海辺の町の小さな高校、その教室の隅っこで、今日も俺たちは密かに抱きしめあう。大きなベージュのカーテンに夕日も視線も遮ってもらい、ささやかな二人きりの甘い時間を過ごすのだ。
「聖來、今日の国語寝てたでしょ?」
「あ、バレてたんだ……恥ずかしいな」
「うとうとしてるの可愛かったよ」
俺より少し背の高い君が愛おしそうにこちらを見つめ、ふんわりと頭を撫でてくるから、胸がキュンとくすぐったくて……思わず目を逸らしたけれど、俺だって君のことを見ていたのだと伝えてみる。
「は、遥陽だって、英語のとき眠そうにしてた」
「あ、俺もバレてんだ。あのとき眠すぎてマジでやばかった〜」
「ふふ、そのあとすぐ音読当てられてたよね」
「そうそう、ギリギリセーフって感じだった」
たわいない話題ばかりだけど、君と言葉を交わす行為そのものが、この心を静かに温かく満たしていく。そうして身体は徐々に熱くなって、君をもっともっと求めてしまう。
「……は、遥陽」
シャツの胸元をキュッと掴んで、ちょっぴり背伸びをする。
一瞬だけ触れた唇は、その柔らかい感触とは裏腹に、ビリビリと電流が走るようなときめきを孕んでいる。
「聖來……可愛い、けど足りない」
少し強引に頭を引き寄せられて、再び唇が重なった。
これは一瞬じゃないやつだ――そう思うと、頭がふわふわして甘ったるくなるのに……。
わずかに残された理性が言っている。
俺、こんなことしちゃっていいのかな……?
「……聖來、考え事してるでしょ。今くらい俺のことだけ考えてよ」
「え、ぁ、っ」
……いや、いいんだ。
そうだ、今くらい欲望に身を任せたっていい。
遥陽と好きなだけキスしたって――。
だって、これは全部……俺の夢なのだから。
◇
遥陽と初めて話したのは、高校の入学式の日。
俺と遥陽は一年生のときも同じクラスで、彼の名前が「前田」遥陽、俺の名前が「三波」聖來だから出席番号は隣同士。
もちろん座席も前後なわけで、話しかけるきっかけとしては十分だったが……。
当時、遥陽より先に学校に着いていた俺は、人見知りな性格ゆえ前の席の人が来ても何を話せばいいのか分からず、一人静かに怯えていた。
しかし、そんな俺の心配は一瞬にして吹き飛ばされる。
「俺の席は〜……ここか」
座席番号を確認しながら近づいてきた遥陽は、俺の前の席で足を止めると、
「おっ! 君が三波くん?」
こちらを見てぱあっと顔を輝かせ、なんの躊躇いもなく俺に話しかけてきたのだ。
「っ、うん、三波、聖來です」
「俺は前田遥陽。よろしくね!」
会って十秒で、この人は俺とは違うタイプの人間なのだと分かった。いわゆる陽キャというやつだろう、と。
「てか、聖來ってすげー綺麗な顔してんね。髪も艶々だし……もしかしてモデルとかやってる?」
「えっ!? いやいやまさか……でも、ありがとう。は、遥陽は髪染めてるの?」
咄嗟に名前を呼べたことに自分で驚きつつ、彼の赤みがかった茶色の髪を指して聞いてみると、照れの混じった微笑みを向けられる。
「そうそう、校則でオッケーって知って、染めてみたくなっちゃって。ちょっと変かな……?」
「へ、変なわけないよ! むしろ、似合ってる」
「そ、そう? ふふ、良かったぁ。ありがとね」
このときの俺は、もしかしたらこれから遥陽と一緒に教室移動したりお昼を食べたり、そんな関係になるのかもしれない……なんて淡く期待していた。
でも、そんなわけがなかった。
所詮、俺は人見知りで無愛想なつまらない男。
対して遥陽は、同じクラスに中学からの友達もいたようだし、その友達からさらに新しい友達へと人脈を広げていって……あっという間にクラスの人気者になった。
俺はそんな遥陽をひっそりと見つめているだけだった。
一人で過ごすのには慣れていたし、遥陽のようにキラキラした明るいグループの中に入る自信はなかったから、見ているくらいがちょうど良かった。
遥陽と仲良くしている奴らのことは、やっぱり少し羨ましかったけど。
五月になると、初めての席替えが行われた。
