✻
連れていかれた山道は、そんなに険しくなかった。
千夜の育った村が使っている入会地に比べれば高い山の上なのだろうが、人狼の里人たちが薪取りや山菜採りに利用する場所のようだ。人の足が踏みしめた道があり歩きやすい。いくつかの別れ道を越えて二人は奥へ足を進めた。
「山桜も、もう名残だわ……」
ほろほろ散る桜吹雪に、千夜はふんわりと微笑んでみせた。
本来はテキパキした性格の千夜だが、ここは白菊の対極をよそおう。朔の好みは守ってあげたくなる女性であって、竹を割ったような白菊だから好かれないのだと暗に煽ったのだ。千夜もいい性格だ。
「これから新緑ね。山が緑に染まるのを近くで見ていられるなんて嬉しい」
「のんきな奥さまだこと。山の厳しさを知らないからそんなことが言えるのよ」
白菊の苛立った声に、千夜は内心舌を出す。これは怒らせたくてしている言動だ。千夜だって山をよく見ながら歩いているのだ。
木々の間から地形を確認する。谷と尾根。そそり立つ崖。後ろに里の家々がチラリとした。陽射しは明るく強く、やってくる初夏を予感させた。
「……私、朔さまに嫁ぐものだと思って育ちましたのよ」
いきなり白菊が言った。手にしたザルでひらりと顔をあおぎ、嫌そうにそっぽを向く。千夜は「はあ」と間抜けな声を返した。
「朔は……白菊さんとは婚約していたわけじゃないと言いましたけど。私が心配するようなことは何もなかったと」
それはかなり意訳を含んでいるが、朔が白菊との関係を否定したのは本当。白菊の敵視には根拠がないと突きつけておかないと、ずっと絡まれっぱなしはごめんだ。
「うるさいわね!」
白菊はキッと大声をあげた。そして千夜に詰め寄る。
「私ほどふさわしい娘は里に居なかったのよ! 私が嫁ぐべきなの!」
「でも、子が産まれないから仕方ないのでしょ?」
「あなたが産めるかどうかなんてわからない! 何よさっきから朔さまの匂いをさせて、嫌みのつもり? 朔さまの匂いとあなたの匂いが混ざって臭いったらないわ!」
どうやら昨夜かじられた首すじからは、しっかり朔の匂いがしているらしい。白菊が鼻にしわを寄せあおいでいるのはそのせいだった。
匂いを嫌みと言われても千夜にはわからないのだが、白菊は侮辱だと感じるようだ。般若の形相で千夜につかみかかった。
「ぽっと出の人間の娘を里に引き込むなんて、そんなことになると思わなかった。はっきり言うわ、あなたに朔さまの妻なんか務まらない。邪魔なのよ消えてよ!」
ドン。
突き飛ばした白菊の手に押され、千夜はよろけた。その足が道の端を踏み外す。ズルリ。
「――あ」
――千夜の体は、急な斜面をすべって茂みの中に消えた。
✻ ✻ ✻
その頃の朔は、ひとりで出かけてしまった千夜の態度に打ちひしがれていた。
(昨夜は……どう考えてもやりすぎた。俺が悪い。千夜は俺を嫌ったのだろうか)
千夜の首から香り立つ、魅惑の匂い。むさぼってしまいたいのを必死でこらえたが口を離すのが名残惜しかった。
とりあえず怪我はさせなかったが、そんな執着が伝わったのなら恐ろしく思われても仕方ない。
隠れ里とそこを取り巻く山を、千夜は出ることができない。人狼の力で出口は隠されているからだ。だからいなくなってしまうことはないのだが、朔の顔を見ようとしない今朝の態度には不安があった。
(しばらくひとりで歩いたら落ち着いてくれるだろうか。少ししたら迎えに行こう)
朔は離れを出て、母屋にいる父のもとへ向かった。あまり仕事から離れているのも気がかりだ。しかし玄月は、あらわれた朔に片眉を上げた。
「おお朔。嫁はどうした」
「ひとりで散歩へ。里に慣れようとしてくれているんです」
「そうか。おまえも嫁が気に入ったようだと評判になっていたぞ」
機嫌よくされて、朔は微妙な顔になった。
「まあ……妙にとっつきやすい娘ではありますね」
それは匂いのことだけではない。千夜は物言いも行動もさっぱりして明るく、隣で見ていて楽しいと思えた。
それに――女ひとりで働き生きてみたいという強い意志。新しい世を求める風が千夜の中から吹いてくるような気がするのだ。その風は、山にこもって生きる人狼たちとはまったく違うもの――。
