【会いたい想い、すれ違う心】
ジリジリと照りつける太陽の下。
セミの鳴き声が遠くで響く、
夏休みの静かな図書室。
校舎の冷房が微かに唸る部屋の片隅で、
乃愛と琉生は並んで座り、
それぞれの宿題のワークを開いていた。
他には数人の生徒が
まばらに座っているだけで、
ページをめくる音すら大きく
聞こえるほどの静寂が満ちている。
久しぶりに会えた琉生は、
一学期の終業式の日よりもずっと
真っ黒に日焼けしていた。
毎日炎天下のグラウンドを
走り回っている証拠だった。
だけど、制服のシャツから覗く首筋や、
机の上に投げ出された腕には、
連日の遠征と猛練習による隠しきれない
重い疲労がべったりと滲んでいた。
シャーペンを持った琉生の指先が、
微かに揺れる。
カクン、と大きく首を揺らしたかと思うと、
彼は抗うのを諦めたように
そのまま数学のワークの上に突っ伏して、
深い眠りに落ちてしまった。
規則正しい寝息を聞きながら、
乃愛の胸には底なしの申し訳なさが
込み上げていた。
「少しの時間でもいいから会いたい」と
我が儘を言って、疲れ果てている彼を
無理に図書室での短い待ち合わせに
呼び出してしまったのは、自分だ。
付き合っていることを
まだクラスの誰にも秘密にしているから、
学校の廊下ですれ違っても、
声をかけることすらできない。
夏休みに入ってからは部活の忙しさも
あって連絡も途切れがちになり、
乃愛の心は寂しさでとっくに
限界を迎えていた。
会えた嬉しさよりも、
彼に無理をさせている罪悪感の方が、
乃愛の小さな胸を苦しく締め付ける。
静かに流れる時間の中、
図書室の時計の針が、無情にも
帰らなければいけない時間を指した。
乃愛は切なさに胸を突かれながら、
眠る彼の肩をそっと揺すった。
「……生くん。琉生くん」
密やかな声で名前を呼ばれ、
琉生はハッと弾かれたように目を覚ました。
視界が白く霞む。
自分の腕の下に敷かれたノートの上を見ると、
そこには不格好なヨダレの跡がついていた。
(最悪だ、
まじでカッコ悪いところ見せた……)
一気に気まずさが押し寄せ、
寝ぼけて回らない頭のせいで、
琉生の口から出た言葉は思った以上に低く、
ぶっきらぼうなトーンになってしまった。
「あー……わり。寝てた。
何、もうそんな時間?」
「う、うん。……あのね、琉生くん。
無理して来なくても、良かったんだよ……?」
乃愛が、どこか遠慮がちに、
だけど寂しそうな瞳で琉生を見つめていた。
その「無理して」という言葉が、
疲労の限界を超えていた琉生の頭に、
ちくっと刺さる。
無理なんてしていない。
どんなに疲れていても、乃愛に会いたくて
仕方がなかったから来たのに。
その本音が、焦りでうまく言葉にならない。
「無理なんかしてねーよ。
ただちょっと部活がきついだけ。
……白石さんこそ、そんな顔すんなよ。
せっかく会えたのにさ」
『白石さん』
──図書室の中にいる
他の生徒たちの目を気にして、
琉生が咄嗟に口にした冷たい苗字。
呼ばれた瞬間、乃愛の心臓は
冷たく凍りついたように動かなくなった。
学校の中だから仕方がない。
彼は怒っているわけじゃない。
頭ではすべて分かっているのに、
内気な乃愛の悪い癖で、ネガティブな
感情が濁流のように止まらなくなっていく。
(私のせいで無理をさせている。
私の我が儘が、
琉生くんの邪魔をしているんだ──)
涙が溢れそうになるのを必死に堪え、
乃愛は膝の上のスカートの裾を
指が白くなるほどぎゅっと握りしめた。
重苦しく沈んでしまった
乃愛の様子に気づき、
琉生は胸のバツの悪さを誤魔化すように、
机の下へとそっと右手を滑らせた。
他の生徒からは決して見えない、
二人だけの死角。
琉生は乃愛の視線を引くように、
手首を「ぐる、ぐる」と
二回、優しくまわした。
