ドーン! ドーン!
初春の空に太鼓が響く。神託を告げる儀式が始まるという合図だ。緊張に村が静まり返る。
だが千夜は縁側へ出ると、軒の向こうを見上げた。冷たく澄み切った空気が清冽に頬をなでる。
小さな庭は農具がきちんと片づいていた。家の脇にささやかに広がる梅林で、白い花が風にほろほろと散りかかる。透きとおる梅の香に甘く鼻腔をくすぐられながら千夜はのほほんと遠くを見やった。
「――矢を射るって、お社の端の崖からでしょ? どんな剛弓を使うのかしら」
「こら千夜! 危ないから引っ込みなさい!」
母が慌てて袖を引く。千夜はもう十九歳にもなるというのに、ちっとも落ち着かない娘なのだった。
今日は山の中腹にある狼ケ峰神社で、御神託をいただく神事が行われていた。
なんでも「大神さまの嫁御寮を選ぶ」のだとか。しかも村の娘の中から問答無用で。今どき都会では路面電車が走り女学生たちが袴にブーツで闊歩しているというのに、時代錯誤なことだ。
祈りを籠め、神意を宿した矢をふもとの村へ向けて射る。矢が降った家の娘が神へ嫁入りするのだ――と村人たちには周知されていたが。
ドドン、ドドーン!
「ほら、もう放つっていう音だよ。怪我でもしちゃあおもしろくないじゃないの」
「あはは、母さんったら。こんな村外れまで矢が飛んで来るわけ――」
――――ヒューンッ! トスッ!
軽く笑って縁側にいた千夜の目の前で空気が切り裂かれる音がした。
見れば庭の真ん中には、土に深々と刺さった矢があり――。
「――え?」
千夜はその光景を信じられない思いで見つめた。
✻
空を飛び、千夜の家へと吸い込まれていく矢。それを崖の上の神社から見守っている男たちがいた。
ひとりは青年だ。鋭いまなざしに、無愛想な頬。不満げに結ばれた唇を開き、もらした声は低い。
「こんなやり方で、人間の娘を……」
「飲み込め、朔。おまえに子が生まれなければ我らの里が終わるかもしれん」
青年を「朔」と呼び、たしなめたのは壮年の男。これは朔の父で玄月という。今の一族を率いる男だ。つまり朔は次代の頭領。
「おまえと相性のいい娘が選ばれるはずだ。妻として大切にしてやれ」
「父上……」
嫁を娶るのは、この朔だった。
彼らは人であり、また狼でもある。
神社の奥の隠れ里に住む、〈人狼〉というあやかしの一族。
人狼たちは神とみなされることも多かった。故にこの狼ケ峰神社では〈大神〉を祀り崇めている。ふもとの村は丸ごと氏子だ。
矢を射たのは宮司。だが矢にはあらかじめ朔の気を籠めてある。だからふさわしい娘の元へ飛んでいく、とされていた。
(……そう上手くいくものか疑わしいが)
朔は目をすがめた。
矢を射込まれた家のあたりで人々が騒ぎ始めるのがわかる。その家には年頃の娘がいるのだろうか。
いたとしても、朔はこの嫁取りに忸怩たる思いを抱えている。神社の託宣に従い神へ嫁げ。そんな命令はあまりに横暴だ。
(我ら人狼一族に子が生まれないからといって……)
そう。
人狼の隠れ里では近年子が生まれていなかった。ただの獣としての狼たちが年々数を減らし、ここいらで見なくなったのと関係があるのかもしれない。
ともかく、先細って滅ぶばかりかと危ぶまれる人狼の里を救うため、人の腹を借りる。それが後に一族を率いねばならない立場の朔に課せられた使命なのだった。
✻
「いや、めでたいことだ! 神の花嫁とは!」
そうのたまった村長へ、千夜はジト目を向けた。花嫁に選ばれたとて何がめでたいのか。
託宣の矢が落ちた先を訪ねてきた村長と両親は、車座になってニコニコしている。その前で千夜は唇をキュッと結んだ。
神の矢が示した「嫁御寮」の存在。しかし――この家には娘が二人いる。千夜と、妹の小春だ。神託はいったいどちらのことを指したのか。
「姉さん……」
小春は軽く青ざめ、ちんまり座ってふるえていた。いきなり大神の嫁に選ばれたと言われて喜べるわけがない。だって大神とはつまり、狼だ。ならばこの嫁入りは神への生贄みたいなものなのでは。
妹の膝にそっと手を置いて励ましながら、千夜は両親に食ってかかった。
