隣の席のキミとひみつの合図   ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~


《託す想い、芽生える恋》
リレーの招集が始まって、
もう五分が経とうとしている。


グラウンドのスピーカーからは、
「男子リレーの出場選手は、
大急ぎでトラック裏へ招集してください」
と焦ったようなアナウンスが
何度も繰り返されていた。


今週末にJリーグ下部組織のスカウトが
直々に見に来る、あいつの将来が
かかった大事な公式戦の直前。


それなのに、
乃愛が傷ついて図書室で泣いてるって
聞かされた瞬間、琉生は颯人に
「リレー、頼む」の一言だけ残して
校舎へ猛ダッシュしていったのだ。


泥だらけのグラウンドの真ん中では、
審判の先生たちが
「おい、二年二組の羽瀬はどうした⁉
アンカーがいなきゃ失格だぞ!」
とざわざわし始めている。


その喧騒の中、隣にいた結衣が、
今にもまた大粒の涙を零しそうな顔で、
不安そうに颯人の体操服の裾を
ぎゅっと握りしめてきた。


「高城くん、どうするのよ……⁉
リレー始まっちゃう……
ハセが戻ってこなかったら、
失格になっちゃうよ……っ」


いつもはあんなに元気で、
自分たちをからかってばかりの
お喋りな結衣が、
今はすがるような瞳で真っ直ぐに見上げ、
小さく震える指先で颯人の体操服の
裾を掴んだ。


その健気な横顔を至近距離で捉えた瞬間、
颯人の胸の真ん中が、ドクン、
といつもとは違う奇妙な音を立てて
跳ね上がった。


(……待て。橘ってこんな目で
見つめてくる奴だっけ。
必死に涙堪えて、
俺の服ぎゅっと掴んでさ……。
――あー、まじで調子狂う。
いつものうるさい橘のくせに、
今まじで、心臓うるさいんだけど、俺)


いつも近くにいたはずの
クラスメイトの女の子。


それなのに、
午後のまばゆい光に透ける
結衣の涙の透明さに、
颯人は本気で言葉を失いそうになった。


あいつを不安にさせたくない。


男として、
ここで絶対に引くわけにはいかない。


颯人は、
自分の体操服の裾をぎゅっと
握りしめている結衣の小さく震える手を、
自分の大きな手で上からそっと
包み込むようにして優しく握りしめた。


「――っ、たか、ぎ……?」


驚いて息を呑む結衣を見つめ、
颯人はふっといつもの意地悪なノリを
少しだけ混ぜて優しく微笑んだ。


「しょうがねぇな……仕込んでやるから、
白石さんのことは琉生に任せろ。

あいつ、今なら世界中の誰よりも
速く走れるから。
……ここは、俺に任せろ」


颯人はそう告げると、
男としての強い覚悟をその温もりに
込めるように一瞬だけ結衣の手を
ぎゅっと握り直し、「行ってくる」
と無言の目線で伝えるようにして、
結衣の手を自分の裾から
そっと優しく引き剥がした。


「――っ、」


今度は、結衣がハッと息を呑む番だった。


包み込まれた颯人の大きな手のひらの熱が、
離れた後も自分の右手に
じんわりと残っている。


いつもひょうひょうとしていて
何を考えているか分からない高城くんが、
自分の手を優しく握って、
「ここは、俺に任せろ」と、低くて、
でも絶対にブレない強い声で
笑いかけてくれた。


ただのクラスの男子。


ただの琉生の相棒。


そのはずなのに、
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられた瞬間、
結衣の胸の奥で、
まだ名前のつかない小さな熱が、
トクンと甘く静かに跳ね上がった。


お互いに一瞬だけ、
走る風の中で視線が重なり合って、
言葉にならない妙に照れくさい
空気が流れる。


だけど颯人はすぐに、
その気恥ずかしさを吹き飛ばすように、
救護係の先生たちの元へと
これ以上ないほど大げさに
右足を引きずりながら歩き出した。


「先生ーーーっ‼
すんません、さっきの競技の着地で、
ちょっと右足首グキッといっちゃいました‼

いや、走れます! 走れますけど、
ガチガチにテーピング巻いて固定して
くれないとまじで一歩も動けないんで、
今すぐここで巻いてください‼」


颯人の本気の大芝居に、
救護係の先生たちが
「何⁉ 高城、無理するな!」
「おい、救護班、
すぐにテーピング持ってこい!」
と一気に大騒ぎになった。


審判の先生たちが
慌てて本部に無線で連絡を入れる。


「本部、本部!
二年二組の高城が怪我で手当て中!
リレーの開始時間を少し遅らせろ!」


(よし、かかった……)


颯人は
痛そうに顔を歪める演技を続けながら、
じっと校舎の入り口を見つめた。


その時、
校舎の方から大急ぎで走ってきたひまりが、
救護テントにいる二人の元へと
滑り込んできた。


「結衣……っ! 高城くん……っ!」


「ひまり……っ! 乃愛は⁉」


結衣が立ち上がって詰め寄ると、
ひまりは小さく、でも力強く頷いた。


「うん。図書室の一番奥にいたよ。
……今、羽瀬くんが乃愛のところへ
向かって走っていったから……
二人は、大丈夫」


「そっか……。よかった……っ」


結衣がホッとしたように胸に手を当てて、
また大粒の涙を零した。


親友同士の、
言葉にしなくたって完璧に
繋がっている最強の連携。


だけど、感心している暇はなかった。


時計の針は容赦なく進んでいて、
リレーの開始時間をもう限界まで
引き延ばされている。


「お前ら、感動してるところ悪いけど、
まじでこれ以上は時間引き延ばせねぇぞ。
……結衣、ひまり, 手伝え」


「え……っ?」


二人の女の子がハッとして颯人を見た。


颯人はがっしり巻かれている
足首を押さえながら、
ニヤリと片目を瞑ってみせる。


「羽瀬のやつ、トイレが長引いててさ。
……ほら、先生たち足止めするぞ」


彼の意図を察した二人が、
大急ぎで颯人の隣にしゃがみ込んだ。


さっきのドギマギを送り出すようにして、
結衣が涙混じりの必死な声を
審判の先生たちにぶつけ始める。


「そうですよ先生!
高城くん、本当に痛そうなんです!
ちゃんとガチガチに巻いてあげてください!」


さらに、
いつもは大人しいはずのひまりまでが、
彼の足を心配するフリをしながら
先生の前に立ちはだかった。


「先生、まだ固定が緩い気がします……。
高城くん、これからの陸上の将来もある
大事な選手なので、もっと丁寧に、
時間をかけて巻いてあげてください……っ」


(……将来って、
俺サッカー部なんだけど。まぁ、
ひまりの大嘘、まじでナイスすぎるわ)


ひまりの真面目な顔をした
完璧すぎるアシストに、
颯人は先生にバレないように
必死で笑いを堪えた。


女の子を一人で泣かせないために、
世界のすべてを置き去りにして
激走していった、あのバカな相棒。


そして、そのために俺のすぐ隣で、
一緒になって必死に先生に
嘘をついてくれている、
この愛おしい女の子。


(橘のやつ、さっきから俺の隣で
必死な声出しちゃって……
まじで、調子狂うわ)


相棒が約束を果たすための
数分間の猶予を、三人の秘密の共闘で、
今この泥臭い救護テントの裏で
必死に繋ぎ止めていた——。