✻ ✻ ✻
朔が連れ帰った千夜の証言により、白菊の行動は偶発的なものだったと判断された。言い争ううちにカッとなって、というやつだ。
だがそれで許されるものではない。最悪の場合、千夜は死んでいたのだから。玄月は厳しく白菊を糾弾した。
「人間の身を山に放り出すなど、死なせようとしたに等しいぞ」
「違います! 調子に乗っていたから、少しこらしめようと思っただけだわ!」
「死の穢れは山を荒らす。それにつながる行いであり、言語道断!」
その場には人狼一族の大人たちとともに白菊の親もいたのだが、この所業はかばいだてできない。
――そんなわけで白菊は、岩牢に即日押し込められた。
✻ ✻ ✻
屋敷へ戻った千夜は、丁寧に手当てされ、体も洗い、大事に保護されていた。
ひねった足首が辛かろうと寝所には椅子まで持ち込まれている。その足もと、水をはった盥で手ぬぐいを絞っているのは朔だった。
「朔……自分でやるから……」
あまり大ごとにされるといたたまれない。元はといえばノコノコ挑発に乗った千夜もいけないのだ。
「いや、白菊の行いは俺への恨みからだ。千夜を巻き込んで悪かった」
「あっちが勝手に懸想して、勝手に逆恨みしただけでしょ。朔のせいじゃないわ」
そう主張するのだが、朔は問答無用で千夜の足を自分の膝に乗せる。千夜は恥ずかしくてうつむいてしまったが、腫れた足首を手ぬぐいでおおわれると冷たくて気持ちよかった。
「ありがとう……あのね私、朔が探しに来てくれて嬉しかったの。里から逃げたと思われたかもって心配してた」
「……それは、俺が昨夜ひどいことをしたからか」
朔の声が硬くなる。首すじをさんざん味わった件については後悔していたのだ。
「逃げられかねないことをしたのは俺だ。嫌がったのを無理やり……悪かった」
「そん、そんなこと……!」
謝られて驚いた千夜だったが、そこで言葉に詰まる。嫌じゃないどころか気持ちよかったなんて言えなかった。ホテホテになる千夜を怪訝な顔で見つめつつ、朔は言いにくそうに白状した。
「千夜からはとてもいい匂いがするんだ。なるべく我慢していたのだが……」
朔がいつも不機嫌な顔で千夜をかじっていたのはそういう理由だった。こんなことを伝えたら引かれると思い黙っていたが、もう仕方がない。
「昨夜はどうにも手放しがたくなってしまって、必要以上に触れてしまったと思う。本当にすまなかった」
「……私、そんなに匂うの? だって匂いで探しに来てくれたのよね……?」
千夜は体をすくめ、できるだけ後ろに逃げた。朔が言うのはつまり、「美味しそうな食事がそこにいるので我慢しきれずかじった」ということなのでは。自分はいったいどんな匂いを発しているんだ。
「もしかして、初めて会った時から臭かった……?」
「いや」
朔は慌てて首を振る。人狼でない千夜にとってはわかりにくいことだろう。
「普通はそんなに気にならない。俺が千夜の匂いを気に入って覚えたから、強く感じるようになっただけで」
「気に入っ……」
「ああ、その。つまりだな、もとより神の矢で選ばれた千夜だろう? 俺とはいろいろ相性がいいはずなんだ。匂いも妙に好ましく感じてしまって」
言い訳めく朔の言葉。だが千夜は――自分が朔に惹かれていることだって認めざるを得なくなり困ってしまった。相性がいいのは千夜から朔へだって同じだろう。
(三年したら、離れなきゃいけないのに)
千夜はグッと唇を結んだ。朔は千夜を本当の妻にはしないと約束した。千夜もその契約を守らなければ。決意した厳しい表情に心臓をつかまれ、朔は顔をゆがませる。
「……こんなのはもう嫌か?」
「え?」
「匂いがどうとか……人狼ではない千夜にとって、やはり俺たちの暮らしに馴染むのは難しかろうな」
千夜から見えた苦しさが人狼への嫌悪感だと誤解して、朔は落ち込んだのだ。でも千夜のためならば受けとめて――解放してやらねばならない。
「無理ならば、もう町へ逃がしてやる。俺は近々町へ出かけてみようと思っていたから、その時にでも」
「ちょ、ちょっと朔」
「だって俺はこれ以上、千夜を傷つけたくないんだ」
「いえ、待って? 私ぜんぜん傷ついてないし」
思い詰めた朔のことを、千夜は慌てて制止する。
