラス全員からいじめられてたらしい。で、そのいじめの中心人物が、生徒Bっていう子で、生徒Bは生徒Aに暴力を振るってたらしい。子分みたいな子たちを連れてね。それで、生徒Aのこころがボロボロになってしまったっていうことらしい。それで生徒Aが学校に来なくなった……もう名前も知ってると思うから、名前を出すんだけど。
その生徒A、北山晴翔は、その年の二学期から学校に来なくなった。ここで、学校側で正式にいじめが発覚した。まあ、遅いよね。ボクはもっと前から気づいてたんだけど、どうやらボク以外の先生たちは、それを目撃できてなかったから、らしい。あの人たちのいじめの判断基準、おかしいと思う。不登校になってるのにね……。
話を戻すんだけど、その北山晴翔が学校に来なくなってからも、生徒Bは、北山晴翔の保護者がいない時に家まで行って、暴力を振るっていたらしい。それが発覚したのが、生徒Bが北山晴翔の家に通い始めてから二週間後のこと。おそらくだけど、それまで毎日のように北山晴翔の家に通っていたんだとボクは思う。
生徒Bが家まで行っていたことが発覚したその理由っていうのが、北山晴翔の母親が仕事から帰ってきた時に鉢合わせしたから。あれは、九月二十日だったかな。北山晴翔の母親から、生徒Bが家にいるって連絡が学校にきて、ボクと学年主任で北山晴翔の家に、急遽、行くことになった。
でも、北山晴翔の家に着いた時にはもう、生徒Bはいなかった。北山晴翔の母親が言うには、もう帰ってしまったらしい。あわよくば、生徒Bを引き留めてくれてても良かったんだけどね。
ボクが、北山晴翔の母親に、帰ってきた時はどんな状況だったか聞いたら、リビングで二人が向かい合ってたって言った。そこでボクが、どんな空気感だったか、聞いた。北山晴翔の母親は、分からないって言った……と思う。
北山晴翔の母親は、生徒Bが勝手に家に入ったことを謝ってきたって言ったかな。その日の家庭訪問はそれで終わった。
次の日の朝……あれは九月二十一日。朝礼前に生徒Bを呼び出した。生徒Bと二人きりになったんだよ。ボクは、生徒Bに北山晴翔の家に、何をしに行っていたのか、聞いた。
すると、生徒Bは、毎日、北山晴翔をいじめてたことを、謝りに行っていたって言った。ボクがその理由を聞くと、生徒Bは、いじめていたことを反省したからって言った。それで、その時の事情聴取は終了。
その日の放課後、北山晴翔の家に学年主任と行った。北山晴翔の母親と三人で、玄関で話した。確か、北山晴翔は自部屋にこもってるって言ってた。
学年主任が、母親が帰ってきた時、北山晴翔はどんな様子だったか聞いた。すると、北山晴翔の母親は少し考えてから、ボーッと突っ立ってたように見えたって言った。
北山晴翔の母親にいじめの対応内容を聞かれたから、事情聴取とか、その事実をそのまま答えた。学年主任がこれからも詳しく話を聞くつもりだって付け加えた。
北山晴翔の母親が言うには、北山晴翔はこころの病になってしまったって。だから、生徒Bに早く罰を与えてほしいと。学年主任は、生徒Bには二度とこのようなことをしないように言っておくって言ったんだけど、北山晴翔の母親は、早く罰を与えろと。そんなの無茶だよね。
しばらく口論みたいになったかな。それでボクが、我々も気づくのが遅れてしまって申し訳ないって謝ったら、やっと引き下がってくれた。要は、こっちに折れてほしかったんだろうね。
北山晴翔の母親は、お願いしますねって念を押したあと、用事があるって半分僕たちを追い払うみたいになって、ボクたちはそれで北山晴翔の家を後にした。
北山晴翔の家に着いたのが十七時半頃で、話が終わったのが十八時十五分頃だったから、話したのは四十五分くらいか。改めて考えると、長いよね。
ボクたちは学校にもどって、二人でちょっとした反省会をしたあと、学年の先生を集めていじめ対策緊急会議をした。そこで話した内容は、ボクが行った生徒Bへの事情聴取とその内容、北山晴翔の家に家庭訪問した時の内容、あとはこれからの対策の方針だったかな。
方針の内容は、ボクが毎日、北山晴翔の保護者に連絡すること。
生徒Bとその保護者とボクと学年主任で面談すること。
これは北山晴翔の母親にお願いされたからなんだけど、北山晴翔の母親と担任と学年主任と教頭で面談すること。
それと、先生たちで生徒Bを要観察、って感じだった。
その後、ボクは職員室でいじめ対策方針の報告書類を作った。あれは十九時過ぎてたかな。
それまでは特に何もなかった。
そこから数ヶ月後のこと。ある女子、生徒Dと呼ぶね。北山晴翔と生徒Dが付き合っているっていう噂が流れ始めたんだ。」
彼は一旦、そこで話し終えた。ふぅと短い息を吐く。
「その…生徒Dって、渓口美都里?」
「えっ、うん…なんで?」
彼は、なぜか焦るように戸惑う。
「私も噂で聞いたから」
「ふぅん」
彼はそれ以上、そのことに対して踏み込むようなことはせず、納得したような、何かを考え込むような、そんな返事をした。
「花乃、おかえり」
微笑んでいる彼の声は、落ち着いている。彼からタバコの匂いが漂ってくる。
「ただいま」
私は満面の笑みを返した。他の人には分からないらしいけれど、私には分かる。彼が見た目以上に喜んでいること、そして、この日をずっと待ちわびていたこと。彼は私の後ろから、急かすようにリビングへと誘導した。精一杯に装飾されたリビングを見て、思わず感嘆の声が漏れた。
「───すごい」
「まぁ……」
そう言った彼の顔を見ると、耳と頬が少し赤くなっていて、私はクスッと笑った。
「あ、心配しなくて大丈夫だから、ボクが全部片付けるから」
彼は照れ隠しのように間を詰めてそう言った。
「それは私も手伝うよ」
歓迎されてばかりでは私も落ち着かない。私はもう一度部屋を見渡してから言った。
「これ全部、一人で飾ったの?」
「まぁ、そうだけど……」
彼は口をもごもごさせる。
「えー、一人でできるんだ!」
私が茶化すと、口は尖ったが、顔は嘘をつけないらしかった。私が顔を覗き込んでいると、彼はすぐに目を逸らして、その飾りを片付けようとする。
「そんなに焦らないでさ、今日中はずっと飾っておこうよ。せっかく頑張って飾ってくれたしね」
彼はまた、顔を赤らめた。
「今日はすぐに顔が赤くなるじゃん。いつもはそんなことないのに……も
しかして、彼女できたとか?」
「できてないから!」
真剣な顔をした彼は、もっと顔を赤くする。トマトよりも真っ赤になった彼の顔がおかしくて、私はツボってしまった。
