隣の席のキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~


《空高く掲げた、秘密の合図》
午後のまばゆい光が降り注ぐグラウンド。


全校生徒や保護者の地響きのような
大歓声が渦巻いている。


二年男子リレーがついにスタート。


パン――ッ‼‼


グラウンドに
乾いたピストルの音が鳴り響き、
体育祭の最終種目、
二年男子リレーの火蓋が切って落とされた。


図書室から琉生と手を繋いだまま
大激走で戻ってきたばかりの乃愛は、
胸の真ん中をバクバクと波打たせながら、
一般生徒席の一番前、
トラックの白い線のすぐ近くに立っていた。


乃愛の両脇には、
結衣とひまりがしっかりと寄り添って、
一緒にグラウンドを見つめている。


乃愛が右手首をそっと見つめると、
そこには、図書室の白いカーテンの横で、
琉生が目を見つめながら大きくて
温かい指先で丁寧に結び直してくれた、
あの赤ハチマキのリボンが
さらさらと初夏の風に揺れていた。


リレーも終盤になり、颯人の番になる。


「――颯人、いけぇぇぇーーーっ!!」


結衣が喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。


その必死な声を
グラウンドの風の中に捉えた瞬間、
泥を跳ね上げて走る颯人の口元が、
一瞬だけニヤリと不敵に歪んだ。


(……あー、まじでうるせぇ。
声でかすぎだろ、橘。……っていうか、
今……俺のこと、「颯人」って呼んだ?)


一瞬、足を止めそうになるほど、
胸の奥がドクンと大きく跳ねた。


いつもなら「高城くん」と呼ぶくせに。


さっきまでだって、
ずっとそうだったはずなのに。


それなのに今、必死になって俺を応援する
その声から飛び出したのは、
名字じゃなくて、俺の名前だった。


(……名前で呼ばれるって、
こんなにヤバいのかよ。なんだこれ
……まじで、めちゃくちゃ嬉しいんだけど)


自分でも驚くほど、
その一言が胸の奥に深く残って離れない。


いつもはあんなに小生意気に
自分たちのことをからかってばかりの
お喋りな女の子が、今は髪を振り乱し、
顔を真っ赤にしながら、
俺の背中をただ真っ直ぐに
押し出すために声を張り上げている。


(だけど……そんな顔して叫ばれたら、
ここで無様な走り方なんて
まじでできねぇじゃん。
――っ、本当に、どこまで調子
狂わせたら気が済むんだよ、お前は)


嘘のテーピングでぎちぎちに
巻かれた足首の痛みなんて、
橘のその叫び声の熱さで
完全に吹き飛んでいた。


その愛おしい存在がトラックのすぐ横に
立っているという事実が、
颯人の心臓に強烈なニトロを点火させ、
彼の長い手脚の回転をさらに
爆発的な次元へと加速させていた。


「琉生――っ!!」


「っ、決めてくるっ!!」


お互いの名前と覚悟を
最短のテンポでぶつけ合うと同時に、
赤いバトンが琉生の大きな手のひらへと
ガツンと力強く渡された。


バトンを受け取った瞬間、
琉生の長い手脚が、
まるで火を噴くように爆発的なスピードで
グラウンドの土を蹴り上げた。


現在、チームの順位は四チーム中、
最下位の四位。


トップとはまだ十メートルくらいの
差が開いている。


他クラスの女子たちの
「羽瀬くん頑張れー!」という大歓声が、
地鳴りのようにグラウンド中に響き渡る。


だけど、直線コースに入った瞬間、
琉生は顔を上げて、
トラックの最前列でハチマキリボンを
胸の前で握りしめて待っている乃愛の方を、
真っ直ぐに見据えた。


重なる、視線。


何千人もの大観衆の雑音を
全部置き去りにして、
彼のあの真っ直ぐな瞳の『専用センサー』が
乃愛だけを一ミリの狂いもなく捉えた。


男子が苦手で、
いつもクラスの隅っこで
小さく縮こまっていた乃愛。


琉生は眩しすぎるって、
いつも一歩引いて逃げてばかりだった乃愛。


だけど、あの放課後の教室でも、
土曜日のデートの帰り道でも、
あの隠れ家でも、
そしてさっきの図書室でも、
彼はいつだって乃愛の不器用な手を引いて、
特別だと言って、
世界の一番真ん中へと連れ出してくれた。


今度は、乃愛の番だった。


乃愛は赤いハチマキリボンがついた右手と
反対の左手を口の前で
メガホンのような形にして、
お腹の底から、生まれて初めて、
現実のグラウンドで
大好きな人の名前を叫んだ。


「――琉生くん!!!!!
がんばってーーーーっ!!!!」


乃愛の生の声が、
体育祭の大歓声を真っ二つに切り裂いて、
彼の元へと真っ直ぐに届いた。


その瞬間、名前を呼ばれた琉生の瞳が、
カッと信じられないほどの熱い光を宿した。


(……あいつ、まじで自覚ねぇなっ――)


さっき図書室で、
乃愛のハグを受け止めながら
愛おしそうなあいつの顔が重なる。


乃愛から伝えられた本気の
「ずっとずっと、大好きなの」という言葉と、
初めて生の声で呼ばれた自分の名前が、
琉生の全身の細胞を沸騰させていた。


琉生の走るフォームが、さらに一段、
信じられないほどの次元へと加速した。


風を切り裂き、
泥を激しく跳ね上げながら、
一人、また一人と、前の走者を
もの凄いスピードでブチ抜いていく。


全校生徒や保護者たちが
「うわ、羽瀬速すぎるっ!!」
「何だあの追い上げ!?」
と地響きのような大歓声を上げた。


ゴール直前、
ついにトップの背中を捉える。


琉生は歯を食いしばり、
長い手脚を限界まで伸ばして、
真っ白なゴールテープへと
胸から飛び込んだ。


一瞬の静寂のあと。


ピストルの音がパンと響いた。


「二年二組、
一位ゴォォォーーーール――っ!!」


わぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!!!!!


