《テストのお守り、奪い取ったメモ》
梅雨の湿った空気が窓から流れ込む、
期末テスト一週間前の国語の授業。
静まり返った教室には、
先生のチョークが黒板を叩く規則正しい音と、
生徒たちが眠気と戦いながらノートを取る
カサカサという音だけが響いていた。
私は窓際の席に座り、
目の前に広がる古典の教科書を見つめていた。
普段、勉強が得意な方で成績も良い。
けれど、
今回の古典の範囲だけはどうしても一箇所、
現代語訳がしっくりこなくて、
シャーペンを握ったまま
小さく眉を寄せていた。
すると不意に、コン、と軽い音が
右隣の机から響いた。
驚いて乃愛が視線を向けると、
隣の席の琉生が、
ノートの端に肘を突きながら、
いつもの不敵な笑みを浮かべて
こちらを見ていた。
羽瀬くんは先生が黒板に向き直った
一瞬の隙を突き、机の下の死角から、
一枚の淡いブルーの付箋を
私の机の端へと滑らせてきた。
そこには、彼の少し大きくて
勢いのある文字が躍っていた。
『これ、颯人から奪い取った
国語の予想問題のメモ。白石さんにあげる。
これ見ておけば赤点回避できるから!』
付箋のすぐ下には、
小さな文字でびっしりと古典の重要単語や
文法の出題予想がまとめられた、
ルーズリーフの切れ端が綺麗に
折り畳まれて添えられていた。
トクンと、大きく心臓が跳ねる。
高城くんといえば、
クラスで一、二を争う頭脳派だ。
大雑把な琉生がいつも勉強で
頼りにしている存在だと知っていた。
(高城くんから奪い取ったって
……私のために、
わざわざお願いしてくれたのかな……)
羽瀬くんが自分のために必死にそのメモを
勝ち取ってきてくれたという、
その不器用な優しさが嬉しくて、
胸の真ん中がじわじわと熱くなっていく。
私は先生にバレないように
ノートで手元を隠し、
小さなシャーペンで大急ぎで返信を書いた。
『ありがとう! すっごく嬉しい。
でも、高城くんから奪い取ったって
……大丈夫だった? 羽瀬くんの分はいいの?』
教科書の死角に隠したノートの端で、
小さなシャーペンを小刻みに走らせる。
私の心臓は、
静まり返った教室の中で
大きな音を立てて波打っていた。
教壇の先生が黒板を叩く
チョークの音に合わせ、
私は机の下から、
その淡いブルーの付箋を
羽瀬くんの机の端へとそっと押し戻した。
指先がほんの一瞬だけ
彼の机の木肌に触れて
それだけで指先から体温が
跳ね上がるような錯覚に陥る。
羽瀬くんは机の下でスッと手を伸ばし、
その付箋を滑り込ませるようにして受け取った。
先生がこちらを振り返らないか
細心の注意を払いながら、
彼は嬉しそうに目を細めて
私の書いた文字を読んでいる。
その真っ黒に日焼けした頬が
微かに緩むのを隣でじっと見つめながら、
私はスカートの裾をぎゅっと握りしめて
次の返信を待った。
羽瀬くんはすぐにシャーペンを握り直すと、
少し大きくて勢いのある文字を走らせていく。
再び、机の下の死角から私の手元へと
滑り込んできたブルーの付箋。
『あいつ「なんで俺がお前の点数稼ぎまで
やんなきゃなんねーんだよ」とか言ってたけど。
俺が「白石さんに渡す」って言ったら、
ふっと笑って「お前、本当に分かりやすいな」
ってすぐ書いてくれたわ。
俺の分はこれがあるから大丈夫!
テスト勉強、お互いがんばろうな!』
「白石さんに渡す」
──付箋に書かれたその一言を目にした瞬間、
私の顔はカッと火がついたように熱くなった。
高城くんがどんな顔をして
このメモを琉生に託したのか、
そして、自分のために必死になって
そのメモを勝ち取ってきてくれた、羽瀬くん。
本当はもっと、
この小さな紙切れを通した
二人だけのナイショ話を続けていたい。
私は小さく震える指先で、
付箋の空いているスペースに
急いで文字を書き足した。
『高城くんに「ありがとう」
って言っておいてね。
……それと、羽瀬くん。
本当にこれ、私がもらっちゃっていいの?
古典苦手だって言ってたから、
ちょっと心配……』
「心配」という二文字を書くだけで
胸が締め付けられるようにドキドキする。
再び押し戻された付箋を読み、
彼は一瞬驚いたように目を見開いた後、
今度は耳の先まで真っ赤にして、
ガリガリと少し慌てたように
シャーペンを動かした。
『まじで大丈夫だから!
俺の分はあいつのノートを丸写しした
これがあるし! 今回のテスト、
白石さんに良いところ見せるって決めてるから。
だからこれ、まじで白石さんへの「お守り」!』
「白石さんに良いところ見せる」という
羽瀬くんの真っ直ぐな文字を見つめていると
私の胸の奥には、陽だまりに包まれている
ような優しい温かさがじわりと広がっていき、
幸福感でいっぱいになっていった。
本当はまだ、この付箋を往復させていたい。
だけど、教壇の先生がふとチョークを置いて
こちらへ視線を巡らせた。
これ以上は、
流石に先生に見つかってしまうかもしれない。
私は名残惜しさに胸を
キュッと締め付けられながらも、
今の自分にできる精一杯の応援を、
付箋の最後の余白に丁寧な文字で綴り始めた。
『うん! 私、このお守りを見て
一生懸命がんばるね。
羽瀬くんも部活と勉強、応援してます』
淡いブルーの付箋を受け取った彼は、
その文字をじっと見つめた後、
耳の先をほんのり赤く染めた。
そして、
まっすぐに私の方を見つめてくる。
二人の視線が、
静かな教室の中でガチッと重なった。
羽瀬くんは、
周囲の生徒たちや教壇の先生から
決して見えない机の下の死角で、
右手の拳をスッと突き出した。
指示を出すキーパーの颯人にも
負けないくらい、まっすぐな瞳。
そして、引き締まった手首を
「ぐる、ぐる」と二回、私だけに
届く位置で、優しくまわしてみせた。
『ありがとな。ファイト』
言葉にできない照れ臭さと想いを伝える、
二人の秘密の合図。
私は胸の高鳴りを必死に抑えながら、
羽瀬くんへ向けて、小さく、
だけど誰よりも幸せそうな笑みを
浮かべて深く頷き返した——。