「うちに矢が飛んできたから、私か小春のどちらかを嫁に出すっていうの? 大神さまへ?」
「そうなるな。二人のどちらなのかわからんのが困ったことだが……」
父は平然と姉妹を見比べる。順当にいけば姉の千夜の方か、と考えているのが視線でわかった。
「こんな無茶苦茶なことってないわ!」
千夜は猛然と抗議する。
「お告げって何? 時代はハイカラなのよ? 女もカフェーで女給をしたりバスガールしたりで働いて生きられるの。なのに神さまの嫁って!」
それは聞きかじった話。町ではそんな暮らしがあるのだと、商人や郵便屋が村に噂を伝えてくれる。千夜自身は一度も村を出たことがなかったが。
でもたまに目にする新聞や雑誌で想像する都会の様子は千夜の憧れだった。袴姿に大きなリボン、編み上げブーツで女学校へ通う娘たち。農作業を手伝って育ち、農家の息子へ嫁に行くしかない千夜たち村娘とはまったく違う世界の住人だ。
「よそはよそ。村は村だよ」
あきれた顔でたしなめたのは母の方だった。
「ハイカラだなんだって、じゃあ誰も畑を耕さなかったら食べる物がなくなるじゃないの。ほんの少しの偉いさんたちがしてることを真似しようったって、あたしらじゃどうにもならないでしょうに」
「そうかもしれないけど! それにしたって大神さまだなんて……何よ、お社で巫女さんになれっていうことなの?」
「いいや違うんだ、千夜さん」
村長が割って入る。
なんでも神社には奥宮があり、そこには大神の一族が暮らしていらっしゃるのだとか。その惣領息子の嫁を村から迎えたいとの意向が神社へ伝えられ、今日の神事となったそうだ。
「え……」
神さまに実体があるとは考えていなかった千夜はあっけに取られた。
「大神さまの一族……? なら本当に妻として迎えられるってことなの」
「そうだよ。大切にしてもらえるはずだと宮司さんはおっしゃってたねえ」
村長はとりなすが、千夜の横で小春がつぶやいた。
「……でも神さまでしょう? どんな方かもわからないのに」
小春の目が不安そうに揺れる。千夜の手に手を重ね、キュッと握られた。もしかして、と千夜は思い当たった。
(小春……好いた人がいるんじゃ?)
近ごろの小春はちょくちょく家を抜け出す。縫い物をしていても筵を編んでいても、ふと目を離すと姿を消すのだ。そして戻ってくるとキラキラ輝く瞳をし、頬を染めていたりする。これは近所の誰かと逢引でもしているのではないか。
「……まあ私はこれまで、嫁に行く相手もなかったから」
千夜はつぶやいた。自分を納得させるように。だってこんな役目を小春に押しつけられない。
「順番からいえば姉の私が先に片付くべきよね?」
「おお千夜、おまえが引き受けてくれるか」
ホッとしたように父が笑った。
実をいうと、神託に従えば神社から謝礼がもらえる。村の中での立場も強くなるのだ。この家は千夜がいちばん上の子で、小春の他に弟も二人いる。彼らの暮らしが立つようにするため、この話を潰したくないのだった。
「千夜はそろそろ、どこぞに縁付けねばと考えておった。こんなことになるとは思わなんだが」
「私が嫁ぐしかないでしょ……小春なら、この村で幸せになる相手がいるわ」
「姉さん……!」
小春がほんのり赤くなった。誰かとの逢瀬を知られていると察したのかもしれない。
でも千夜は、妹の振る舞いを親に言いつけようとは思わなかった。二人だけの女きょうだいなのだし、みずから見つけた相手があるなら応援してやりたい。なるべく気丈に笑ってみせた。
「いいのよ小春。私は誰というあてがあるわけでなし」
「大神さま」なんて得体の知れない相手、本当は嫌だ。だがおそらく、拒んだら親ともども村八分になる。家族をそんな目にあわせたくはない。
「では千夜が嫁になるということで進めよう」
急いで話をまとめた村長とて、無理筋な命令だとは思っていたのかもしれない。千夜の気が変わる前に結論を決めつけたいのが見え見えだった。
狼ケ峰神社はこの村の守り神。その肝いりの神事となれば、いかに村長といえど逆らうわけにはいかないのだ。