「約束したでしょ、三年は妻でいるって……朔が嫌になったら仕方ないけど」
「俺が? 嫌なわけないだろう」
「なら……まだそばにいさせてよ」
おずおずと申し出た千夜の言葉に、朔は目を見開いた。
いてくれるのか。この里に。自分の隣に。
「千夜は町に行きたかったんじゃないのか?」
「そりゃあそうだけど。朔の妻の役目もちゃんと果たさないと……あ、でも町へ行くならいろいろ見てきてね。百貨店も、活動写真も!」
「……千夜はたくましい」
そこに人の世の強さを感じ、朔は目を細める。何年も感じていた苦しみがあふれ出した。
「生き生きとした人間たちに比べ、命をつなげられなくなった我ら人狼など……もう滅びるのかもしれないと思っていた」
「朔?」
「いや、無理に人と交わり薄まりながら続くより、さっさと消えてしまえばいいんじゃないか? だから千夜を娶るのだって拒んだんだ」
なのにどうして千夜を愛してしまったのか。自分の未練がましさが嫌になる。千夜がまだここにいると言ってくれたのが嬉しくてたまらないのだ。自嘲する朔だったが、千夜は軽やかに笑った。
「消えなくたっていいでしょ。何もかも、変わっていくのが当たり前だわ」
「千夜……」
「獣の方の狼たちは姿を消したのだったわね。でも人狼はまだ生きている。生きられるのなら、それでいいじゃない?」
なるべくなんでもなさそうに、千夜は励ました。
孤独な人狼を率いていく未来と、朔はずっと向き合ってきたのだろう。数を減らす一族。変わりゆく世界。そんなもの、ひとりで背負うには重すぎる。
「落ち着いて、ゆっくり考えなさいな。朔だけで立ち向かっているなんて思わなくていいのよ」
「それは……」
千夜はただ、朔の心をなぐさめたかったのだ。だが「消えずに変わればいい」という言葉は、裏を返せば「人と子を生してもいいんじゃない?」という意味にもなる。
朔は黙り込んだ。千夜がそこまで考えずに言ったのは明白。さっきのセリフは純然たる善意にすぎなかった。
「ふう……」
息を吐いて心を落ち着ける朔のことを、千夜はにこにこ見守った。何もできない千夜なのだから、せめて気持ちの面ぐらい支えてあげたい!
「千夜……」
「なあに」
うめくように名を呼んだ朔は、続きを黙ったまま手ぬぐいをもう一度絞った。千夜の足首を冷やし直す。ついでにそっと足の甲をなでてみた。ビクンとする千夜の足は、しっかり押さえて放さない。
「あの、足はもういいから……」
千夜がうめいたのだが、そんなことを言われると朔としてはもっとやりたくなる。無邪気にすぎる「妻」へのおしおきだ。顔をそむけた千夜の様子を観察しながら断りもなく脚を持ち、足指に口づけてみた。
「ひゃんっ」
「うん。足をかじるのも悪くない」
「な……なに言ってるの!?」
足なんかに触られては千夜の心が保たない。というか放してくれ。ふくらはぎとは着物の裾に隠しておくもので、気軽に触れさせるものじゃないのだ。
「朔やめて、失礼でしょ。私たちはかりそめの夫婦なんだし」
「おや? だって千夜は最初に言ったじゃないか。足首を見せる洋装で働くバスガールもいると。憧れているのだろう? 足首ぐらいなんてことはない」
「ある! なんてことあるってば! 朔のばか!」
いきなり意地悪になった「夫」のことを罵倒して、千夜はジタバタした。でも朔の手は動かない。力だけでいえば千夜のことなど軽く押し倒せるのだが――そんなことをして傷つけようとは思わなかった。大切な、大切な「妻」。
「ほら、布団に連れていこう」
「自分で歩くわよ」
「いいから」
椅子から立ち上がった千夜を、朔は軽々抱きあげた。そのまま首すじを軽くついばむ。
「きゃんっ」
「今夜はこれで勘弁してやる。よく眠れ」
「……っ!」
千夜は羞恥を抑えて朔をにらんだ。至近に迫る「夫」の顔は――愛おしくて憎たらしい。だからそんな気持ち、伝えられない。
「おやすみ千夜」
「……おやすみなさい、朔」
二人は離した布団に並んで眠る。間に衣紋掛けを置き、ついたてにして。
互いに想い合う偽物の夫婦が心を明かせるようになるのは、いったいいつの日のことか――。
いったん了、といたします
(気が向いたら続きを書くかも)