『大丈夫だよ、気にしてないよ』という、
いつもの二人の優しい
魔法の合図のつもりだった。
しかし、今の乃愛には、その合図が
まるで違う意味に映ってしまった。
言葉を交わすことすら面倒だから、
合図一つで片付けて終わらせようと
しているのではないか。
──「これ以上、俺を困らせないで」という
拒絶のサインのように見えてしまったのだ。
限界だった乃愛の手が、無意識に動いていた。
机の下へと手を伸ばし、琉生の手首を、
両手でぎゅっと強く掴んで
その動きを完全に止めた。
「……え?」
掴まれた手首の強さに驚き、
琉生が顔を上げる。
でも、その時にはもう、
乃愛の感情の堤防は決壊していた。
大粒の涙が、堰を切ったように
次から次へと頬を伝って落ちていく。
「……今は、そんなのいらない」
「乃愛……っ」
「私のせいで、琉生くんを疲れさせて
……それなのに、そんな合図だけで
終わらせようとするくらいなら
……もう、会わない方がいいよ……っ!」
静かな図書室に、
叫ぶような震える声が響き渡る。
乃愛は椅子をガタッと
大きな音を立てて鳴らすと、立ち上がった。
周囲の数少ない生徒たちが「なんだ?」
と驚いてこちらを見るのも構わず、
乃愛は溢れる涙を手の甲で拭いながら、
図書室の重い扉を押し開けて
走り去っていった。
夜の花火大会で琉生をびっくりさせようと、
内緒で筆箱の奥に忍ばせていた、
あのひまわり色の付箋を、
机の上に置き忘れてしまったことにも
気づかないまま。
静まり返った席で、残された琉生は、
拒絶され、置き去りにされた
自分の右手を呆然と見つめていた。
あいつを傷つけた。
自分の不器用な態度と、
いつも通りの、慣れ合いの合図のせいで。
数十秒後、乃愛が座っていた側の机の上に、
ポツンと残された小さなひまわり色の
紙切れを見つけたとき、
琉生の心臓はドクンと大きく波打った。
その黄色い紙切れが、
乃愛が大切に持っていた付箋だと
気づいた瞬間、琉生を襲ったのは
血の気が引くような激しい焦燥感だった。
(待て、俺、まじで何やってんだ──)
「っ、乃愛……!」
声にならない声を漏らし、
琉生は付箋を引ったくるように掴むと、
自分の宿題やペンを机の上にぶちまけたまま、
椅子を激しく後ろに跳ね飛ばして走り出した。
図書室の静寂を完全に切り裂く足音が響き、
周囲の生徒が息を呑む。
重い扉を両手で押し開け、
ひんやりとした廊下へ飛び出す。
階段を駆け下り、
昇降口へと続く長い廊下を、
心臓を狂わせながら全力で走った。
だけど、蝉の鳴き声が容赦なく
降り注ぐ校門へと辿り着いたとき、
目の前に広がる夏の陽炎の向こうには、
もう乃愛の小さな後ろ姿は
どこにも見当たらなかった。
「……クソっ」
熱を帯びたアスファルトの上で、
琉生は膝に手をつき、激しく肩を揺らした。
自分の不器用さが、言葉の足りなさが、
どうしようもなく悔しくて堪らない。
あいつの寂しさに気づけなかった自分が、
信じられないほど情けなかった。
じりじりと肌を焼く蝉時雨の中、
琉生はゆっくりと右手の拳を開いた。
そこには、握りしめたせいで
少しシワになってしまった、
ひまわり色の付箋がある。
裏返された紙の隙間から、
乃愛の細くて綺麗な文字が、
ほんの少しだけ覗いていた。
琉生は息を詰め、
震える指先でその付箋の端をそっと開く。
そこに並ぶ文字を目で追った瞬間、
琉生の瞳が大きく見開かれ、
胸の奥を強烈な衝撃が貫いた。
(乃愛、お前──)
付箋に書かれた、
切ないほど純粋な乃愛の本音。
それをすべて知ってしまった琉生の顔に、
激しい後悔と、やり場のない愛おしさが
ぐしゃぐしゃに混ざり合っていく。
呆然と付箋を見つめる
琉生の横顔の向こうには、
じりじりと照りつける真夏の青空と
蝉の声だけが無上にも広がっていた——。

