隣の席のキミとひみつの合図   ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~


《結衣の悔し涙、乃愛の秘密》
男子の赤組テント裏。


リレーの招集アナウンスが流れ、
琉生と颯人が「よし、行くか」
と立ち上がったその瞬間。


体育祭の喧騒を切り裂くようにして、
髪を振り乱し、息を激しく切らせた橘結衣が、
弾かれたようにテント裏へと飛び込んできた。


「――ハセっ!! 颯人っ!!」


普段はあんなに明るくてお喋りな結衣が、
見たこともないくらい血相を変えて、
俺たちの胸ぐらを引きちぎらんばかりの
勢いで突っ込んできた。


その瞳には、大粒の悔し涙が
今にも溢れそうに溜まっている。


「おい、橘⁉
どうしたんだよ、そんなに息切らせて――」


颯人が驚いて一歩前に出たけれど、
結衣はそれを無視して、
真っ直ぐに俺の体操服の胸元を
両手でぎゅっと掴み、激しく揺さぶった。


激しい呼吸のせいで、
結衣の肩が痛々しいほど上下に震えている。


「ハセ‼ 
あんた今すぐ校舎へ走りなさいよっ‼ 
乃愛が……乃愛が、
クラスの女子たちに校舎裏に呼び出されて。

あんたの邪魔だって責め立てられて
……っ、泣きながらどこかへ
行っちゃったのよっ‼」


「――っ、何、だと……?」


頭を冷水でぶっかけられたみたいに、
全身の血の気が一気に引いた。


クラスの女子。校舎裏。邪魔。
結衣の口から飛び出す最悪な単語の羅列に、
心臓がバカみたいに冷たくフリーズする。


目の前がすうっと暗くなり、
グラウンドの喧騒が遠のいていく
ような錯覚に陥った。


「あいつら、乃愛とハセが机の下で
『手首ぐるぐる』して合図送ってるの
気づいてたらしくて……っ! 

羽瀬くんにはJリーグの下部組織の
スカウトが来てる大事な時期なのに、
あんたみたいな地味な子が
うろちょろして邪魔すんなって、
乃愛をボロボロになるまで責めたのよっ‼」


「……白石さんが、俺の邪魔……?」


違う。逆だ。


不器用で、男子が苦手な彼女が、
俺のためにどれだけ勇気を出して
手を繋いでくれたか。


あいつらは何も知らないくせに。


掴まれた胸元から
結衣の手の震えが伝わってくる。


友達のためにここまで怒って、
泣いてくれている結衣の姿を見て、
俺の胸の奥からどす黒い怒りが
一気に沸点へと跳ね上がった。


「あいつら……
まじで何様のつもりだよ……っ」


隣にいた颯人の声から、
いつも通りの涼しげなトーンが
一瞬で消え失せ、底冷えするような
低い怒りがグラウンドの砂に響いた。


だけど、
結衣の言葉はそこで終わらなかった。


結衣は俺の胸元をさらに強く握りしめると、
俺の真ん中を完全に粉砕するような、
魂の叫びを俺の顔の前にぶつけてきたんだ。


「ハセ、あんた何も知らないでしょ⁉
乃愛がね……あんたに貰った
あの日常のブルーの付箋をさ、
剥がして捨てるのがどうしても嫌で……っ。

自分の部屋のコルクボードに、
一枚も捨てずに全部、
宝物にして並べてたんだよっ‼」


「――っ、」


呼吸が、完全に止まった。


目の前が、一瞬で真っ白になる。


白石さんが。
あいつが、俺の付箋を。


いつも他人行儀に
「ありがとうございました」って
頭を下げていたはずのあいつが。


――裏では、
俺が部屋の引き出しの奥に
あいつの桜色の付箋をコレクションしてる
のと全く同じように、
俺の言葉を全部、全部、
宝物にして大切に守ってくれていた。


「乃愛がどんな気持ちで
あんたの付箋を見つめて、どんな気持ちで、
今日のハチマキを愛おしそうに見ていたか
……あんたに分かるわけないでしょ‼

乃愛は、ハセの邪魔になりたくない
って泣きながら……っ」


ピリリリ、ピリリリーー。


結衣の言葉が涙で詰まった瞬間、
結衣の体操服のポケットの中で、
スマホが激しく震えた。


結衣は涙を拭きながら
大急ぎで画面を確認し、
通話ボタンを押して耳に当てる。


「もしもし、ひまり⁉ 乃愛見つかった⁉」


『……うん。結衣、乃愛を見つけたよ。
……図書室の、一番奥の席にいる。
ハチマキをぎゅって握りしめて、
ずっと泣いてて……すごく傷ついてる……』


スピーカーから漏れ聞こえた、
ひまりのその静かで悲痛な声。


図書室。


あいつは、あの少し傾きかけた
強い日差しが差し込む、
二人だけの思い出の図書室にいる。


結衣はスマホを握りしめたまま、
俺の胸を力強く、真っ直ぐに突き放した。


「ハセ、聞いた⁉ 乃愛は図書室‼
今すぐ行って、乃愛の涙、
全部止めてきなさいよっ‼」


俺の瞳にも、熱い、
熱い涙が一気に込み上げてきた。


嬉しさと、愛おしさと、
そしてあいつを今すぐ抱きしめに
行かなきゃいけないという強烈な衝動が、
胸の奥で爆発する。


「……颯人。リレー、頼む」


俺は喉の奥からそれだけを絞り出すと、
次のリレーの招集アナウンスなんて、
俺の将来がかかっているという
スカウトのことなんて、
この世のすべてをどうでもいいと
放り出すようにして、
校舎に向かって全力で足を蹴り出した。


「おい、琉生――っ!!」


颯人の叫び声が後ろで遠ざかる。


グラウンドの土を
スパイクの刃で思いきり弾き、
狂ったように腕を振った。


胸の奥が張り裂けそうに熱い。


将来とか、スカウトとか、
そんなものは今、あいつの流している涙の
たった一滴にすら敵わない。


グラウンドでは
「ただいまより、最終競技、
二年男子リレーを開始します」
と非情なアナウンスが響き渡り、颯人が、
走り去る俺の背中をじっと見つめていた。


選手招集の締め切りを告げる
ピストルの音が、遠くで虚しく鳴り響く。


周りの生徒たちが
「おい、羽瀬どこ行くんだよ⁉」
「リレー始まっちゃうぞ!」
と大騒ぎし始める中、
グラウンドの喧騒から一人逆走していく
俺の背中は、きっとバカみたいに
無鉄砲に見えただろう。


ポカリスエットのスクイズボトルを
ベンチに置き、颯人は誰もいない
校舎の入り口をじっと見つめて、
思わずフッと呆れたように笑った。


「まじであいつは……
白石さんのことになると、
何でも放り出しやがって。
……まぁ、知ってたけどな」


あいつが一番格好いいところを、
自分が一番近くでサポートしてやる。


グラウンドのベンチで拳を交わした
あの約束が、颯人の胸の中で静かに、
でも熱く再燃していた——。