《優しさから生まれる合図》
事件が起きたのは、
週が明けた月曜日の三時限目の
歴史の授業だった。
「よし、それじゃあ
教科書の二十八ページを開いて……」
教壇の上の先生の声が響いた瞬間、
私は自分のカバンの中を覗き込んで、
血の気が引いていくのを感じた。
(嘘……ない。
どうしよう、忘れてきちゃった……)
何度も何度もカバンの奥底を
必死にかき回すけれど、
歴史の教科書の手触りはどこにもなかった。
大人しくて目立つのが苦手な私にとって、
授業中の忘れ物は
パニックになるほどの大事だった。
先生に見つかったら怒られる。
みんなの前で立たされたらどうしよう。
最悪の想像ばかりが頭を駆け巡り、
指先が小さく震えだす。
顔が完全に青ざめていたと思う。
その時、トントン、
と、右の肩を優しく叩かれた。
ハッとして隣を見ると、
羽瀬くんが私の青ざめた顔を覗き込んでいた。
彼はすぐに状況を察したようで、
「しょうがねえな」とでも言うように、
悪戯っぽくふっと笑った。
ガタッ。
静まり返った教室に、
少しだけ大きな音が響く。
羽瀬くんが自分の机を、
私の机のぴったり隣へと引き寄せたのだ。
『ほら、一緒に見よう』
声には出さず、口の形だけでそう言うと、
羽瀬くんは二人の真ん中に
自分の歴史の教科書をぽんと広げてくれた。
「あ、ありがとう、羽瀬くん……。
ごめんなさい……」
消え入りそうな声で、
頭を深く下げて謝る私に、
羽瀬くんは「いーって」と
手をひらひらと振った。
そして、
胸のポケットからシャープペンシルを抜くと、
広げた教科書の、
まだ何も書かれていない白い余白の部分に、
サラサラと文字を書き始めた。
『そんなに焦らなくて大丈夫。
先生、今日は機嫌がいいからさ』
ノートの切れ端ではなく、
この前と同じ教科書への直書き。
彼の少し丸っこくて力強い文字を
見つめているうちに、
トゲトゲと波立っていた心が、
すうっと丸くなっていくのを感じた。
私も自分のシャープペンシルを握り、
彼の文字のすぐ下に、
小さな文字で返事を書く。
『本当にありがとう。
すごく助かりました……』
『たまには俺も忘れるし、お互い様!』
先生が黒板に長い板書をしている間、
二人の「教科書での筆談」は
こっそりと続いた。
文字だけのやり取りなのに、
なぜか直接話すよりもずっと、
胸がどきどきして熱くなる。
『そういえば、休み時間、
窓際で友達と話してるとき、
よく外見てるよね』
羽瀬くんの新しい文字が躍った瞬間、
私の心臓が大きく跳ね上がった。
サッカーの練習や部活の姿を、
私がじっと目で追っていたのが
バレていたのだろうか。
恥ずかしさで顔がカッと赤くなる。
『うん。外の景色みて息抜きしたり』
そこまで書いて手が止まる。
私が見ている景色の中には、
羽瀬くんも映っていたからだ。
他に言い訳が思いつかず、
隣から待ってる視線を感じて続けて書いた。
『羽瀬くんがサッカーがんばってるの、
見えるから……』
言い訳も思いつかず、
消えちゃいそうなほど
小さな文字で本当のことを書いた。
それを読んだ羽瀬くんは、
一瞬だけ目を見開いたあと、
嬉しそうに、照れくさそうに、
左手で耳の後ろを少しボリボリとかいた。
そして、
少し楽しそうに弾むような文字を走らせた。
『じゃあさ、
次から目があったら合図でもしない?』
『合図……?』
『そう。周りのみんなには内緒の、
自然に出来そうなやつ』
そこまで書くと、
羽瀬くんはシャープペンシルを持ったまま、
動きをピタッと止めた。
黒板の上のほうを見つめながら、
「うーん……」と口の形だけで呟いている。
どんな合図がいいか、
彼なりに一生懸命考えてくれているみたいだ。
ピースサインじゃ目立ちすぎるし、
手を振るのも普通すぎる。
羽瀬くんは、
うつむいて教科書を見つめる
私の横顔をチラリと盗み見た。
その瞬間、何かを思い出したように
パッと表情を明るくした。
筆箱の影に隠すようにして、
彼はさらさらと新しい文字を躍らせる。
『こないだ一緒に見た、あの茶トラの猫。
あいつが毛繕いしてるときの
手の動きに似てない?』
羽瀬くんは前を向いたまま、机の下
──先生からも、
教室の誰からも絶対に見えない死角で、
自分の左手の手首を
「ぐる、ぐる」と優しく二回、
まるで手招きをするようにしなやかに
回してみせた。
(……あ、っ)
と、私は胸の中で声を上げた。
(……招き猫の手、だ……!)
