隣の席のキミとひみつの合図   ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~


《暴かれた合図、校舎裏の嫉妬》
午後、体育祭の裏側。


グラウンドからは実況のアナウンスや
応援の和太鼓の音が遠く響いている。


しかし、校舎の真裏にある、
あの雨の日の隠れ家へと続く
フェンスの隅は、
嘘のように静まり返っている。


クラスの女子グループに囲まれ、
壁際に立たされている乃愛。


右手首には、
朝、琉生くんに結んでもらった
赤ハチマキのリボンが小さく揺れている。


「――ちょっとさ、白石さん。
あんた、さっきからまじで何様のつもり?」


体育祭の後半戦、
グラウンドがお祭り騒ぎのような
熱気に包まれる中、
私はクラスの派手な女子グループに
人気のない校舎の裏手へと呼び出されていた。


冷たいコンクリートの壁を背にして
立ち尽くす私の前に、腕を組んだ
彼女たちが鋭い視線を投げかけてくる。


「……私、何のことか……っ」


「とぼけないでよ。今日の借り物競争、
羽瀬くんがお題の紙引いた瞬間、
あんたに向かって一直線に走ってきたじゃん。

クラス対抗ダンスのときだって、羽瀬くん、
ずっとあんたのことばっかり見て踊ってたし」


女子の一人が一歩、
私との距離を詰めて、
私の顔を厳しく覗き込んできた。


「あんたさ、
教室で大人しくしてるフリして、
裏でコソコソ羽瀬くんに
色目使ってんじゃないの?
……っていうかさ、うちら気づいてるから。

あんたたちが授業中とか放課後、
机の下でこっそり『手首ぐるぐる』
回し合って、二人だけの合図送ってるの、
何回も見かけてるんだけど」


「――っ⁉」


心臓が、恐怖で冷たくドクンと凍りついた。


学校の誰も知らないはずの、
右隣の席の羽瀬くんと私だけの、
世界で一番大切で愛おしい秘密の合図。


それが、誰かからそんな汚い言葉で
覗き見されていたなんて。

あまりのショックに全身の血の気が引いて、
私は右手首に結んだハチマキのリボンを、
左手でぎゅっと隠すようにして握りしめた。


「ちょ、何それ。まじで隠してんじゃん」


私のその必死な態度にイラついたのか、
目の前の女子が「触んじゃねぇよ」
とばかりに、私の両肩を
容赦なく両手で突き飛ばした。


「キャっ……!」


抵抗する間もなく私の身体は後ろへ弾み、
冷たいコンクリートの壁に
背中が激しく打ちつけられた。


ドスンーー。
と、鈍い衝撃が背骨を伝って脳を揺らす。


逃げ道を完全に塞がれ、
目の前を囲む女子たちの影が、
急に何倍も大きく見えて呼吸が浅くなった。


「図星なんだ。まじで引くんだけど」


別の女子が呆れたように鼻で笑い、
ため息をつきながら、
さらに私に冷酷な現実を突きつけてきた。


「ねぇ、白石さん。
あんた、羽瀬くんの何を知ってるわけ?
羽瀬くんさ、今、Jリーグの下部組織の
偉いスカウトが試合見に来る、
もの凄く大事な時期なんだよ?

次の大会で声がかかるかどうかって、
あいつの将来がかかってんの」


「スカウト……っ?」


「そうだよ。そんな大事な時にさ、
あんたみたいな地味な子が
コソコソ付きまとって、変な合図で
集中乱して邪魔すんなって言ってんの。

羽瀬くんは優しいから
相手してくれてるかもしれないけど、
あんたのその自己満足、
あいつの将来の邪魔になってるだけだから」


(私の……合図が、
羽瀬くんの……邪魔に、なってる……?)


頭を強く殴られたような衝撃だった。


サッカー部の副キャプテンで、
いつもグラウンドで
誰よりも輝いている羽瀬くん。


そんな彼の、
一番大切にしているサッカーの将来。
それを、私のつたない恋心や、
あの『ぐるぐる合図』が引っ張って、
邪魔をしてしまっているかもしれない。


その残酷な言葉が、
私の胸の真ん中に深く、
鋭く突き刺さって、
涙がじわじわと視界を遮っていった。


言い返す言葉なんて、
ひとつも浮かばなかった。


私がただ涙をこぼして
立ち尽くすしかなくなった、その時だった。


「――ニャーーーーーウ!!」


静まり返った校舎の裏に、鋭く、
激しい猫の鳴き声が響き渡った。


ハッとして足元に目をやると、
フェンスの隙間から、
あの日の隠れ家で出会った『茶トラ』が、
弾かれたように飛び出してきた。


茶トラは、
細い毛をこれ以上ないほど逆立てて、
背中を丸めながら、
私の前に小さな体を滑り込ませた。


そして、
目の前の大きな女子グループに向かって、
「フシューーーッ!!」と鋭い牙を剥き、
必死にシャーッと威嚇の声を上げて、
私を背中に隠すようにして
立ちはだかってくれたのだ。


「うわっ、何これ、のら猫⁉」


「ちょっと、来ないでよ、汚いっ!」


突然の猫の抵抗に、
女子グループが慌てて
体操着のズボンを押さえながら、
後ずさりするようにして後ろへと飛び退いた。


茶トラは、体が小さくて、
あんなに怯えがちだったはずなのに。


今、目の前にいる私を守るために、
必死に四肢を突っ張って、
一生懸命に私と彼女たちの間に
盾のように立ち続けてくれている。


「……っ、茶トラ……!」


涙でかすむ視界の先、
健気に頑張る小さな背中を見て、
私の胸の奥の愛おしさが、完全に決壊した。


これ以上、ここにいたらダメだ。


羽瀬くんの大事な体育祭を、
私がこれ以上、壊しちゃいけない。


私は右手首に結ばれていた
ハチマキのリボンを、震える指先で
引きちぎるようにして優しくほどくと、
それを両手でぎゅっと握りしめた。


「……ごめんなさい……っ!」


私は蚊の鳴くような声で
それだけを絞り出すと、
猫を追い払おうと騒いでいる
女子グループの脇をすり抜け、
校舎の暗い廊下へと全力で走り出した。


涙がボロボロと溢れて止まらない。


手の中の赤いハチマキが、
私の涙を吸い込んで重くなっていく。


目指すのは、誰もいない、
あの夕日だけが静かに差し込む図書室。


羽瀬くんの将来の邪魔になりたくない
という切なさと、バレてしまった
合図の恐怖に押しつぶされそうになりながら、
私は、私の本当の居場所を求めて、
暗い校舎を泣きながらひたすら激走していた。


泣きながら廊下を走っていく乃愛。


その後ろ姿を、女子グループから
フェンスの上へと逃げた茶トラが、
心配そうにじっと見つめていた——。