《内緒の教科書筆談》
大合図があった後の五時限目の国語の授業。
窓から差し込む西日が少し和らぎ、
静かな教室内。
先生が黒板にチョークを走らせる音が
規則正しく響く。
隣同士の席の乃愛と琉生。
乃愛はまだ、
お昼休みのあの「大合図」の余韻で
胸が震えていた。
お昼休みの、あの渡り廊下での出来事が、
今でも頭の中から離れない。
グラウンドの真ん中で、
青空へ大きく右腕を掲げてくれた羽瀬くん。
周りの女子たちが勘違いして
黄色い悲鳴を上げる中で、
彼の真っ直ぐな視線は、
ずっと私だけに注がれていた。
(……まだ、心臓がバクバクしてる)
ノートをとるフリをしながら、
私はチラリと右隣の席を見た。
羽瀬くんはいつも通り爽やかな顔で
黒板を見つめているけれど、
その右手首が時折思い出したように
小さくぴくりと動く。
それだけで、
私の顔はまたリンゴみたいに熱くなった。
私が必死に下を向いていると、
カサリ、と小さな音がした。
見ると、羽瀬くんの大きな手が、
自分の国語の教科書の端を、
静かに私の机の方へと滑らせてきていた。
授業中の、二人だけの『教科書筆談』。
開かれたページの余白に、
彼の少し癖のある、
でも男の子らしくて
真っ直ぐな文字が躍っていた。
『さっき渡り廊下にいたの、すぐ分かった。
合図、返してくれてすげー嬉しかった』
「――っ」
息が止まる。心臓が跳ねて、
ノートを握る指先にぎゅっと力が入った。
やっぱり、気のせいじゃなかった。
あの広いグラウンドから、
彼は本当に私だけを見つけて、
私だけを見てくれていたんだ。
恥ずかしくて、でもそれ以上に愛おしくて、
私はシャーペンを握り直した。
先生の目を盗みながら、
彼の文字のすぐ下に、
消えちゃいそうな小さな文字で返事を書く。
『びっくりしました。
たくさんの人がいたので、
気づいてくれるなんて思わなくて……。
隣に高城くんもいたので、
からかわれたりしなかったですか……?』
教科書を少しだけ右に押し戻すと、
羽瀬くんはそれを読んで、
ふっと声を殺して笑った。
その横顔が、
窓からの光に照らされて
信じられないくらい格好いい。
彼はすぐに、
迷いのない筆跡で言葉を書き加えた。
『あいつだけには全部バレてる(笑)
めっちゃニヤニヤされたけど。
でも大丈夫。良い奴だし俺らの味方だから。
それに白石さんのことなら、
どこにいたって絶対に見つけられるよ』
どこにいたって、絶対に見つけられる。
その言葉の甘さに頭の芯がじんわりと痺れる。
私は恥ずかしさを隠すために、
また急いでペンを動かした。
『嘘ばっかり。
グラウンドから二階の窓なんて、
本当はよく見えないはずです』
『嘘じゃない。
白石さんがそこにいるって感覚で分かるから。
俺の目、白石さん専用センサーついてるから』
専用センサーだなんて、
そんな少女漫画みたいなセリフ、
どうしてこの人はこんなにさらっと
書けちゃうんだろう。
心臓がもちそうになくて、
私が真っ赤になって固まっていると、
突然、教壇からの声が耳に飛び込んできた。
「――よし。
じゃあ次の段落、羽瀬。読んでみろ」
「っ、」
ビクッと肩を揺らした羽瀬くんが、
慌てて教科書を引き戻そうとする。
だけど焦ったせいで、
教科書が私の机の上で思いきり滑って、
危うく床に落ちそうになった。
二人で同時に手を伸ばして、
机の端で教科書をギリギリ押さえる。
その瞬間、お互いの指先が、
ほんの一瞬だけ、だけど熱く触れ合った。
「あ……」
羽瀬くんが小さく声を漏らし、
私も息を呑んで手を引っ込める。
「ん? どうした羽瀬、早く立て」
先生に催促され、
羽瀬くんは珍しく「あ、はい!」
と、少し上擦った声で立ち上がった。
けれど、筆談に夢中になりすぎて、
今先生がどこのページを解説していたのか、
完全に迷子になっている。
彼は手元の教科書を目線だけで泳がせながら、
ブレザーのポケットのあたりで、
私にしか見えないよう、
左手で助けを求めるように
「ぐる、ぐる」と必死に手を回した。
全校集会の時とは逆の、
彼からの、少し情けない「助けて」の合図。
(ふふ。
いつもの余裕はどこにいっちゃったの……?)
その姿があまりにも必死で、愛おしくて、
私は堪えきれずに口元を袖で隠して、
小さくクスッと笑ってしまった。
いつも彼にドキドキさせられてばかりなのに、
私の合図一つでこんなに調子を狂わせている
彼を見るのが、なんだか少しだけ嬉しかった。
私は自分の教科書を指先でトントンと叩いて、
今読んでいる場所を彼にこっそり教えてあげた。
「――『その時、空を見上げると……』」
場所が分かった羽瀬くんは、
何事もなかったかのように、
いつもの通る綺麗な声で朗読を始めた。
読み終えて席に座った瞬間、
彼は小さくホッと息を吐き、
すぐにまた教科書を私の机へと滑らせてきた。
『笑ったな?
白石さんが教えてくれなきゃマジで詰んでた。
ありがと。……お礼に。
今日の放課後って、図書室行く?』
図書室。
今日はお昼休みに
本を返しそびれてしまったから、
放課後に必ず行く予定だった。
『はい、返却する本があるので、行きます。
でも、羽瀬くんは部活ですよね?』
そう書いて見せると、
羽瀬くんは私の顔を覗き込むようにして、
悪戯っぽく、でもどこか独占欲を孕んだ
強い瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
そして、私の視線を捕まえたまま、
教科書に最後の文字を走らせた。
『オッケー。じゃあ、俺も放課後行く。
部活早く終わらせて図書室まで激走するから、
いつもの席で待ってて。』
いつもの席で、待ってて。
放課後の図書室。
二人きりになれるかもしれない、
特別な場所。
羽瀬くんは教科書を自分の手元に
サッと引き戻すと、前を向いたまま、
机の下で私にだけ見えるように
手首を二回、優しく「ぐる、ぐる」
と、回してみせた。
(放課後、また羽瀬くんに会える……)
私の胸の奥で、
まだ見ぬ放課後への期待と切なさが、
もう抑えきれないくらいに膨らんでいく。
手に持った文庫本の重みが、
まるで約束の切符のように、
私の手のひらの中でじっと熱を持っていた——。