朔が連れ帰った千夜の証言により、白菊の行動は偶発的なものだったと判断された。言い争ううちにカッとなって、というやつだ。
だがそれで許されるものではない。最悪の場合、千夜は死んでいたのだから。玄月は厳しく白菊を糾弾した。
「人間の身を山に放り出すなど、死なせようとしたに等しいぞ」
「違います! 調子に乗っていたから、少しこらしめようと思っただけだわ!」
「死の穢れは山を荒らす。それにつながる行いであり、言語道断!」
その場には人狼一族の大人たちとともに白菊の親もいたのだが、この所業はかばいだてできない。
――そんなわけで白菊は、岩牢に即日押し込められた。
✻ ✻ ✻
屋敷へ戻った千夜は、丁寧に手当てされ、体も洗い、大事に保護されていた。
ひねった足首が辛かろうと寝所には椅子まで持ち込まれている。その足もと、水をはった盥で手ぬぐいを絞っているのは朔だった。
「朔……自分でやるから……」
あまり大ごとにされるといたたまれない。元はといえばノコノコ挑発に乗った千夜もいけないのだ。
「いや、白菊の行いは俺への恨みからだ。千夜を巻き込んで悪かった」
「あっちが勝手に懸想して、勝手に逆恨みしただけでしょ。朔のせいじゃないわ」
そう主張するのだが、朔は問答無用で千夜の足を自分の膝に乗せる。千夜は恥ずかしくてうつむいてしまったが、腫れた足首を手ぬぐいでおおわれると冷たくて気持ちよかった。
「ありがとう……あのね私、朔が探しに来てくれて嬉しかったの。里から逃げたと思われたかもって心配してた」
「……それは、俺が昨夜ひどいことをしたからか」
朔の声が硬くなる。首すじをさんざん味わった件については後悔していたのだ。
「逃げられかねないことをしたのは俺だ。嫌がったのを無理やり……悪かった」
「そん、そんなこと……!」
謝られて驚いた千夜だったが、そこで言葉に詰まる。嫌じゃないどころか気持ちよかったなんて言えなかった。ホテホテになる千夜を怪訝な顔で見つめつつ、朔は言いにくそうに白状した。
「千夜からはとてもいい匂いがするんだ。なるべく我慢していたのだが……」
朔がいつも不機嫌な顔で千夜をかじっていたのはそういう理由だった。こんなことを伝えたら引かれると思い黙っていたが、もう仕方がない。
「昨夜はどうにも手放しがたくなってしまって、必要以上に触れてしまったと思う。本当にすまなかった」
「……私、そんなに匂うの? だって匂いで探しに来てくれたのよね……?」
千夜は体をすくめ、できるだけ後ろに逃げた。朔が言うのはつまり、「美味しそうな食事がそこにいるので我慢しきれずかじった」ということなのでは。自分はいったいどんな匂いを発しているんだ。
「もしかして、初めて会った時から臭かった……?」
「いや」
朔は慌てて首を振る。人狼でない千夜にとってはわかりにくいことだろう。
「普通はそんなに気にならない。俺が千夜の匂いを気に入って覚えたから、強く感じるようになっただけで」
「気に入っ……」
「ああ、その。つまりだな、もとより神の矢で選ばれた千夜だろう? 俺とはいろいろ相性がいいはずなんだ。匂いも妙に好ましく感じてしまって」
言い訳めく朔の言葉。だが千夜は――自分が朔に惹かれていることだって認めざるを得なくなり困ってしまった。相性がいいのは千夜から朔へだって同じだろう。
(三年したら、離れなきゃいけないのに)
千夜はグッと唇を結んだ。朔は千夜を本当の妻にはしないと約束した。千夜もその契約を守らなければ。決意した厳しい表情に心臓をつかまれ、朔は顔をゆがませる。
「……こんなのはもう嫌か?」
「え?」
「匂いがどうとか……人狼ではない千夜にとって、やはり俺たちの暮らしに馴染むのは難しかろうな」
千夜から見えた苦しさが人狼への嫌悪感だと誤解して、朔は落ち込んだのだ。でも千夜のためならば受けとめて――解放してやらねばならない。
「無理ならば、もう町へ逃がしてやる。俺は近々町へ出かけてみようと思っていたから、その時にでも」
「ちょ、ちょっと朔」
「だって俺はこれ以上、千夜を傷つけたくないんだ」
「いえ、待って? 私ぜんぜん傷ついてないし」
思い詰めた朔のことを、千夜は慌てて制止する。