それまでの俺にとって、席替えなんてたいしたイベントではなかったけれど、そのときばかりは心の底から「嫌だ」と思った。
席が前後だから辛うじて遥陽と話せていたのに、離れてしまえば今度こそ接点がなくなる。
「聖來、席どこだった?」
みんながガタガタと座席を移動させる中、遥陽が尋ねてくる。
「ぃ、一番窓側の、一番後ろ……」
「うわ、惜しい〜! 俺、その隣の列の後ろから三番目!」
また一番後ろなんてラッキーだな、と言われたけれど、前の方でもいいから遥陽の後ろか隣が良かった……なんて、当然口にすることはできない想いが足を重くした。
「って、そろそろ俺たちも移動しなきゃな」
「うん……」
「……あ、あのさ、聖來」
「な、なに?」
遥陽は持ち上げかけていた机を一度床に置き直すと、わざわざくるりと俺の方を向いて、
「席変わっても話しかけていい?」
と、首を傾げた。
「っ、も、もちろん」
そう答えて首を縦に振るのが精一杯だった。俺も話しかけたいとか、このままの席が良かったとか、大胆な本音は胸の中で海月のように漂っているだけ。
「ふふ、良かったぁ。じゃ、これからもよろしくね、聖來」
「よ、よろしく、遥陽……」
同じ教室内での小さな移動さえ、大きな感情のジェットコースターを巻き起こす。みんなが席替えで一喜一憂していた理由を、俺は高一にして初めて知ったのだ。
そっか、俺、遥陽のこと――。
まだ恋と呼ぶには早すぎる気がして、そのときは「気になる」という表現で自分を納得させた。
けれど、胸の中で光るその想いは、俺が思うよりずっと速く膨らんでいくことになる。
◇
席が変わっても話しかけていいか、と聞いてきたとはいえ、実際は遥陽のような人気者が俺に構うことなどないだろう。
あれはその場限りの社交辞令みたいなもの……と、自分を戒めるために言い聞かせていたのに。
遥陽は、そんな俺の努力を真正面から優しく打ち砕いた。
いつも一緒にいるグループに俺を入れてくれたわけではない。
ただ、遥陽は、一日に最低一回は必ず話しかけに来てくれるのだ。
授業と授業の合間にある小休憩だったり、掃除終了から帰りのホームルームが始まるまでのわずかな時間だったり……それは決して長いものではなかったけれど、俺にとっては十分すぎるくらい幸せな時間だった。
きっと遥陽は俺の性格をなんとなく察し、賑やかなグループに誘うより、個人的に話しかけることを選んでくれた。
普段の彼の様子を見ていると、それは遥陽にとって特別なことじゃなくて、他にも色んな人に、こういう優しさを平等に与えているのだと思う。
誰にでも優しいのだ。前田遥陽という男は。
そう分かっているのに、優しくされた方はどうしたって意識してしまう。
自分が特別なのではないかと期待してしまう。
実際、何人もの女子が彼に告白し、涙を流すことになってしまったとか。
気の毒だけど、告白する勇気のある女子たちのことを俺は心の底から尊敬する。
俺はというと、一年生の冬になっても、遥陽に話しかけてもらえる毎日に慢心していた。
遥陽に恋人ができる気配もないし、俺もこのまま良き友人関係を保てたら満足だと。
そう、思っていたのに――。
一年生最後の終業式の日……とんでもないことが起こってしまった。
あの日は、午後から急に天気が不安定になって、風も結構強くて……俺は出かける前に天気予報を見ていたから、大きな傘を持っていたけど、クラスメイトの中には慌てて親に連絡する人や「気合いで走って帰る!」と話す人もいた。
俺が気にしていたのは、もちろん遥陽のこと。遥陽はしっかり者だから、きっと傘も準備バッチリで持っているに違いない。
でも、もしかしたら……。
小さじ二分の一くらいの期待を抱きながら、窓際で集まっている遥陽のグループの様子を窺う。
「遥陽〜、お前も傘持ってんの?」
「持ってるよ」
「んだよ、忘れたの俺だけか。遥陽、駅まで入れてくんね?」
友人の一人が両手を合わせて頼んだそのとき――。
「っ!」
