隣の席のキミとひみつの合図   ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~


《午後のうたた寝、秘密の合図》
お昼ご飯を終えたあとの、
午後の市立図書館、静かな学習室。


高い天井から柔らかい西日が
少しずつ差し込み始め、
休日の静寂が部屋全体を包んでいる。


テラスのベンチでお弁当を広げた、
あのお昼休み。


緊張して卵焼きを
ひっくり返しちゃった羽瀬くんの、
小学生みたいに分かりやすく
焦った顔を思い出すだけで、
私の胸の奥は今もぽかぽかと
温かい熱を持ったままだった。


お昼ご飯を食べて
少し仲良くなれたからこそ、
午後の静かな学習室に戻ってきたときは、
午前中とはまた違う、
どこか特別に優しい緊張感が
二人の間に流れていた。


午前中で国語の直しと
ワークはバッチリ終わったので、
午後からは羽瀬くんが一番苦手だと
言っていた「数学の応用問題」
に取り組むことになった。


「あー……まじで図形とか意味分かんねぇ。
この補助線、どこから生えてきたんだよ……」


羽瀬くんがシャーペンを握ったまま、
長い指先で髪をくしゃくしゃと
かき回して頭を抱えている。


いつもグラウンドでスマートに
サッカーボールを操っている彼が、
ノートの図形を前にして、
本気で困ったように眉を下げている姿が
なんだか凄く新鮮だった。


「ふふ、羽瀬くん、そこはね
……この角とこの角が同じになるから、
こっちに線を引くと分かりやすくなるんだよ」


私が少し声を潜めながら、
彼のノートの余白に優しくペンを走らせる。


すぐ横から伝わってくる彼の熱い体温。


耳元をくすぐる、低くて優しい彼の囁き声。


制服を脱いだお互いの私服の袖が、
ほんの少し動くだけで触れ合いそうになる。


学校の教室では
周りにみんながいたけれど、
今のこの静かな学習室の片隅には、
私たちの呼吸の音しか
存在していないみたいだった。


「……あ、本当だ。
すげぇ、一瞬で解けた。
白石さん、まじで天才かよ」


羽瀬くんがパッと顔を上げて、
私を溶かしてしまいそうなくらい
本当に嬉しそうな、優しい笑顔を咲かせた。


「ふふ、天才なんて大げさだよ……っ。
羽瀬くんがちゃんと公式を覚えてたからだよ」


ノートの余白に、
二人の文字と計算式が並んでいく。


彼が真剣な目で次の問題を見つめて
シャープペンシルを動かしている
綺麗な横顔を、
私は教科書の陰からそっと盗み見ていた。


しばらく熱心にペンを動かしていたけれど、
数学の難問に頭を使い果たしたのか、
あるいは毎日の部活の疲れのせいか、
羽瀬くんの頭が眠そうに
カクカクと揺れ始めてしまった。


長い睫毛がゆっくりと閉じて、
彼は机の上に両腕を枕にして、
すとん、と突っ伏してしまった。


(ふふ、いつもの授業中と一緒……)


完璧に見える彼の、
私の前だけでしか見せない、
無防備で愛おしい寝顔。


愛おしさが胸から溢れそうになって、
私は机の下、
彼からだけギリギリ見える位置で、
右手首をそっと二回、
「ぐる、ぐる」と、恥ずかそうに、
でも優しく回してみた。


