《甘い放課後、内緒の練習》
五月中旬の放課後。
夕日が差し込む誰もいない教室。
一部だけ机が後ろに下げられ、
教壇の前だけが少し広く空いている。
校舎の外からは、
サッカー部のホイッスルの音や、
遠くのテニスコートから響く打球音が、
放課後の静かな空間に優しく溶け込んでいく。
「ワン、ツー、スリー、フォー
……あ、また手の向き逆になっちゃった……」
放課後のチャイムが鳴り響き、
クラスのみんなが下校や部活へと
向かった後の静かな教室。
私は一人、黒板の前に立って、
中間テスト明けに行われる体育祭の
『クラス対抗ダンス』の自主練習をしていた。
運動が苦手な私は、
みんなと並んで踊る練習の時間、
いつも周りより一テンポ遅れてしまう。
(みんなの足を引っ張りたくない、
本番で間違えて目立ちたくない……)
そんな不安がどうしても拭えなくて、
制服のブレザーのまま、
プリントに書かれた矢印の図解と
にらめっこしながら、
上履きの足元を何度も何度も動かしていた。
「……はぁ。やっぱり、
私には難しいのかな……」
トボトボと肩を落として、
床を見つめて溜息をついた、その時だった。
ガラッ。
「――白石さん、何居残りしてんの?」
不意に後ろのドアが開いて、
聞き慣れたあの低くて優しい声が響いた。
驚いてバッと振り返ると、
部活の全体練習を終えて、
制服のブレザーのボタンを外した姿の
羽瀬くんが立っていた。
カバンを持ったまま、
首から下げたタオルで
前髪の汗をすっと拭っている。
「は、羽瀬くん……っ⁉
どうしてここに……っ」
「忘れ物。部室行ってから、
スマホ机の中に置いたまま
だったの気づいてさ」
羽瀬くんは
いつもの爽やかな笑顔で笑いながら、
自分の机からスマホを回収すると、
カバンをぽんと机の上に置いた。
そして、
私が慌てて背中に隠したプリントを見て、
全てを察したようにふっと目を細める。
「ダンスのサビのところだろ?
そこ、みんな最初引っかかるんだよね。
……ほら、もう一回やってみ?」
「え……っ、でも、
私、踊るのすごく下手だし、
見られるの恥ずかしい、よ……っ」
恥ずかしさでカバンの紐代わりに
制服のブレザーの裾を
ぎゅっと握りしめて俯いた。
そんな私に。
「いいから、誰も見てねぇし。
右足から引いちゃうからズレんだよ」
と、カバンを置いて私のすぐ隣に並んだ。
すらりと背の高い
彼のブレザー姿がまぶしすぎて、
私は急に心臓がバクバクと鳴り響いた。
「左足引いて、手は胸の前。
せーの、ワン、ツー、スリー、フォー――」
羽瀬くんの綺麗な動きを見ながら、
私も一生懸命に上履きの足元を動かす。
だけど、ワックスが効いた床の上で、
上履きの底がツルッと少し滑ってしまい、
バランスを崩してよろけてしまった。
「あ、っ――」
「っと、危ねぇ。……白石さん、大丈夫?」
転びそうになった瞬間、
後ろからすっと長い手が伸びてきて、
私の細い右手首が、
大きくて温かい彼の手のひらに丸ごと、
ぎゅっと包み込まれるようにして捕まえられた。
「――っ⁉ は、はい……っ」
息が止まる。
後ろから優しく
抱きしめられるような体勢のまま、
彼のブレザーの生地が、
私の背中にほんのり触れた。
部活上がりだから彼の体温が
制服越しにドクドクと伝わってきた。
土曜日のデートの夜のLINEで、
文字の上だけで初めて『乃愛』『琉生くん』
って名前で呼び合って、
あんなにベッドの中でのたうち回ったのに。
現実の学校に戻ってきた彼は、
私の右手首を掴んだまま、
少し崩したぶっきらぼうな口調で
指先に言葉を重ねてきた。
「白石さん、ここさ、
手のひら外に向けるんじゃなくて」
羽瀬くんが自分の長い指をすっと滑らせて、
私の開いていた指先の上に、
自分の大きな指を一本ずつ
優しく重ねるようにして包み込んだ。
「こう。指先ちょっと丸めて、
カップ包むみたいにすんの。
……ほら、土曜日のカフェのとき、
俺にやらせたあの形」
「――っ、あ……」
土曜日の、あの夕方のカフェ。
おあいこの写真を撮るために、
彼が大きな手でココアのカップを
大切そうに包んで照れていた、
あの愛おしい瞬間。
彼も、あの瞬間のことを
ずっと同じように覚えていて、
今、この放課後の教室で、
私の指先を重ねながら
その話を私に届けてくれている。
あまりのパニックと愛おしさに、
私がロボットみたいにガチッ、
と固まってしまうと、
羽瀬くんは私の指を優しく包んだまま、
すぐ耳元でふっと悪戯っぽく口元を緩めた。
「……てかさ、白石さん。
近すぎて心臓の音まじで響いてんだけど。
……これ、わざとやってない?」
「わ、わざとなんて、してないです……っ!
本当に、緊張しちゃって……っ」
パニックになりながら、
あの帰り道の並木道での事を思い出して
顔を真っ赤にする私を見て、
羽瀬くんは「あはは、嘘。ごめん」と、
愛おしそうにクスクスと声を殺して笑った。
ゆっくりと、
私の指先から彼の大きな手が離れていく。
「でも、今のステップで合ってる。
白石さん、まじでセンスいいじゃん」
「……本当……?」
「おう。だから本番も自信持てって。
隣の列からずっと見ててやるから」
そう言って、羽瀬くんは自分のお腹の前で
そっと右手を止め、いつもみたいに、
手首を二回、優しく、でも力強く
「ぐる、ぐる」と回してみせた。
――次の体育祭も、
俺がちゃんと見てるから。
頑張ろうな、白石さん。
「……はいっ」
私が赤みの引かない顔のまま深く頷くと、
羽瀬くんは「よし」と小さく呟いて、
自分の机の上に置いてあったカバンを
ひょいと片手で持ち上げた。
夕日の光が、黒板の前からドアへと
移動する私たちの長い影を、
教室の床に静かに伸ばしていく。
「白石さん、
今日のステップまじで忘れるなよ?
明日の合同練習のとき、俺、
隣の列からちゃんとチェックするからな」
「う、うん……。
忘れないように、お家に帰ってからも
頭の中で復習するね……っ」
私はブレザーの裾をぎゅっと
握りしめながら返事する。
「あはは、まじで真面目だな」
と、本当に愛おしそうな目で私を振り返った。
学校のみんなの前で見せる
完璧な笑顔とは違う、
私だけに見せてくれている、
どこか無防備で優しい笑顔。
ガラッ、と。
羽瀬くんが静かに教室のドアを開ける。
並んで廊下へと一歩踏み出した。
ーーその時だった。