「……今日は晩御飯、どっか食べに行く?」
今まで聞いたことのないような彼の声だった。
「急に?」
「うん」
彼の目には、首を傾げる私が映っている。
「まあ、今日くらいはいいか」
私の言葉を聞いても、彼の表情は変わらなかった。
「どこ行く?」
「花乃が決めていいよ」
「え?」
私は、空気を読まずに自分の好きな飲食店を言ってしまう、彼のそんなところも好きだった。けれど、今日だけは違った。
「いつもは、そば屋に行きたいって言うのに」
「今日くらいは花乃が好きなところ行こう」
彼は優しい顔で微笑みかけた。
「じゃあ……あのマケドナレド行きたい」
「どこの?」
「学校の近くの」
「え……」
「嫌だった?」
「いや、花乃が行きたいなら、そこ行こう」
なんとなく乗り気ではないことは分かる。
「どれぐらい?」
「何が?」
「時間」
「え?行ったことあるじゃん」
「家からは行ったことない」
そう言われてみれば、そうかも知れない。今まではそんなことを考えたこともなかった。
「学校行くのと同じくらいじゃない?」
「あ、そっか……自転車で十五分」
「遠いけど」
彼は私の声に頷く。
「晩御飯の時間に行ったら、混んでるかな」
そう言って息を吐く。今度は彼の言葉に頷く。
「みんなお腹空く頃だしね」
「仕方がないか」
やれやれといった顔に影を作っている。その中には、笑みも浮かんでいる。
「食べに行くまで、一緒に映画観よう?」
晩御飯を食べに行くまで、まだ三時間以上ある。彼はなぜか不安そうに、でも楽しそうに私の目の奥を覗き込む。
「映画……?」
いつもは私が提案する側で、彼は賛成する側だった。前までは。
「うん、お気に入りの映画があって、それを花乃にも観てほしいなって」
「いいけど……どういう系?」
彼は少し前のめりになって、いたずらっ子のようにニヤッと笑ってから言う。
「ヒューマンドラマ、みたいな?」
「何?そのニヤニヤ」
こうやって笑い合えることが、昔のいつもの日常に戻ったようにも思えてしまう。
「え?別に?」
少し企みがあるような言い方をする。
「いいよ、それ観よ」
「変なの思い浮かべた?」
「いやぁ?」
図星のような、違うような、私の気持ちそのままが返事になった。
「別に?」
彼はいそいそとテレビのリモコンを取り、ボタンを焦って操作する。
「一旦、部屋に荷物置いてくる」
返事はなかったが、私は部屋に向かう。ドアを開けると、暑い空気が部屋からムワッと漏れてくる。部屋に入ると、ムシムシとしていた。部屋に荷物を置いて、ドアを閉める。リビングに戻ると、テーブルの上に袋菓子を広げて待っていた。ソファーでくつろいでいる彼は手招きをする。
「なんか私の部屋、物置みたいになってない?」
「違うって!」
その顔には、どこか焦りも見える。
「今日は片付いてるけど、もしかして、家ごと物置?」
私の声を聞いて、彼の顔が一気にしかめっ面になる。
「物置って何?」
今、彼の声が少しだけ低くなったような気がした。
「えー、来たー」
「え?何が?」
彼の顔は不服そうにしている。けれど、どこか明るい影も見える。
「なんでもなーい」
つい声が漏れそうになる。頬が上がっているせいか、口をつぐむのが難しい。
「文句なのはわかってる」
泳いでいる私の目は見ずに、彼はただ私の耳元に話しかけた。
「いや、文句なんかじゃないよ」
急に振り向いたせいか、私の長い髪の毛が、馬の尾のように勢いよく宙を舞う。彼と目が合う。
「じゃあ何?」
彼は私の温度を受け取ろうとする。どんな表情かは分からない。棚の上には、木目のフレームに収められた写真がある。そこには、彼と私が並んでいる。楽しそうに笑っている彼と目が合う。
「なんだろうね」
自分でも、本当は何なのか分からない。けれど、確かに文句ではない。どこかで、私はあのモノたちの正体を知りたがっているのかもしれなかった。
「その映画、観ようよ」
「実は、もう四回は観た」
待ってましたと言わんばかりのドヤ顔……なのかどうか分からない顔で、でも鼻を大きくして言った。
「え?じゃあ、もういいんじゃないの?」
「見てほしいから」
「ふぅーん」
映画が始まる。彼が何度も見たという映画だ。どんな内容なのだろうか、少し気になった。プリズン・サークルという映画らしい。私は画面を見る。ふと暗くなった画面越しに目が合う。隣に座っている彼も、黙って画面を見つめている。しばらくすると、彼が一度だけ私のほうを見た。
「ん?」
彼のほうを見ると、首を振って言った。
「別に」
彼はまた画面に目を戻した。私はそれを見届けて、再び映画に集中した。
気づけば、映画は終わっていた。
「この映画の、どんなところが好きなの?」
ふと聞いてみると、彼から意外な答えが返ってきた。
「僕らがこういう、犯罪を犯してしまうような存在を生んでしまってるの
かもって思った」
「へぇー」
深く反省するように言う彼の声は、どこかの誰かを想像しながら言っているようにも聞こえた。
「花乃はどうだった?」
「面白かったよ。あんまりメディアで向けられないような視点で描かれてるところとか」
「あー」
「やっぱ、世の中って理不尽だよね」
「なんで?」
「だってさ、自分に害があったら避けるわけでしょ?」
「まあ」
「なのにさ、後々それに利益があったって分かったら群がるでしょう?」
「うん」
「そんなのエゴじゃない?」
「うん」
「そっちはそういうことに対して何か思わないの?」
「確かに、この世は理不尽だと思う。でも、僕らも結局はエゴ中心で動いてると思う」
「あー」
「だから、腹が立つとかはあんまりない。僕らだって理不尽なことしてると思うから」
「なるほどね」
「うん」
私たちも理不尽なことをしている、か。ちゃんと考えればそうだ。自分では、そこまで考えたことがなかった。彼と話していると、自分の考えの浅さを思い知らされる。それでも、私は彼のそういうところを尊敬している。
「花乃はそういうのに対して腹が立つなとか思ってる?」
「世の中が理不尽なことに対して?」
「うん」
「腹が立ってるつもりはないんだけど、やっぱどこかで嫌だなって思ってる気がする」
「うん」
「この映画みたいに犯罪じゃなくても……例えば、親が夜に仕事してるだけで、その子供は避けられる」
「あー」
「もし、それが工事関係だったとしても、風俗関係だったとしても、きっとそれは関係ない。なぜか、夜に仕事する人が身近にいる人と一緒にいると、自分に害があると思ってる」
「なんで夜に仕事することには良いイメージがないんだと思う?