すると、
ハッとして目を開けた羽瀬くんが、
私の手の動きを捉えた瞬間、
とびきり眩しい笑顔を咲かせた。


彼は机の下の暗がりに
自分の大きな右手を滑り込ませると、
私にだけ届くように、
手首を二回「ぐる、ぐる」
と力強く回し返してくれた。


――ちゃんと、届いたよ。ありがとな。


声には出さない。


だけど、指先の熱だけで、
私たちの心は何度でも、
深く、優しく繋がっていく。


羽瀬くんは上半身を起こすと、
まだ少し眠そうな目で
私を真っ直ぐに見つめて、小さくささやいた。


「白石さんのその合図、
まじで世界一目が覚めるわ。……ありがと」


「ふふ……どういたしまして」


お互いに少し顔を赤くしながら微笑み合う。


静かな図書館の中で、
二人の世界だけが甘く、確かに繋がっていた。


キーンコーンカーンコーン……。


夕方の十七時を告げる
図書館のチャイムが静かに響き、
私たちはどちらからともなく
ノートを片付け始めた。


机の下での、
あの愛おしくて震えた『ぐるぐる合図』の
余韻が心地よく残ったまま、
私たちは並んで図書館の自動ドアを通った。


一歩外へ出ると、
お昼のまばゆい青空はいつの間にか、
日が少し傾き始めた西日が
夕方の空に変わっていた。


涼しくなった夕風が、
ハーフアップにした私の髪を優しく揺らす。


「あー、頭使ったわ!
でも白石さんのおかげで、
次のテストは赤点どころか、
まじで高得点狙えそうな気がする」


羽瀬くんが前髪を
くしゃっとかき上げながら、
伸びをするように両腕を上に掲げた。


学校の制服姿じゃない、
颯人くんと選んだという黒のジャケット。


その隙間から覗く白い首元が、
夕暮れの光に照らされて
信じられないくらい綺麗で、
私はまた慌てて視線を足元へと落とした。


「羽瀬くん、本当にずっと
集中して頑張ってたもんね。
……あ、お疲れ様でした」


「おう、ありがとな。……なぁ、この後さ」


羽瀬くんが腕を下ろして、
少し歩調を緩めながら
私の方を覗き込んできた。


「駅の近くに、
颯人に教えてもらったココアが美味しい
小さなカフェがあんだけど
……ちょっとだけ、寄ってかね?」


図書館を出て、
夏の終わりの少し涼しくなった
夕方の風が吹き抜ける中、
羽瀬くんが少し照れくさそうに
自分の後頭部を掻きながら、
私にそう問いかけてきた。


「ココア、美味しそう……!
行ってみたいです」


突然のお誘いに
ドキリと胸が跳ね上がったけれど、
私は勇気を出して、
ずっとノートを見つめたまま
言えなかった本音を言葉にする。


「……それに、
ちょっと疲れちゃったから、
甘いもの飲みたいなって思ってたの。

……ううん、それだけじゃなくて。
もう少し、羽瀬くんとお話したいなって、
思ってたから……」


下を向いたまま精一杯にそう伝えると、
隣にいた羽瀬くんの気配が
ピタッと止まった。


「っ……」


不意打ちの言葉に、
羽瀬くんは耳まで真っ赤になって、
とっさに口元を左手で隠した。


クラスのみんなをいつも笑顔にする
完璧なムードメーカーの姿はどこへやら、
彼は完全に目が泳いでいて、
格好つけきれずに大焦りしている。


「……あ、それ俺も!糖分欲しくなるよな。
ってか、まだ話し足りないって思ってたの、
俺だけじゃなくて安心した。

俺も、まだ帰りたくねーなって
思ってたからさ」


必死に平静を装うようにいつもの
明るいトーンに戻してみせるけれど、
口元を隠す左手の隙間から覗く頬は、
夕日のせいだけとは
思えないほど赤く染まっている。


そんな彼の初めて見る余裕のない姿に、
今度は私の心臓が
うるさいくらいに暴れ出した。


「……ふふ。羽瀬くん、
今日はずっと勉強付き合ってくれて、
ありがとうございました」


ドキドキを隠すように小さく笑うと、
羽瀬君は「あー、もう」と
照れ隠しに小さく呟いてから、
ふっといつもの爽やかな笑顔を私に向けた。


「お礼言うのは俺の方。
白石さんの教え方、
分かりやすくてマジで助かった。
……じゃあ、あっちの並木道の方から行こ!」


羽瀬くんが嬉しそうに口元を緩めて、
私のちっちゃな歩幅に合わせるように、
ゆっくり、ゆっくりと歩き出してくれた。


夕日に照らされて並んで伸びる二人の影が、
歩くたびに近づいたり離れたり
しているのを見つめているだけで、
胸の奥がギューッと甘く締め付けられていく。


まだ羽瀬くんと一緒にいられる
喜びで足元が軽くなるのだった——。