夏休み明け、始業式の朝。
教室に入った俺が最初に見たのは、遥陽の机に建設された大きなお菓子タワーだった。
そんなものがなぜここにあるのか、理由は考えるまでもない。
昨日、八月三十一日が遥陽の誕生日だからだ。
友達の誕生日に机やロッカーを装飾して祝う文化があることを、俺は昨年の同じ日に初めて知った。
誕生日を聞く勇気すらなかった俺と、サプライズまで計画してしまった仲良しグループの男子たち。
そのギャップがあまりにも大きくて、かなりショックを受けたことを覚えている。
だから、今年こそは。
一年前の俺とは違うのだと、自分自身に証明したい……そう意気込んでプレゼントを買った。
問題は、それを渡すタイミングだ。
遥陽はまもなく登校すると思われる。
教室に入ってきたら、真っ先に仲良しグループが彼を取り囲み、ハッピーバースデーの歌を歌い始めて……俺が入る隙など全くないことは容易に想像できる。
今までの俺なら、そのあとも一日中そわそわした挙句、帰りの時間まで何もできなかっただろう。さらにはそんな俺に遥陽が話しかけにきてくれて「主役から来てくれるのを待つなんてダメだなぁ」と自己嫌悪していただろう。
では、どうすれば良いか。
答えを出すのに時間はかからなかった。
入る隙がないのなら、誰よりも早く一番に会いに行けばいい。
遥陽とみんなの一日が始まる前に、俺と二人きりの数分を作ってしまえばいいのだ。
そうすれば、せっかく用意したプレゼントを渡しそびれることもないし……俺が遥陽を最初に祝うことができるから。
計画を実行するため、荷物を置いたらすぐに下駄箱の近くで遥陽を待ち伏せした。
教室を出るときも階段を降りるときも、誰かにバレたらどうしよう、と心臓がバクバクしていた。
プレゼントを渡すという行為自体は、友達同士でも普通にすることだろうし、バレたって問題ないけれど。
その裏にある恋心がバレバレなんじゃないかと思うとハラハラしてしまう。
一年の頃よりずっと濃くなった「好き」が、この胸の真ん中からとめどなく湧き出して全身を巡っているから……周りが一目見て分かるくらいの片想いオーラが出ていたっておかしくない。
それほどに大好きな遥陽の登校時間は、八時十三分頃。
十分だとちょっと早いし、十五分だとちょっと遅い。
恋を恋だと認識する前から、いつのまにか分単位で把握していた。
だから、いつも通りその時刻に現れた遥陽を見たときも、動揺することなく落ち着いて話しかけて……いるはずだった。
俺より先に遥陽を引き留めたのは、女子バレー部の部員。
一年の頃から何度か親しげに話しているのを見たことがある。
バレー部は男女間の交流も結構あるらしいし、それこそカップルも何組かいるとか……。
遥陽のことを狙っている人たちが、彼の誕生日に大人しくしているわけがないのだ。この俺でさえ行動しているのだから。
ならば、なおさらシュンとしている暇はない。
千晃のおかげで恋に前向きになれた今、手強いライバルにも立ち向かいたいと少しは思えるようになった。
だから――。
「っ、遥陽、おはよう」
「聖來! おはよ、どうしたの?」
「ちょっと、話したいことが……」
遥陽の腕に触れていた女子をチラリと見ると、彼女は慌てたように距離を取って階段を駆け上がっていった。
相手は女性だし、怖がらせたり無理矢理引き離したりするつもりはなかったのだけど……やはりこの無愛想な顔のせいなのか。
「聖來? 大丈夫?」
「ぁ、いや……今の子、俺のこと怖かったかなって」
「えっ、それはないよ。怖いわけじゃなくて……聖來はあんまり自覚ないかもしれないけど、芸能人みたいで緊張しちゃうって人がほとんどだと思う」
「げ、芸能人って……それはどっちかというと遥陽の方だよ」
だって、誰が見たってイケメンで人気者で、キラキラしているのだから……。
「……まあ、あながち……ってそれよりさ! 聖來、何か用事あったんじゃない?」
「あっ、そう、そうだよ、えっと……こ、これ、渡したくて」
勇気が萎んでしまう前に、と背中に隠していた袋を思い切って差し出した。
「昨日メッセージは送ったけど……改めて、お誕生日おめでとう、遥陽」
「っ、これ……プレゼント? 選んでくれたの?」
大きく見開かれた瞳がキラリと光って見える。
真夏の海が太陽の光を反射するみたいに。
目の前の光景にそんな比喩がふさわしいと感じることが、俺の自惚れじゃないと信じてみたい。
「うん……遥陽のこと想って選んでみたから、気に入ってくれたらいいな」
「聖來……ありがとう、めっちゃ嬉しい。この中身って……」
「開けてもいいよっ」
高校生のバイト代で買えるものなんて高が知れているけれど、開けた瞬間の反応に期待して胸がワクワク騒ぐ。
しかし、遥陽は袋をじっと見つめるだけでなかなかリボンを外そうとしない。
「……やっぱり今はやめとく」
「えっ」
「今日、放課後空いてる? 俺、部活休みなんだけど」
「っ、ぁ、空いてる……」
「よっしゃ! じゃあ、放課後ちょっとだけゆっくりしよ。そのときにこれも開ける」
遥陽は俺があげたプレゼントを大事そうにリュックにしまう。
二学期初日から放課後デートだなんて嬉しくてたまらないけれど、引き延ばすことで中身のハードルが少し上がってしまった気はする。
まあ、もう買ってしまったものについて心配するより、遥陽へのアタックを頑張らなきゃ。
「聖來、一緒に教室行こ」
「うん……ってダメダメ!」
「えっ、だ、ダメ、なの?」
そうだ、教室で男子たちがお菓子タワーを作って待ち構えていることを知らない遥陽からしたら、俺から急に拒絶されたと感じてしまうじゃないか。