「約束したでしょ、三年は妻でいるって……朔が嫌になったら仕方ないけど」
「俺が? 嫌なわけないだろう」
「なら……まだそばにいさせてよ」
おずおずと申し出た千夜の言葉に、朔は目を見開いた。
いてくれるのか。この里に。自分の隣に。
「千夜は町に行きたかったんじゃないのか?」
「そりゃあそうだけど。朔の妻の役目もちゃんと果たさないと……あ、でも町へ行くならいろいろ見てきてね。百貨店も、活動写真も!」
「……千夜はたくましい」
そこに人の世の強さを感じ、朔は目を細める。何年も感じていた苦しみがあふれ出した。
「生き生きとした人間たちに比べ、命をつなげられなくなった我ら人狼など……もう滅びるのかもしれないと思っていた」
「朔?」
「いや、無理に人と交わり薄まりながら続くより、さっさと消えてしまえばいいんじゃないか? だから千夜を娶るのだって拒んだんだ」
なのにどうして千夜を愛してしまったのか。自分の未練がましさが嫌になる。千夜がまだここにいると言ってくれたのが嬉しくてたまらないのだ。自嘲する朔だったが、千夜は軽やかに笑った。
「消えなくたっていいでしょ。何もかも、変わっていくのが当たり前だわ」
「千夜……」
「獣の方の狼たちは姿を消したのだったわね。でも人狼はまだ生きている。生きられるのなら、それでいいじゃない?」
なるべくなんでもなさそうに、千夜は励ました。
孤独な人狼を率いていく未来と、朔はずっと向き合ってきたのだろう。数を減らす一族。変わりゆく世界。そんなもの、ひとりで背負うには重すぎる。
「落ち着いて、ゆっくり考えなさいな。朔だけで立ち向かっているなんて思わなくていいのよ」
「それは……」
千夜はただ、朔の心をなぐさめたかったのだ。だが「消えずに変わればいい」という言葉は、裏を返せば「人と子を生してもいいんじゃない?」という意味にもなる。
朔は黙り込んだ。千夜がそこまで考えずに言ったのは明白。さっきのセリフは純然たる善意にすぎなかった。
「ふう……」
息を吐いて心を落ち着ける朔のことを、千夜はにこにこ見守った。何もできない千夜なのだから、せめて気持ちの面ぐらい支えてあげたい!
「千夜……」
「なあに」
うめくように名を呼んだ朔は、続きを黙ったまま手ぬぐいをもう一度絞った。千夜の足首を冷やし直す。ついでにそっと足の甲をなでてみた。ビクンとする千夜の足は、しっかり押さえて放さない。
「あの、足はもういいから……」
千夜がうめいたのだが、そんなことを言われると朔としてはもっとやりたくなる。無邪気にすぎる「妻」へのおしおきだ。顔をそむけた千夜の様子を観察しながら断りもなく脚を持ち、足指に口づけてみた。
「ひゃんっ」
「うん。足をかじるのも悪くない」
「な……なに言ってるの!?」
足なんかに触られては千夜の心が保たない。というか放してくれ。ふくらはぎとは着物の裾に隠しておくもので、気軽に触れさせるものじゃないのだ。
「朔やめて、失礼でしょ。私たちはかりそめの夫婦なんだし」
「おや? だって千夜は最初に言ったじゃないか。足首を見せる洋装で働くバスガールもいると。憧れているのだろう? 足首ぐらいなんてことはない」
「ある! なんてことあるってば! 朔のばか!」
いきなり意地悪になった「夫」のことを罵倒して、千夜はジタバタした。でも朔の手は動かない。力だけでいえば千夜のことなど軽く押し倒せるのだが――そんなことをして傷つけようとは思わなかった。大切な、大切な「妻」。
「ほら、布団に連れていこう」
「自分で歩くわよ」
「いいから」
椅子から立ち上がった千夜を、朔は軽々抱きあげた。そのまま首すじを軽くついばむ。
「きゃんっ」
「今夜はこれで勘弁してやる。よく眠れ」
「……っ!」
千夜は羞恥を抑えて朔をにらんだ。至近に迫る「夫」の顔は――愛おしくて憎たらしい。だからそんな気持ち、伝えられない。
「おやすみ千夜」
「……おやすみなさい、朔」
二人は離した布団に並んで眠る。間に衣紋掛けを置き、ついたてにして。
互いに想い合う偽物の夫婦が心を明かせるようになるのは、いったいいつの日のことか――。
いったん了、といたします
(気が向いたら続きを書くかも)