「夜に仕事するのが、昔は下級身分の人だけだったからじゃない?」
「それが現代ではどう関係してると思う?」
「なんとなく、昔のそういう感覚が人間に染み付いているんだと思う」
「どうやって?」
「周りの環境があるからかも。昔に生きている人は、当然のように夜に仕事する人を避けるでしょう?」
「昔がそうならね」
「避ける人が多かったら、新しくそこで生きる人も夜に仕事をする人を避けるようになる」
「うん」
「それがどんどん連鎖していくと、理由も分からずに避ける習慣だけが残った、こんな感じじゃないかな?」
「花乃は避けてるつもりはある?」
「ないと思ってたし、そんなことは人格に関係しないから気にしてないつもりだったけど……どこかで避けちゃってるかもしれない」
「うーん」
「そっちはどう?」
「ボクもどこかで避けてしまってるかもしれない」
「避けようとは思ってないよね?」
「もちろん。もし避けてしまってても、悪気はない」
「悪気なくて誰かに嫌な思いをさせてるって、なんかタチ悪いっていうか、嫌だよね」
「なんで?」
「だって、あなたは私に嫌な思いさせてますよって直接言いにくいでしょ?。悪気はないんだもん」
「悪気なかったら言いにくいのはなんで?」
「んー……責めるみたいになるからじゃないかな?」
「嫌な思いさせてたって言われて、もし悪気なかったら花乃は責められたように感じる?」
「……感じないかも。そうだったんだって次回に生かそうと思うかな」
「じゃあ何で?」
「なんでだろ?そっちはどう思うの?」
「ボクは、人間関係を壊したくないからだと思う」
「なるほど?」
「自分は器が小さい、花乃が言った通り相手を傷つけたくないって思うからだと思う」
「あー。心理的なものってこと?」
「うん」
「なるほどねー」
「うん」
「ふぅー、むずかしっ!」
気づけば、私がこの家に着いてから三時間以上経っている。
「もうそろそろご飯食べに行こう」
「うん」
彼が部屋に戻り、何やらガサゴソしている。
「玄関で待ってて」
「おっけー」
荷物を持ち、靴を履く。そういえば、学校にはローファーを履いて行っていた。スニーカーで外に出るのは休日に出かける時だけで、ワクワクしていたっけ。リビングの方を覗くと、彼が大きなため息を吐いているのが見えた。仕事で疲れているのだろうか。教師という職業は大変なのだ、とにかく。平日は日が暮れてからの帰宅。帰宅後も仕事を夜遅くまですることがほとんどで、日付をまたぐ前に彼が布団に潜っているのを見たことがなかった。今も、そんな生活を繰り返しているのだろうか。そんな中で、ここまで私を育ててくれた。そうだ、彼に恩返しをしよう。精一杯の恩返しを。
「お待たせ」
「全然。鍵、持ってくれた?」
「あ……」
まずは、ちょっとしたことから始めよう。
「いいよ、私が持ってくる」
「ありがとう」
机の上に置かれたキーホルダーがついた鍵を掻っ攫って、急いで玄関に戻
る。
「お待たせ」
「ありがとう」
「行こう」
彼がドアを開けた先は、もう既に暗くなり始めていた。
「帰りにスーパー寄っていい?」
「いいけど……なんで?」
「明日の朝ご飯買おうかなって」
「明日の朝ご飯はボクが作るから」
「え?うそ?」
一緒に過ごしていた時も、朝ご飯を作ってもらったことは一度もない。
「本気」
頬を少し膨らませて拗ねている。
「え、作れるのー?」
「一人暮らしの時は作ってたから」
「えー?忘れちゃってるんじゃない?」
「大丈夫だから」
横目で少し睨みつけられる。そんな顔も可愛いと思ってしまう。だからこそ、ちょっかいを出してしまうのだが。
「じゃあ、任せた!」
「だからスーパー行こう」
「うん」
自転車で大体十分かけて、スーパーに向かう。風に逆らえずになびいている、センター分けにしては短い髪の毛。その隙間から、鼻の高い横顔がチラチラと見えている。家に真っ直ぐ帰るより少しだけ遠回りになってしまっても、自転車に乗っている時にしか見られない彼の顔を見られるなら、許してしまう。キュッと音を立てて曲がり、駐輪場に自転車を止める。
「あ!」
彼が声を上げる。
「どうした?」
「エコバック忘れた……」
「あっそうだ、忘れたー!手に抱えて持つ?」
「多分無理」
そんな量を買うのか。もしくは、冷蔵物を買うのだろうか。一体、何を買うのだろう。
「仕方がないかー」
「うん」
自転車の鍵を閉めて、彼と合流する。明かりが漏れている入り口に向かうと、自動ドアが私たちを迎えてくれる。カートとカゴをとって、彼の後ろについていく。スーパーはいつも色とりどりで、気持ち悪いほどに整列されている。厳密に言えば客の手によって商品はめちゃくちゃにされているのだが。彼が真剣な目で商品とスマホを交互に見ている。どうやら鮮度を確認しているらしい。彼はスマホを見ながら商品をカゴに入れる。
「精肉コーナー行こう」
「あ、うん」
ズンズン進んで行く彼に置いていかれそうになる。ガタガタと音を立てるカートを押して、もう二メートルは離れた背中を追いかける。
「ん」
彼は振り向かずにまたカゴに入れる。
「卵」
その言葉で、今度は置いていかれないように足を早める。横に並んで歩幅を合わせてみる。足が長いのか、一歩が大きい。足取りが急に止まって、驚いて顔を見上げる。
「これ」
今度はちゃんと振り向いて、丁寧にパックを入れた。
「ミックス」
「ミックス……?」
「小麦とか」
「あー」
今度は私が先頭に立って前に進む。彼が言ったミックスは、おそらくホットケーキミックスのことだろう。
「ここであってる?」
