《廊下の親友、誰かの視線》
「――お前、忘れ物取りに
行ったきり遅ぇんだよ」
不意に、誰もいないはずの廊下の壁に
背中を預けていた、
颯人くんが呆れたように声をかけてきた。
手には、羽瀬くんの部活の
カバンが握られている。
「え……っ、高城くん⁉」
驚いて私が小さな声を上げる。
羽瀬くんも少し肩をビクッと震わせる。
「――ッ、お前、なんでまだいんだよ!」
と、一瞬で耳たぶまで真っ赤にして
大慌てで高城くんの肩を小突いた。
高城くんは、慌てる羽瀬くんの姿を
いつもの涼しげな目でじろじろと見つめると、
その口元をニヤニヤと意地悪く緩めた。
「なんでって、
お前がカバン俺に預けたまま
教室戻ったからだろ。
……っていうか、忘れ物探すのに
どんだけ時間かけてんだよ。
教室の中で、
なんか面白いものでも見つかった?」
「うるせぇ! なんでもねぇよ!
ほら、カバン貸せ!」
羽瀬くんは顔を真っ赤にしたまま、
高城くんから部活のカバンを
引ったくるようにして奪い取った。
いつもは運動神経抜群で、
クラスの誰もが憧れるカリスマな彼が、
相棒の高城くんの前では
完全に余裕をなくして、
ただの高二の男の子みたいに
ムキになって焦っている。
その姿がなんだか凄く微笑ましくて、
可笑しくて。
「ふふっ……」
私が口元を袖で隠して小さく笑うと、
羽瀬くんはバッと私の方を振り返って、
さらに顔を赤くした。
「白石さんまで笑うなよ……っ。
……ほら、颯人、早く帰るぞ!」
「はいはい。じゃあね、白石さん。
琉生が長くってごめんね」
高城くんが片手を軽く上げて、
私に優しく声をかけてくれる。
「ううん、私の方こそ、
羽瀬くんにダンスを教えてもらっちゃって
……ありがとうございました」
私が丁寧にお辞儀をすると。
「いいって。こいつ、
教えるのだけは無駄に上手いからさ」
と、琉生くんの肩をポンと力強く叩いた。
『お前が格好いいとこ見せるの、
俺が一番近くでサポートしてやるから』
土曜日のデートの翌日、
二人がグラウンドのベンチで交わしたという
あの男子トークの約束通り、
高城くんは、わざと私たちの邪魔をせずに
廊下で静かに待っていてくれたんだ。
男の子同士の、
言葉にしなくても通じ合っている
絶対的な信頼と強い絆が、
そこには確かにあった。
「じゃあ、白石さん。また明日、学校でな」
羽瀬くんが、少し歩き出しながら、
もう一度私の方を振り返った。
夕暮れの渡り廊下。
街灯がぽつぽつと灯り始める中、
彼の端正な横顔が、
私を優しく包み込むようにして微笑んでいる。
「うん。……また明日、羽瀬くん」
二人が並んで階段を下りていく後ろ姿を、
私は胸の奥をドクドクと高鳴らせながら、
そっと視界に焼き付けた。
高城くんが琉生の耳元で
「手が震えてたの、
白石さんにバレてねぇだろうな?」
と小声でからかい、
羽瀬くんが「まじで黙れ!」と赤くなって
小突いている賑やかな声が、
静かな校舎の中に小さく響いて消えていく。
この誰もいない放課後の教室で
重ねた二人だけの『内緒の時間』は、
私たちの心を、
もう誰にも止められないほど熱く、
深く、結びつけていた。
二人の男子の背中を見送ったあと、
熱くなった自分の胸元を
ぎゅっと押さえて窓の外を見上げた。
夕日に染まるグラウンドを見つめながら、
じわりと切ないほどの愛おしさが
広がっていく。
(こんな私だけど
……羽瀬くんの隣に、いてもいいのかな)
ほんの少しだけ、
自分に自信が持てそうな気がした。
――だけど、その幸せな浮遊感の中で、
ふと冷たい現実が頭をよぎる。
羽瀬くんは、学年で一番の人気者だ。
サッカー部のエースで、
いつも誰かに囲まれていて。
四月の席替えの時だって、
周りの女子たちから向けられた
あの冷ややかな視線を、
私は忘れたわけじゃない。
甘い夢から覚めるように、
ハッと我に返って振り返る。
その瞬間、ゾクッと背筋が凍りついた。
キュッ、と床を擦る音がして、
タタタッと静かな廊下に
上履きの走る足音が響いた。
薄暗い階段の角へと、
クラスカラーのリボンをつけた
カバンを持った女子が、
制服のチェックスカートが
ひるがえって消えていくのが、
私の目に確かに焼き付いた。
――誰かが、
今の私たちをずっと見ていたんだ。
廊下に残る、
刺すような悪意の気配が怖くて。
私はもう一度きゅっと胸元を強く押さえ、
逃げるように足早に教室を後にした。
