隣の席のキミとひみつの合図   ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~

《全校集会での小さな初合図(乃愛視点)》
六時限目の体育館。
天井の窓から差し込む埃交じりの日差し。


何百人もの生徒が学年ごとに背の順で整列し、
全員が体育館の床に膝を抱えて座っている。


校長先生の低い声がスピーカーから響く、
少し退屈で、張り詰めた空気。


あの放課後の「茶トラとの出会い」から、
数日が経っていた。


『これから授業中寝そうになったら、
さっきの「ぐる、ぐる」で合図送ってよ』


羽瀬くんが笑って言ってくれたあの約束は、
私の胸の奥にずっと、
甘いトゲみたいに刺さったままだった。


送れるわけがない、と思う。


私は自分から人に、
ましてや男の子に合図を送るなんて、
そんな大それたことができる性格じゃない。


席が隣同士の授業中、
時折ノートをとる彼の綺麗な横顔を盗み見ては、
ぎゅっと胸を焦がすだけで精一杯だった。


だけど、今日。
その約束は、
思いがけない形で果たされることになった。


月に一度の、全校集会。
背の順で並ぶこの集会では、
少し小柄な私は女子の列の真ん中より
少し前あたり。


そして背の高い琉生くんは、
右隣にある男子の列の、少し後ろの方にいた。


つまり、今の私の位置からは、
右斜め後ろを振り返らないと彼の姿は見えない。


校長先生の長いお話が始まって、
十分が過ぎた頃だった。


体育館特有の、
むっとした温かい空気のせいか、
周囲の生徒たちから、小さなあくびや、
退屈そうに足を組み替える音が聞こえ始める。


ふと、気になって、
誰にも気づかれないようにほんの少しだけ、
右斜め後ろへと視線を巡らせた。


(あ……やっぱり、眠そう……)


背の高い男子たちの隙間から見えた羽瀬くんは
珍しく眠気と必死に戦っているみたいだった。


膝を抱えたまま、
長い睫毛がゆっくりと閉じては、
ハッと頭を振る。


それを何度も繰り返している。


昨日も部活、遅くまで頑張ってたのかな。
そのカクカクと揺れる姿すら
愛おしくて見つめてしまっていると、
羽瀬くんが、
カクンと一段と大きく首を揺らした。


完全に寝落ちしかけている。


その時、脳裏にあの日の言葉が鮮明に蘇った。


『白石さんからの合図なら、
俺、一発で目が覚めると思うから』


どうしよう。
今、私が合図を送ったら、
本当に気づいてくれるのかな。


でも、こんなに人がいるのに。
後ろの人に見られたら――。


鼓動が、
耳の奥でうるさいくらいに早くなる。


私は膝を抱える腕にぎゅっと力を込め、
数秒間、激しい葛藤のなかにいた。


内気で、
いつも人の後ろに隠れてばかりの私。
だけど、彼の力になりたい。


あの「内緒の約束」を、
ただの冗談で終わらせたくない。


「……っ」


私は意を決して、もう一度だけ、
斜め後ろの彼の方へと顔を向けた。


そして、周りの生徒たちの背中の影に
隠れるようにして、自分の体の右側、
彼からだけギリギリ見える位置に
右手を下ろした。


そこで、私は右手首を、そっと二回。
「ぐる、ぐる」と、小さく、優しく、
回してみた。


距離もあるし、届くはずがない。
ただの自己満足。


そう思って、
恥ずかしさのあまりすぐに手を
引っ込めようとした、その瞬間。


ピクリ、と羽瀬くんの肩が動いた。


彼はまるで、
目に見えない糸で引っ張られたみたいに、
まっすぐに私の、
小さな右手の動きを捉えたのだ。


はっきりと、遠くで目が合った。


「あ……」


声にならない息が漏れる。


羽瀬くんは、寝ぼけ眼をこするでもなく、
その端正な顔を少しだけ驚かせたあと。


――次の瞬間。


私を溶かしてしまいそうなくらい、
優しくて、
本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
誰も気づいていない。


校長先生の話に耳を傾ける
何百人の生徒のなかで、
彼だけが、私を見つめて笑っている。


羽瀬くんはそのまま、
あぐらをかいた足の上、
お腹の前にそっと右手を添えた。


そして、
周りの男子たちの背中の影に隠しながら、
手首を二回。


優しく、私にだけ届くように、
「ぐる、ぐる」と回し返してくれたのだ。


――ちゃんと、届いたよ。
ありがとな、白石さん。


声は聞こえないのに、彼の指先の動きが、
そう優しく囁いているように見えた。


「……っ、」


あまりの眩しさと恥ずかしさに、
私は慌てて視線を外した。


前に向き直ると、そのまま、
膝を抱えて座っているスカートの中に、
がばっと顔を丸ごと埋めて隠した。


布地越しでも、
自分の顔が信じられないくらい
真っ赤に沸騰しているのが分かる。


膝に押し当てたおでこから、
ドクンドクンと激しい心臓の音が
全身に伝わっていく。


(できた……。
私、羽瀬くんに、合図、送れたんだ……)


