《秘密の隠れ家、LINE交換》
テスト前の、
少し静かになった放課後の校舎裏。
体育館手前の古い備品倉庫の横、
生垣との狭い隙間。
オレンジ色の優しい西日が
コンクリートの雑草を照らし、
二人の影を細長く落としている。
足元では茶トラが
気持ちよさそうに目を細めている。
「あ、また『ぐる、ぐる』やってる。
ふふ、可愛い……」
スカートの裾を丁寧に押さえながら、
私は羽瀬くんのすぐ隣に並んで
しゃがみ込んでいた。
足元では、
綺麗なオレンジ色をした茶トラが、
前足で器用に顔を洗いながら、
あの「招き猫の手」の動きを繰り返している。
テスト前で部活が休みになった、
ある日の放課後のこと。
帰りの学活が終わった直後、
右隣の席の羽瀬くんが、
私にしか見えないように国語のノートの
余白をトントンと指先で叩いた。
そこには、
彼の少し癖のある真っ直ぐな文字で、
『放課後、ちょっとだけ茶トラの所来れる?』
と書かれていた。
あの初めて二人でここに来た日みたいに、
胸の奥をぎゅっと掴まれたような
甘い緊張感を抱えながら、
私は誰もいない校舎裏へと足を運んだのだ。
「な? テスト勉強ばっかで
頭爆発しそうだったけど、
こいつ見てるとマジで癒されるわ」
羽瀬くんが前髪をくしゃっとかき上げながら、
無邪気な笑顔を私に向けた。
遮る机がない、二人きりの狭い空間。
すぐ横から伝わってくる彼の体温と、
かすかに香るせっけんの匂いに、
さっきから私の心臓はテスト勉強の
何倍も激しく脈打っている。
「うん……。羽瀬くん、
ノートのメモ本当にありがとうございました。
結衣もひまりも、すごく綺麗なまとめだね
ってびっくりしてました」
「あ、それ颯人のな。
あいつ、口は悪いけど
ノートだけは無駄に綺麗だからさ。
白石さんの役に立ったなら、
奪い取った甲斐があったわ」
羽瀬くんは悪戯っぽく笑って
茶トラの背中を優しく撫でたあと、
ふっと動きを止めた。
少し日が傾いた西日の中で、
彼の綺麗な瞳が、
真っ直ぐに私のことを見つめる。
「……ねぇ、白石さん」
「え……?」
「学校でさ、
ノートとか下駄箱で付箋のラリーするの、
俺、毎日すげー楽しいんだけど……」
羽瀬くんはしゃがんだまま、
ブレザーのポケットから
自分のスマホを取り出した。
「……授業中の付箋だけじゃ、
なんか、もう足りなくなっちゃって。
家いるときも、部活やってるときも、
白石さんと話したいなって。
だからさ……これ、交換してくれない?」
少しだけ照れくさそうに
首の後ろを掻きながら、
緑色のアプリのQRコードが表示された画面を
私の目の前へとそっと差し出してきた。
「――っ、」
息が止まる。
頭の芯がジーンと痺れて、
目の前のスマホの画面が
チカチカと滲んでいく。
『家いるときも、白石さんと話したい』
男子と連絡先を交換するなんて、
生まれて初めてだった。
しかも相手は、
クラスの中心にいて、眩しくて、
遠い世界の人だと思っていた羽瀬くん。
そんな彼が、
学校にいない時間も私と
繋がっていたいと思ってくれたんだ。
彼の真っ直ぐな言葉の破壊力に、
私の胸の奥はもう、
どうしようもないくらいに
甘い熱で満たされていく。
「だめ、かな……?」
私が固まっていると、
羽瀬くんが少し不安そうに眉を下げて、
覗き込んできた。
その長い睫毛が
かすかに揺れているのを見て、
私は慌てて首を横に振った。
「だ、だめじゃない、です!
私も……羽瀬くんと、
お話ししたい、から……っ」
震える手でカバンからスマホを取り出し、
カメラの枠を彼のQRコードに合わせる。
ピコン、と静かに響いた小さな電子音。
画面に『羽瀬 琉生』という名前と、
サッカーボールを持った
彼のアイコンが表示された瞬間、
恥ずかしさと嬉しさで涙が出そうになった。
スマートフォンの画面に
『友だちを追加しました』
という文字が優しく浮かび上がる。
世界で一番眩しい
男の子のアカウントが
自分の画面に収まった瞬間。
乃愛の胸は張り裂けそうなほどの
高鳴りを刻み始めていた。
「よし、登録できた!
サンキュー、白石さん。
今日の夜、絶対メッセージ送るからさ。
既読無視しないでよ?」
少しからかうように、
だけどどこか緊張を隠すように
琉生がスマートフォンを
画面ごと差し出して見せる。
画面の向こうで、
真っ黒に日焼けした琉生が
少年のように悪戯っぽく笑っていた。
「む、無視なんてするわけないです……っ。
ちゃんと、待ってますから……」
「まじで? よっしゃ、
じゃあスマホ握りしめて待ってて。
……あ、でも、変なスタンプとか
送っても引かないでよ?」
「ふふ、引きません。
琉生くんがどんなスタンプ使うのか、
ちょっと気になります」
お互いにまだ付き合っていない、
敬語が混じる絶妙な距離感。
初めて繋がったプライベートな線(ライン)
の眩しさに、乃愛は急に
恥ずかしさが限界を迎えてしまった。
カッと顔が火照っていくのが分かり、
あの全校集会のときみたいに、
抱えた膝の中にがばっと
顔を埋めて隠してしまう。
そんな乃愛の健気な様子を
じっと見つめていた琉生は、
不意に、ふっと表情を柔らかく緩めた。
「ああ、もう、何それ可愛い」
今度はクラスの誰にも聞こえない、
乃愛だけに届くような、
低くて本当に愛おしそうな声。
直後、丸まっていた乃愛の頭の上に、
すとん、と少し大きくて
温かい手のひらが置かれた。
「っ……、え?」
驚いて膝の中から恐る恐る顔を上げると、
至近距離にある琉生の真っ直ぐな瞳と
視線がぶつかった。
琉生は少し照れくさそうに
耳の先を赤くしながらも、
乃愛の柔らかい髪を、
慈しむように優しくぽんぽんと撫で、
そのあと愛おしそうに
そっと優しく撫で下ろした。
「そんなに顔隠されたら、俺、
まじで今夜メッセージ
送りづらくなるんだけど。
……ちゃんと読んでよ?」
悪戯っぽく笑う琉生の手のひらから、
真っ直ぐな体温が髪を通じて
頭の芯までとろけさせていく。
乃愛はもう、ただ小さく「うん……っ」
と、頷くことしかできなかった。
優しく耳元をくすすぐ琉生の笑い声が、
乃愛の心臓をさらに
ドクドクと激しく跳ね上げさせていく。
(琉生くんと、LINE、
繋がっちゃった……)
外からはセミの鳴き声が
遠く響いているけれど。
この夏の始まりの静かな隠れ家だけは、
まるで時間の流れが
止まってしまったかのように優しく、
ただ二人の体温だけを熱く近づけていた。
学校の誰の手も届かない、
二人だけの特別な場所へと、
彼らの恋の歯車が、確かにまた一歩、
静かに動き出し始めていた——。
