隣の席のキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~


《夕暮れの笑顔、繋いだ想い》
夕方五時半。


すべての競技と閉会式が終わり、
完全に生徒たちの下校が始まった
静かな校舎裏。


初夏の爽やかな西日が
オレンジ色から朱色へと優しく傾いていた。


下校生徒たちの影を
グラウンドの土の上に
どこまでも長く伸ばしている。


校舎の裏手、
あの雨の日の隠れ家へと続く
フェンスの隅に、颯人と結衣、
そしてひまりの三人が並んで
制服のローファー姿で佇んでいた。


「あーあ、結局最後まで高城くんに
からかわれっぱなしじゃん、私。
ハイタッチした時
『お前の声まじでうるさかった』とか
言われたの、今思い出しても腹立つわー!」


結衣が夕日に向かって
ぷんぷんと頬を膨らませる。


隣にいたひまりがそんな結衣の顔を
覗き込むように優しくからかう。


「ふふ、でも結衣、
高城くんに『最高に格好よかった』って
褒めてる時、顔真っ赤だったよ?」


「む、ひまり! それはっ
……ただの体育祭の熱気ですーっ!」


そんな女の子二人の賑やかなやり取りを、
ちょっとだけ距離をとって
フェンスに寄りかかる颯人は、
ブレザーのポケットに両手を突っ込んで
ニヤニヤと眺めていた。


「お前本当に声だけは一丁前だよな。まぁ、
足のテーピングはガチできつかったけど」


「なっ、高城くん、
誰のせいで私が嘘ついて
足止めしたと思ってんのよっ!」


「はいはい、ありがとな」


颯人がフッと優しく笑って
結衣の頭を軽く小突くと、
結衣は一瞬だけ言葉を詰まらせて、
また顔をぽっと赤く染めた。


救護テントの前で生まれた、
付き合う前の二人だけの、
まだ名前のない小さな熱が、
オレンジ色の夕日の中で静かに揺れている。


颯人はそんな結衣の横顔をちらりと見た。


(……そういや、さっき……)


リレーの最中。


必死に走っていた自分に向かって、
結衣が無意識に叫んだ声。


――「颯人、いけぇぇぇーーーっ!!」


あの一言が、まだ耳の奥に残っている。


今までずっと「高城くん」だったのに、
あの瞬間だけ自分の名前を、
あんな必死な声で呼んでくれた。


颯人は、
その時のことを思い出すように、
小さく息を吐いた。


(……何考えてんだ、俺。
調子狂うわ、ほんと)


その時だった。


「――おーい! 待たせたっ!」


渡り廊下の向こうから、
聞き慣れた低くて爽やかな声が響いた。


みんながバッと振り返ると、
制服のブレザーに着替えを終えた琉生が、
いつもの太陽みたいな笑顔を
パッと咲かせた。


鎖で繋がれたフェンスのすぐ脇、
琉生の大きくて温かい右手に、
自分の左手を、
指の隙間を深く深く絡め合うようにして、
男らしくがっしりと「恋人繋ぎ」で
手を結ばれた乃愛の姿があった。


乃愛の右手首には、あの図書室で
琉生が丁寧に結び直してくれた、
真っ赤なハチマキのリボンが
夕風にさらさらと誇らしげに揺れている。


「乃愛――っ!!」


結衣とひまりが嬉しそうに駆け寄り、
乃愛は恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、
繋いだ手を離さないまま。


「結衣、ひまり
……本当に、ありがとう……っ」


と、心からの感謝を伝えた。


「ちょっと羽瀬!
乃愛の手離す気一ミリも無いでしょ⁉
どんだけ乃愛にベタ惚れなのよ〜、やばっ」


結衣が繋がれた二人の手を指差して
ニヤニヤと楽しそうに騒ぎ立てると、
琉生は顔を一気に
真っ赤に染め上げながらも、
繋いだ指先をさらに
深く絡め直して胸を張った。