彼が「俺たちのノラ猫」との思い出から、
この合図をひらめいてくれたことが、
たまらなく愛おしくて嬉しかった。
羽瀬くんは楽しそうに文字を続ける。
『手首二回「ぐる、ぐる」。
これなら招き猫みたいで自然だし、
誰も気づかないっしょ?』
教科書の余白の、彼の文字のすぐ隣。
私は胸のバクバク音を必死に抑えながら、
温かい気持ちでいっぱいに満たされて、
ゆっくりと文字を書き込んだ。
『うん。いいよ。「ぐる、ぐる」ね』
それを見た羽瀬くんが、前を向いたまま、
嬉しそうに口元をきゅっと緩める。
私の小さな呟きに応えるように、
羽瀬くんは机の下で、
もう一度優しく手首を
「ぐる、ぐる」と回して見せた。
外からは春の陽光が
窓ガラスを穏やかに照らしていた。
広い教室の、たくさんの生徒の中で。
たった二人だけにしか伝わらない、
愛おしい秘密の合図が誕生した瞬間だった──。
彼の手首、
そのしなやかな動きを見つめるだけで、
胸の奥が甘い熱で満たされていく。
先生が黒板に
チョークを走らせる音が響く中、
スッとまた彼の教科書が
私の机へと滑り込んできた。
『これで、次から遠くで
目が合っても大丈夫(笑)
白石さんが窓に隠れちゃっても、
俺がこれしたら「怒ってないよ」って意味な』
教科書をなぞるフリをしながら
その文字を読んで、
私はたまらず教科書の端っこに
小さく文字を紡いだ。
『わかりました。
…でも、授業中、
羽瀬くんが眠くなった時は
どうしたらいいですか?』
教科書を羽瀬くんの方へ見せると、
それを読んで「あ」という顔をした。
それから少し考えるように
シャープペンシルを
トントンと机に当てたあと、
さらさらと新しい文字を躍らせる。
『その時は、白石さんから俺に向かって、
「ぐる、ぐる」して。
そしたら俺、どんなに眠くても
一発で目ぇ覚ますから』
羽瀬くんの「一発で目が覚める」なんて、
まるで本当に私が魔法使いにでも
なったみたいだ。
嬉しさと恥ずかしさで、
私は消しゴムを握る手にぎゅっと力を込めた。
『わかりました。
羽瀬くんが寝そうになったら、
私、机の下でたくさんぐるぐるしますね』
そう書いて教科書を見せると、
羽瀬くんは肩を小さく震わせて、
声を出さずに「よろしく(笑)」
と、唇を動かした。
キーンコーンカーンコーン──。
静かな教室内にとろけていた眠気を
叩き起こすように、
五時間目の終わりを告げるチャイムが
鳴り響いた。
先生が「はい、ここまで」と
教科書を閉じた瞬間、
それまで静かだった教室が
一気にガヤガヤとした賑やかさを取り戻す。
羽瀬くんは「ふぅーっ」と
大きく息を吐き出すと、
自分の教科書をサッと引き戻した。
そして、周りの男子たちが
「羽瀬、次の休み時間売店行こーぜ!」と
席にドカドカと押し寄せてくる、
まさにその直前。
羽瀬くんは、
机の上の筆箱を片付けるフリをしながら、
私の方をチラリと見た。
クラスの誰の目にも留らない、ほんの一瞬。
彼は私たちだけの秘密を確かめるように、
私に向かって、
お腹の前で小さく優しく、
手首を「ぐる、ぐる」とまわしてみせた。
「っ……」
心臓が、
今日一番の大きな音を立てて跳ね上がる。
羽瀬くんは男子たちに
「おぅ、売店行くわ!」と
いつもの眩しい笑顔で応えながら、
席を立って教室の後ろへと
歩いていってしまった。
一人残された席で、
私は熱くなった頬を両手でそっと包み込んだ。
机の下で彼と交わした
あの「招き猫の合図」が、
目には見えないリボンのように、
私の心と羽瀬くんの心を
しっかりと結びつけてくれている。
(魔法の約束、大切にしよう……)
いつかあの太陽みたいな人の隣に、
堂々と並べる私になりたい──。
あの日、芽生えた小さくて大きな「夢」が、
この三時限目の終わりに、
より確かな、消えない光となって
私の胸の奥で輝き始めていた——。
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