隣の席のキミとひみつの合図   ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~

 
《特別な人、繋いだ心》
グラウンドの喧騒が遠く遮られた、
静まり返った校舎内の廊下。


そこへ、
泥と汗に濡れた真っ白な体操服姿の琉生が、
肩を大きく揺らし、激しい足音を
響かせながら猛スピードで走ってくる。


ドタドタドタドタッ――‼‼


グラウンドの賑やかさが嘘のように
静まり返った校舎の廊下に、
猛烈な足音がドクン、ドクンと
不穏に響き渡っていた。


息を激しく切らせ、
前髪を振り乱しながら、
琉生は図書室の重い扉の前に
滑り込むようにして急ブレーキをかけた。


橘からぶつけられたあの魂の叫びが、
今も耳の奥でバカみたいに
大きく鳴り響いている。


乃愛が、
自分のあげた日常のブルーの付箋を
部屋のコルクボードに全部、
宝物にして並べてくれていたこと。


そして、
今週末にJリーグ下部組織のスカウトが
直々に見に来る大事な公式戦の邪魔だからと、
クラスの女子たちに呼び出されて
ボロボロに責め立てられたこと。


(邪魔なわけねぇだろ……ッ!
待ってろ、乃愛……っ!)


バッ、と琉生は大きな右手を
ドアの取っ手にかけ、
静寂を完全に粉砕するようにして、
その重い木製の扉を乱暴に開け放った。


ガラッ――‼‼


大きな音を立てて開いたドアの向こう。


よく晴れた午後の図書室は、
大きな窓の白いカーテンから少し傾きかけた
強い日差しが斜めに差し込み、
きらきらと光の粒のように埃が舞っていた。


「――はぁ、はぁ、っ、白石、さん……っ!」


汗でびっしょりと濡れた体操服の胸元を
大きく上下させながら、
琉生は広い図書室の中を鋭い目で見渡した。


本棚の迷路の最奥、窓際の特等席。


ひまりに隣で優しく肩をさすられながら、
ちっちゃくなって膝を抱えて
泣いている乃愛の姿が、
琉生の専用センサーに一瞬で引っかかった。


琉生は迷わず、
あいつの元へとグラウンドの
直線コースのように一直線に激走した。

その凄まじい気迫に、隣にいたひまりが、
そっと優しく微笑みながら
椅子を引いて立ち上がった。


「羽瀬くん、乃愛をよろしくね。
……結衣のところ、行ってくる」


ひまりはそう言い残すと、
走ってきた琉生の肩を
ぽんと力強く叩いて、
静かに図書室を出ていってくれた。


パタン、と遠くのドアが閉まる音がして、
残されたのは、琉生と、小さく肩を
震わせて泣いている
乃愛の呼吸の音だけになった。


琉生は乃愛の目の前まで来ると、
すとん、と床に両膝をついた。


あいつの目線に合わせるようにして、
下から真っ直ぐに覗き込む。


「……羽瀬くん、ダメだよ、戻って……っ。
だって……っ、私のせいで、
羽瀬くんの推薦がダメになったら嫌だもん。

……女子みんなが言ってた。
私が一緒にいたら、
羽瀬くんの邪魔になるって……!
私なんか、いない方が……っ」


「――乃愛!」


顔を伏せたまま、
必死に涙声で俺を遠ざけようとする
乃愛の言葉を遮るように、
琉生が乃愛の細い肩を両手で強く、
けれど優しく包み込んだ。


まっすぐな、熱い瞳が、
乃愛の濡れた瞳を捉える。


「邪魔なんかじゃねぇ。
……ふざけんな、邪魔なんかじゃねぇし!」


琉生は、
乃愛の手に握られたハチマキを引き抜く。


朝、俺が
『一番カッコいいところ、見てて』と書いて、
乃愛の手首に巻いてあげたハチマキだった。


「むしろ逆に、乃愛のおかげで、
俺はサッカーでも、今日の体育祭でも、
まじで一番力になってるんだ
……ほら、これ見てよ」


琉生は今度は、
自分の首にずっと巻かれていた、
もう一本のハチマキに触れた。