遥陽と偶然目が合ってしまい、咄嗟に視線を逸らした。
こっそり見つめていたことがバレたのではないかと思って、心臓もドキンドキンと分かりやすく焦っている。
そういえば、今日はまだ遥陽と話せていない。
明日から春休みに入ってしまうのに……俺はたったこれだけのことで動揺して……。
「聖來!」
「っ、遥陽……」
自己嫌悪に陥りかけていると、遥陽の声が薄明光線のように俺の胸を照らす。
「聖來、もう帰るよね?」
「あ、うん……遥陽も?」
「うん、今日はバレー部も休みだから。ところで、聖來は傘持ってるの?」
窓の外をチラッと見てから遥陽は尋ねる。
彼の表情からは、その質問の意図が分からない。
でも、ここはひとまず、安心安全な選択を――。
「……持って、ない」
まずい。安心安全の真逆を選んでしまった。
声に出す寸前までは「持ってるよ」と言おうとしてたはずだ。
けれども、実際に俺の口からスルリと出たのは大胆な返答。
「っ、でも、なんとかなるし」
慌てて引き返そうとしたダサい俺に、遥陽は手を差し伸べる。
「一緒に帰ろう」
「えっ」
「俺、結構大きな傘持ってるからさ」
「……でも……」
先ほど遥陽と話していた男子に一瞬だけ視線をやると、遥陽は俺の言いたいことを察してくれたようだった。
「あいつは大丈夫だよ。他にも傘持ってるやついたから、そいつに頼むってさ」
「そう、なんだ……あ、でも、俺の家と電車の駅、逆方向だし」
俺は徒歩通学で、遥陽は電車通学。
わざわざ俺の家に寄ってから駅に戻るとなると、遥陽を無駄に歩かせてしまうことになる。
こんなこと少し考えたら分かるのに、自分の欲を抑えきれず、傘を持ってないなどとしょうもない嘘をついた。
……今ならまだ間に合う。
優しい遥陽に迷惑をかけるようなことはしたくない。
「ぁ、俺、やっぱり傘、」
「俺は聖來と帰りたいんだけど、ダメかな?」
「ぇ、っ!」
遥陽は俺の発言に被せるようにして少女漫画の王子様みたいなセリフを放った。
俺はヒロインのようにハートのど真ん中を射抜かれた。
実際はモブBあたりの立ち位置だと思うけど。
「……遥陽がいいなら、俺も、一緒に帰りたいよ」
「やった! んじゃ、荷物まとめてくるね」
きっと遥陽は俺が罪悪感を感じないように、気を遣ってくれたのだと理解している。
それでもやっぱり俺はキュンとしてしまった。
わたがしみたいに甘くてふわふわした夢を見ているような気がして、自分の机の方へ戻っていく遥陽の背中をしばらくボーッと見つめていた。
まもなく遥陽がリュックを背負ってこちらへ向かってきたため、ハッとして俺も急いで荷物をまとめた。
玄関の傘立てにある自分の傘に知らんぷりをして外へ出ると、幸か不幸か雨の勢いは先ほどより増している。
遥陽は傘を広げると、空を見上げながらぽつりと溢す。
「こういうの、花時雨って言うんだっけ」
その声はいつもの明るくハキハキしたものではなく、落ち着いた艶のある音をしていた。
なんだか、聞いてはいけないものを聞いてしまったような変な気分になる。
今から二人きりで帰るというのに勘弁してくれ……と心の中でため息を吐いていると、
「聖來、濡れちゃう。もっとこっち寄って」
「っ、うん」
肩を優しく抱かれ、一瞬にして身体の距離がゼロになる。
ほんのりとしか知らなかった遥陽の匂いも、ぶわりと甘く濃く香って神経が麻痺しそうだ。
「……何気にさ、こうやって二人で帰るの初めてだよね」
遥陽は右手を俺の肩から離し、ゆっくりと傘を持ち替え、いつもの明るく優しいトーンで話す。
「普段は小休憩のときとか、ちょっとしか話せないし……一回、聖來とゆっくり話してみたいなって思ってたんだ」
「そう、なんだ……俺も、いつも話しかけてもらえるの嬉しくて、もっと話してみたいって思ってたよ」
「ほんと? 良かったぁ〜」
遥陽が左手を胸に当て、大袈裟に深く息を吐くから、思わずクスッと笑みが溢れた。
「ふふ、なんでそんなに『ホッとした〜』みたいな感じなの」