「そ、その、俺も一緒に行きたいよ。行きたいんだけど……とにかく、今は別々で行こう」
「わ、分かった……?」
遥陽は当然だが納得していない様子だった。
しかし、教室に行けば自ずと分かるはずだ。
もし俺と一緒に教室に入っていけば、変な空気になっていたに違いない、と。
遥陽の姿が完全に見えなくなってから少しだけ待って、俺も階段を上りクラスへと戻った。
予想通り、遥陽はみんなに囲まれて、「本日の主役」と書かれたタスキまでつけさせられていた。
人気者の遥陽を教室の隅っこから眺めるのなんてもう慣れっこだけど……今はちょっと、いやかなり気分がいい。
夏休みに二人きりで水族館へ行ったのも、今日の放課後に二人きりで会う約束をしているのも、このクラスの中で俺だけだから。
秘密って言うほどの秘密ではないけど、俺と遥陽だけの特別な時間が、嫉妬や焦燥感といった醜い感情をまろやかに溶かしてくれるのだと思う。
放課後までずっと、遥陽は何かと忙しそうだった。
別のクラスからお祝いしにくる人がいたり、逆に遥陽が呼び出されたり……。
昨年同じクラスだった人やバレー部の先輩後輩など、遥陽の幅広い人脈をまざまざと見せられた一日だった。
俺はこんなすごい人の恋人になりたいのか……と改めて考えると、本当にとんでもない恋をしてしまったと思う。
でも、何度生まれ変わっても、俺はまた遥陽に恋をしたい。
きっとどんな苦しみも、遥陽が与えてくれる幸せには敵わなくて……彼となら乗り越えられてしまうって直感的に分かるから。
「聖來、おまたせ。ごめんね、遅くなって」
帰りのホームルームからしばらく経った頃、遥陽は手提げいっぱいのお菓子やプレゼントと共に俺の待つ図書室へやってきた。
「ううん、本読んでたし大丈夫だよ」
「あ、その本、俺がおすすめしたやつ? 読んでもらえて嬉しいな」
「うん、まだ半分までしか読めてないけど、すっごく面白い」
俺は二学期も図書委員になった。理由は本が大好きだから……というわけではなく、遥陽と二人でゆっくりできる場所を手放したくなかったからだ。
図書室を自由に出入りできるのも、貸し出しカウンターに並んだ二つの椅子を使えるのも、図書委員の特権なのである。同時に責任も発生するから、遥陽が先生に見つかっても俺が怒られたら済む話。まあ先生の見回りなんて滅多に来ないのがいいところなんだけど。
「遥陽、今日たくさんお祝いされてたね。なんか忙しそうだった」
「ありがたいことだよね……でも、ちょっと疲れちゃった」
はは、と愛想笑いが抜けきっていないあたり、本当に疲れているのだろう。「嬉しい」と「疲れた」は往々にして共存するものだ。
「……もう、力抜いて大丈夫。ここは俺しかいないから」
「聖來……ふふ、そうだね。ありがとう」
遥陽はふわっと微笑んだ。つい先ほどの愛想笑いを知っているから、今は心の底から安心して笑ってくれていることが分かる。
「みんなからは何もらったの?」
手提げバッグを指差して聞いてみると、遥陽はその中の一つを取り出してみせた。
「全部お菓子だよ」
「そうなの? 食べ物以外もありそうだけど……」
「形に残るものは断ったんだ。過去に受け取ったとき、勘違いさせちゃったことがあって」
「っ……!」
まずい。遥陽の中にそんなルールがあったなんて。
つまり俺が選んだものは一発アウトなんじゃ――。
「あ! 聖來からのプレゼント、今から開けてみるね!」
「っ、ぇ、ぁ、」
「今日一日、ずっと楽しみにしてたんだ」
俺は口をパクパクさせるだけで何も言えないまま、遥陽がそれを開封するのを見ていることしかできなかった。
「これ……スポーツタオル?」
「っ、ご、ごめん! 俺、遥陽の事情知らなくて、形に残るものにしちゃって、」
「嬉しい……」
「えっ」
「聖來からもらえるものは、なんでも嬉しいよ」
そんなこと言っていいの? と聞いてやりたくなった。
俺が男子だから? 眼中に入ってないから?
形に残るものを受け取ってもらえたうえに、そんなことを言われたら……俺だって簡単に勘違いしちゃうのに。
「なんでタオルを選んでくれたの?」
「それは……水族館に行ったとき、遥陽がペアキーホルダー買ってくれたのが嬉しくて。俺も何か、普段から使えてお揃いにできそうなものプレゼントしようかなって」
「えっ、じゃあ……」
遥陽の反応が悪くなかったから、安心してリュックから色違いのものを取り出した。
「うん。俺も買っちゃった」
「ほんとだ……」
遥陽がまじまじとタオルを見るからちょっと恥ずかしくなってきて、見過ぎだよ、とリュックに戻そうとしたら、素早くかつ優しく手を取られ、その甲を親指で撫でられる。
「っ、遥陽?」
「……聖來、プレゼントありがとう」
「ど、どういたしまして……」
「誕生日だからさ、一つお願い聞いてもらってもいい?」
「な、なに?」
どうして今、そんな目で見てくるんだ。
身体を芯から灼くような熱っぽい視線。
夢の中の遥陽のそれと重ねてしまう。
「……再来週の文化祭、一緒に回りたいです!」
「っ! ぶんか、さい……」
一瞬だけ変な「お願い」を妄想していた自分を殴りたい。
真夜中に夢見ているようなことは、遥陽からのお願いじゃなくて、俺が遥陽にお願いしたいことじゃないか。
「文化祭……俺も遥陽と一緒に回りたい」
「ほんとに? 良かったぁ……」
「……あれ、確か去年も遥陽が俺のこと誘ってくれて、みんなで――」
「ま、待って! 去年も確かに誘ったけど……今年は、二人でって意味で言ったんだけど」