「うるせぇな、橘。
もうこの四人の前では関係ねぇだろ。
……校門から一歩外に出たら毎日、
この特等席は俺のだからな。譲らねー」


「ひゃー! 言うねぇ、
完全優勝のMVP男は言うことが違うわ!」


「……琉生、お前まじで
百倍格好よくなって戻ってきたな」


颯人が呆れたように、でも心底嬉しそうに
ポカリスエットのボトルをひょいと掲げると、
その隣でひまりが優しく微笑んだ。


「本当に。二人とも、おめでとう。
今日の夜のLINEは、
いつも以上に忙しくなりそうだね」


ひまりのその鋭いツッコミに、
今度は乃愛が「ひ、ひまりまで……っ」と
ブレザーの裾をぎゅっと握りしめて、
琉生の背中の陰へと
恥ずかしそうに隠れてしまった。


その様子を隣で見ていた結衣が、
「もー、乃愛は相変わらず可愛いなぁ!」
と、乃愛の頭を撫でようと一歩踏み出した。


「ほら、乃愛。こっち向いて――」


そう言いながら、乃愛の方へと身を乗り出した。


その瞬間――。


「あっ……!」


足元の砂が、サッと崩れた。

体育祭が終わったばかりのグラウンドには
走り回った生徒たちの足跡で、
乾いた砂がところどころ浮いている。


結衣のローファーがその砂を踏んだ瞬間、
ツルッと足元が滑った。


「あ、ととっ――」


バランスを崩した結衣の身体が、
前へ大きく傾いた。


「っと、危ねぇ。」


その瞬間、後ろから颯人の腕が伸びた。


大きな右手が、結衣の右腕をしっかりと掴む。


「――っ⁉」


前へ倒れかけていた身体が、
ぐっと後ろへ引き戻された。


けれど、勢いまでは完全には止まらない。


結衣の背中が、
すぐ後ろにいた颯人の胸元へ、
少し触れるように寄りかかる。


「……大丈夫か?橘」


耳のすぐ近くから聞こえた颯人の声に、
結衣の息が一瞬で止まる。


振り返ることもできないほど近い。


右腕を包みこんでいる
大きな手のひらから、
走ったばかりの颯人の熱が
じんわりと伝わってくる。


「――っ⁉」


結衣の息が、一瞬でピタッと止まる。


「……危ねぇな。ほら、
足元まともに見てねぇからよろけんだよ」


「う、ごめん」


下を向いたまま顔を真っ赤にして
固まる結衣が後ろから
ちらっと見えて颯人はクスっと笑う。


「――っていうか、橘。
近すぎてお前の心臓の音
まじで響いてんだけど。
……これ、わざとやってねぇ?」


颯人はわざとぶっきらぼうな口調で、
結衣の右腕を握ったまま、
すぐ耳元でふっと悪戯っぽく口元を緩めた。


ゆっくりと離れていく、
颯人の大きな手のひら。


「わ、わざとなんて、してないし……っ‼」


「あはは、嘘。ごめん」


パニックになりながら、
顔を真っ赤にする結衣を見て、
颯人は、愛おしそうにクスクスと
声を殺して笑った。


その二人のドギマギした空気を
目の前で特等席から見せつけられた
琉生と乃愛は、顔を見合わせて、
これ以上ないほど悪戯っぽい
最高の笑顔を咲かせた。


「――なぁ、颯人。
近すぎて心臓の音響いてるって、
まじで無理。お前それ、
どこかで聞いたセリフなんだけど?」


琉生がここぞとばかりに
ニヤニヤしながら颯人の肩を小突き、
乃愛もポニーテールを揺らしながら。


「ふふ……っ。
高城くん、さっきの助け方……
あの時のダンス練習での琉生くんと、
バッチリ同じでしたよ……っ」


と、小さく口元を
袖で隠してクスクスと笑い返した。


「おい、琉生、白石!
お前ら付き合った瞬間、
二人して調子乗んじゃねぇよ!」


今度は颯人が
一瞬で耳たぶまで真っ赤に染め上げた。


「だって颯人、完全に俺の真似だったじゃん」


「うるせぇ! てか、知らねぇよ、
覗きなんてするか、バカ」


颯人は、
あの放課後の教室での乃愛と琉生の
やり取りを見たわけではなかった。


颯人自身にも、なぜこんな言葉が
口から出たのか分からなかった。


(……俺、今なんつった?)


