【夏休みの寂しさ、秘密の合図】
一学期の終業式を終えた二年の教室は、
明日から始まる長い夏休みへの期待で、
まるで蜂の巣をつついたような
騒がしさに包まれていた。
窓から差し込む容赦のない真夏の陽射しが、
床に敷かれたワックスの匂いを
熱く蒸気させている。
「なー、夏休み最初の土曜、
みんなで海行く予定どうする!?」
「宿題マジで終わる気しねぇわ。
最初の三日で全部片付ける奴とか
都市伝説だろ」
クラスメイトたちが机を派手に並べ替え、
プリントを丸めてふざけ合う中、
乃愛は一人、窓際の自分の席で
静かに筆箱を片付けていた。
お気に入りのシャーペンを一本ずつ
ポーチに収めていく指先が、
ほんの少しだけ鈍い。
周囲の浮き足立った熱気から、
まるで自分だけが透明なカプセルに
取り残されているかのような、
小さな寂しさが胸の奥に
じわりと広がっていく。
夏休み。
それは、毎日当たり前のように
学校の教室で顔を合わせ、
隣の席で筆談を交わしていた琉生に、
明日から会えなくなることを意味していた。
付き合っていることを
クラスの誰にも秘密にしている二人は、
学校という共通の場所を失えば、
外でわざわざ約束をしなければ
一歩も近づくことができない。
毎日炎天下で猛練習があるという
サッカー部の過酷なスケジュールを
耳にするたび、内気な乃愛の心は
「彼の邪魔になっちゃいけない」と、
自分から連絡を入れるのをためらわせていた。
「乃愛! 終わったー!
ついに明日から夏休みだよ!」
不意に頭上から降ってきた弾けた声に、
乃愛はハッとして顔を上げた。
太陽のような笑顔を輝かせた親友の結衣が、
乃愛の机に勢いよく両手を突いて
覗き込んでいる。
その後ろから、いつも通り
穏やかな笑みを浮かべたひまりが、
スクールバッグを肩にかけて
歩み寄ってきた。
「ねえねえ、夏休みの予定、
そろそろガチで決めようよ。お祭りとか、
絶対三人で浴衣着て行きたいじゃん!」
「ふふ、結衣はもう頭の中が
夏祭りの花火でいっぱいだね。
乃愛、結衣に付き合ってあげるの
大変だけど、お祭りは行きたいよね?」
「うん……! 三人で浴衣着るの、
すごく楽しそう。私、夏休み中に、
みんなとたくさん思い出作りたいな」
乃愛は寂しさを隠すように、
いつもの優しい微笑みを浮かべた。
結衣は「よっしゃ!」と
ガッツポーズを決め、
さっそくスマートフォンの
カレンダーアプリを開く。
「あ、でも私、八月の前半は
ちょっとおばあちゃん家に
行かなきゃいけないんだよね。
ひまりは? なんか予定ある?」
「私は、特にはないかな。……あ、でも、
隣の家の幼馴染のお兄さんが、
今年は受験生だから。
たまに勉強教えてもらう約束はしてるかな」
「えー! 何それ、
なんかちょっと青春っぽくてずるい!
幼馴染の年上のお兄さんとか、
少女漫画の世界じゃん!」
結衣にからかわれ、
ひまりは「ただのお兄ちゃんだよ」と
困ったように、だけどどこか
少しだけ耳の先を赤くして微笑んだ。
その静かな横顔を見つめながら、
乃愛の胸がチクリと痛む。
みんなそれぞれ、
大切な夏休みの過ごし方がある。
自分は、琉生くんと過ごす時間を、
少しだけでももらえるのだろうか。
その時、
教室の後ろの方から、低く落ち着いた、
だけどどこか楽しげな声が近づいてきた。
「おい琉生。お前、夏休みの宿題を
遠征のバスの中で終わらせるって
豪語してたけど、
本当に計画通り進むと思ってんの?」
「んなわけねーだろ、颯人。
俺の頭脳を過大評価すんな」
サッカー部の仲間たちを引き連れて
歩いてきたのは、琉生だった。
その隣で、スクールバッグを
スマートに肩にかけた高城颯人が、
呆れたように薄く笑っている。
「遠征中さ、こいつマジで
サッカーのノートばっかり書いてんの。
他は完全に脳みそが停止してるから、
夏休みの数学の課題、絶対に俺の
写させてくれって泣きついてくるよ」
「頼むからバラすなよ。
……あ、そういや颯人。
体育祭の後に片付けのときさ、
橘と二人でなんか話してなかったっけ?
遠目に見えたんだけど、何話してたんだよ」
琉生が何気なく投げかけた言葉に、
颯人は「……お前、よく見てんな」と
一瞬だけ視線を泳がせ、
軽く琉生の肩を小突いた。
しかし、すぐにいつもの
クールな表情を取り戻し、
目の前でこちらを伺っていた結衣へと、
ふっと優しい視線を向ける。
「別に。橘が体育祭のプログラム
無くしたとか言って慌ててたから、
一緒に探してやっただけ。
……なぁ、橘。夏休みはお前いないし、
部活中うるさい声探さなくて済むから、
俺もキーパーに集中できそうだわ」
「な、なによそれ!
私はいつも落ち着いてるし!
高城くんのバカ、もう部活の応援なんか
絶対に行かないんだから!」
結衣は顔を真っ赤にして、
ツンと派手にそっぽを向いた。
けれど、その指先はどこか落ち着かなく
制服のスカートをもてあそんでいる。
颯人はそんな結衣の反応を
「はいはい、分かったから」と
軽く受け流しながらも、
その口元には、彼女とじゃれ合うのが
少し楽しそうな、優しい笑みが浮かんでいた。
賑やかな彼らのやり取りを、
乃愛は眩しそうに見つめていた。
(毎日のように、琉生くんのこんな笑顔や、
みんなの楽しそうな姿が
見られなくなっちゃうんだな……)
諦めにも似た寂しさに胸を突かれ、
乃愛が何気なく視線を落とそうとした、
その瞬間だった。
部活の仲間たちと談笑していたはずの琉生が、
ふと、まっすぐに窓際へと振り返った。
騒がしいクラスメイトたちの隙間を
縫うようにして、二人の視線が、
室温の上昇した空気の中でガチッと重なる。
琉生は、周囲に絶対にバレないように、
あえていつもの不敵で、
だけど最高に優しい笑みを浮かべた。
そして、サッカー部の奴らから
死角になるように、机の下に右手を隠す。
乃愛だけに届く位置で、
引き締まった手首を「ぐる、ぐる」と
二回、小さく、優しくまわしてみせた。
『大丈夫。寂しがるなよ、乃愛』
そう語りかけてくるような、
二人の秘密の合図。
乃愛の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
琉生はポケットからスマートフォンを
少しだけ覗かせると、
ポンポンと指先で叩いてみせた。
「あとで絶対に連絡する」という、
彼なりの不器用なサインだった。
その瞬間、
乃愛の胸を満たしていた冷たい寂しさは、
一瞬にして眩しいほどの期待へと
塗り替えられていく。
(琉生くんも、
私と同じ気持ちでいてくれたんだ……。
少しの時間でもいいから、
この夏休み、会えたらいいな)
胸の高鳴りを隠すように、乃愛は小さく、
だけどクラスの誰よりも幸せそうな
笑みを浮かべて、琉生へと静かに頷き返した。
カバンの中に大切に忍ばせた、
まだ何も書かれていないひまわり色の付箋。
それに琉生への大好きな想いを
たっぷり書き込んで、
いつか彼に手渡せる特別な夏が来ることを、
乃愛は心から楽しみにしていた——。