「っ、ぁ、そうだよね、ごめん。俺の勘違いじゃなくて良かったよ」
「それは俺のセリフね」
遥陽はホッとしたように息を吐いたあと、再び真剣な眼差しを向けてくる。
ドキッとしつつ、俺も再び背筋を伸ばして彼の言葉を待った。
「あのさ……文化祭の日、聖來に言いたいことがある」
「っ! え、と……お、俺は、どう、すれば」
「あ、ごめん、だからどうこうしろってわけじゃないんだけど……い、一応ね、伝えとこうと思って」
「ぁ、は、はい……」
それ以上は何も言えなくて、どんな顔をしたらいいのかも分からなくて、黙ったままゆっくりと俯いてしまった。
いつか、いつかはそんな日が来たらいいなって……でも、きっと来るとしても、まだまだ遠い先の話だとばかり思っていた。
遥陽はそんな俺に心の準備をする時間をくれたのだろう。
あんな言い方をされて「何の話かな?」なんて不思議そうに言えるほど俺が鈍感じゃないことは、遥陽だって分かっていると思うから。
「そ、そろそろ、帰ろっか」
「っ、うん、そうだね」
ぎこちなくほのかに甘いこの空気が、一ヶ月後には懐かしく感じられるようになるのだろうか。「あのとき、もう分かってた?」なんて、これまでの答え合わせをしながらお互い笑い合えるだろうか。
◇
文化祭当日。登校すると、既に数人が水色のクラスTシャツに着替えていた。昨年のピンク色に比べたら着やすいが、遥陽に見られると思うとやっぱり少しドキドキする。
今朝はいつもより早起きして、千晃に教えてもらった簡単なヘアセットをしたり、ほんのり色がつく保湿リップを塗ったりしてみた。もしかしたら今日、色んな「初めて」が起こるかもしれないから……ちょっとでも綺麗な自分でいたくて。
「聖來、おはよ!」
シャツの一番上のボタンを外そうとしたとき、遥陽が教室に入ってきた。
かと思ったら、おはようの「お」を俺が返す前に、ものすごい速さでこちらへ駆け寄ってくるではないか。
「お、おはよ遥陽」
「いやいやいや、おはようの前に何してんの!?」
「え、な、何って……あっ、もしかしてこれ脱いだら下着だと思ってる?」
「そりゃ……あ、そっか、中にクラスTシャツ着てるのか」
遥陽が「焦ったぁ〜」としゃがみ込むから、「大袈裟だなぁ」と思わず笑みが溢れた。
「ふふ、女子もいるのにここで着替えるわけないよ」
「……はぁ……」
深いため息を吐く理由が、俺の着替えを女子に見られたくないから、とかだったら……少し嬉しくなってしまうけど。
遥陽のことだから、純粋に女子への配慮の気持ちが大きいのだろう。
まあどっちにしろ、俺が遥陽をもっと好きになることに変わりはない。
そのあと、遥陽もすぐに更衣室で着替えを済ませ、教室に戻ってきてからはいつものグループの人たちと話していた。
ビビッドカラーのTシャツも着こなしてしまうこの人を、文化祭という特別な一日に独り占めできると思うと……胸がキュンキュンと騒がしくなってしょうがない。
以前の俺なら他の友達に遠慮して、楽しみだという気持ちをここまで噛み締めることができなかったかもしれない。
でも今は……みんなの遥陽じゃなくて、俺だけの遥陽でいてほしいって……遥陽を誰にも譲りたくないって、強く思う。
ホームルーム後、各クラスで出し物の最終チェックをしたら、いよいよ文化祭がスタートした。
俺と遥陽は最初のシフト枠に入り、二人で受付と整列を担当することになったが、これも遥陽が周りと上手に話しながら希望を通してくれたおかげだ。
夏休みからクラスでコツコツと準備を進めた縁日は、想像以上に大盛況。
開場直後から列に並んでくれる先輩もいたし、一般の小さな子どもたちもたくさん遊びに来てくれた。
俺は受付で決まったやり取りをするだけだからまだ良かったけど、整列係を引き受けてくれた遥陽は臨機応変に対応しなければならなかったから大変だったと思う。
持ち前の明るさと人当たりの良さで楽々やっているように見えるけど、俺の前でたまに見せてくれる疲れた表情から、彼も普通の人間なのだとよく分かるから。
さて、忙しくしていたらシフト交替の時間はあっという間にやってきて……。
「聖來、おつかれさま。やっと回れるね!」
「うんっ」
ついに、遥陽との文化祭デートが始まる……!
「まだお昼まで時間あるし、どこでも行けそうだね。聖來はどこ行きたい?」
「んー……」
遥陽が広げてくれたパンフレットを覗き込むと、自然と距離が近くなる。
それだけで少しスピードを上げた鼓動を感じながら、気になる出店を指差した。
「この、ミサンガ作りとか、あと、演劇部や吹奏楽部の公演も気になってて……」
「ミサンガいいね! 聖來、手先器用だもんね」
「そ、そうかな?」
「うん。一緒に装飾作ってるとき、細かい作業まですごい丁寧だなって思ってた。演劇とか音楽も確かに好きなイメージあるよ」
「普段は普通にドラマとか映画観るのが好きなだけだよ。全然、マニアみたいに詳しい知識もないし……」
「俺からしたら十分詳しいよ。聖來のおすすめは全部面白いし」
遥陽が俺のことをよく見てくれていたり、覚えてくれていたりすることが嬉しい。
遥陽と一緒にいると、自分も知らなかった自分を発見したり、昨日より自分のことを好きになれたりする。
「……遥陽は、結構本読んでるよね。小説いっぱい知ってるし、それこそおすすめしてくれるの全部面白くて」
「ふふ、そりゃ良かった。俺が読書好きなの意外だった?」
「んー……意外、ではなかったかなぁ。遥陽は本を読んだり、あとは人と関わったりする中で、色んな考え方に触れて、色んなことを考えて……自分の軸をしっかり持って生きてきた人なんだろうなって」