ただ、いつも一緒にいる琉生から、
乃愛との惚気話を散々聞かされてきた。


だからなのか。


なぜか今、琉生の言動を
無意識になぞるような形で、
自分の口からこぼれていた。


まだ始まったばかりの、
この気持ちがなんなのかも分からない。


ただ――結衣が近くにいると、
どうにも調子が狂う。


「どうだか」


「ふふっ……」


五人の笑い声が、夕暮れの静かな校舎裏に
どこまでも心地よく響き渡っていった。


――その時。


「にゃあ」


足元で小さな鳴き声がした。

見ると、フェンスの隙間から
『茶トラ』が顔を出し、
二人の繋がれた手を祝福するように、
嬉しそうに目を細めて尻尾を
ゆらりと揺らしていた。


「茶トラも、ありがとねっ」


乃愛がしゃがみ込み、
優しく声をかける。


女子グループの間に
入って助けてくれた、あの小さな命。


乃愛にとっては、今日という一日を
支えてくれた大切な存在だった。


茶トラはそんな乃愛を見上げると。


「にゃあ」


と、もう一度だけ小さく鳴いた。


「……相変わらず、
乃愛にだけは懐いてんな」


琉生が苦笑し、乃愛は嬉しそうに笑う。


「ふふっ。茶トラ、可愛いです」


その横顔を見つめながら、
琉生は繋いだ左手に、
ほんの少しだけ力を込めた。


恋人になった。


今日までずっと守ってきた、
二人だけの秘密もある。


学校の中では、まだ以前と
同じように振る舞わなければならない。


でも――。


もう、以前とは違う。


隣にいるこの小さな手を、
今は堂々と握っていられる。


「……帰るか、乃愛」


「……うん、琉生くん」


夕日に照らされた二人の声が、
柔らかく重なった。


その少し後ろで、
結衣とひまりも並んで歩き始める。


颯人はそんな四人の背中を眺めながら、
ふっと小さく息を吐いた。


今日一日。


琉生は、乃愛を守るために走った。


自分は、その相棒のために、
最後までリレーの時間を繋いだ。


そして今。


あいつはちゃんと、
自分が一番大切なものを
その腕の中に取り戻している。


「……ったく。世話の焼ける相棒だぜ」


そう呟きながら、
颯人もみんなの後を追って歩き出した。


すると、前を歩いていた結衣が、
ふいに振り帰り微笑む。


「高城くん! 
早く来ないと置いてくよー!」


「……っ」


その笑顔を見た颯人は、
なぜか一瞬だけ視線を逸らした。



(……なんだよ、これ)



胸の奥が、妙に落ち着かない。
さっき腕を掴んだときに
伝わってきた、結衣の体温。


耳元で感じた、小さな心臓の鼓動。


そして――さっきのリレーで、
自分の名前を呼ばれたこと。



(……また、呼んでくんねぇかな)


そこまで考えてから、
颯人は自分で自分の考えに気づき、
眉をひそめた。


(……は?)


一瞬、思考が止まる。


(俺、今……何考えた?)


自分の考えに驚き、
そんなわけねぇなと考えをやめて、
いつもの調子を取り戻すように、
フェンスから背中を離す。


「はいはい。今行くっての」


オレンジ色の優しい夕日が、
五人の影をグラウンドの
土の上へ長く伸ばしている。


夕暮れの校舎裏。


体育祭という一日の大きな熱気が、
少しずつ静かな夕風へと変わっていく。


琉生と乃愛が繋いだ手。


結衣と颯人の、
まだ名前のついていない小さな気持ち。


そして、それを優しく見守るひまり。


五人の関係は、
今日という一日を境に、
ほんの少しだけ形を変え始める。


そして――。


初夏の爽やかな風が、
五人の背中を優しく追いかけていく。


その先に待っているのが、
どんな未来なのか。


まだ、誰にも分からない。


ただ一つだけ確かなことがある。


この日、
五人の胸に芽生えたそれぞれの「想い」は、
誰にも知られないまま、
静かに次の季節へと繋がっていった――。