ただのクラスメイト。
ただの隣の席。


そのはずなのに、
何百人もがいるこの退屈な体育館のなかで、
私たちだけが、誰にも分からない
「秘密の言葉」で繋がっている。


スカートの暗闇の中で、私は胸の奥の、
もう誰にも止められないほど
大きく育ち始めた恋心に、
ただただ、溺れそうになっていた——。










《全校集会での小さな初合図(琉生視点)》
スピーカーから流れる校長の話が、
低く退屈に響いている。


すっかり集中力を欠いた男子生徒たちの間で
俺は限界の眠気と戦っている。


(やばい、めちゃくちゃ眠い……)


あぐらをかいて座ったまま、
俺はカクカクと落ちていく頭を
何度も必死に引き上げていた。


昨日、サッカー部の居残り練習で
遅くまでグラウンドを走り回っていたツケが、
この退屈な全校集会の空気のせいで
一気に回ってきたらしい。


校長先生の声が、
まるで子守唄みたいに鼓膜を滑っていく。


意識が遠のき、
長い睫毛が完全に閉じかけた、
その時だった。


視界の端、右斜め前方の女子の列から、
ほんの一瞬、小さな気配が動いた気がした。


(……ん?)


重い瞼をこじ開けて、
男子たちの背中の隙間から
そっちへ視線を向ける。


そこにいたのは、白石さんだった。
少し小柄な彼女は、
いつも通りちょこんと小さく膝を
抱えて座っている。


いつも男子の前では
ロボットみたいに緊張しちゃう、
内気で優しい、俺の隣の席の女の子。


その白石さんが、
誰にも気づかれないように、
ほんの少しだけこちらを振り返っていた。


潤んだような瞳が、
迷子みたいに泳ぎながら、
まっすぐに俺の方を。


――いや、眠気で崩れそうな俺の顔を、
ハラハラしたように見つめている。


目が合いそうになって、
心臓が小さく跳ねた。


眠気が一瞬で吹き飛ぶ。


すると、白石さんはきゅっと唇を結び、
意を決したように自分のブレザーの右側、
周りの生徒の影になる暗がりに
小さな右手を下ろした。


そして。細い右手首を、そっと二回。
「ぐる、ぐる」と、恥ずかしそうに、
だけど一生懸命に回してみせたんだ。


「――ッ」


一瞬、息が止まった。
頭の奥が、カッと熱くなる。


嘘だろ、白石さん。
あの日、放課後の古い備品倉庫の横で
茶トラを見ながら、
俺が半分悪戯っぽく言ったあの約束。


『これから授業中寝そうになったら、
さっきの「ぐるぐる」で合図送ってよ』


あんなにシャイな彼女が、
何百人も人がいるこんな場所で、
俺のためにその約束の合図を、
本当に送ってくれた。


胸の奥が、
どうしようもないくらいの愛おしさで
めちゃくちゃに掻き乱される。


気づけば、
俺の顔は自分でも抑えきれないくらい、
嬉しさで緩みきっていた。


誰も気づいていない。


退屈そうに下を向く全校生徒のなかで、
俺たち二人だけが、目が合っている。


俺たち二人だけが、秘密を共有している。


白石さんをこれ以上困らせたくなくて、
でも、ちゃんと届いたよって伝えたくて。


俺は前を向いたまま、
あぐらをかいた足の上とお腹の隙間、
男子たちの背中の影になるように
右手を忍ばせた。


そして、彼女にだけ見えるように、
手首を二回。優しく、強く、
「ぐる、ぐる」と回し返した。


——ありがとな、白石さん。
バッチリ、目が覚めた。


声には出せなかったけど、
指先に思いっきり
気持ちを込めて合図を返すと、
遠くで白石さんの肩がビクッと
跳ねるのが見えた。


次の瞬間、
彼女はあまりの恥ずかしさに
耐えかねたように慌てて視線を外すと、
抱えていた膝のスカートの上に、
がばっと顔を丸ごと埋めて隠れてしまった。


「……っ、く」


その姿が、もう、たまらなく愛おしくて。


顔を埋めてきっと今頃、
耳まで真っ赤にしているであろう
彼女の小さな背中を、
俺は男子の列の後ろから、
じっと見つめていた。


最初は
「大人しくて可愛いな」
くらいにしか思っていなかったのに。


みんなの前では絶対に見せない、
俺の前だけで見せる必死な姿や、
あの真っ赤な顔。その照れ方はヤバいだろ。


(あー……だめだ、これ)


もう、「ただの隣の席の女の子」
なんて思えない。


あいつのあの真っ赤な顔も、
一生懸命な合図も全部俺だけがいい。


他の奴らになんて
一ミリだって見せてやりたくない。


俺の胸の奥で、
今まで経験したことのないような、
驚くほどの独占欲。


抑え込もうとしても、
ドクドクと暴れる胸の熱さはもう、
止められそうになかった——。