「いやはや、気難しいおまえがそんな風に。やはり神事で選ばれただけのことはある。相性のいい娘に違いないと言ったのは合っていたか」
「……はい」
それは認めざるを得ない。朔はもう千夜のことを好ましいと考えてしまっていた。ただの契約で妻にしたくせに。
(いけない。千夜のことは三年したら手放す約束なのだ。愛してしまってはならない)
朔はふる、と頭を振った。
「――父上、俺もまた町へ行ってみようと思うのですが」
「ほう」
「千夜が新聞や雑誌で聞きかじったことを聞かせてくれて。新しいものがいろいろ増えているようです。生糸以外の商売になるかもしれないし、現地で見てきたいと考えました」
「なんと。そんな知識を持ってきてくれるとは、やはり人間の娘を迎えてよかった」
満足そうな玄月の前で、朔は複雑な胸中を隠し無表情だった。
――そして帳簿に埋もれて過ごした朔が離れに戻った時、千夜はまだ帰っていなかった。
「千夜がどこに行ったかわからないだと?」
屋敷の者たちに訊いても、誰も千夜の姿を見ていなかった。
そっと屋敷を出たのは朔が見送った。その後、一度も帰っていないということだ。いつも朔と一緒にいる嫁なので、離れにいるのか母屋にいるのか里へ行ったのか気にかける者はいなかったらしい。
「千夜――」
朔の体から血の気が引く。青ざめた朔に、屋敷の者たちは必死の言い訳をした。
「若奥さまがそんなに遠くへ行くはずは」
「里から出ることはできませんし」
「これから手分けして探しに参ります」
「いや――目を離したのは俺だ」
朔の身にあふれた怒りは、自分へ向けられたもの。朔が無体をして気まずくなった妻の行方不明を使用人のせいにする気はない。
「俺ならば千夜の匂いがよくわかる。俺が行こう」
朔は早足で門を出た。
くん、とあたりに漂う空気を探る。千夜の残り香はあるだろうか。
「――」
無言で歩いていく朔の顔は厳しかった。千夜がいたような気配はあるが、だいぶ薄れてしまっている。
屋敷の者たちも里中に散り、千夜を見なかったかと声をかけて回っていた。匂いを探っている朔のことを心配そうに見てくる者たちもいたが手は出してこない。朔が探すのがいちばんだと皆わかっているのだ。
「――!」
ふと千夜の匂いが強く香った。バッと振り向く朔の視線の先にいたのは――白菊。目が合うと、昂然と頭を上げて見つめ返してくる。
「白菊――おまえ、千夜の行った先を知っているな?」
「あら、あの小娘はそんな名でしたの? 行方知れずって――人狼の里に嫌気が差して逃げたのではありません?」
白々しく言い立てる白菊の胸倉をつかみそうになって、朔はギリギリ耐えた。相手はいちおう女だ。だが確信する。周囲に聞こえるよう、朗々と申し渡した。
「おまえからは千夜の匂いがする。まずは千夜を探しに行くが、言い逃れできると思うなよ」
底冷えのする、そんな朔の声音を誰も聞いたことがなかった。凄みのある眼光に刺され、さすがの白菊も膝が笑う。
立ち去る朔の後ろで屋敷の者たちが目配せをし合った。白菊の身柄を押さえておこうというのだ。サッと白菊を囲む。
「……事情をお話しいただきたいのですが」
「し、知らないわよ! 知らないって言ってるでしょ!」
悲鳴のようなその叫び声を背にして、朔は山へと踏み込んだ。
✻ ✻ ✻
「――あーあ、やられたわ」
斜面を転がり落ちた千夜は、ちゃんと生きていた。
あちこちすりむいているのだが、それよりも右足をひねったのが痛恨の極み。踏ん張りがきかなくて元の道に登れない。
「えーっと、たしかあっちの山肌はゆるやかだったから……」
ここに来るまで、千夜はぼんやりと風景を眺めていたわけではない。
山菜採り競争だとはいえ白菊が誘ってくるなんておかしなことだ。山に置き去りにするぐらいされるかもと疑ってはいた。帰り道がわかるよう注意深く周囲を観察して歩いていたのだ。
しかし突き飛ばされてしまったのは甘かったと反省している。あれは白菊としても、ものの弾みというやつだろうが。
