隣の席のキミとひみつの合図   ~強い絆と恋の付箋。どれだけ離れても、君にだけ届く想いがある~


《キミの胸の中と、親友との内緒話》
私たちの足元では、茶トラが、
退屈そうにあくびをして寝返りを打っている。


外から、サッカー部のグループや、
他の部活の掛け声が風に乗って
かすかに聞こえてきた。


彼は小さく息を吐くと、
名残惜しそうに茶トラの頭をひと撫でして、
ゆっくりと立ち上がった。


陽も少し傾きかけてきて、
いつの間にか少しずつ夕方の空へとの
影を混ぜ始めている。


「……そろそろ、戻るか。
あんまり遅くなると、
他の奴らに見つかっちゃうしな」


羽瀬くんが名残惜しそうに立ち上がり、
ズボンの砂をパッパと払った。


「うん、そうだね」


と、私も立ち上がろうとした。


——その瞬間、足に鋭い痺れが走った。


ずっと座り込んでいたせいで、
完全に感覚がなくなっている。


「っ……わ!」


制御の効かない足元にバランスを崩し、
視界がぐらりと傾く。


地面の土が迫る、
……そう思った次の瞬間、
強い力で手首を掴まれた。


「っと、危ね!」


彼の焦った声とともに、
ぐいっと身体が引き寄せられる。


抗う間もなく私の体は、
彼の広い胸の中へと
すっぽり収まる形で受け止められていた。


トクン、トクン、と耳元で、
彼のものであるはずの、
でも自分と同じくらいに速い鼓動が響く。


お互いの体温がダイレクトに
混ざり合う距離で、彼は小さく息を吐いた。


「……焦った……。ケガ、ねーか?」


耳元で、少し低めの掠れた声が優しく響く。
その瞬間、私の心臓は本当に
破裂するかと思った。


「……だ、大丈夫、です。
ごめん……なさい……っ!」


あまりの恥ずかしさに頭が真っ白になり、
私は慌てて一歩後ろに下がった。


顔が、耳の裏まで真っ赤に
熱くなっているのが自分でも分かる。


彼に見られたくなくて、
私は思わず両手で自分の顔を覆い、
俯いてしまった。


そんな私を見て、
彼はふっと眉を下げて破顔した。


「……顔、真っ赤」


嫌味な感じなんて微塵もない、
愛おしさを隠すための、
少し照れくさそうなからかいの声。


私がさらに小さくなると、
彼は右手をのばして、
私の頭にぽんぽんと乗せた。


「……大丈夫だからさ、気にすんな。
……大丈夫なら、行こっか」


 私の様子を気にかけながらも、
彼はそれ以上からかうことなく、
ゆっくりとした足取りで先に歩き出した。


少しだけ歩幅を小さくして、
私が遅れないように
歩いてくれているのが分かる。


少し前を歩く、彼の広い背中を見つめる。
触れられた手首も、彼に包まれていた胸元も、
まだ自分のものじゃないみたいに熱い。


(……このまま、
ずっとこの時間が終わらなければいいのに)