「いや、俺はね? 聖來が嫌がってるようには見えなかったよ。でもほら、他のクラスメイトは、聖來のことを孤高の美少年って思ってるからなのか……俺が聖來と話して戻ってくると、『お前、しつこいと思われてない? 大丈夫なのか?』って、心配してくるんだよ」
「お、俺ってそんなに冷たい人だと思われてるのか……いや、まあそうだよね。俺、昔から人見知りだし、感情を表に出すのが苦手だから……誤解されることも多いかも」
小さい頃から、周囲に言われることはだいたい決まってる。
その一、「美人だねぇ」。これは純粋に嬉しい。
母が綺麗な顔立ちの人だから、運良く遺伝したのだろう。
問題なのはその二、「何考えてるか分からない」。
さらに酷いと「気取ってる」とか「調子乗ってる」とか。
幸い高校に入ってからは、そういった陰口を言われているような空気を感じたことはないけれど……小中の頃はたまに悪意のこもった言葉を聞くこともあり、ひっそりと傷ついていた。
俺が昔のちょっぴり苦い思い出に胸を痛めていると、遥陽がうーん、と軽く唸った。
「俺からすると、真逆なんだけどな」
「へ?」
「俺とは初対面から色々話してくれたし、聖來ってかなり表情豊かだと思うんだけど」
「えっ」
驚きと照れがほとんど同時に襲ってきた。
表情が豊かだと言われたのは初めてだったけど、遥陽にだけそう見えてしまうとしたら、その理由にはしっかりと心当たりがあるからだ。
「ふふ、ほら今も。赤くなってるもん」
「っ……」
胸の奥からドバッと甘酸っぱい何かが噴き出したように、強く感情を揺さぶられたそのとき――。
「あれ、なんか急に雨激しくなってない!?」
「わ、ほんとだ、あとちょっとで着くのに……」
俺の心の揺れとリンクしたみたいに、雨の降り方が途端に激しくなる。
「聖來、走ろう! 家までの道、教えて!」
「う、うんっ」
遥陽は再び俺の肩をぐっと引き寄せ、駆け足で家路を辿った。
たった二、三分の距離だったのに途中で強風にも見舞われて、家に着く頃にはお互いびしょ濡れで……。
「遥陽……ごめんね……」
「ふふ、結局傘の意味あんまりなかったねぇ。でもなんか、水遊びみたいで楽しかった!」
「そ、そう?」
遥陽は「うん!」と太陽みたいな眩しい笑顔で笑ってくれたけど、直後に「くしゅん!」と大きなくしゃみをしたので、俺は咄嗟にその腕を掴んだ。
「か、風邪引いちゃうから、シャワー浴びて!」
「えっ!?」
「あ、いや、ほら、シャワー浴びてる間に雨も落ち着くだろうし……ちょうどいいかなって……」
シャワーの提案をしたのは、本当に遥陽に風邪を引いてほしくなかったからだ。
でも後を追ってすぐに顔を出した下心に気づかれそうな気がして、声量がみるみるうちに小さくなってしまった。
「……聖來がそう言うなら、お言葉に甘えようかな」
「っ!」
「ただし! 聖來が先にシャワー行ってきて」
「え、俺はあとでいいよ」
「だーめ。これで聖來の方が風邪引いちゃったら、俺、悲しいもん」
シュンとした声でそんなことを言われ、眉を下げて微笑まれてしまっては、俺もこれ以上は断れなかった。
浴室の外には、遥陽がいる。
そう思うと、間違いなくここは俺の家なのに、なんだか知らない場所でシャワーを浴びている気分になった。
普段は何も考えず雑につけていた化粧水や乳液の塗り方も急に気になってしまい、スマホで調べようとしたけど、荷物丸ごとリビングに置いたままだと気づいて諦めた。
「遥陽、あがったよ〜……」
恐る恐るリビングに戻ると、遥陽は壁に飾ってある俺の昔の写真を眺めていた。
その表情がものすごく優しいものだったから、胸がときめいてムズッとする。
「おかえり。ごめん、勝手に写真見ちゃってた」
「ううん、全然いいよ。ちょっと恥ずかしいけど……」
「聖來、やっぱり昔から可愛いんだね」
「ん……ん?」
「あ、じゃあシャワーお借りします!」
「は、はいどうぞ!」
聞き間違いだっただろうか。
俺のこと「昔から可愛い」って……それはつまり、今も可愛いと思っているということ?