彼は返事をせずに、棚に沿ってカニ歩きで移動する。普段は上を向かなければ顔が見えない彼が、今は見下げなければ見えない。だからか、小さくて可愛く見えてしまう。
「これ」
そう言って急に立ち上がるので、頭がぶつかりそうになる。慌てて避ける。袋をドサっとカゴに入れた。こんなに使うこともないと思うのだが。
「小さいのじゃなくていいの?」
「うん」
頑固だから変えないのか、何か思惑があるのか。
「お菓子買う?」
「買う?」
「どっちでも」
この言葉を待っている自分がいる。
「じゃあ、買おう」
二人でゆっくりとお菓子コーナーに向かう。
「グミは正義だから」
そう言って私はグミをカゴの中に入れた。
「出会ってからずっと好きって言ってるけど」
「確かに」
同じ学校になったのは中学入学の時で、ちゃんと話すようになったのは中三だ。そう考えるとまだ五年しか経っていない。
「まず正義って何?」
ふとそんな疑問を投げかけられる。
「正義……本当の意味は分かんないけど、グミは私を救うよね」
「言葉の意味としては?」
「んー……その人が正しいと思ってるとか、人のためになると思ってやる
こと、とか?」
「なるほどね」
「グミは花乃に食べてもらうことが正しいとか思ってると思う?」
側から聞けば、変な会話だ。
「どっちかというと、人のためになるって思ってそう」
「あー」
「彼は、これは正義!みたいなのはないの?」
「タバコと酒」
「だよねー」
彼はタバコと酒が大好きで、私が健康に良くないからといくら止めても、彼は聞かなかった。彼にはタバコの匂いが染み付いている。もちろん、家にも。いつも、家のベランダに出て吸っているのだ。
「もう帰れる?」
「いけそう」
棚の列から出て、レジの列に並ぶ。
「帰ったら何する?」
「何でも」
「なんかないの?」
「何?」
首を傾げる。
「えー、なんか」
特に何かやりたいことがあるわけではないのだ。とにかく、彼と何かやり
たいだけだ。
「ない」
「えー?」
あっさり断られて、項垂れる。そうこうしているうちに、レジの順番が回ってきた。
「ピッピッピッ」
赤く光る機械の前で、店員が機械のように、アーチを描いて商品をスライドさせる。
「二千五百二十七円です」
「ピイピイで」
店員に手で示された機械に彼がスマホをかざす。
「ピイピイッ」
スマホ、もしくはその機械から可愛らしい音が鳴る。
「これ、よろしく」
「はーい」
渡されたレジ袋をカゴに入れ、カートに戻して窓際の台まで運ぶ。順に丈夫なものから袋に入れていく。
「入った?」
頷くと、彼は安堵の笑みを溢した。
「実は、前スーパー来た時に入らなくて……」
「新しいの買ったの?」
「いや……自転車のカゴに入れて帰ったんだけど、落とした」
どこかを見つめて、肩をすくめて言った。
「なるほどね」
彼が落として焦っているところを想像すると、笑いが込み上げてくる。彼が急に手を伸ばしてきた。
「え?何?」
「荷物」
「手、繋いでくれるのかと思った」
彼は苦笑いをして、袋を受け取る。手の平にビニール袋の持ち手が食い込んでいる。
「重いんじゃない?」
「まあ……そんなこと言うなら持って?」
「いや、ちょっと無理」
スーパーを出ると、すっかり街灯が役割を発揮している。
「もう暗いね」
「うん」
空では数少ない星が自分の居場所を光り示していた。彼は袋を自転車のカゴに入れ、ガチャっと自転車の鍵を開けた。周りの自転車との絡み合いを解きながら、自転車をゆっくりと後ろへ出す。
「帰ろう」
「うん、帰ろっか」
私は再び、彼の背中を追うようにして自転車を漕ぎ始めた。昼間の暑さを優しく追い払うように、冷たい風がそよそよと吹いている。しかし、まだまだ夏で昼間は暑さが続くのだろう。
「いい風だね」
彼はチラッと後ろを振り向いてそう言った。後ろを向いても、彼の自転車がよろめくことはなかった。
「うん」
すぐに前を向いてしまった彼には分からないけれど、出来るだけ笑みを浮かべて私は返事をした。私は前までは、彼に追いつこうと漕ぐのが精一杯だった。でも、自転車が速くなるごとに吹く向かい風も、漕がなくたって吹いている横風も、今日は簡単に感じられる。信号で止まるのが惜しいほどに気持ちいい。一年中、こんな風が吹いていたらいいのに───そんな野望さえ生まれてくる。でも、楽しいことはすぐに終わってしまう。もう家の前に着いたのだ。明かりが漏れている下にある駐輪場で、自動点灯に照らされた彼から家の鍵をもらい、彼と一緒にエレベーターに乗り込む。七階のボタンを押す。ドアが開くまではなぜかお互い無言でいた。
「ピロン」
自動ドアが開いた。私はふと、通路のベランダから少しだけ身を乗り出した。すると、下の方にまだ満月にはなれない───待宵の月が浮かんでいた。
「明日には、満月なのかな」
「ん?」
彼も少しだけ顔を乗り出して、月を見る。
「うん、明日の夜か」
彼はどこか月とは違う方向に焦点を合わせて言った。腰壁から離れて再び並んで歩き出す。七五九、七五八、七五七…七五三。ガチャッと鍵を回してドアを引く。彼が先に入って私が後から部屋に入る。ガタンという音と共にドアが閉まる。私が電気をつけると、一気に部屋が明るくなる。彼は袋に入っていた商品をどんどん冷蔵庫に入れていく。私はそれをただぼーっと見ていた。
「あ、晩御飯分のお金返すよ」
「いや、いいよ」
「私、これでもバイトやってるから、全然払えるんだよ?」
「いいって…花乃が帰ってくるの楽しみにしてたから…」
彼は耳を赤くして言った。ボソボソ言っているからか、ところどころ聞こえないところがある。
