《窓辺の特等席と、二人の秘密の始まり》
席替えをしてから、一週間が経った。
昼下がりの教室は賑やかなざわめきに
包まれている。
休み時間になると、廊下側の席から
結衣とひまりが「乃愛〜!」と私の机に
遊びに来てくれる。
それが新しいクラスでの、
私の変わらない安心できる時間だった。
だけど、たまに二人が次の時間の移動教室の
準備や、日直の仕事で席を外して、
私の周りがぽっかりと静かになる瞬間がある。
隣の席の羽瀬くんは、
いつも男子たちに囲まれて楽しそうに
笑っているけれど、ふとした拍子に
みんなが移動して、私と羽瀬くんの
二人きりになる時間があった。
男子と二人きりになると、
どうしても緊張して身を硬くしてしまう。
そんな私の気配を察してか、羽瀬くんは
いつもの、気負わない自然体な態度で
窓側まで移動し、
楽しそうに外を見下ろしながら、
そっと私の世界に話しかけてきてくれた。
「ねえ、白石さん。ちょっとここ来て」
不意に、すぐ隣から降ってきた
気さくな低い声。
心臓がドキン、と大きな音を立てて
跳ね上がり、私は慌てて顔を上げた。
「あ……、羽瀬、くん? どうしたの……?」
席替えの日に女子グループの冷たい言葉から
守ってくれて、「起こしてな」って
言われてから、授業中に少し目が合うことは
あっても、こうして面と向かって
話しかけられる機会なんてなかったから、
どうしていいか分からなくなる。
「いいからいいから、ちょっとこれ見て。
三階からじゃないと絶対気づかねぇわ」
羽瀬くんはそう言ってニカッと笑うと、
私のために少しだけ窓のスペースを
空けてくれた。
私が恐る恐る窓際に近づくと、
二人の距離が一気に近くなる。
ほんの少しだけ香る、彼の制服の洗剤の
匂いに胸がギュッと締め付けられた。
「ほら、真下。あの古い備品倉庫の、
トタン屋根のところ」
「え……? あ、いた……! 可愛い……っ」
指差された先。
──トタン屋根の隙間、
ぽっかりと空いた日だまりの中に、
丸くなって眠っている
オレンジ色の塊があった。
ふっくらとした、茶トラのノラ猫。
「な? めっちゃ可愛くね?
俺、部活やるときに見かけるんだ。
ここにいたのか……あ、動いた」
羽瀬くんの声が聞こえたみたいに、
下の猫がうっすらと目を開けた。そして、
自分の前足を「ぐる、ぐる」と器用に
まわしながら、顔の毛繕いを始めだした。
その、手招きをするような、しなやかで愛らしい動き。
「あいつ、頭かいてる。なんか手首を
ぐるぐるまわしてんだけど。
手招き? 招き猫の練習みたいだな」
「ふふ、そうかもね。自分の顔を綺麗に
してるんだって、本で読んだよ」
「へぇ、白石さん、そういうの詳しいんだ。
……あいつさ、誰も来ない静かな場所で
一匹で寝ててさ。
おとなしくて優しい白石さんに似てて、
なんか癒される。」
琉生くんに真っ直ぐな瞳で見つめられて、
顔が一気にカッと熱くなるのが分かった。
私は慌てて俯き、制服のスカートの裾を
ぎゅっと握りしめた。
「私……人混みが、あんまり得意じゃない
から。あそこで静かにしてるあの猫を
見てると、なんだか、すごく落ち着く……」
小さな、消え入りそうな私の本音。
クラスの人気者の琉生くんには、
きっと理解できない暗い話だと
思われたかもしれない。
だけど琉生くんは驚くことも笑うこともせず、
「へえ」と小さく呟いて、私の目線に
合わせるように少し腰を落とした。
「それ、なんか分かるわ。俺、いっつも
うるさい奴らに囲まれてっからさ。
白石さんみたいに、あそこで一匹で
静かにのんびりしてる奴見ると、
なんか和むっていうか……。
いいな、ここ。俺、気に入った」
「羽瀬くん、も……?」
「うん。だからさ、今度の放課後にでも、
あの猫、近くで見に行ってみようぜ。
俺たちの隠れ家(スポット)にしよーぜ!」
「え……っ?
いっ、いっしょに……ですか?」
「そう、いっしょに。約束な!」
その時、キーンコーンカーンコーンと、
三時限目の始まりを告げる予鈴のチャイムが
鳴り響いた。
教室の男子たちが
「おい羽瀬、早く着替えろよ!」
「置いてくぞ!」と口々に叫びながら、
廊下へ飛び出していく。
琉生くんは慌てて自分の机から体操着の
ハーフパンツを引っ掴むと、
窓枠に片手を置いて、ニカッとあの太陽
みたいな無敵の笑顔を私に向けた。
「次の授業、男子はサッカーだからさ。
白石さんたちは教室で保健だろ?
三階の窓から、俺のことちゃんと見てて。
絶対に、すげぇシュート決めてみせるから!」
「え……、うんっ……!」
「課題が終わって自習になったら、
寝てないで俺の応援な! じゃ、行ってくる!」
羽瀬くんはパッとウインクしてみせると、
男子たちの後を追うように、嵐のように
教室を飛び出していった。
賑やかな教室。だけど、私の耳にはもう、
彼が残していった言葉の残響しか
聞こえていなかった。
(俺のこと、見てて、って……。
シュート、決めるからって……)
熱くなった頬を両手で押さえながら、
私は窓の外をもう一度見下ろした。
トタン屋根の上では、あの茶トラの猫が、
まだ手首をぐるぐると愛らしくまわしている。
グラウンドでは他の男子たちが集まりだして、
徐々に整列し始めていた。
羽瀬くん間に合うかな。少しの心配と、
私の教室でも先生が入ってきて女子たちが
バタバタと慌ただしく席につきだす。
私も準備しないと。席について教科書を
出し終えると、始まるまで、無意識にも
これからの期待で視線だけは
窓の外を見てしまうのだった。
クラスの人気者と、内気な私。
次の三時間目の授業で、私の瞳が、
グラウンドの彼だけを完全に追いかけて
しまうまで──あと、わずか数分。
二人の距離が、あの小さな猫と、
彼の眩しい約束によって、
初めて甘く溶け出した瞬間だった——。