「え、そ、そんな風に思ってくれてたの?」
「うん。遥陽の周りに人が集まるのは、遥陽にブレない芯があるからだと思うんだ。どんなときも変わらないものがあるから、みんな安心してそばにいたくなったり、着いていきたくなっちゃったりするんじゃないかなって……」
と、長々語ってしまったあとでカアッと顔が熱くなる。
本人の目の前で勝手に持論をペラペラと……さすがの遥陽にも引かれてしまったかもしれない。
照れと不安が混ざり合ってドギマギしていると、
「嬉しい」
「っ……!」
遥陽は頬を染めて、どこか泣きそうな顔で微笑んだ。
「聖來が俺のことを見てくれてるのが、嬉しいよ」
「そ、それは……俺も、同じだよ」
好きな人だから。
入学式の日から、気づけば目で追いかけてしまう人だから。
もっと知りたくて、理解したくて、この先もずっとそばにいたいと思う人だから。
「……あ、ミサンガ作り体験、ここだね!」
「ほ、ほんとだ」
話に夢中になってしまって、ボーッと歩いてきただけだったのに……遥陽が自然に目的地まで連れてきてくれたのだ。
「そうだ、いいこと思いついた。ミサンガ、お互いに作って交換しない?」
「っ、それ、めっちゃいい! 交換、したい!」
カップルみたいな提案にときめき、思わず前のめりになって返事をしたら……遥陽はクスッと眉を下げて笑い、俺の頭にポンと手を置いて「しよっか」と甘やかな声で言った。
ミサンガ作り体験は手芸部の企画だ。
待つことなく教室には入れたが、中はそこそこ混んでいる。
楽しそうに毛糸を編む女子たちや恋人らしき男女を眺めつつ、部員に案内してもらった席へと移動した。
俺も遥陽も初めて作るのだと部員の人たちに伝えると、ミサンガは色やつける場所によって意味が変わってくること、様々な編み方があることを丁寧に教えてくれた。
一通り説明を聞いたあと、色の組み合わせや編み方を自分で決めて、世界に一つだけのミサンガを作って……。
「……できた!」
「俺も、できた!」
「ほんと! 見せて見せて」
「まだダメ。一旦ここ出なきゃ」
説明してくれた部員の方々にお礼を言って、遥陽に手を引かれるまま外に出ると、俺たちが来たときにはなかった列ができていた。はしゃいでいた俺と違って、相変わらず視野が広い遥陽に感心する。
「あ、もうすぐお昼だし、食べるもの買ってから教室行こうか」
「そうだね、結構お腹空いちゃった」
遥陽の提案に賛成して一階と玄関前に広がる屋台エリアへ向かうと、まさに今からランチタイムというタイミングのため、エリア全体がかなり混雑していた。
「すごい、どのお店も大盛況だね」
いまだに俺の手を離さない遥陽をチラッと見上げると、彼もその混み具合に少し驚いているようだった。
「これは……聖來、食べたいものあったら俺が買っていくから、先に教室で待ってて」
「えっ、悪いよ、手分けした方が早く買えるし……」
「大丈夫。頑張って早く戻るから、聖來はゆっくり休んでてよ」
遥陽に任せっきりなんて……という気持ちはありつつ、ただでさえ混雑している中に二人も入っていくのは迷惑なのかもしれないと思い、ここはお言葉に甘えることにした。
「ありがとう。じゃあ、教室で待っておくね」
「うん! あ、食べたいものはある?」
「んー……アメリカンドッグとフルーツポンチ……とか?」
「ふふ、了解。んじゃ、急いで買ってくるね!」
遥陽はまた俺の頭をポンポンとしてから、アメリカンドッグのお店に向かっていく。
大きな背中がかっこよくてずっと見つめていたかったけれど、邪魔にならないよう素直にその場を離れた。
ちょうど教室の前まで着いたとき、ポケットでスマホが震えて着信を知らせた。
もしかして一階で買い物中の遥陽から連絡……!? なんて、ちょっと期待したけれど、画面に表示されていたのは珍しくもなんともない名前。
教室内はお昼休みで人が増えてきたため、廊下を曲がったところにある男子更衣室に入り、誰もいないのを確認してから通話開始ボタンを押した。
「もしもし、千晃?」
『もしもーし、聖來。元気?』
「元気だけど、どうしたの?」
『ん? 別になんもないよ。ただ最近は遥陽くんとどんな感じかなーって』
やはり、恋バナがしたいだけか。
千晃は月に一回くらい、こうして気まぐれで電話をかけてくる。まあ、逆に俺がかけるときもあるし、楽しいから全然いいのだけど……。
「あの、今あんまり時間なくて」
『あれ、今日って日曜だよね? バイトは土曜じゃないっけ』
「いや、今日ね、高校の文化祭なんだ」
『え! あ、そっか、この時期そうじゃん! うわ、邪魔してごめん』
本当に申し訳なさそうな声を出すから、なぜか逆にこちらが申し訳ない気持ちになってきた。
「ちょうど遥陽いないから大丈夫。でもすぐ戻らないと」
『おお……! ふふ、順調そうで良かったな』
「うん……ほんと、千晃のおかげだよ。ありがとう」
そのとき、ガチャッと背後で扉が開く音がしたので、慌てて千晃との会話を締める。
「っ、じゃあ、今日はこれで。またね、千晃」
『うん、またね。文化祭楽しんで!』
通話終了ボタンを押したのとほぼ同時だった。
俺が、誰かに肩を掴まれたのは。
「っ、な、なに――」
グイッと強い力で身体の向きを変えさせられて、壁に押しつけられる。
そのときにふわりと香った匂いで、視認するより先にそれが誰か分かった。
「は、はる、ん、っ――!」
そして、この目で彼を捉えた直後、俺たちの唇は重なっていた。
……今……俺……本当に、遥陽と、キスをしてる?
柔らかさも熱さも、全部、現実……?