そこには、乃愛の控えめで
綺麗な文字が並んでいる。


『がんばってきた羽瀬くんなら、
絶対大丈夫って信じてます。乃愛』


「エースだから勝てって周りに言われる中さ、
俺のがんばりをちゃんと見ててくれて、
心から『信じてる』って言ってくれたの、
乃愛だけなんだよ」


「羽瀬くん……」


「乃愛の言葉があったから、
俺は限界を超えて走れるんだ。
乃愛は俺の邪魔なんかじゃない。

俺の、一番の『特別』で、
一番必要な人なんだ」


琉生はそう一気に言うと、
乃愛の震える手首をとった。


そして、解けてしまったハチマキを、
朝と同じように、
今度は二度と離れないように
ゆっくりと愛おしそうに結び直していく。


「だから……もう二度と、
自分から離れるなんて言うな」


乃愛の手首にしっかりと結び直された、
二人の想いが詰まったハチマキ。


そこへ、琉生はポケットの奥から、
小さく折りたたまれた、
くしゃくしゃの四角い紙切れを取り出した。


「……あと、これ」


琉生がそっと広げて
乃愛の目の前に差し出したのは、
体育祭の借り物競争のときに彼が引いた、
あのお題の紙だった。


そこには、
はっきりと太い文字で書かれている。


【世界で一番特別な人】


「え……?」


乃愛は涙で滲む目を丸くして、
その紙を見つめた。


「これ、俺が引いたお題。
……だから俺、迷わず、
乃愛のところに行ったんだ。
お前だけがずっと俺の特別だから」


その瞬間、
乃愛の心の中の不安が温かい光で
すべて消し飛んでいくのが分かった。


あの激走も、
上から優しく包み込んでくれた
手のひらの熱さも、すべてが自分への
真っ直ぐな想いだったのだと、
今ようやく繋がった。


乃愛の目から、
今度は大粒の嬉し涙が溢れ出していた。


「……うん。……ごめんなさい、琉生くん」


初めて呼んだ、彼の名前。


その瞬間、
琉生の顔がまた一瞬で真っ赤に染まる。


「……あーもう、お前ずるすぎ」


琉生は少し照れくさそうに笑うと、
結衣から教えられたことを思い出し、
乃愛を覗き込む。


「橘から全部聞いた。
お前、俺が書いた付箋……
部屋のコルクボードに全部宝物にして
並べてくれてたんだろ?

……俺だって、
お前がくれた桜色の付箋さ、
一枚も捨てずに部屋の引き出しの奥に全部、
ずっと宝物にしてる。
同じとは思わなかったわ」


そう言うと、いつものように
くしゃっと安心できる笑顔を向けた。


「――っ、あ……」


琉生の言葉を聞いた瞬間、
乃愛がハッとして、
涙で濡れた瞳を大きく見開いた。


お互いに相手の言葉を、
世界で一番大切な宝物にして
集め合っていたんだ。


琉生は乃愛の手首のリボンを
ぎゅっと握りしめたまま、
耳たぶがカッと熱くなるのを感じていた。


だけど、もう絶対に一歩も引かない。


一人の男の子としての本気の目を、
あいつに真っ直ぐにぶつけた。


「学校の外でも、中でも……
どこにいたってさ、
俺にとって世界で一番特別で好きなのは、
乃愛、お前だけだ。

……だからさ、俺の彼女になってよ」


ずっと「白石さん」って名字で呼びながら、
学校の中だからって格好つけていた
境界線(ルール)を、今度こそ本気で、
美しく飛び越えた瞬間だった。


その真っ直ぐな言葉を受け止めた
乃愛の瞳から、大粒の涙が
またぽろぽろと溢れ落ちた。


「……っ、うん……っ、
私も……琉生くんのことが、
ずっと……ずっと、大好きなの……っ!」


言葉が涙で途切れて、
胸の奥から溢れそうになる想いを
もう抑えきれなくなった乃愛は、
膝を抱えていた体をぐっと伸ばし、
目の前にいる琉生の胸元へと、
自分からぎゅっと飛び込むようにして
抱きついた。


