人狼の花嫁はモダンガールの夢を見る

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 千夜はまず、人狼の里に慣れることから始めなくてはならない。幸い舅である玄月の申しつけにより、とりあえず千夜に仕事はないとのことだ。のんびり新婚生活を楽しめばいいのだったが。

(……それもすべては、世継ぎを産めという圧力なのよね)

 千夜は毎朝にこにこと義両親に挨拶しながら、やや申し訳なさを感じていた。玄月らが期待しているようなことは絶対に起こらないのだ。やることをやっていないので。

 かわりに朔が夜毎、妻に求めることといえば――かじる。それだけ。
 左腕から始まったその儀式は、二の腕、肩、指先をたどり、右腕へと移っていた。
 朔はたまに強く噛みすぎて千夜に悲鳴をあげさせるが、そんな時は熱い吐息を揺らして謝罪する。その顔が不機嫌に見えるのは、たぶん朔だって千夜をかじるなんてやりたくないからだろう。だがおかげで千夜がまとう朔の匂いはだいぶ濃くなったようだ。



「千夜、散歩に行こう」

 誘ってくれる朔も、今は普段より時間があるそうだ。「新妻と馴染め」とのお達しらしい。屋敷の門をくぐりながら千夜は尋ねた。

「普段のお仕事って何をしているの?」
「この里も商いをしていてな。それを取り仕切るのが頭領だ。俺はその補佐を」
「商い……」
「里では作っていない物を買い付けなければ豊かな暮らしはできないだろう? 我らは蚕を飼い、糸を作っている。山の幸もあれこれと売る」

 ほう、と感嘆の声を千夜はもらした。そして思い至る。

「ああ、商いで山を下りることがあるのね」

 それは前に聞いた、人と通婚した人狼のこと。商いのために人里にいて人間と心を通わせたのだろう。

「そういうことだ。この里は人の目からは隠されているが、我らは世の中をしかと見ている」
「そうなのね」
「だから……」

 朔はそこで声をひそめた。千夜の耳に口を寄せ、ささやく。

「町のことも調べられる。安心しろ」

 千夜との約束を忘れていない、と朔は伝えてくれたのだった。何やら内緒話をする新婚夫婦はさぞかし仲睦まじく見えたことだろう。本当は里を裏切る企みを語っているのだが、千夜は初々しい笑顔でうなずいてみせた。

「ええ」
「待ち遠しいな」

 それはまるで家族の将来を見据えるような言葉。朔もとんだ食わせものだ。
 しかし朔の隣で、千夜はなるべく楽しげに歩いた。二人はうまくいっていると里人に印象づけねばならない。朔の方は無愛想なのを変えようとはしないが、千夜の歩調に合わせているだけでも里人にとっては目を見張ることのようだ。

「朔さまでも奥方には気をつかうのか」

 そんなささやきが耳に入り、千夜はあきれた。

(朔ったら、いつもどれだけ勝手次第に振る舞っているのかしらね)

 今もとりたてて気をつかわれているようには思えないのだが。ただ並んで歩き、千夜の目が留まったものを説明したり質問に答えたりしてくれるだけ。
 だがそれが癇に障った者がいたようだ。

「――ああら、朔さま。人間の娘なんかにずいぶん丁寧だこと」

 やや離れたところから高飛車な声がして、千夜は足を止めた。
 千夜をねめつけるように顎を上げ、にらむその顔に見おぼえがある。花嫁道中を憎々しげに見ていた女だ。

「――白菊(しらぎく)、控えろ」

 朔の鼻にしわが寄る。苦々しい声音。千夜は白菊と呼ばれた女と朔を見比べた。白菊の視線はジトっと朔をとらえている。

(これ……なんだか私、すごく嫌われているわよね?)

 もちろん千夜が何かしたというわけではなかろう。見知らぬ女だ。
 たぶん白菊が気に入らないのは、千夜が「朔の妻」だから。

(そういうことなら!)

 千夜はそっと朔の腕に手を添えてみた。おっとりと微笑んで「夫」を見上げる。

「ねえ朔。この方は?」
「あ、ああ……さっき生糸のことを話したろう。蚕の(むろ)を任されている家の娘、白菊だ」
「まあ、そうなの。白菊さんもおうちで大切なお仕事をなさっているのかしら。すばらしいことね。私も何か朔の役に立ちたい」

 朔の腕を頼るようにして、千夜は体を寄せる。わざとだ。
 つまりこれは「なんの仕事もしていない自分だけど朔の妻という立派な役目がありますものねえ?」という煽りだった。「ただの人間の娘」と言われては黙っていられない。
 いつもよりしっとりしたしゃべり方と体の近さは、白菊に見せつけるためにやっている。朔にはそれが通じた。

(千夜……売られた喧嘩を買うのか)

 知らない土地に来たばかりで不安だろうに。千夜のへこたれない性根に笑いそうになるが、朔はこらえた。
 しかし嫌みは白菊にもわかったらしい。美しい顔がカッと紅潮した。

「人間なんかに何ができると? 朔さまの妻となるべき娘は……我らの一族から選ぶべきでしたわ」

 いちおう「自分が」とは言わず、白菊は主張する。だが暗に自分がふさわしかったと匂わせているのだろう。千夜は内心「面倒くさい」と思いながら傷ついた顔をしてみせた。

「まあ……里の皆さんもそう思っているの? 神事で選ばれた身なので、唯々諾々と嫁いできましたけれど。来ない方がよかったのでしょうか」

 千夜の肩が不安げに落ちる。そこに朔はそっと腕を回した。

「案じるな。もう千夜は俺の妻だ」
「朔……」

 芝居に乗ってきた朔を意外に思って、千夜は目をしばたたいた。軽く肩を抱く朔は、薄っすらと笑んでいる。

(え……)

 朔の笑顔など初めて見た。千夜の心臓が速くなる。思いのほか優しげな笑み。
 だがその感想は里の人々も同じだったらしい。どよめきが起こった。

「ひゃあ、朔さまが笑った!」
「おやおや嫁を取ると変わるものだねえ」
「仲が良いようで、よかったじゃないか」

 そんなざわめきに白菊がワナワナふるえる。人間の小娘を泣かせてやろうと思ったのにノロケを見せつけられ、怒りにはらわたが煮えくり返りそうだった。

「――ふんっ」

 きびすを返した白菊は、足音高く去っていった。