それにしても獣道をかきわけて戻るのは一苦労だった。かなりの時間がかかっている。傾斜の楽なところを選び、足をひきずり、ひょこたんひょこたんグルリと大回りした。
というか獣道ということは獣が通った道なのであって――獣がそこらにいるということ。何が出るのだろう。ウサギやタヌキぐらいであることを祈る。
「……猪とか熊とかだとしゃれにならないわよ」
もうずいぶん日が傾いた。明るさは残っているが、太陽そのものは山の端に隠れてしまっている。早く帰らないと。
「朔……心配してるかしら。ううん怒ってるかな」
ぽろりと弱音がこぼれ落ちた。
何も言わずに出てきてしまったことが申し訳ない。朝から顔をそむけてばかりだったうえに姿を消した千夜のことをどう思っているだろう。約束を反故にして人の村へ逃げ帰ったとでも考えただろうか。
「ちゃんと戻るわよ、ばか」
朔のもとから逃げたりしない。朔に会いたい。だから屋敷に帰る。
そう思って薮をかきわけていたら。
――ガサ。ガササ。
上の方で音がした。
「ヒッ」
つい息を飲んでしまう。しまった。あれが獣ならば気配を消さなければ。
「――千夜!?」
しかし薮の上から降ってきたのは、朔その人の声だった。
「千夜、そこにいるな? 匂いがする」
「――待って朔、私ってそんなに臭いの!?」
なんだろう、これは感動の再会でする会話じゃない。でも千夜にしてみればさっき白菊からも「臭い」と言われたし、気になってしまったのだ。
「馬鹿者、千夜はとてつもなくいい匂いだ」
そんなことを大真面目に言いながら薮を下りてきた朔は、ボロボロの千夜を見て顔をゆがめた。着物は汚れ、手指には土がこびりついている。
「……くそっ、白菊め許さんぞ」
「え、白菊さんがここを教えたの?」
千夜は仰天した。絶対しらをきると思っていた。だが朔は憎々しげに舌打ちする。
「白状するわけあるか。あいつに千夜の移り香があったから問い詰めたんだが、知らぬ存ぜぬで……俺が千夜の匂いをたどって来た」
「にお……だからどんな匂いなのよ、もう……」
そんな風に言われたらたまらない。千夜は恥ずかしくてちょっと泣きそうになった。だが朔はどこかが痛んだのかと思ったらしい。血相を変えて千夜の顔をのぞき込む。
「怪我したのか?」
「あ……右足首を、ひねってしまって」
それは正直に申告する。すると朔は、上の道からの斜面を振り仰いでうなずくと、ザッと千夜を抱きあげた。
「きゃあっ!?」
「つかまってろ」
ぐん。ぐん。朔の足は、力強く薮を登っていく。枝や草は自分の体で押しのけ、千夜を引っ掛けることもなかった。あっという間に人の通る山道に出ると、朔はそのまま歩き出す。
「さ、朔。重いでしょ」
「そんなことあるものか。人狼の力をなめるな」
なるほど。そういえばそうだと納得して千夜は黙った。おとなしく抱かれていた方が早く帰れるのだから協力しよう。すると朔が静かに尋ねた。
「山に入ったのは、白菊に連れてこられたのか」
「そう……あの、山菜を探しに行きましょって。朔の好きなものが旬だから、料理してどっちが美味しいか勝負よって誘われて」
「……あいつのそんな甘言に騙されたと?」
「違うわよ! なんか企んでるみたいだったから乗ってあげたの! どうせ置き去りにするとかだろうし、しれっと一人で帰ってみせようかと……思ったん……だけど」
尻すぼみになったのは、朔の体がふるふる震え出したせいだ。そんなに怒ったのかと思ってビクついたら、朔は「ははっ」と声をあげて笑い出した。
「千夜……まったく何をするやら。ははは、目が離せないな」
「なんでそんなに笑うの……」
「楽しいからだ。千夜は突拍子もないことばかり考える」
そんなに面白がらなくても。とても居心地が悪くなったが、横抱きにかかえられていては逃げ場がなかった。せめてもの抵抗に顔をそらす。
朔はそのうなじを目の前にして、千夜の甘い匂いに微笑んでいた。
(千夜――まさかこんなに愛おしくなるとは)
手放したくない。その気持ちはふくらむばかりだ。
だが同時に朔は、千夜をこの閉塞した人狼の世界にとどめるのは罪だとも考えていた。
