人狼の花嫁はモダンガールの夢を見る

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 そんなことがあった夜、寝所で朔と向き合った千夜は引きつった顔で「夫」を見た。

「朔……笑ったりできたのね」
「失礼だな千夜」

 答えた朔は普通に無表情だった。

(そういうところでしょ)

 千夜は思ったが、口に出すと夫婦喧嘩になるかもしれないので黙っておく。
 しかし朔にしてみれば面白ければ笑うのは当然だ。普段は楽しい事がなく、あまり笑っていなかっただけで。あの時は――千夜の喧嘩腰が面白かったので自然に笑えた。それだけだ。

「ああしておかないと千夜の立場に響く。それでも一年ぐらいの様子見の後は針のむしろかもしれない。出だしで持ち上げておかねばならないと判断した」
「そうね……」

 子を産むために来た千夜。その兆しがなければ次第に里人の目も厳しくなるだろう。朔は厳しい顔で小さく頭を下げた。

「すまない」
「ちょ、ちょっとやめてよ。私もわかっていて話に乗ったんだわ。ありがたかったのよ? 村の誰かに嫁ぐより町へ出てみたいと思ってたんだもの」
「町――」

 朔が思い出す顔になった。実は一度だけ町へ下りたことがある。何も知らずに商いを率いるわけにはいかないからだ。
 人の町には生気が満ちていた。残された古い物を大事にしつつ、新しい物を求める時代のうねりに圧倒された。それは――人狼の里にない空気。だが目の前の千夜からは同じ風を感じる。

「千夜は――変わりゆく人の世そのもののようだ」
「そう?」

 こてん、と首をかしげて千夜は不思議そうにする。その首すじに口づけたくなり、朔は膝を進めた。だが千夜はそれをとどめる。

「ちょっと待って。訊きたいのだけど」

 千夜のまなざしは真剣だった。眉をひそめる朔に向かってズバリと切り出す。

「白菊さんとは、恋仲だったの?」

 それはとても重要な話。千夜をかじるより先に答えてほしかった。
 しかし問われた朔は虚を突かれたように固まった。まったく思ってもみない疑問だったので。

「……いや? そんなことは、まったく」
「じゃあどうして白菊さんは、自分が妻になるべきだったとか思い込んでるの?」

 千夜はブスッとふくれつらになった。
 嫁入りの行列をにらむほどの憎しみと、こちらを見下げる気位の高さ。それは過去に朔と何かあったからではないかと推測したのだ。
 朔はこの里の頭領の息子。そして見目麗しく、態度も堂々として頼りがいがある。里の娘たちから人気があってしかるべき男だ。

「それは……白菊の親のせいだろうな」

 だが朔は不機嫌な口調だった。

「家の格と年の頃。そんなものを考えたら白菊は釣り合いが取れる相手だ。だから白菊に吹き込んで育てたのさ。頭領の妻としてふさわしく振る舞えと」
「えええ……まあでも、美人だし押し出しが強いし、一族をまとめるにはいい女性なんじゃ」

 いちおう取りなしてみた千夜の言葉を、朔は鼻で嗤った。

「俺を獲物のように狙うところが好きじゃない」
「はあ……そう」

 なるほど。朔が白菊をなんとも思っていなかったのは真実らしい。よかった。

(本当は恋しい人がいるのに、私を妻として迎えているなんて嫌だもの)

 千夜の懸念はそういうことだったのだ。もしそうなら、白菊が千夜に突っかかるのも無理はない。でも白菊の勝手な思い込みが原因だというなら――心置きなく反撃しよう!
 千夜が納得したのがわかったのか、朔は話を戻した。今夜の儀式にだ。

「ところで、首すじをかじってみてもいいか?」
「は?」

 目が点になった千夜は、次の瞬間バッと両手で首を隠した。何を言うのだこの人は。

「な……なっ」
「案じるな、慎重にやる。やわらかい部位だし急所だ」
「そっ、それは当然だけどっ」

 千夜はジリ、と後ずさった。首すじだなんて、そんなところ! だが朔は無表情に追い詰めてくる。

「仕方ないだろう。腕は左も右も噛んでしまった。しっかり着物に隠れる場所へ匂いをつける必要はないが、首は表に出ているところだぞ。そこを外すわけには」
「え……でも」
「でもじゃない。かじらせろ」

 がし。
 にじり寄り、千夜の腕をとらえる朔の瞳は獲物を前にした狼のよう――。

(あ。そうか朔は狼の頭領……狩る側だから、白菊さんに狙われるのは嫌なのね)

 いきなり降ってきた理解はともかく、朔は千夜の肩を抱き寄せる。でもその仕草にあるのは色気ではなく、食い気だ。

(食べられちゃうっ! 私、食べられちゃうぅーっ!)