そんな俺のクエスチョンマークを絡め取るかのように、遥陽は口内を灼くほど甘いキスをする。
こんなの……夢とは全然違う。
夢の何百倍も気持ち良くておかしくなりそうだ。
息が上がり酸素が薄くなってきたのは遥陽も同じようで、少し荒い息遣いのまま頬や首筋にも口づけを落とし――。
「ぃ、っ!」
いつかの夢と同じ場所に、赤い印を刻まれた。
クラスTシャツで隠れるかどうか怪しい場所。
「はる、ひ……」
「ぁ……」
ゆっくりと俺から離れた遥陽は目をまあるく見開いて、
「……ごめん……」
と消え入りそうな声で呟いた。
謝らなくていいのに。だって俺はこんなに気持ち良かったし、遥陽が千晃に嫉妬してくれたことが嬉しくてたまらないから。
ただ、俺もものすごく動揺していて、すぐには言葉が出てこなかった。だから、もう一度ごめんと言いながら更衣室を出ていく遥陽のことを、引き留めることができなかった。
◇
文化祭は何事もなく無事に終了した。
いや、正確には終了したと思う。
遥陽が早退したと知ってすぐ、俺も後を追うように帰らせてもらったから、実際にどうだったかは知らないのだ。
クラスのグループチャットには、俺と遥陽がいない集合写真が送られてきた。
俺はともかく、遥陽は本当なら写真の真ん中にいてもおかしくないような人。
そんな人があのわずかな間だけは、俺にしか見せない表情で、俺だけに理性を飛び越えた欲をぶつけてくれた。
ベッドに入って目を閉じても、遥陽の匂いと体温、そして唇の感触が鮮やかに思い出されて……。
その夜、
「聖來……しよっか」
俺は、
「声もっと聞かせて」
遥陽に、
「あんまり煽らないで。俺も限界だから」
抱かれる夢を、
「……気持ち良かった?」
見てしまった――。
教室に入った俺が最初に見たのは、遥陽の机に建設された大きなお菓子タワーだった。
そんなものがなぜここにあるのか、理由は考えるまでもない。
昨日、八月三十一日が遥陽の誕生日だからだ。
友達の誕生日に机やロッカーを装飾して祝う文化があることを、俺は昨年の同じ日に初めて知った。
誕生日を聞く勇気すらなかった俺と、サプライズまで計画してしまった仲良しグループの男子たち。
そのギャップがあまりにも大きくて、かなりショックを受けたことを覚えている。
だから、今年こそは。
一年前の俺とは違うのだと、自分自身に証明したい……そう意気込んでプレゼントを買った。
問題は、それを渡すタイミングだ。
遥陽はまもなく登校すると思われる。
教室に入ってきたら、真っ先に仲良しグループが彼を取り囲み、ハッピーバースデーの歌を歌い始めて……俺が入る隙など全くないことは容易に想像できる。
今までの俺なら、そのあとも一日中そわそわした挙句、帰りの時間まで何もできなかっただろう。さらにはそんな俺に遥陽が話しかけにきてくれて「主役から来てくれるのを待つなんてダメだなぁ」と自己嫌悪していただろう。
では、どうすれば良いか。
答えを出すのに時間はかからなかった。
入る隙がないのなら、誰よりも早く一番に会いに行けばいい。
遥陽とみんなの一日が始まる前に、俺と二人きりの数分を作ってしまえばいいのだ。
そうすれば、せっかく用意したプレゼントを渡しそびれることもないし……俺が遥陽を最初に祝うことができるから。
計画を実行するため、荷物を置いたらすぐに下駄箱の近くで遥陽を待ち伏せした。
教室を出るときも階段を降りるときも、誰かにバレたらどうしよう、と心臓がバクバクしていた。
プレゼントを渡すという行為自体は、友達同士でも普通にすることだろうし、バレたって問題ないけれど。
その裏にある恋心がバレバレなんじゃないかと思うとハラハラしてしまう。
一年の頃よりずっと濃くなった「好き」が、この胸の真ん中からとめどなく湧き出して全身を巡っているから……周りが一目見て分かるくらいの片想いオーラが出ていたっておかしくない。
それほどに大好きな遥陽の登校時間は、八時十三分頃。
十分だとちょっと早いし、十五分だとちょっと遅い。
恋を恋だと認識する前から、いつのまにか分単位で把握していた。
だから、いつも通りその時刻に現れた遥陽を見たときも、動揺することなく落ち着いて話しかけて……いるはずだった。
俺より先に遥陽を引き留めたのは、女子バレー部の部員。
一年の頃から何度か親しげに話しているのを見たことがある。
バレー部は男女間の交流も結構あるらしいし、それこそカップルも何組かいるとか……。
遥陽のことを狙っている人たちが、彼の誕生日に大人しくしているわけがないのだ。この俺でさえ行動しているのだから。
ならば、なおさらシュンとしている暇はない。
千晃のおかげで恋に前向きになれた今、手強いライバルにも立ち向かいたいと少しは思えるようになった。
だから――。
「っ、遥陽、おはよう」
「聖來! おはよ、どうしたの?」
「ちょっと、話したいことが……」
遥陽の腕に触れていた女子をチラリと見ると、彼女は慌てたように距離を取って階段を駆け上がっていった。
相手は女性だし、怖がらせたり無理矢理引き離したりするつもりはなかったのだけど……やはりこの無愛想な顔のせいなのか。
「聖來? 大丈夫?」
「ぁ、いや……今の子、俺のこと怖かったかなって」
「えっ、それはないよ。怖いわけじゃなくて……聖來はあんまり自覚ないかもしれないけど、芸能人みたいで緊張しちゃうって人がほとんどだと思う」
「げ、芸能人って……それはどっちかというと遥陽の方だよ」
だって、誰が見たってイケメンで人気者で、キラキラしているのだから……。
「……まあ、あながち……ってそれよりさ! 聖來、何か用事あったんじゃない?」
「あっ、そう、そうだよ、えっと……こ、これ、渡したくて」
勇気が萎んでしまう前に、と背中に隠していた袋を思い切って差し出した。
「昨日メッセージは送ったけど……改めて、お誕生日おめでとう、遥陽」
「っ、これ……プレゼント? 選んでくれたの?」
大きく見開かれた瞳がキラリと光って見える。
真夏の海が太陽の光を反射するみたいに。
目の前の光景にそんな比喩がふさわしいと感じることが、俺の自惚れじゃないと信じてみたい。
「うん……遥陽のこと想って選んでみたから、気に入ってくれたらいいな」
「聖來……ありがとう、めっちゃ嬉しい。この中身って……」
「開けてもいいよっ」
高校生のバイト代で買えるものなんて高が知れているけれど、開けた瞬間の反応に期待して胸がワクワク騒ぐ。