校舎に戻れば、
また「みんなの中の彼」と「私」に
戻ってしまう。


それは、どうしようもなく寂しかった。


生まれて初めて知った、
誰かを特別に想うことの、
苦しくて、切なくて、
どうしようもないくらいの幸福感。


カバンの紐をぎゅっと握り締めながら、
私は、私の隣を歩く男の子の横顔を、
盗み見るようにして
そっと視界に焼き付けた——。










ガラガラ、と少し重い木の扉を開けて
教室に入った瞬間、
私はハッと現実に引き戻された。


廊下で羽瀬くんとは「じゃあな、また明日」
と、小さく手を振り合って別れたけれど。


私の心臓はまだ、あの古い備品倉庫の裏に
置き忘れてきたみたいに激しく脈打っている。


「あ、乃愛お帰りー!
どこ行って……って、え!?」


教卓の近くで荷物をまとめていた結衣が、
私を見るなり丸い目をさらに丸くした。


その隣で静かに筆箱を閉じていたひまりも、
こっちを見るとその可愛い目を丸くして、
私の顔をじっと見つめてくる。


「乃愛、顔真っ赤だよ!
……あ、そっか、羽瀬くんのところ?」


結衣の声は、
最初は驚いたものの、
察していつもの弾けるような
トーンじゃなくて。


私の緊張をほぐすように、
少しボリュームを落とした
優しい響きで聞いてきた。


親友の結衣とひまりには、
羽瀬くんのことは少し話してあった。


「……うん。内緒で、
茶トラ、見に行ってて……」


私は制服の裾をぎゅっと握りしめたまま、
自分の席に小さく腰を下ろした。


まだ手首に残っている、
羽瀬くんの体温が、制服の袖の中で
じわじわと熱を帯びている気がして、
なんだか落ち着かない。


「男子と二人きりなんて、乃愛、
すっごく緊張したでしょ。大丈夫だった?」


結衣が心配そうに、
でもどこかわくわくした瞳で
私の顔を覗き込む。


「……心臓、止まるかと思った。
足が痺れて、転びそうになっちゃって……。
そしたら、羽瀬くんが手首を掴んで、
支えてくれて……」


そこまで話すと、あの瞬間の、
衣服越しに伝わってきた彼の硬くて
温かい手のひらの感覚が蘇って、
私は慌てて机の上に突っ伏した。


カバンの陰に顔を隠すようにして、
消え入りそうな声で続ける。


「それにね、羽瀬くんが……
私が窓の外を見てるのを、
ずっと見てたんだって。
優しい顔で猫を見てるから、
自分も気になって猫を見るようになったって
……言われちゃった……」


教室の中に、窓の外から
運動部の掛け声が小さく響く。


一瞬の静かな沈黙のあと、
結衣が「……すごいいいじゃん、それ」と、
今度は本当に嬉しそうに、声を潜めて呟いた。


「羽瀬くん、誰にでも優しいけど、
そういうこと適当に言う人じゃないよ。
……ね、ひまり?」


「うん。羽瀬くん、乃愛のそういう優しい
ところを、ちゃんと見てくれてるんだね。
よかったね、乃愛」


ひまりが、私の背中にそっと手を添えて、
ゆっくりとさすってくれた。


二人の温かい目線が、私の頑なな緊張を、
少しずつ心地いい安心感に
変えていってくれる。


突っ伏したまま、
私は二人にだけ聞こえる声で、
ずっと胸の中にあった本音をぽつり、
とこぼした。


「……私、すごく怖かったの。
羽瀬くんって、クラスの中心にいて、
眩しくて、私なんかとは
住む世界が違う人だから。
隣の席になれただけでも、
奇跡みたいだって思ってたから……」


「うん」


「でも……二人でいるとき、羽瀬くんが
『誰にも邪魔されたくないって思っちゃうな』
って言ってくれて。
……私、最初こそ頭が真っ白だったのに、
最後は……もっと一緒にいたいなって、
思っちゃった……」


恥ずかしくて、もう顔を上げられそうにない。
けれど、結衣は私の隣の椅子に
そっと座り直すと、
私の肩をポン、と優しく叩いた。


「いいんだよ、そう思って。
だって、こんなに素敵なこと言われたんだもん。
自分からぐいぐい行けなくたっていいよ。
乃愛は乃愛のままでさ、少しずつ、
羽瀬くんとの『内緒』を
増やしていけばいいんじゃない?」


「うん。焦らなくて大丈夫だからね。
私たちはいつでも乃愛の味方だから」


ひまりの穏やかな笑顔と、
結衣の心強い言葉が、
私の胸の奥にじんわりとしみ込んでいく。


独りぼっちで抱えていたら、
その眩しさに負けて逃げ出して
しまっていたかもしれない恋。


でも、大好きな友達がこうして同じ目線で、
私の小さな一歩を大切に喜んでくれる。
それが何より心強かった。


(私……羽瀬くんの、
特別な人になれるのかな……)


夕日に染まる静かな教室で、
私は胸の奥の小さな痛みを、
今度は切なさではなく、
温かい愛おしさとして、そっと抱きしめていた——。