「え、なんて?もうちょっと大きくはっきり言ってもらわないと」
私が茶化すように言うと、彼は少し怒ったように言った。
「せっかく花乃が帰ってきたんだから、ボクにもこれくらい払わせて」
「おー!そんなこと言ってくれるなんて、嬉しいな」
「言わせるなって…」
下を向いてまたブツブツと何か言った。
「何恥ずかしがってんの?」
「花乃のせいだから」
彼は私を睨んでそう言った。そこに怒りの感情は感じられなかった。
「手、洗いに行こ?」
そう言って私が洗面所に向かうと、彼も後ろについてきた。
「先に洗う?」
私がそう聞くと、彼は首を振って言った。
「花乃が先に洗っていいよ」
私は素直に先に手を洗う。石鹸をつけて、手の甲、手の平、手首、指の間、爪の間も念入りにしっかりと。石鹸を洗い流して、水を切ってタオルで拭く。前よりも、タオルの肌触りがよくなったような気がする。彼に順番を交代する。彼が洗い終わるまで、私は彼の手をずっと見つめて待っていた。
「あ、待っててくれたんだ」
「あ、うん」
曖昧な返事をしながら洗面所を出ると、彼は私と壁の間をすり抜けて、い
そいそと冷蔵庫に向かった。
「これ」
そう言って彼が取り出したのは、今SNSで話題のケーキだった。
「それ、どうしたの?」
「買ってきた」
「え?それ、めっちゃ並ぶんじゃないの?」
「まあ」
そう言って照れくさそうに私にケーキを差し出してくる。
「食べていいの?」
「もちろん」
「ありがとう」
私は心があったかくなるのを感じながら、ウキウキして食器棚からフォークを取って、彼から受け取ったケーキを机に並べた。
「じゃあ、食べるよ?」
「うん」
そう言って彼は私の向かいの席に座り、少しだけ身を乗り出す。私はケーキの箱を開け、ケーキ全体に視線を注ぐ。それは果物の形にそっくりで、まるでフルーツ飴のようだ。どこから見ても可愛くて、綺麗。一瞬、どこから入れるか迷いながら、ゆっくりとケーキにフォークを入れると、フォークがスッと沈んだ。そのまま口に運ぶ。私は思わず頬が緩んだ。ふふっと声を出しそうなほどに口いっぱいに幸せが広がっている。ケーキは見た目からは想像がつかない食感で、とてもしっとりとしている。後からくる酸味…一口を飲み込むと、唾液がじわりと滲む。
「どう?」
「美味しい…」
もう一口、とフォークを再び入れた瞬間、食い入るような視線を感じた。
「一口、食べる?」
「いや、いい」
そう言って彼は首を振る。
「でも、買ってきてくれたんじゃん」
「花乃のために買ってきたから」
今度は、もう顔を赤くするようなことはせずに彼はそう言った。
「本当に食べなくていいの?」
「うん」
そうは言っても、どこか食べたそうにしている。これ以上聞くのもよくないかもしれないので、彼の言葉に甘えて、もう一口と幸せを噛み締める。
「やっぱ、食べたいんじゃん」
「いや…」
私の言葉を期待していたかのように彼は首をゆっくり振る。
「食べたいのは分かってるって」
「え、うん…」
そう言って、彼は素直に頷いた。
「くださいは?」
「ちょっとほしい」
上から目線を気にすることもなく、私の言うことを素直に聞いてしまう今日の彼は、小さい子供のようにも見える。なんだか可愛らしい。私がフォークを渡すと、彼は少しだけではあるが、嬉しそうにケーキにありついた。
「美味い…」
「うん」
顔をほころばせる彼を見て、私は思わず吹き出してしまった。
「え?何かおかしい?」
「ケーキ、口についてる」
「え?」
そう言って彼は頬を手で触ったので、私はティッシュを渡した。ちゃんと拭けない彼に、私は指示をする。
「ちょっと下!右!違う!もうちょっと下!」
やっぱり、今日の彼はおとなしく私の言うことを聞いている。でも、もしかしたら、前もそうだったのかもしれない。
「拭けた?」
「うん、拭けた」
そう言って彼はフォークを私に返そうとする。
「もうちょっと食べていいよ」
「ありがとう」
彼はもう二口ほど口いっぱいにケーキを詰めて、私にフォークを返した。
「そんなに焦らなくて大丈夫。喉詰まるよ?」
口いっぱいに入れすぎて話せないからか、彼はただ頷いた。
「もういいの?」
「お腹いっぱいだから」
彼にそう言われて、私は残りのケーキをゆっくり味わう。やはり、美味しい。いくらでも食べていたいが、終わりはくる。食べ終わり、フォークを片付けた。彼が先に座っているソファーの隣に座る。
「そういえば、今日どこで寝ればいいの?」
「どっちでも」
どことどこのことだろうか。
「まず寝る場所あるの?」
「花乃の布団は棚の中に入れてある」
なんだか会話が成立していないような気がする。
「でも、私の部屋で寝れないじゃん」
彼は当たり前だと言うように頷いた。
「何?何かあるの?」
彼はモジモジとする。
「あ、やっぱなんかあるんだ?思惑みたいなのが」
彼は、より一層顔を赤くして、首を傾げる。思惑なんてないよ、みたいな
顔をしているつもりなのだろうけれど、私にはバレバレだ。
「予想通り」
「な、何が?」
彼は焦って噛んでしまう。
「私に何してほしいの?」
「そんなこと言うならもういい」
彼は膨れっ面で私と目を合わせずに言った。自分で言ったことを後悔しているくせに、それでも拗ねることをやめない彼に、私は吹き出してしまった。
「そーんなこと言っちゃうんだ?」
「え?」
彼が下手にとぼける。本当に分かりやすい。
「何?私と一緒に寝てほしいの?」
「え?そんなわけ…違うし…」
彼は口を尖らせる。そっぽを向いて、顔を思いっきり赤らめる。
「そんなに拗ねないの!」
「花乃に言われる立場じゃないから!」