しかし、遥陽は袋をじっと見つめるだけでなかなかリボンを外そうとしない。
「……やっぱり今はやめとく」
「えっ」
「今日、放課後空いてる? 俺、部活休みなんだけど」
「っ、ぁ、空いてる……」
「よっしゃ! じゃあ、放課後ちょっとだけゆっくりしよ。そのときにこれも開ける」
遥陽は俺があげたプレゼントを大事そうにリュックにしまう。
二学期初日から放課後デートだなんて嬉しくてたまらないけれど、引き延ばすことで中身のハードルが少し上がってしまった気はする。
まあ、もう買ってしまったものについて心配するより、遥陽へのアタックを頑張らなきゃ。
「聖來、一緒に教室行こ」
「うん……ってダメダメ!」
「えっ、だ、ダメ、なの?」
そうだ、教室で男子たちがお菓子タワーを作って待ち構えていることを知らない遥陽からしたら、俺から急に拒絶されたと感じてしまうじゃないか。
「そ、その、俺も一緒に行きたいよ。行きたいんだけど……とにかく、今は別々で行こう」
「わ、分かった……?」
遥陽は当然だが納得していない様子だった。
しかし、教室に行けば自ずと分かるはずだ。
もし俺と一緒に教室に入っていけば、変な空気になっていたに違いない、と。
遥陽の姿が完全に見えなくなってから少しだけ待って、俺も階段を上りクラスへと戻った。
予想通り、遥陽はみんなに囲まれて、「本日の主役」と書かれたタスキまでつけさせられていた。
人気者の遥陽を教室の隅っこから眺めるのなんてもう慣れっこだけど……今はちょっと、いやかなり気分がいい。
夏休みに二人きりで水族館へ行ったのも、今日の放課後に二人きりで会う約束をしているのも、このクラスの中で俺だけだから。
秘密って言うほどの秘密ではないけど、俺と遥陽だけの特別な時間が、嫉妬や焦燥感といった醜い感情をまろやかに溶かしてくれるのだと思う。
放課後までずっと、遥陽は何かと忙しそうだった。
別のクラスからお祝いしにくる人がいたり、逆に遥陽が呼び出されたり……。
昨年同じクラスだった人やバレー部の先輩後輩など、遥陽の幅広い人脈をまざまざと見せられた一日だった。
俺はこんなすごい人の恋人になりたいのか……と改めて考えると、本当にとんでもない恋をしてしまったと思う。
でも、何度生まれ変わっても、俺はまた遥陽に恋をしたい。
きっとどんな苦しみも、遥陽が与えてくれる幸せには敵わなくて……彼となら乗り越えられてしまうって直感的に分かるから。
「聖來、おまたせ。ごめんね、遅くなって」
帰りのホームルームからしばらく経った頃、遥陽は手提げいっぱいのお菓子やプレゼントと共に俺の待つ図書室へやってきた。
「ううん、本読んでたし大丈夫だよ」
「あ、その本、俺がおすすめしたやつ? 読んでもらえて嬉しいな」
「うん、まだ半分までしか読めてないけど、すっごく面白い」
俺は二学期も図書委員になった。理由は本が大好きだから……というわけではなく、遥陽と二人でゆっくりできる場所を手放したくなかったからだ。
図書室を自由に出入りできるのも、貸し出しカウンターに並んだ二つの椅子を使えるのも、図書委員の特権なのである。同時に責任も発生するから、遥陽が先生に見つかっても俺が怒られたら済む話。まあ先生の見回りなんて滅多に来ないのがいいところなんだけど。
「遥陽、今日たくさんお祝いされてたね。なんか忙しそうだった」
「ありがたいことだよね……でも、ちょっと疲れちゃった」
はは、と愛想笑いが抜けきっていないあたり、本当に疲れているのだろう。「嬉しい」と「疲れた」は往々にして共存するものだ。
「……もう、力抜いて大丈夫。ここは俺しかいないから」
「聖來……ふふ、そうだね。ありがとう」
遥陽はふわっと微笑んだ。つい先ほどの愛想笑いを知っているから、今は心の底から安心して笑ってくれていることが分かる。
「みんなからは何もらったの?」
手提げバッグを指差して聞いてみると、遥陽はその中の一つを取り出してみせた。
「全部お菓子だよ」
「そうなの? 食べ物以外もありそうだけど……」
「形に残るものは断ったんだ。過去に受け取ったとき、勘違いさせちゃったことがあって」
「っ……!」
まずい。遥陽の中にそんなルールがあったなんて。
つまり俺が選んだものは一発アウトなんじゃ――。
「あ! 聖來からのプレゼント、今から開けてみるね!」
「っ、ぇ、ぁ、」
「今日一日、ずっと楽しみにしてたんだ」
俺は口をパクパクさせるだけで何も言えないまま、遥陽がそれを開封するのを見ていることしかできなかった。
「これ……スポーツタオル?」
「っ、ご、ごめん! 俺、遥陽の事情知らなくて、形に残るものにしちゃって、」
「嬉しい……」
「えっ」
「聖來からもらえるものは、なんでも嬉しいよ」
そんなこと言っていいの? と聞いてやりたくなった。
俺が男子だから? 眼中に入ってないから?
形に残るものを受け取ってもらえたうえに、そんなことを言われたら……俺だって簡単に勘違いしちゃうのに。
「なんでタオルを選んでくれたの?」
「それは……水族館に行ったとき、遥陽がペアキーホルダー買ってくれたのが嬉しくて。俺も何か、普段から使えてお揃いにできそうなものプレゼントしようかなって」
「えっ、じゃあ……」
遥陽の反応が悪くなかったから、安心してリュックから色違いのものを取り出した。
「うん。俺も買っちゃった」
「ほんとだ……」
遥陽がまじまじとタオルを見るからちょっと恥ずかしくなってきて、見過ぎだよ、とリュックに戻そうとしたら、素早くかつ優しく手を取られ、その甲を親指で撫でられる。
「っ、遥陽?」
「……聖來、プレゼントありがとう」
「ど、どういたしまして……」
「誕生日だからさ、一つお願い聞いてもらってもいい?」
「な、なに?」
どうして今、そんな目で見てくるんだ。
身体を芯から灼くような熱っぽい視線。
夢の中の遥陽のそれと重ねてしまう。
「……再来週の文化祭、一緒に回りたいです!」
「っ! ぶんか、さい……」
一瞬だけ変な「お願い」を妄想していた自分を殴りたい。
真夜中に夢見ているようなことは、遥陽からのお願いじゃなくて、俺が遥陽にお願いしたいことじゃないか。
「文化祭……俺も遥陽と一緒に回りたい」
「ほんとに? 良かったぁ……」
「……あれ、確か去年も遥陽が俺のこと誘ってくれて、みんなで――」
「ま、待って! 去年も確かに誘ったけど……今年は、二人でって意味で言ったんだけど」
「っ、ぁ、そうだよね、ごめん。俺の勘違いじゃなくて良かったよ」