連れていかれた山道は、そんなに険しくなかった。
千夜の育った村が使っている入会地に比べれば高い山の上なのだろうが、人狼の里人たちが薪取りや山菜採りに利用する場所のようだ。人の足が踏みしめた道があり歩きやすい。いくつかの別れ道を越えて二人は奥へ足を進めた。
「山桜も、もう名残だわ……」
ほろほろ散る桜吹雪に、千夜はふんわりと微笑んでみせた。
本来はテキパキした性格の千夜だが、ここは白菊の対極をよそおう。朔の好みは守ってあげたくなる女性であって、竹を割ったような白菊だから好かれないのだと暗に煽ったのだ。千夜もいい性格だ。
「これから新緑ね。山が緑に染まるのを近くで見ていられるなんて嬉しい」
「のんきな奥さまだこと。山の厳しさを知らないからそんなことが言えるのよ」
白菊の苛立った声に、千夜は内心舌を出す。これは怒らせたくてしている言動だ。千夜だって山をよく見ながら歩いているのだ。
木々の間から地形を確認する。谷と尾根。そそり立つ崖。後ろに里の家々がチラリとした。陽射しは明るく強く、やってくる初夏を予感させた。
「……私、朔さまに嫁ぐものだと思って育ちましたのよ」
いきなり白菊が言った。手にしたザルでひらりと顔をあおぎ、嫌そうにそっぽを向く。千夜は「はあ」と間抜けな声を返した。
「朔は……白菊さんとは婚約していたわけじゃないと言いましたけど。私が心配するようなことは何もなかったと」
それはかなり意訳を含んでいるが、朔が白菊との関係を否定したのは本当。白菊の敵視には根拠がないと突きつけておかないと、ずっと絡まれっぱなしはごめんだ。
「うるさいわね!」
白菊はキッと大声をあげた。そして千夜に詰め寄る。
「私ほどふさわしい娘は里に居なかったのよ! 私が嫁ぐべきなの!」
「でも、子が産まれないから仕方ないのでしょ?」
「あなたが産めるかどうかなんてわからない! 何よさっきから朔さまの匂いをさせて、嫌みのつもり? 朔さまの匂いとあなたの匂いが混ざって臭いったらないわ!」
どうやら昨夜かじられた首すじからは、しっかり朔の匂いがしているらしい。白菊が鼻にしわを寄せあおいでいるのはそのせいだった。
匂いを嫌みと言われても千夜にはわからないのだが、白菊は侮辱だと感じるようだ。般若の形相で千夜につかみかかった。
「ぽっと出の人間の娘を里に引き込むなんて、そんなことになると思わなかった。はっきり言うわ、あなたに朔さまの妻なんか務まらない。邪魔なのよ消えてよ!」
ドン。
突き飛ばした白菊の手に押され、千夜はよろけた。その足が道の端を踏み外す。ズルリ。
「――あ」
――千夜の体は、急な斜面をすべって茂みの中に消えた。
✻ ✻ ✻
その頃の朔は、ひとりで出かけてしまった千夜の態度に打ちひしがれていた。
(昨夜は……どう考えてもやりすぎた。俺が悪い。千夜は俺を嫌ったのだろうか)
千夜の首から香り立つ、魅惑の匂い。むさぼってしまいたいのを必死でこらえたが口を離すのが名残惜しかった。
とりあえず怪我はさせなかったが、そんな執着が伝わったのなら恐ろしく思われても仕方ない。
隠れ里とそこを取り巻く山を、千夜は出ることができない。人狼の力で出口は隠されているからだ。だからいなくなってしまうことはないのだが、朔の顔を見ようとしない今朝の態度には不安があった。
(しばらくひとりで歩いたら落ち着いてくれるだろうか。少ししたら迎えに行こう)
朔は離れを出て、母屋にいる父のもとへ向かった。あまり仕事から離れているのも気がかりだ。しかし玄月は、あらわれた朔に片眉を上げた。
「おお朔。嫁はどうした」
「ひとりで散歩へ。里に慣れようとしてくれているんです」
「そうか。おまえも嫁が気に入ったようだと評判になっていたぞ」
機嫌よくされて、朔は微妙な顔になった。
「まあ……妙にとっつきやすい娘ではありますね」
それは匂いのことだけではない。千夜は物言いも行動もさっぱりして明るく、隣で見ていて楽しいと思えた。
それに――女ひとりで働き生きてみたいという強い意志。新しい世を求める風が千夜の中から吹いてくるような気がするのだ。その風は、山にこもって生きる人狼たちとはまったく違うもの――。
