《渡り廊下での大合図(乃愛視点)》
まばゆい四月の昼下がり。
図書室の日の月曜日。
校舎と体育館を繋ぐ二階の渡り廊下。
大きなガラス窓から差し込む、
少し汗ばむような夏の強い光。
廊下を行き交う生徒たちの賑やかな声と、
窓の外から響くグラウンドの歓声。
私は一人、
胸に返却する本を抱えて歩いていた。
全校集会での、
あのお腹の前での「小さな初合図」の数日後。
授業中、彼が眠そうにするたびに、
あるいは目が合うたびに。
私たちは誰にも見つからないように、
机の下で小さな「ぐるぐる」を
交わし合ってきた。
だけど、それはいつも、
周囲の背中に隠れた
「小さな暗闇」の中でのこと。
いつもたくさんの人に囲まれている
羽瀬くんは日向の人で、
クラスの隅っこにいる私は日陰の人。
その境界線が消えることはないんだと、
どこかで思い込んでいた。
今日はお昼休みに図書室へ行く日。
結衣とひまりに「図書室行って来るね」
と、伝えて教室を出た。
胸に文庫本を抱きしめるようにして、
二階の渡り廊下を一人で歩いていた。
ガラス窓の向こうから、
夏の匂いが混ざったグラウンドの熱気が
かすかに伝わってくる。
何気なく外へ視線をやった、その時だった。
ドクン、と胸の奥が跳ねる。
「……あ」
眩しい太陽の光が降り注ぐ
グラウンドの真ん中で、
体操服姿の男子たちが大きな声を
上げてサッカーをしていた。
その中心に、
誰よりも軽やかにボールを操り、
汗を輝かせながらグラウンドを駆け回る、
見違えるほど格好いい羽瀬くんの姿があった。
「羽瀬、パス!」
と、仲間から声が飛ぶ。
羽瀬くんは
鮮やかなステップで相手をかわすと、
狙い澄ましたような
鋭いシュートをゴールに突き刺した。
「よっしゃ!」
ハイタッチを交わし、
前髪をくしゃっとかき上げる彼の姿は、
まるで炭酸飲料のCMの一コマみたいに、
目が眩むほど眩しかった。
グラウンドの周りには、
他クラスの女子たちが
「羽瀬くん、格好いい……」
と、黄色い声を上げながら、
彼をうっとりと見つめている。
それを見た瞬間、胸の奥が、
ぎゅっと切なくなった。
やっぱり、羽瀬くんは遠い人だ。
みんなのヒーローで、
あんなに広い青空の下が、
世界で一番似合う男の子。
私とのあの秘密の合図だって、
誰もいない場所だけの、
ただの小さなおままごとみたいなもの
なのかもしれない。
寂しさと、
自分のなかのワガママな独占欲が
混ざり合って、胸の奥がチクチクと痛む。
そんな風に、
少し切なくなって視線を落とそうとした、
まさにその時だった。
グラウンドのど真ん中で、
仲間たちが集まっていき「ナイスシュート!」
と、頭を撫でまわされていた。
そして次の試合が始まるんだろうとな、
と思った。
でも——。
その中の一人、背の高い男の子。
(確か、同じクラスの高城颯人くんだ。
いつも羽瀬くんと一緒にいる、
サッカー部の男の子)
高城くんが他の部員たちの前に
すっと立ちはだかるようにして、
何か指示を出した。
部員たちが「え、大丈夫か?」
みたいな顔をして、
羽瀬くんを残したまま、
グラウンドのそれぞれのポジションへと
散っていく。
その高城くんは、
ボールを足元で転がしながら、
二階の渡り廊下の方をチラッと見上げ、
それから隣にいる羽瀬くんの肩を
ぽんと叩いた。
(え……?)
と、私が思う間もなく。
グラウンドの真ん中に
一人取り残されたようになった羽瀬くんが、
不意に、弾かれたようにバッと真上を向いた。
そして、周りの賑わいなんて
一切目に入っていないような真っ直ぐな目で、
何十枚と並ぶ校舎の窓の中から、正確に、
二階のこの渡り廊下にいる
私を見つけ出したのだ。
「え……っ」
あまりの視線の強さに、息が止まる。
距離はあるはずなのに、彼の綺麗な瞳が、
私の目を一瞬で捉えたのが分かった。
(どうして……?試合の途中なのに、
どうして私に気づいてくれたの……?)
驚きで立ち尽くす私に向けて、
羽瀬くんはすぐに、
あの世界で一番大好きな、
太陽みたいな眩しい笑顔を咲かせた。
さらに、
次の試合が始まろうとしているのも気にせず、
彼は体操服の右腕を、真夏の青空へと、
思いっきり高く、大きく掲げた。
何千人もの生徒に囲まれた
グラウンドのど真ん中で。
彼は誰の目もはばからずに、
その長い手首を、空を掴むようにして二回。
『ぐる、ぐる!』
と、ダイナミックに、力強く、
私に見つけてほしくて
必死に回してみせたのだ。
(……私に、合図を送ってくれてる……っ)
——ここにいるよ。
——白石さん、俺のことちゃんと見てて。
声を張り上げたら届く距離じゃないのに、
青空に描かれた彼の大きな大合図が、
私の名前を何度も熱く
呼んでくれているみたいで、
頭の芯がジーンと痺れていく。
渡り廊下の周りの窓にいる他の女子たちが
「キャー!