「それは俺のセリフね」
遥陽はホッとしたように息を吐いたあと、再び真剣な眼差しを向けてくる。
ドキッとしつつ、俺も再び背筋を伸ばして彼の言葉を待った。
「あのさ……文化祭の日、聖來に言いたいことがある」
「っ! え、と……お、俺は、どう、すれば」
「あ、ごめん、だからどうこうしろってわけじゃないんだけど……い、一応ね、伝えとこうと思って」
「ぁ、は、はい……」
それ以上は何も言えなくて、どんな顔をしたらいいのかも分からなくて、黙ったままゆっくりと俯いてしまった。
いつか、いつかはそんな日が来たらいいなって……でも、きっと来るとしても、まだまだ遠い先の話だとばかり思っていた。
遥陽はそんな俺に心の準備をする時間をくれたのだろう。
あんな言い方をされて「何の話かな?」なんて不思議そうに言えるほど俺が鈍感じゃないことは、遥陽だって分かっていると思うから。
「そ、そろそろ、帰ろっか」
「っ、うん、そうだね」
ぎこちなくほのかに甘いこの空気が、一ヶ月後には懐かしく感じられるようになるのだろうか。「あのとき、もう分かってた?」なんて、これまでの答え合わせをしながらお互い笑い合えるだろうか。
◇
文化祭当日。登校すると、既に数人が水色のクラスTシャツに着替えていた。昨年のピンク色に比べたら着やすいが、遥陽に見られると思うとやっぱり少しドキドキする。
今朝はいつもより早起きして、千晃に教えてもらった簡単なヘアセットをしたり、ほんのり色がつく保湿リップを塗ったりしてみた。もしかしたら今日、色んな「初めて」が起こるかもしれないから……ちょっとでも綺麗な自分でいたくて。
「聖來、おはよ!」
シャツの一番上のボタンを外そうとしたとき、遥陽が教室に入ってきた。
かと思ったら、おはようの「お」を俺が返す前に、ものすごい速さでこちらへ駆け寄ってくるではないか。
「お、おはよ遥陽」
「いやいやいや、おはようの前に何してんの!?」
「え、な、何って……あっ、もしかしてこれ脱いだら下着だと思ってる?」
「そりゃ……あ、そっか、中にクラスTシャツ着てるのか」
遥陽が「焦ったぁ〜」としゃがみ込むから、「大袈裟だなぁ」と思わず笑みが溢れた。
「ふふ、女子もいるのにここで着替えるわけないよ」
「……はぁ……」
深いため息を吐く理由が、俺の着替えを女子に見られたくないから、とかだったら……少し嬉しくなってしまうけど。
遥陽のことだから、純粋に女子への配慮の気持ちが大きいのだろう。
まあどっちにしろ、俺が遥陽をもっと好きになることに変わりはない。
そのあと、遥陽もすぐに更衣室で着替えを済ませ、教室に戻ってきてからはいつものグループの人たちと話していた。
ビビッドカラーのTシャツも着こなしてしまうこの人を、文化祭という特別な一日に独り占めできると思うと……胸がキュンキュンと騒がしくなってしょうがない。
以前の俺なら他の友達に遠慮して、楽しみだという気持ちをここまで噛み締めることができなかったかもしれない。
でも今は……みんなの遥陽じゃなくて、俺だけの遥陽でいてほしいって……遥陽を誰にも譲りたくないって、強く思う。
ホームルーム後、各クラスで出し物の最終チェックをしたら、いよいよ文化祭がスタートした。
俺と遥陽は最初のシフト枠に入り、二人で受付と整列を担当することになったが、これも遥陽が周りと上手に話しながら希望を通してくれたおかげだ。
夏休みからクラスでコツコツと準備を進めた縁日は、想像以上に大盛況。
開場直後から列に並んでくれる先輩もいたし、一般の小さな子どもたちもたくさん遊びに来てくれた。
俺は受付で決まったやり取りをするだけだからまだ良かったけど、整列係を引き受けてくれた遥陽は臨機応変に対応しなければならなかったから大変だったと思う。
持ち前の明るさと人当たりの良さで楽々やっているように見えるけど、俺の前でたまに見せてくれる疲れた表情から、彼も普通の人間なのだとよく分かるから。
さて、忙しくしていたらシフト交替の時間はあっという間にやってきて……。
「聖來、おつかれさま。やっと回れるね!」
「うんっ」
ついに、遥陽との文化祭デートが始まる……!
「まだお昼まで時間あるし、どこでも行けそうだね。聖來はどこ行きたい?」
「んー……」
遥陽が広げてくれたパンフレットを覗き込むと、自然と距離が近くなる。
それだけで少しスピードを上げた鼓動を感じながら、気になる出店を指差した。
「この、ミサンガ作りとか、あと、演劇部や吹奏楽部の公演も気になってて……」
「ミサンガいいね! 聖來、手先器用だもんね」
「そ、そうかな?」
「うん。一緒に装飾作ってるとき、細かい作業まですごい丁寧だなって思ってた。演劇とか音楽も確かに好きなイメージあるよ」
「普段は普通にドラマとか映画観るのが好きなだけだよ。全然、マニアみたいに詳しい知識もないし……」
「俺からしたら十分詳しいよ。聖來のおすすめは全部面白いし」
遥陽が俺のことをよく見てくれていたり、覚えてくれていたりすることが嬉しい。
遥陽と一緒にいると、自分も知らなかった自分を発見したり、昨日より自分のことを好きになれたりする。
「……遥陽は、結構本読んでるよね。小説いっぱい知ってるし、それこそおすすめしてくれるの全部面白くて」
「ふふ、そりゃ良かった。俺が読書好きなの意外だった?」
「んー……意外、ではなかったかなぁ。遥陽は本を読んだり、あとは人と関わったりする中で、色んな考え方に触れて、色んなことを考えて……自分の軸をしっかり持って生きてきた人なんだろうなって」
「え、そ、そんな風に思ってくれてたの?」
「うん。遥陽の周りに人が集まるのは、遥陽にブレない芯があるからだと思うんだ。どんなときも変わらないものがあるから、みんな安心してそばにいたくなったり、着いていきたくなっちゃったりするんじゃないかなって……」
と、長々語ってしまったあとでカアッと顔が熱くなる。
本人の目の前で勝手に持論をペラペラと……さすがの遥陽にも引かれてしまったかもしれない。
照れと不安が混ざり合ってドギマギしていると、
「嬉しい」
「っ……!」
遥陽は頬を染めて、どこか泣きそうな顔で微笑んだ。
「聖來が俺のことを見てくれてるのが、嬉しいよ」
「そ、それは……俺も、同じだよ」
好きな人だから。
入学式の日から、気づけば目で追いかけてしまう人だから。
もっと知りたくて、理解したくて、この先もずっとそばにいたいと思う人だから。