「いやはや、気難しいおまえがそんな風に。やはり神事で選ばれただけのことはある。相性のいい娘に違いないと言ったのは合っていたか」
「……はい」
それは認めざるを得ない。朔はもう千夜のことを好ましいと考えてしまっていた。ただの契約で妻にしたくせに。
(いけない。千夜のことは三年したら手放す約束なのだ。愛してしまってはならない)
朔はふる、と頭を振った。
「――父上、俺もまた町へ行ってみようと思うのですが」
「ほう」
「千夜が新聞や雑誌で聞きかじったことを聞かせてくれて。新しいものがいろいろ増えているようです。生糸以外の商売になるかもしれないし、現地で見てきたいと考えました」
「なんと。そんな知識を持ってきてくれるとは、やはり人間の娘を迎えてよかった」
満足そうな玄月の前で、朔は複雑な胸中を隠し無表情だった。
――そして帳簿に埋もれて過ごした朔が離れに戻った時、千夜はまだ帰っていなかった。
「千夜がどこに行ったかわからないだと?」
屋敷の者たちに訊いても、誰も千夜の姿を見ていなかった。
そっと屋敷を出たのは朔が見送った。その後、一度も帰っていないということだ。いつも朔と一緒にいる嫁なので、離れにいるのか母屋にいるのか里へ行ったのか気にかける者はいなかったらしい。
「千夜――」
朔の体から血の気が引く。青ざめた朔に、屋敷の者たちは必死の言い訳をした。
「若奥さまがそんなに遠くへ行くはずは」
「里から出ることはできませんし」
「これから手分けして探しに参ります」
「いや――目を離したのは俺だ」
朔の身にあふれた怒りは、自分へ向けられたもの。朔が無体をして気まずくなった妻の行方不明を使用人のせいにする気はない。
「俺ならば千夜の匂いがよくわかる。俺が行こう」
朔は早足で門を出た。
くん、とあたりに漂う空気を探る。千夜の残り香はあるだろうか。
「――」
無言で歩いていく朔の顔は厳しかった。千夜がいたような気配はあるが、だいぶ薄れてしまっている。
屋敷の者たちも里中に散り、千夜を見なかったかと声をかけて回っていた。匂いを探っている朔のことを心配そうに見てくる者たちもいたが手は出してこない。朔が探すのがいちばんだと皆わかっているのだ。
「――!」
ふと千夜の匂いが強く香った。バッと振り向く朔の視線の先にいたのは――白菊。目が合うと、昂然と頭を上げて見つめ返してくる。
「白菊――おまえ、千夜の行った先を知っているな?」
「あら、あの小娘はそんな名でしたの? 行方知れずって――人狼の里に嫌気が差して逃げたのではありません?」
白々しく言い立てる白菊の胸倉をつかみそうになって、朔はギリギリ耐えた。相手はいちおう女だ。だが確信する。周囲に聞こえるよう、朗々と申し渡した。
「おまえからは千夜の匂いがする。まずは千夜を探しに行くが、言い逃れできると思うなよ」
底冷えのする、そんな朔の声音を誰も聞いたことがなかった。凄みのある眼光に刺され、さすがの白菊も膝が笑う。
立ち去る朔の後ろで屋敷の者たちが目配せをし合った。白菊の身柄を押さえておこうというのだ。サッと白菊を囲む。
「……事情をお話しいただきたいのですが」
「し、知らないわよ! 知らないって言ってるでしょ!」
悲鳴のようなその叫び声を背にして、朔は山へと踏み込んだ。
✻ ✻ ✻
「――あーあ、やられたわ」
斜面を転がり落ちた千夜は、ちゃんと生きていた。
あちこちすりむいているのだが、それよりも右足をひねったのが痛恨の極み。踏ん張りがきかなくて元の道に登れない。
「えーっと、たしかあっちの山肌はゆるやかだったから……」
ここに来るまで、千夜はぼんやりと風景を眺めていたわけではない。
山菜採り競争だとはいえ白菊が誘ってくるなんておかしなことだ。山に置き去りにするぐらいされるかもと疑ってはいた。帰り道がわかるよう注意深く周囲を観察して歩いていたのだ。
しかし突き飛ばされてしまったのは甘かったと反省している。あれは白菊としても、ものの弾みというやつだろうが。