 千夜は焦るが、朔だって喰い殺す気はない。だが千夜のかもす香りに幻惑されているのは確かだった。

(なぜ千夜はこんなに俺を惑わすんだ……?)

 それが「相性のいい娘」ということなのか。神事の威力をあらためて思い知るが、首すじを味わいたいという欲求にあらがうのは難しかった。これは約束を盾にした横暴かもしれない。だがかじってみたい。
 朔は身じろぎできないよう千夜を押さえつけると、なるべく優しく頭を傾けさせた。

「あ……あ、やめ」
「許せ」

 千夜の抗議を一蹴し、朔は唇を寄せた。まずは歯を立てないようにしたが、それだとただの口づけ――うなじをついばまれ、ビクッと千夜の体が揺れた。

「あ……んっ」

 もれた甘い声に朔の理性が飛びかける。吐息が熱く燃えた。剥きたくなる牙を、ちろ、と舌でなだめる。
 その舌先がうっかり触れた千夜の肌は――とてつもなく美味かった。


  ✻ ✻ ✻


 次の日、千夜は生きて目を覚ました。
 でも朝餉の後すぐに独りで屋敷を出る。といっても村へ逃げ帰るわけではない。ただただ、朔と顔を合わせるのが嫌だった。

(恥ずかしい……私、あえぐような声をあげてしまって!)

 思い返すと赤面してしまう。
 昨夜の朔は、執拗に千夜の首すじを求めたのだ。唇を這わせ。軽く歯を当て。熱くザラリとした感触は、おそらく舌だったのではないか。
 そんなことをされたのに――千夜はそれが嫌じゃなかった。むしろ心地よくて、切ない声がもれるのを必死にこらえたのだった。

(信じられない! はしたない! 妻のフリをするだけと言ったのに、閨で応えるみたいな声は朔に聞かせちゃ駄目でしょ!)

 息も絶え絶えに解放されてからは、布団をかぶって寝た。今朝も朔の顔はろくに見ていない。うつむきがちに朔を避け、出てきてしまった。そんな態度を取って、朔は何があったかと気にしているだろうか。

(朔のこと、嫌いじゃないのよ)

 千夜は心の中で言い訳した。
 朔は、むしろ好ましい。初対面から手の内を明かして交渉し、約束を取り決めようとした姿勢も信用できるし誠実な人だと思う。
 ただ、あくまで契約で結婚している相手なのだ。近づきすぎてはいけない。頭を冷やしてから屋敷へ戻るつもりだった。

「――ちょっとあなた!」

 人目を避けて里の外れを歩いていた千夜のことを呼びとめたのは、高飛車な声だった。これはつまり――白菊。

「あら白菊さん。ごきげんよう」

 千夜はとっさにのんびりした声で挨拶した。朔との間に何かあったと思われてはまずい。
 近づいてきた白菊は、ふと鼻にしわを寄せた。あたりを見回す。

「朔さまはいらっしゃいませんの? 早々に愛想を尽かされたのかしら」
「そんなわけないじゃないですか。私、朔がいなくても一人で出歩くぐらいできますもの」

 ただの散歩だと強調し、千夜は会釈した。とっとと離れるにかぎる。

「お待ちなさい!」

 だが白菊は千夜を逃さなかった。獲物を見つけた目――なるほど、朔が嫌がったのはこういうところか。うんざりしていると白菊は言い放った。

「ちょうどいいわ。私と勝負なさいな」
「……勝負?」
「これから山菜を採りに行きましょう」

 強気な笑みを浮かべて白菊は提案した。

「朔さまがお好きな山菜が旬なのよ。いい物を見分けて摘み、料理して朔さまに食べてもらうの。どちらが美味しいか朔さまが決めてもらうわ!」
「はあ……」

 なんだそれは。そんな勝負をしても千夜にはなんの得もない。なのに白菊は千夜を見下ろし冷たく笑ってみせた。

「あら、怖気づきましたの? 人狼の妻ともあろう人が、山も歩けない? それともできないのは料理かしら」
「……別に、できますけど」

 白菊と関わるのが面倒くさいな、と思っただけだ。千夜だって山のふもとで育ったのだから山菜ぐらい毎年摘んでいる。まあ料理は――田舎料理しか知らないが。
 煮え切らない千夜のことを、白菊の目はギロリとにらむ。「逃がさないからね」とその瞳が語っていた。