「……あ、ミサンガ作り体験、ここだね!」
「ほ、ほんとだ」
話に夢中になってしまって、ボーッと歩いてきただけだったのに……遥陽が自然に目的地まで連れてきてくれたのだ。
「そうだ、いいこと思いついた。ミサンガ、お互いに作って交換しない?」
「っ、それ、めっちゃいい! 交換、したい!」
カップルみたいな提案にときめき、思わず前のめりになって返事をしたら……遥陽はクスッと眉を下げて笑い、俺の頭にポンと手を置いて「しよっか」と甘やかな声で言った。
ミサンガ作り体験は手芸部の企画だ。
待つことなく教室には入れたが、中はそこそこ混んでいる。
楽しそうに毛糸を編む女子たちや恋人らしき男女を眺めつつ、部員に案内してもらった席へと移動した。
俺も遥陽も初めて作るのだと部員の人たちに伝えると、ミサンガは色やつける場所によって意味が変わってくること、様々な編み方があることを丁寧に教えてくれた。
一通り説明を聞いたあと、色の組み合わせや編み方を自分で決めて、世界に一つだけのミサンガを作って……。
「……できた!」
「俺も、できた!」
「ほんと! 見せて見せて」
「まだダメ。一旦ここ出なきゃ」
説明してくれた部員の方々にお礼を言って、遥陽に手を引かれるまま外に出ると、俺たちが来たときにはなかった列ができていた。はしゃいでいた俺と違って、相変わらず視野が広い遥陽に感心する。
「あ、もうすぐお昼だし、食べるもの買ってから教室行こうか」
「そうだね、結構お腹空いちゃった」
遥陽の提案に賛成して一階と玄関前に広がる屋台エリアへ向かうと、まさに今からランチタイムというタイミングのため、エリア全体がかなり混雑していた。
「すごい、どのお店も大盛況だね」
いまだに俺の手を離さない遥陽をチラッと見上げると、彼もその混み具合に少し驚いているようだった。
「これは……聖來、食べたいものあったら俺が買っていくから、先に教室で待ってて」
「えっ、悪いよ、手分けした方が早く買えるし……」
「大丈夫。頑張って早く戻るから、聖來はゆっくり休んでてよ」
遥陽に任せっきりなんて……という気持ちはありつつ、ただでさえ混雑している中に二人も入っていくのは迷惑なのかもしれないと思い、ここはお言葉に甘えることにした。
「ありがとう。じゃあ、教室で待っておくね」
「うん! あ、食べたいものはある?」
「んー……アメリカンドッグとフルーツポンチ……とか?」
「ふふ、了解。んじゃ、急いで買ってくるね!」
遥陽はまた俺の頭をポンポンとしてから、アメリカンドッグのお店に向かっていく。
大きな背中がかっこよくてずっと見つめていたかったけれど、邪魔にならないよう素直にその場を離れた。
ちょうど教室の前まで着いたとき、ポケットでスマホが震えて着信を知らせた。
もしかして一階で買い物中の遥陽から連絡……!? なんて、ちょっと期待したけれど、画面に表示されていたのは珍しくもなんともない名前。
教室内はお昼休みで人が増えてきたため、廊下を曲がったところにある男子更衣室に入り、誰もいないのを確認してから通話開始ボタンを押した。
「もしもし、千晃?」
『もしもーし、聖來。元気?』
「元気だけど、どうしたの?」
『ん? 別になんもないよ。ただ最近は遥陽くんとどんな感じかなーって』
やはり、恋バナがしたいだけか。
千晃は月に一回くらい、こうして気まぐれで電話をかけてくる。まあ、逆に俺がかけるときもあるし、楽しいから全然いいのだけど……。
「あの、今あんまり時間なくて」
『あれ、今日って日曜だよね? バイトは土曜じゃないっけ』
「いや、今日ね、高校の文化祭なんだ」
『え! あ、そっか、この時期そうじゃん! うわ、邪魔してごめん』
本当に申し訳なさそうな声を出すから、なぜか逆にこちらが申し訳ない気持ちになってきた。
「ちょうど遥陽いないから大丈夫。でもすぐ戻らないと」
『おお……! ふふ、順調そうで良かったな』
「うん……ほんと、千晃のおかげだよ。ありがとう」
そのとき、ガチャッと背後で扉が開く音がしたので、慌てて千晃との会話を締める。
「っ、じゃあ、今日はこれで。またね、千晃」
『うん、またね。文化祭楽しんで!』
通話終了ボタンを押したのとほぼ同時だった。
俺が、誰かに肩を掴まれたのは。
「っ、な、なに――」
グイッと強い力で身体の向きを変えさせられて、壁に押しつけられる。
そのときにふわりと香った匂いで、視認するより先にそれが誰か分かった。
「は、はる、ん、っ――!」
そして、この目で彼を捉えた直後、俺たちの唇は重なっていた。
……今……俺……本当に、遥陽と、キスをしてる?
柔らかさも熱さも、全部、現実……?
そんな俺のクエスチョンマークを絡め取るかのように、遥陽は口内を灼くほど甘いキスをする。
こんなの……夢とは全然違う。
夢の何百倍も気持ち良くておかしくなりそうだ。
息が上がり酸素が薄くなってきたのは遥陽も同じようで、少し荒い息遣いのまま頬や首筋にも口づけを落とし――。
「ぃ、っ!」
いつかの夢と同じ場所に、赤い印を刻まれた。
クラスTシャツで隠れるかどうか怪しい場所。
「はる、ひ……」
「ぁ……」
ゆっくりと俺から離れた遥陽は目をまあるく見開いて、
「……ごめん……」
と消え入りそうな声で呟いた。
謝らなくていいのに。だって俺はこんなに気持ち良かったし、遥陽が千晃に嫉妬してくれたことが嬉しくてたまらないから。
ただ、俺もものすごく動揺していて、すぐには言葉が出てこなかった。だから、もう一度ごめんと言いながら更衣室を出ていく遥陽のことを、引き留めることができなかった。
◇
文化祭は何事もなく無事に終了した。
いや、正確には終了したと思う。
遥陽が早退したと知ってすぐ、俺も後を追うように帰らせてもらったから、実際にどうだったかは知らないのだ。
クラスのグループチャットには、俺と遥陽がいない集合写真が送られてきた。
俺はともかく、遥陽は本当なら写真の真ん中にいてもおかしくないような人。
そんな人があのわずかな間だけは、俺にしか見せない表情で、俺だけに理性を飛び越えた欲をぶつけてくれた。
ベッドに入って目を閉じても、遥陽の匂いと体温、そして唇の感触が鮮やかに思い出されて……。
その夜、
「聖來……しよっか」
俺は、
「声もっと聞かせて」
遥陽に、
「あんまり煽らないで。俺も限界だから」
抱かれる夢を、
「……気持ち良かった?」
見てしまった――。