それにしても獣道をかきわけて戻るのは一苦労だった。かなりの時間がかかっている。傾斜の楽なところを選び、足をひきずり、ひょこたんひょこたんグルリと大回りした。
というか獣道ということは獣が通った道なのであって――獣がそこらにいるということ。何が出るのだろう。ウサギやタヌキぐらいであることを祈る。
「……猪とか熊とかだとしゃれにならないわよ」
もうずいぶん日が傾いた。明るさは残っているが、太陽そのものは山の端に隠れてしまっている。早く帰らないと。
「朔……心配してるかしら。ううん怒ってるかな」
ぽろりと弱音がこぼれ落ちた。
何も言わずに出てきてしまったことが申し訳ない。朝から顔をそむけてばかりだったうえに姿を消した千夜のことをどう思っているだろう。約束を反故にして人の村へ逃げ帰ったとでも考えただろうか。
「ちゃんと戻るわよ、ばか」
朔のもとから逃げたりしない。朔に会いたい。だから屋敷に帰る。
そう思って薮をかきわけていたら。
――ガサ。ガササ。
上の方で音がした。
「ヒッ」
つい息を飲んでしまう。しまった。あれが獣ならば気配を消さなければ。
「――千夜!?」
しかし薮の上から降ってきたのは、朔その人の声だった。
「千夜、そこにいるな? 匂いがする」
「――待って朔、私ってそんなに臭いの!?」
なんだろう、これは感動の再会でする会話じゃない。でも千夜にしてみればさっき白菊からも「臭い」と言われたし、気になってしまったのだ。
「馬鹿者、千夜はとてつもなくいい匂いだ」
そんなことを大真面目に言いながら薮を下りてきた朔は、ボロボロの千夜を見て顔をゆがめた。着物は汚れ、手指には土がこびりついている。
「……くそっ、白菊め許さんぞ」
「え、白菊さんがここを教えたの?」
千夜は仰天した。絶対しらをきると思っていた。だが朔は憎々しげに舌打ちする。
「白状するわけあるか。あいつに千夜の移り香があったから問い詰めたんだが、知らぬ存ぜぬで……俺が千夜の匂いをたどって来た」
「にお……だからどんな匂いなのよ、もう……」
そんな風に言われたらたまらない。千夜は恥ずかしくてちょっと泣きそうになった。だが朔はどこかが痛んだのかと思ったらしい。血相を変えて千夜の顔をのぞき込む。
「怪我したのか?」
「あ……右足首を、ひねってしまって」
それは正直に申告する。すると朔は、上の道からの斜面を振り仰いでうなずくと、ザッと千夜を抱きあげた。
「きゃあっ!?」
「つかまってろ」
ぐん。ぐん。朔の足は、力強く薮を登っていく。枝や草は自分の体で押しのけ、千夜を引っ掛けることもなかった。あっという間に人の通る山道に出ると、朔はそのまま歩き出す。
「さ、朔。重いでしょ」
「そんなことあるものか。人狼の力をなめるな」
なるほど。そういえばそうだと納得して千夜は黙った。おとなしく抱かれていた方が早く帰れるのだから協力しよう。すると朔が静かに尋ねた。
「山に入ったのは、白菊に連れてこられたのか」
「そう……あの、山菜を探しに行きましょって。朔の好きなものが旬だから、料理してどっちが美味しいか勝負よって誘われて」
「……あいつのそんな甘言に騙されたと?」
「違うわよ! なんか企んでるみたいだったから乗ってあげたの! どうせ置き去りにするとかだろうし、しれっと一人で帰ってみせようかと……思ったん……だけど」
尻すぼみになったのは、朔の体がふるふる震え出したせいだ。そんなに怒ったのかと思ってビクついたら、朔は「ははっ」と声をあげて笑い出した。
「千夜……まったく何をするやら。ははは、目が離せないな」
「なんでそんなに笑うの……」
「楽しいからだ。千夜は突拍子もないことばかり考える」
そんなに面白がらなくても。とても居心地が悪くなったが、横抱きにかかえられていては逃げ場がなかった。せめてもの抵抗に顔をそらす。
朔はそのうなじを目の前にして、千夜の甘い匂いに微笑んでいた。
(千夜――まさかこんなに愛おしくなるとは)
手放したくない。その気持ちはふくらむばかりだ。
だが同時に朔は、千夜をこの閉塞した人狼の世界にとどめるのは罪だとも考えていた。