「――っ、乃愛」


不意に飛び込んできた小さな体温に、
琉生は一瞬だけ息を呑んだ。


だけど次の瞬間、琉生の長い両腕は、
頭で考えるより先に動いていた。


腕の中にすっぽりと収まる、
驚くほどちっちゃくて華奢な乃愛の体を、
壊れてしまいそうなくらい優しく、
でも二度と離さないって決めた強さで、
ぎゅーーっと力強く抱きしめ返した。


制服のブレザーのときとは違う、
体操服越しにダイレクトに伝わってくる
琉生の熱い体温と、
必死に走ってきてくれた力強い鼓動。


それが乃愛のちっちゃな心臓の鼓動と
重なって、一つになっていく。


愛おしさが胸の奥からどっと溢れ出して、
誰にも渡したくないという
猛烈な独占欲が琉生の全身を支配する。


こんなに自分のことを
真っ直ぐに想って泣いてくれる女の子を、
一生かけて守っていくんだという
男としての覚悟が、
琉生の胸の真ん中にストンと落ちていた。


琉生は腕のなかで
そっと包み込んでいた乃愛の体を、
ゆっくりと離した。


涙で濡れた乃愛の頬を、
自分の大きな手のひらで
優しく包み込み、瞳を見つめる。


「……乃愛」


初めて生の声で呼ばれた、
お互いの名前。


ビクッと肩を震わせながら、
潤んだ瞳で見つめ返す乃愛の、
ほんのり赤くなった
柔らかそうな唇が至近距離にある。


(――っ、ダメだ、まじで無理)


琉生の理性は完全に消し飛んだ。


学校の図書室だし、
まだ付き合いたてだし、
こんなの絶対に反則だ。


――だけど、
もうストップなんて一ミリも効かなかった。


気づいた時には、
抑えきれない愛おしさで、
琉生の体は真っ直ぐに乃愛の方へ動いていた。


白いカーテンが初夏の風に優しく揺れて、
光の粒が踊る図書室の片隅。


琉生は吸い込まれるように
ゆっくりと目を伏せて、
乃愛の綺麗な唇に、
自分の唇をそっと重ねた。


ほんの一瞬、触れ合うだけの、
優しくて、でも胸の真ん中が
とろけてしまいそうなくらいに熱い、
初めてのキス。


あまりの愛おしさに、
乃愛の頭の中は真っ白になり、
手首のハチマキを握る指先まで、
熱く優しく溶けてしまいそうだった。


唇が離れた瞬間、
琉生は顔を真っ赤に染め上げながらも、
乃愛の真っ赤になった顔を見つめ、
いつもの太陽みたいな笑顔を
パッと咲かせた。


「……あー、まじで今、世界一幸せだわ俺。
ほら乃愛、もう泣くなよ。
お前に一人で泣いててほしく無いからさ。

俺の隣は、いつだって、どこにいたって
お前じゃなきゃダメなんだって。
……ほら、手繋いで戻るぞ」


琉生はそう言うと、
乃愛の手首のリボンの下、
小さな右手を、自分の大きな左手で、
指の隙間を深く深く絡めるようにして、
男らしくぎゅっと恋人繋ぎで握りしめた。


「――っ、羽瀬くん……っ」


「学校の中だけど……もう、離さねぇから。
……行くぞ、乃愛!」


「……うんっ、琉生くんっ!」


お互いに幸せそうに目を細めると、
琉生は乃愛の手を強く繋いだまま、
まばゆい午後の光が差し込む
長い廊下へと一気に走り出した。


お昼の借り物競争のときは、
まだ付き合う前だったから、
リボンの上から腕をきゅっと掴んで
走ることしかできなかった。


だけど、
想いが通じ合って恋人になった今、
手首の赤いリボンのすぐ下で、
二人の手のひらは、
お互いの本気の心臓の熱を
ダイレクトに重ね合って、
しっかりと繋がっていた。


乃愛の最初のころに描いていた「夢」。


琉生くんの隣にいたい
という憧れが叶った瞬間だった。


男子が苦手で、
いつもクラスの隅っこで
小さく縮こまっていた乃愛の胸に、
もう怖いものなんて、何もなかった——。