《見つめる未来、芽生えた夢》
夏の花火大会があり、
みんなで楽しく出かけて一週間ほどが過ぎた。
蝉の声が朝から響き渡る、真夏の午後。
今日は、二年生の三者面談の日だった。
乃愛は母親と並んで、
見慣れた校舎の廊下を歩いていると、
窓の外ではグラウンドから
運動部の掛け声が聞こえてくる。
その声に、
乃愛はふと足を止めそうになった。
――琉生くんも、今頃部活かな。
花火の日に仲直りして、
みんなと過ごした夏休みを経てから、
乃愛と琉生の関係は、まるであの日までの
すれ違いが嘘だったかのように、
穏やかに続いていた。
それでも夏休みは、
学校にいるときのように
毎日会えるわけではない。
そんなことを考えているうちに、
面談を行う教室へ辿り着き、
一呼吸おいてから扉を開けた。
「こんにちは、白石さん。今日は暑いね」
「こんにちは……」
担任の先生に挨拶をして、
乃愛と母親は並んで席についた。
最初は、
一学期の成績や学校生活についての話。
体育祭での様子や、
普段の授業での取り組みについて聞かれ、
乃愛は緊張しながらも一つひとつ答えていく。
そして、先生が机の上の資料をめくった。
「じゃあ、次は少し進路の話をしようか」
「……進路」
その言葉に、乃愛の指先がぴくっと動いた。
高校二年生、まだ卒業までは時間がある。
そう思っていたけれど。
「白石さんは、
卒業した後にやりたいことって、
何か考えてる?」
「……」
乃愛はすぐには答えられなかった。
頭の中に、
いろいろなものが浮かんでは消えていく。
大学、仕事、将来。
けれど、
自分が何をしたいのかと聞かれると、
胸を張って言えるものは何もなかった。
「……まだ、
はっきりとは決まっていません」
正直に答えると、先生は優しく頷いた。
「うん。今の時期なら、それで大丈夫だよ。
むしろ、これからいろんな選択肢を
知っておくことが大事だからね」
先生はそう言って、
一枚の資料を乃愛の前に置いた。
「白石さん、ピアノを習っているよね?」
「はい。小さい頃から……」
「それなら、音楽大学という道もあるよ」
「音楽大学……?」
思わず、乃愛は顔を上げた。
「そう。
ピアノを専門的に勉強する大学もある。
演奏だけじゃなくて、楽典や聴音、
音楽についての勉強もするんだ」
「……そうなんですね」
知らなかった。
ピアノはずっと好きだった。
けれど、それを「将来の進路」として
考えたことは一度もなかった。
先生が続ける。
「もちろん、今すぐ決める必要はないよ。
音楽の道に進むのか、
それとも別の道に進むのか。
これから実際に大学を調べたり、先生や
ご家族と相談しながら考えていけばいい」
「……はい」
乃愛は資料に視線を落とした。
そこには、音楽を専門的に学ぶための
大学について書かれている。
その文字を眺めながら、
乃愛は小さく息を吐いた。
――音楽を、勉強する。
そんな未来もあるんだ。
ふと、幼い頃の記憶が蘇る。
悲しいことがあった日。
ピアノの先生の隣に座って、
鍵盤から流れてくる音を聴いていた。
優しい旋律に包まれていると、
不思議と胸の奥にあった悲しさが
少しずつ薄れていった。
あの時間が、乃愛は好きだった。
けれど――。
それが将来につながるなんて、
今まで考えたこともなかった。
「白石さん?」
「……あ、ごめんなさい」
先生の声に、乃愛はハッとして顔を上げた。
「少し考えてみます」
「うん。それでいいよ」
先生が笑顔で頷いた。
面談が終わり、乃愛と母親は教室を出た。
廊下を歩きながら、母親が優しく尋ねる。
「音楽大学っていう話、どうだった?」
「……まだ、よく分からない」
乃愛は少し考えてから、続けた。
「でも……ピアノのこと、
もう少し考えてみたいな」
母親は嬉しそうに微笑んだ。
「そうね。焦らなくていいから、
ゆっくり考えてみよう」
「うん……」
昇降口を出ると、
真夏の陽射しが二人を包み込んだ。
乃愛は空を見上げる。
どこまでも続く青空。
その向こうに、まだ見えない未来が
広がっているような気がした。
「……私、何になりたいんだろう」
小さく呟いた言葉は、蝉の声に溶けていく。
まだ、答えは見つからない。
でも――。
今日初めて、自分の未来について
考えてみようと思った。
それだけで、ほんの少しだけ。
いつもの夏が、違って見えた。
乃愛は、肩にかけていた
スクールバッグを持ち直した。
その瞬間――。
バッグにつけた小さなキーホルダーが、
夏の光を受けて、きらりと揺れた。
イエロー色のニコちゃんマーク。
その隣には、四人の仲間が持っている
色違いの笑顔がある。
乃愛は、そっと指先で
キーホルダーに触れた。
「……みんなも、頑張ってるんだよね」
体育祭の日。花火を見た夜。
そして、五人で笑い合った夏休み。
思い出すたびに、
胸の奥が少しだけ温かくなる。
まだ、将来のことは何も決まっていない。
それでも――。
「私も……ちゃんと考えてみよう」
小さく呟いた乃愛の顔には、
さっきまでの迷いとは違う、
ほんの少しだけ前を向いた笑顔が浮かんでいた。
バッグのキーホルダーが、
もう一度だけ夏の光を受けて、
きらりと輝いた――。