羽瀬くんがこっちに手振ってくれた!」
と、自分たちへのアピールだと勘違いして
大騒ぎしているけれど。
羽瀬くんの視線は、
グラウンドのどの女子でもなく、
まっすぐに私だけに注がれていた。
胸が苦しくて、愛おしくて、
私は抱きしめていた本の手を少しだけ緩め、
お腹の前で小さく、本当に小さく、
彼にしか分からないように、
手首を二回「ぐる、ぐる」と回し返した。
ガラス越しで、
しかもこんなに小さな合図、
グラウンドの彼には見えないかもしれない。
だけど、私が手を動かした瞬間、
遠くのグラウンドで羽瀬くんは
「しゃあ!」と声が聞こえてきそうなほど
嬉しそうにガッツポーズをして。
さっき時間を作ってくれた
高城くんの方へと嬉しそうに
駆け出していった。
高城くんは呆れたように
羽瀬くんの肩を小突いて、
二人は笑いながらボールを追いかけ始める。
ちゃんと、届いたんだ。
私を見つけてくれたんだ。
……ううん、見つけてくれただけじゃなくて、
お友達がわざわざ時間を作ってくれるくらい、
羽瀬くんは私との合図を、
大切に思ってくれていたんだ。
「……っ、」
私は返却する本を
もう一度強く胸に抱きしめた。
衣服越しでも、
心臓が爆発しそうなくらいに
ドクンドクンと脈打っている。
顔だけじゃなく、
全身の血が沸騰したみたいに熱い。
狭い暗闇のなかだけじゃない。
こんなに眩しい太陽の下でも、
たくさんの人に囲まれていても、
羽瀬くんは私だけを求めて、
誰にも邪魔されない
二人の言葉で繋がってくれる。
歩き出した私の視界は、
夏の光の眩しさと、
彼がグラウンドから送ってくれた
あの大きな大合図の残像で、
どこまでも鮮やかな青色に染まりきっていた。
手に持った文庫本の重みすら、
今は愛おしい羽瀬くんの体温のように
感じられた——。
まばゆい四月の昼下がり。
図書室の日の月曜日。
校舎と体育館を繋ぐ二階の渡り廊下。
大きなガラス窓から差し込む、
少し汗ばむような夏の強い光。
廊下を行き交う生徒たちの賑やかな声と、
窓の外から響くグラウンドの歓声。
私は一人、
胸に返却する本を抱えて歩いていた。
全校集会での、
あのお腹の前での「小さな初合図」の数日後。
授業中、彼が眠そうにするたびに、
あるいは目が合うたびに。
私たちは誰にも見つからないように、
机の下で小さな「ぐるぐる」を
交わし合ってきた。
だけど、それはいつも、
周囲の背中に隠れた
「小さな暗闇」の中でのこと。
いつもたくさんの人に囲まれている
羽瀬くんは日向の人で、
クラスの隅っこにいる私は日陰の人。
その境界線が消えることはないんだと、
どこかで思い込んでいた。
今日はお昼休みに図書室へ行く日。
結衣とひまりに「図書室行って来るね」
と、伝えて教室を出た。
胸に文庫本を抱きしめるようにして、
二階の渡り廊下を一人で歩いていた。
ガラス窓の向こうから、
夏の匂いが混ざったグラウンドの熱気が
かすかに伝わってくる。
何気なく外へ視線をやった、その時だった。
ドクン、と胸の奥が跳ねる。
「……あ」
眩しい太陽の光が降り注ぐ
グラウンドの真ん中で、
体操服姿の男子たちが大きな声を
上げてサッカーをしていた。
その中心に、
誰よりも軽やかにボールを操り、
汗を輝かせながらグラウンドを駆け回る、
見違えるほど格好いい羽瀬くんの姿があった。
「羽瀬、パス!」
と、仲間から声が飛ぶ。
羽瀬くんは
鮮やかなステップで相手をかわすと、
狙い澄ましたような
鋭いシュートをゴールに突き刺した。
「よっしゃ!」
ハイタッチを交わし、
前髪をくしゃっとかき上げる彼の姿は、
まるで炭酸飲料のCMの一コマみたいに、
目が眩むほど眩しかった。
グラウンドの周りには、
他クラスの女子たちが
「羽瀬くん、格好いい……」
と、黄色い声を上げながら、
彼をうっとりと見つめている。
それを見た瞬間、胸の奥が、
ぎゅっと切なくなった。
やっぱり、羽瀬くんは遠い人だ。
みんなのヒーローで、
あんなに広い青空の下が、
世界で一番似合う男の子。
私とのあの秘密の合図だって、
誰もいない場所だけの、
ただの小さなおままごとみたいなもの
なのかもしれない。
寂しさと、
自分のなかのワガママな独占欲が
混ざり合って、胸の奥がチクチクと痛む。
そんな風に、
少し切なくなって視線を落とそうとした、
まさにその時だった。
グラウンドのど真ん中で、
仲間たちが集まっていき「ナイスシュート!」
と、頭を撫でまわされていた。
そして次の試合が始まるんだろうとな、
と思った。
でも——。
その中の一人、背の高い男の子。
(確か、同じクラスの高城颯人くんだ。
いつも羽瀬くんと一緒にいる、
サッカー部の男の子)
高城くんが他の部員たちの前に
すっと立ちはだかるようにして、
何か指示を出した。
部員たちが「え、大丈夫か?」
みたいな顔をして、
羽瀬くんを残したまま、
グラウンドのそれぞれのポジションへと
散っていく。
その高城くんは、
ボールを足元で転がしながら、
二階の渡り廊下の方をチラッと見上げ、
それから隣にいる羽瀬くんの肩を
ぽんと叩いた。
(え……?)