彼が座りながら、加減して地団駄を踏む。私は声を上げて笑った。
「確かに」
年上だとは分かっていても、彼にはなぜか上から目線で言ってしまう。
「花乃がいいなら、今日は一緒に寝よう」
「うん、いいよ」
彼がそれ以上何も言わなかったので、私はスマホを見る。メールは何十件
と来ていた。そのほとんどが迷惑メールと呼ばれるものだ。メッセージは数件。おそらく、了解です、分かりました、のような、必要のない返事の数々だろう。
「花乃は大学どう?」
私はスマホの画面を閉じる。
「授業は面白くて友達もできて楽しいけど、やっぱり大変」
「通学は大変?」
彼がそう聞いてきた。
「大変だけど、中学の時を思うとマシかな」
私がそう言うと、彼はなるほどといった様子で苦笑する。
「どんな授業?」
彼は興味津々に聞いてくる。
「先生の講義みたいなのを聞いたり、生徒同士で授業し合ったり」
「変わらないな」
彼は期待外れなのか、面白くなさそうにした。
「大学卒業してから、あんま時間経ってないじゃん」
「確かに」
彼はそこまで考えていなかったらしい。
「散歩行こう」
「え?」
彼が突然言い出したので、私は声が裏返ってしまう。
「どこに?」
「散歩は行き先がないものだから」
私は鼻から息を吐いて、納得した。
「いいよ、行こう」
彼が早々に玄関に向かったので、私は慌てて彼について行った。外へ出る
と、冷たい風が私の肌を撫でた。
「川の方行こう」
「うん」
私は彼と並んで、真っ直ぐ河川敷まで歩く。河川敷に着くまでは私も、彼も黙っていた。河川敷に着くと、彼は手で腕をさすり出した。
「ちょっと肌寒い?」
「肌寒いね」
「上着、取りに帰る?」
「いや、私はいいよ」
「あ、そう?」
「上着、着ないじゃん」
「いや、そんなことないけど」
彼は私の言葉に苦笑いでそう返した。私は、河川敷沿いを彼の後ろについ
て歩く。ひんやりと冷たい風が吹く。草たちが揺れて、擦れ合う音が静かに響いている。突然、彼は立ち止まった。
「どうしたの?」
私が聞いても、彼は一点を見つめて返事もしない。私は彼の見つめている
先を彼の目線から探し出そうとする。
「いや、何もない。ぼーっとしてた」
そう言って彼は再び歩き出した。
「ふぅん」
私は彼の後を遅れてついていく。下に視線を落とすと、草がひしめき合い、お互いの葉を擦り合わせていた。葉に平行な脈が通っているものや、
まだ緑色の、ネコジャラシと呼ばれるものもある。
「これ、河川敷とかではよく見るよね」
そう言って私が指差したのは、穂のようなものが枝分かれしているものだ。
「多分、イネ科だ」
彼は、私の示した先を探してそう言った。
「これが花粉症の原因か」
私の言葉に彼は頷く。
「恨めしいようで、そうでもないような…」
「どういうところが?」
「生命力が強くてウザいかもしれないけれどさ、この植物にとっても一生は一度きりでしょ?」
「うん、確かに」
「この雑草だって言われてる植物だって、星と一緒じゃない?」
「え?」
「星だって、宙をただ見上げてる私たちからすれば、綺麗だとは思うよ。
でも、言っちゃえば、星もただの大きな石ころでしょ?地球みたいに大きいホシたちが作られる過程でできた、ゴミでもある」
「でも、地球とか月って、そういうゴミとも言えるホシたちが衝突して出来た、違う?」
「うん。だからこの雑草も、私たちからすると一見邪魔かもしれないけれど、どこかで必要とされてるってこと」
「へぇー」
彼は私の熱っぽく語ったことについて、少しだけ感心したように頷いた。そこからは、私と二人並んで、ただ黙々と歩き続けた。時々彼を見ると、何か考えているような、ぼーっとしているような───何とも言えない表情をしていた。私は、遠くを見つめたり、上を見上げたり、目を瞑ってみたりしていた。
「そろそろ帰ろう」
腕時計もスマホも持って来なかった私は、時間感覚を忘れて歩いていたの
で、段々と怖くなっていた。
「そうしようか」
彼が頷いたのが暗がりの中に見えて、安堵のため息を吐いた。
「今、何時?」
「知らない」
「え?スマホは?」
「いらないと思って。花乃も?」
「私もいらないと思って…」
二人の考えが一緒なのが妙に嬉しくて、私は笑ってしまう。
「一緒だね」
そう言うと、彼もシワという影を作って笑った。
「帰ろうか」
「うん」
私は笑顔で頷いた。もうほとんど明かりが消えた家々の間で、暗闇の中に光る蛍のように、二人の声がお互いを照らすように静かに響いていた。家に着くと、まず温かい空気───外が寒かったからそう感じているだけであろう空気が私たちを包み込むように迎え入れる。
「ただいまー」
なぜか反射的に言った声の大きさに自分でも驚く。気にしていた時間を見
ると…
「え?」
「時間?」
「…一時間も散歩してたんだ」
「うん。早い」
「え?」
彼は今、何と言ったのだろうか。聞き間違えでなければ、彼は早いと言っ
た。彼には不思議な時間感覚があることを、私は思い出した。
「普段は何時間くらい歩いてるの?」
「日による」
私は呆れ半分、懐かしさ半分で笑ってしまう。
「多い時でどれくらい?」
「えー…どうだろう?」
「三時間くらいは散歩してるんじゃない?」
「朝から夜までの時もある」
私は息ができなくなるほど笑ってしまう。どこを歩けばそんなに時間がかかるのだろうか。想像だにつかない。彼のことだろうから、どこを歩いたかもきっと覚えていないのだ。
「明日の朝ご飯、何?」
「秘密」
彼はいたずらっ子のように、下手なウィンクをしながら言った。
「教えてよ」
「明日まで待って」
「あー、ケチ!」