グラウンド全体から、割れんばかりの、
耳が痛くなるほどの地響きのような
大歓声と大拍手が巻き起こった。


最下位からの、奇跡の大逆転優勝。


トラックのゴールライン付近では、
クラスの男子たちが
「琉生! まじでお前最高すぎるだろっ!!」
と琉生の元へ一斉に駆け寄り、
揉みくちゃになって歓声を上げている。


魂の激走を見せた颯人も、
男子たちの歓声の渦の中で
琉生とガシッと力強く肩を抱き合い、
お互いの健闘を称え合っていた。


そんな男たちの熱い喜びの輪から、
颯人は少しだけ外れるようにして、
息を切らせながらゆっくりと歩き出した。


彼が真っ直ぐに視線を向け、
歩いて近づいていった先。


そこは、トラックの白い線のすぐ横、
一般生徒席の最前列で
目を腫らしながら立っている、
乃愛と結衣の元だった。


「――だから言ったろ。
あいつ、今世界一速いって」


応援席の手前まで歩いてきた颯人は、
体操服の胸元をパタパタと仰ぎながら、
まだ涙目で立ち尽くしている結衣を見つめて、
ちょっとぶっきらぼうに、
でも最高に熱くニヤリと口元を緩めた。


「……っ、うん……っ!
琉生くんも本当にすごかったけど
……でも、高城くんもまじで、
めちゃくちゃ速かったんだからっ!!」


結衣が赤くなった顔のまま、
弾かれたように満面の笑顔を
咲かせて右手を差し出す。


「あー、まじでうるさかったわ、お前の声」


なんて颯人は、
照れ隠しの毒づきを小さく零しながらも、
結衣のその小さな手のひらに向かって、
自分の大きな右手をパチンっ!!
と力強く重ね合わせ、
最高の笑顔でハイタッチを交わした。


二人の手のひらから、
走ったばかりの初夏の熱い体温が、
お互いの胸の奥へと心地よく響き渡っていく。


その隣で、
乃愛が涙でボロボロになった顔のまま、
手首のリボンをぎゅっと握りしめて
グラウンドの真ん中を見つめていた。


――その時だった。


男子クラスメイトたちの手によって
「お前が今日のMVPだろ!」
と胴上げされそうになっていた琉生が、
ふっと振り返り、人混みの隙間から
乃愛の方を真っ直ぐに見つめた。


そして、彼は、全校生徒や保護者、
先生たちの視線が集中する
グラウンドのど真ん中で。


周りのみんなが
優勝のピースサインを掲げるなか、
自分だけは、
空を掴むように右手の手のひらを高く掲げ、
そこから力強く拳を作り、
乃愛だけに届くようにぐるぐる回した。


――ちゃんと届いたよ。ありがとな、乃愛。


「――っ、う、うん……っ!」


溢れそうになる涙をグッと堪えて、
乃愛もまた、
弾かれたように一歩前へ踏み出した。


誰もが優勝の興奮で
周囲の仲間とハイタッチを交わし、
お祭り騒ぎの歓声を上げている
グラウンドの最前列。


泥だらけのトラックの白線のすぐ横で、
乃愛を気に留める人なんて、
今のこの大歓声のなかには誰もいなかった。


完璧な二人だけの、内緒の特等席。


乃愛は、琉生にちゃんと見えるように、
自分の右手首に結ばれた
真っ赤なハチマキのリボンを
前に向かって大きく、大きく、
二回「ぐる、ぐる」と回し返しながら、
リレーの前の琉生くんと同じように
ゆっくりと口の動きだけで紡いだ。


――『琉生くん、かっこよかったよ。大好き』


「――っ、……」


それを見た琉生は、一瞬で理解し、
誰にもバレないように顔を赤くしながら、
世界で一番愛おしそうな
最高の笑顔を乃愛に向かって
クシャッと咲かせた。


声には出さない。


だけど、青空の下、
その手の動きと口の動きだけで、
二人の心は、世界中の誰よりも
深く、深く、
熱く繋がっているのが分かった。


学校の中だから、
まだみんなの前では「白石さん」
って格好つけなきゃいけない。


それは乃愛の為、
大人しくて優しさから気持ちを隠して
他を優先させたり、人混みが苦手で
みんなの前では小さくなってたり、
一部の女子からの嫌がらせなどから、
そんな乃愛を一番に守りたい。


じれったい日常。


だけど、お互いに相手の言葉(付箋)を
部屋にコレクションしていることも、
夜の画面の裏側で
名前を呼び合っていることも、
そしてこの大歓声の中で大きく
交わし合った『ぐるぐる合図』も、
全部、全部、二人だけの特別な秘密の宝物。


初夏の爽やかな風が
グラウンドを吹き抜けていく。


手首で揺れる真っ赤なリボンを見つめながら、
乃愛の心臓のバクバクは、
まばゆい午後の光に包まれながら、
いつまでも、いつまでも、
誇らしげに鳴り止んではくれなかった——。