と、私が思う間もなく。
グラウンドの真ん中に
一人取り残されたようになった羽瀬くんが、
不意に、弾かれたようにバッと真上を向いた。
そして、周りの賑わいなんて
一切目に入っていないような真っ直ぐな目で、
何十枚と並ぶ校舎の窓の中から、正確に、
二階のこの渡り廊下にいる
私を見つけ出したのだ。
「え……っ」
あまりの視線の強さに、息が止まる。
距離はあるはずなのに、彼の綺麗な瞳が、
私の目を一瞬で捉えたのが分かった。
(どうして……?試合の途中なのに、
どうして私に気づいてくれたの……?)
驚きで立ち尽くす私に向けて、
羽瀬くんはすぐに、
あの世界で一番大好きな、
太陽みたいな眩しい笑顔を咲かせた。
さらに、
次の試合が始まろうとしているのも気にせず、
彼は体操服の右腕を、真夏の青空へと、
思いっきり高く、大きく掲げた。
何千人もの生徒に囲まれた
グラウンドのど真ん中で。
彼は誰の目もはばからずに、
その長い手首を、空を掴むようにして二回。
『ぐる、ぐる!』
と、ダイナミックに、力強く、
私に見つけてほしくて
必死に回してみせたのだ。
(……私に、合図を送ってくれてる……っ)
——ここにいるよ。
——白石さん、俺のことちゃんと見てて。
声を張り上げたら届く距離じゃないのに、
青空に描かれた彼の大きな大合図が、
私の名前を何度も熱く
呼んでくれているみたいで、
頭の芯がジーンと痺れていく。
渡り廊下の周りの窓にいる他の女子たちが
「キャー!
羽瀬くんがこっちに手振ってくれた!」
と、自分たちへのアピールだと勘違いして
大騒ぎしているけれど。
羽瀬くんの視線は、
グラウンドのどの女子でもなく、
まっすぐに私だけに注がれていた。
胸が苦しくて、愛おしくて、
私は抱きしめていた本の手を少しだけ緩め、
お腹の前で小さく、本当に小さく、
彼にしか分からないように、
手首を二回「ぐる、ぐる」と回し返した。
ガラス越しで、
しかもこんなに小さな合図、
グラウンドの彼には見えないかもしれない。
だけど、私が手を動かした瞬間、
遠くのグラウンドで羽瀬くんは
「しゃあ!」と声が聞こえてきそうなほど
嬉しそうにガッツポーズをして。
さっき時間を作ってくれた
高城くんの方へと嬉しそうに
駆け出していった。
高城くんは呆れたように
羽瀬くんの肩を小突いて、
二人は笑いながらボールを追いかけ始める。
ちゃんと、届いたんだ。
私を見つけてくれたんだ。
……ううん、見つけてくれただけじゃなくて、
お友達がわざわざ時間を作ってくれるくらい、
羽瀬くんは私との合図を、
大切に思ってくれていたんだ。
「……っ、」
私は返却する本を
もう一度強く胸に抱きしめた。
衣服越しでも、
心臓が爆発しそうなくらいに
ドクンドクンと脈打っている。
顔だけじゃなく、
全身の血が沸騰したみたいに熱い。
狭い暗闇のなかだけじゃない。
こんなに眩しい太陽の下でも、
たくさんの人に囲まれていても、
羽瀬くんは私だけを求めて、
誰にも邪魔されない
二人の言葉で繋がってくれる。
歩き出した私の視界は、
夏の光の眩しさと、
彼がグラウンドから送ってくれた
あの大きな大合図の残像で、
どこまでも鮮やかな青色に染まりきっていた。
手に持った文庫本の重みすら、
今は愛おしい羽瀬くんの体温のように
感じられた——。