あと数時間なのだから、ちょっとくらい教えてくれても良いとは思うのだが。
「眠くないね」
「うん」
私が言った言葉に、でも彼はどこか眠そうに頷いた。夜二十一時を過ぎて
も眠くないのは、私にとっては久しぶりだ。家でこうやってくつろいでいるのも。
「明日は何時に起きるの?」
「知らない」
なんとテキトーなのだろう。
「朝ご飯は?」
「朝ご飯は何時でも朝ご飯だから」
「何それ?」
そう言って私は苦笑いを浮かべた。
「お風呂はどうする?」
「花乃が先に入って」
「いいの?」
彼は、うたた寝しているのかと思うような頷きをした。私がお風呂から上がってくると、彼は休みにも関わらず、ダイニングで瞬きもせずに画面と対峙していた。
「ただいまー」
「あ、風呂入ってくる」
「いってらっしゃい」
休みの日まで仕事をしている彼に少し引きながら、私はソファでゆっくりして、彼がお風呂から上がるのを待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「布団取ってくる」
私がそう言うと、彼も後ろからついてきた。
「懐かしい」
私が見つけたのは、山積みになっている紙の束───私が中学校で使ったプリントの数々だ。
「これ、まだ残してるの?」
「うん」
「捨ててもよかったのに」
「花乃がわざと置いてるのかもしれないし、ボクも残しておきたかった
し」
「なら良いんだけど」
私は棚を開けて、布団を取り出す。
「いいよ、ボクがするから」
「ありがとう」
二人で布団を彼の部屋まで運び、それぞれ自分の布団を敷いた。
「もう電気消すよ?」
「うん」
私は彼の声を聞いて電気を消す。すると、窓の外の光が一気に明るくなったように感じた。夏にしては分厚い掛け布団にくるまる。
「誰かと一緒に寝るの、久しぶり」
窓の外の光に照らされてかろうじて判別できる彼の顔は微笑んでいた。彼はそのまま、私の目をじっと見つめている。
「え、何?」
「いや、何も」
彼は、また何かを隠すように取り繕う。
「今日、なんか変だよ?」
「どこが?」
彼は焦っているのか、窓の外の光に反射しているのか、顔が青白く見え
る。
「ご飯食べに行く場所選ばせてくれたり…」
彼の顔が一瞬曇ったのが見えて、慌てて付け足す。
「でも、嬉しかったよ」
「花乃が、帰ってきてくれたからかな」
彼は口元を布団で覆ってそう言った。私は彼が目を閉じたのを確認してか
らも、何となく気になって眠れないでいた。目を瞑っている彼の横顔をじっと見る。頬の部分にはほくろが二つある。ふと、彼が起きたと思えば、部屋を出て行った。ドアの隙間から見ると、彼はトイレに行った。それを見届けて、私も部屋を出る。彼が私がお風呂に入っていた間に何をしていたのか、やはり気になって、私はテーブルの上に置かれたパソコンを触ろうかと悩む。なぜか心臓がバクバクするわけでもなければ、冷や汗が出るわけでもなかった。悩んだ末に、結局、やめることにした。私の理性が働いたらしい。触ろうとしたことが、自分でも怖くなる。恩返ししようと今日、決めたばかりなのだ。早々に破ってしまっては、三日坊主どころの話ではなくなる。そう、自分の心の中で何度も唱えた。水を飲んで、再び部屋に戻る。布団の中に潜ってみても、掛け布団を端に追いやってみても、眠れなかった。ドアの隙間から様子を見てみると、ちょうど彼がトイレから帰ってくるところで、慌てて布団に潜り込む。椅子を動かす音が聞こえたのを見計らって、再びドアの隙間から覗く。すると、彼はパソコンを目の前にして大きなため息を吐いた。彼が再び立ち上がり、どこかの部屋に行く。ドアを静かに閉める音がして、私は部屋から出る。彼に気づかれないようにそっと開いているパソコンに近づく。その白い背景に書かれた文字の内容を見ようとした、その時───
「…花乃?」
「えっ?」
背後から不意を突かれた声に、心臓が飛び上がりそうになる。
「何してるの?」
「水、飲みにきた」
「ふぅん」
私は、なんとか切り抜けたと安堵して、水を飲む。そして再び部屋に戻ろうとする。
「待って」
その言葉で私は振り返る。
「リビングに来たのは何で?」
「水を飲もうと思って」
彼は私の目の奥を覗き込む。私は彼を見つめ返す。しばらく沈黙が続いて、私は耐えきれなくなって彼に質問をする。
「疲れてる?」
「ちょっと」
彼は肩をすくめて言った。
「仕事で?」
「忙しいから」
彼が今、少し本音を吐いた気がする。私はもう一度、彼に質問する。
「疲れてる?」
「“大丈夫”」
「“大丈夫”?」
私は、彼が口にした言葉をそのまま繰り返した。彼は私の言葉に戸惑いながら頷く。彼は、疲れているのだろう。きっと、彼の、“大丈夫”は嘘だ。どうすれば、彼のためになるのだろうか。
「パソコンの中身、見た?」
また、彼に不意を突かれる。
「見てない」
私は咄嗟に、そう言った。
「本当に?」
「…うん」
心臓が爆発しそうになる。なんとかそれを押さえようとしても、なかなかおさまらない。心臓の音と、彼の声が同じ大きさに聞こえるほど、鼓動が大きくなってしまっている。彼にも聞こえてしまっているだろうか。
「パソコン、見ただろ?」
彼にもう一度聞かれる。これだけ彼に疑われていては、もうこれ以上、嘘は突き通せないと感じた。
「…ごめん。でも、ちょっとだけだから」
私が焦りながらそう言うと、彼はまた大きな溜め息を吐いて、今まで見たこともないような、渋い顔をする。私は申し訳なくなって、俯いてしまう。
「…ごめん」
しばらくの沈黙の後、彼は口を開いて、ゆっくりと話し始めた。
