《答え合わせ筆談(乃愛視点)》
四時限目のチャイムが鳴って、
先生が黒板の前に立つ。
だけど、私の心臓はさっきの三時限目
──あのグラウンドでの出来事のせいで、
いまだにトクトクと
落ち着きなく暴れ続けていた。
隣の席からは、体育の授業を終えて、
制服のシャツに着替えたばかりの羽瀬くんの、
少し汗ばんだ熱がじんわりと伝わってくる。
(やっぱり、あの時、
目が合ったのは偶然じゃないよね……?)
ノートを開きながらも、
恥ずかしさとドキドキで、
どうしても羽瀬くんの横顔を
直視することができない。
そんな私の焦れったい気持ちを
置き去りにするように、
机の上でコトッと小さな音がした。
見ると、羽瀬くんの現国の教科書が、
私の机との十五センチの境界線を越えて
スライドしてきていた。
そのページの端っこに、
シャープペンシルで直書きで
小さく殴り書きされた文字。
『白石さん、さっきのサッカー、
三階から見ててくれた?』
「っ……」
心臓が大きく跳ね上がる。
私は口元を両手で押さえながら、
震える手でシャープペンシルを握り直した。
バレていたんだ。
偶然なんかじゃなくて、
彼は本当に私を見ていたんだ。
私は顔がカッと熱くなるのを
必死に堪えながら、
彼の教科書の余白に、
少しいけないことをしている
気持ちになりながら、
小さな文字でこっそりと返事を書き込んだ。
『うん。約束だったから……。
すごく、格好いいシュートでした』
教科書をスッと右へ押し戻す。
羽瀬くんはそれを読むと、
片手で口元を覆いながら、
肩を小さく震わせて声を出さずに笑った。
その嬉しそうな横顔が眩しくて、
私は慌てて前を向く。すぐにまた、
教科書が私の元へ滑り込んできた。
『よかった(笑)。あいつらに
「今日の俺は誰にも止めらんねーよ」って
大口叩いたの、
白石さんが上から見ててくれたからだし。
絶対決めてやろうと思ってさ』
ーー『白石さんが上から見ててくれたから』。
そのまっすぐで甘い言葉が、
私の胸の奥を激しく締め付けた。
クラスの真ん中で輝いている
太陽みたいな人が、
三階の隅っこにいる私の視線を、
そんな風に自分のパワーに
変えてくれていたなんて。
私は胸いっぱいの幸福感に浸りながら、
最後のメッセージを
彼の教科書に書き加えた。
『……これからも、
羽瀬くんがサッカーがんばってるところ、
ずっと見ててもいいですか?』
教科書を受け取った羽瀬くんは、
その文字をじっと見つめた後、
ハッとしたように大きく目を見開いた。
そして、私の方をゆっくりと振り向く。
ガチッと。
今度はわずか十五センチの至近距離で、
二人の視線が真っ直ぐに重なり合った。
羽瀬くんは、
クラスの誰にも見せないような、
すごく優しくて愛おしそうな瞳で
私を見つめると、
声を出さずに口の形だけで、
はっきりとこう呟いた。
『──うん。ずっと見てて』
その瞬間、私たちの間に、
教科書の文字よりも確かな、
目には見えない『魔法の約束』の種が、
ぽっと温かく灯ったかのようだった。
羽瀬くんが口の形だけで呟いたその言葉が、
私の耳の奥で、頭の中で、
何度も、何度も、
温かい残響となってリピートされていく。
私の顔はもう、
隠しきれないくらい真っ赤に染まっていた。
慌てて前を向いて、
黒板の文字をノートに
書き写そうとするけれど、
心臓のドクドクという音がうるさくて、
先生の声が全然頭に入ってこない。
すると、机の上をスッと、
また彼の教科書が滑ってきた。
覗き込むと、そこには少し照れくさそうな、
でもどこか悪戯っぽい
新しい文字が躍っている。
『でも、白石さんが窓の陰にサッと隠れたの、
ちょっとショックだったんだけど(笑)。
俺、そんなに怖い顔してた?』
「っ……」
(違うの、怖かったんじゃなくて……っ)
あまりの恥ずかしさに、
私は心の中で叫びながら、
大急ぎでシャープペンシルを走らせた。
『怖くないです! 全然怖くないです。
ただ……羽瀬くんの笑顔が、
その、すごく眩しくて……
びっくりして隠れちゃいました。
ごめんなさい』
大慌てで書いた拙い言い訳の教科書を、
羽瀬くんの机へと押し戻す。
羽瀬くんはそれを開くと、
一瞬だけ動きを止めて文字を見つめ、
それから片手で自分の顔を覆ってしまった。
ブレザーの袖口から覗く彼の耳の後ろが、
みるみるうちに
真っ赤になっていくのが見える。
(あ……羽瀬くん、照れてる……?)
いつもクラスの真ん中で
堂々と笑っている無敵の彼が、
私の言葉ひとつで、
私と同じように耳を赤くして照れている。
その男の子らしい初々しい姿が、
たまらなく愛おしくて、
私の胸の奥をぎゅーっと
甘酸っぱく締め付けた。
しばらくして、
羽瀬くんは覆っていた手を
ゆっくりと下ろすと、
前を向いたまま、机の下
──先生からもクラスのみんなからも
絶対に見えない死角で、
自分の右手を小さくグーパンチしてみせた。
完敗です、みたいな感じがした。
そして、何かを言葉にする代わりに、
私のほうをチラリと見て、
悪戯っぽく微笑んだ。
(……ふふ、お揃い、だね)
授業中の十五センチの境界線。
この退屈な四時限目の教室の片隅で、
私たちは誰にも言えない、
二人だけの小さな秘密の足跡を
着実に刻み始めていた。
遠い世界の憧れだったあの人が、
私の、たった一人の特別な『夢』に
なっていくのを、
私は教科書の端っこに小さく滲んだ
シャープペンシルの芯の跡を
見つめながら、静かに、優しく、
噛み締めていた——。