「これは、ボクのクラスで、実際にあった話───」
私は反射的にバッと顔を上げる。
「え、待って?それって第三者に口外とかしたらダメなんじゃ…?」
「いいから」
彼は首を振って話を続けようとする。一瞬、戸惑ったが、私は彼の言う通り、素直に聞くことにした。彼は、私には分からないどこかに焦点をあわせて、噛み締めるように、ゆっくりと、話し始めた。
「さっきも言った通り、これはボクが担任だったクラスの話で……ある子を生徒A、もう一人の子を生徒B、と呼ぶことにするね。
生徒Aは、花乃が高二の一学期くらいの時から、クラス全員からいじめられてたらしい。で、そのいじめの中心人物が、生徒Bっていう子で、生徒Bは生徒Aに暴力を振るってたらしい。子分みたいな子たちを連れてね。それで、生徒Aのこころがボロボロになってしまったっていうことらしい。それで生徒Aが学校に来なくなった……もう名前も知ってると思うから、名前を出すんだけど。
その生徒A、北山晴翔は、その年の二学期から学校に来なくなった。ここで、学校側で正式にいじめが発覚した。まあ、遅いよね。ボクはもっと前から気づいてたんだけど、どうやらボク以外の先生たちは、それを目撃できてなかったから、らしい。あの人たちのいじめの判断基準、おかしいと思う。不登校になってるのにね……。
話を戻すんだけど、その北山晴翔が学校に来なくなってからも、生徒Bは、北山晴翔の保護者がいない時に家まで行って、暴力を振るっていたらしい。それが発覚したのが、生徒Bが北山晴翔の家に通い始めてから二週間後のこと。おそらくだけど、それまで毎日のように北山晴翔の家に通っていたんだとボクは思う。
生徒Bが家まで行っていたことが発覚したその理由っていうのが、北山晴翔の母親が仕事から帰ってきた時に鉢合わせしたから。あれは、九月二十日だったかな。北山晴翔の母親から、生徒Bが家にいるって連絡が学校にきて、ボクと学年主任で北山晴翔の家に、急遽、行くことになった。
でも、北山晴翔の家に着いた時にはもう、生徒Bはいなかった。北山晴翔の母親が言うには、もう帰ってしまったらしい。あわよくば、生徒Bを引き留めてくれてても良かったんだけどね。
ボクが、北山晴翔の母親に、帰ってきた時はどんな状況だったか聞いたら、リビングで二人が向かい合ってたって言った。そこでボクが、どんな空気感だったか、聞いた。北山晴翔の母親は、分からないって言った……と思う。
北山晴翔の母親は、生徒Bが勝手に家に入ったことを謝ってきたって言ったかな。その日の家庭訪問はそれで終わった。
次の日の朝……あれは九月二十一日。朝礼前に生徒Bを呼び出した。生徒Bと二人きりになったんだよ。ボクは、生徒Bに北山晴翔の家に、何をしに行っていたのか、聞いた。
すると、生徒Bは、毎日、北山晴翔をいじめてたことを、謝りに行っていたって言った。ボクがその理由を聞くと、生徒Bは、いじめていたことを反省したからって言った。それで、その時の事情聴取は終了。
その日の放課後、北山晴翔の家に学年主任と行った。北山晴翔の母親と三人で、玄関で話した。確か、北山晴翔は自部屋にこもってるって言ってた。
学年主任が、母親が帰ってきた時、北山晴翔はどんな様子だったか聞いた。すると、北山晴翔の母親は少し考えてから、ボーッと突っ立ってたように見えたって言った。
北山晴翔の母親にいじめの対応内容を聞かれたから、事情聴取とか、その事実をそのまま答えた。学年主任がこれからも詳しく話を聞くつもりだって付け加えた。
北山晴翔の母親が言うには、北山晴翔はこころの病になってしまったって。だから、生徒Bに早く罰を与えてほしいと。学年主任は、生徒Bには二度とこのようなことをしないように言っておくって言ったんだけど、北山晴翔の母親は、早く罰を与えろと。そんなの無茶だよね。
しばらく口論みたいになったかな。それでボクが、我々も気づくのが遅れてしまって申し訳ないって謝ったら、やっと引き下がってくれた。要は、こっちに折れてほしかったんだろうね。
北山晴翔の母親は、お願いしますねって念を押したあと、用事があるって半分僕たちを追い払うみたいになって、ボクたちはそれで北山晴翔の家を後にした。
北山晴翔の家に着いたのが十七時半頃で、話が終わったのが十八時十五分頃だったから、話したのは四十五分くらいか。改めて考えると、長いよね。
ボクたちは学校にもどって、二人でちょっとした反省会をしたあと、学年の先生を集めていじめ対策緊急会議をした。そこで話した内容は、ボクが行った生徒Bへの事情聴取とその内容、北山晴翔の家に家庭訪問した時の内容、あとはこれからの対策の方針だったかな。
方針の内容は、ボクが毎日、北山晴翔の保護者に連絡すること。
生徒Bとその保護者とボクと学年主任で面談すること。
これは北山晴翔の母親にお願いされたからなんだけど、北山晴翔の母親と担任と学年主任と教頭で面談すること。
それと、先生たちで生徒Bを要観察、って感じだった。
その後、ボクは職員室でいじめ対策方針の報告書類を作った。あれは十九時過ぎてたかな。
それまでは特に何もなかった。
そこから数ヶ月後のこと。ある女子、生徒Dと呼ぶね。北山晴翔と生徒Dが付き合っているっていう噂が流れ始めたんだ。」
彼は一旦、そこで話し終えた。ふぅと短い息を吐く。
「その…生徒Dって、渓口美都里?」
「えっ、うん…なんで?」
彼は、なぜか焦るように戸惑う。
「私も噂で聞いたから」
「ふぅん」
彼はそれ以上、そのことに対して踏み込むようなことはせず、納得したような、何かを考え込むような、そんな返事をした。