脳での処理が追いつくと、顔が一気に熱くなった。
湯船に浸かっていないのに、長風呂でのぼせたような感覚だ。
入学式の日に「綺麗な顔をしてる」と言ってもらえたのはよく覚えてる。
でも、それとはまた違う。
可愛いというワードチョイスのことだけじゃない。
その言い方に、この一年間で築いてきたささやかな何か……じんと温かいものを感じてしまったのだ。
もちろん、意識せずとも「そうだったらいいな」という俺の期待も少々含まれているとは思うけど。
甘い思考に支配された俺に追い打ちをかけるように、まもなく遥陽がリビングに戻ってきた。
「聖來、シャワーとドライヤーありがと。服も貸してもらっちゃって……」
「っ、いえいえ……トレーナー大きいの選んだけど、遥陽にはちょうど良かったね」
「聖來がこれ着たらぶかぶかってこと? ちょっと見てみたいかも」
ふふっとからかい混じりの笑みを見せられても、嫌な気はしない。むしろキュンとしている自分がいる。
「そういえば、聖來はこの時間一人なの? ご両親とかは……」
「あっ、そうだ、そろそろ母さんが帰ってくるかも……と、とりあえず二階の俺の部屋行こ!」
何もやましいことはしていないはずなのに、慌てて遥陽の背中を押して階段を上るよう促してしまった。
俺は冷蔵庫にあった新品のオレンジジュースを迷わず開け、二つのコップに注いでから、急いで自分の部屋へ持っていく。
「あれ、遥陽、先に入ってて良かったのに」
遥陽は俺の部屋の扉の前でそわそわしていた。
その様子がちょっぴり可笑しくて口角が上がってしまう。
「いやぁ、やっぱり聖來が来てからじゃないと」
「ふふ、別に気にしなくても」
さあどうぞ入って、と扉を開けた瞬間に、そういえば掃除をしていなかったと気づく。
昨夜取り組んでいた参考書は机上に広げっぱなしだし、布団はぐちゃぐちゃだし、ゴミ箱もそこそこいっぱいだし……これじゃあ清潔感がないやつだと一発で嫌われてしまうかもしれない。
「へぇ、ここが聖來の部屋かぁ」
「は、遥陽っ、ごめん、今片付けるから」
「えっ、どこを? 十分綺麗じゃん」
「いやいや、ほんと、恥ずかしい……」
参考書を本棚に戻しサッと布団を畳んで、ゴミ箱は……とりあえず隅の方に置いて、机上をウェットティッシュで拭いて……。
「ど、どうぞ、座ってください」
「ふふ、失礼します」
今度は遥陽に笑われる番だった。
あわあわする俺の姿はさぞ可笑しかっただろう。
「事前に分かってたら、ちゃんと片付けたのに……」
「そうだよね、急だったもんね。でも、俺は嬉しかったよ」
「……俺が焦ってるのが面白かったの?」
このまま拗ねてやろうかと思ったのに、遥陽の回答は予想外のものだった。
「違うよ。クラスのみんなが知らない聖來のこと、また一つ、俺だけが知れて嬉しかったってこと」
隣に腰を下ろした遥陽の纏う空気が、学校のそれとは違う。
これは絶対、俺の気のせいなんかじゃない。
甘やかにじっと見つめられ、大きな温かい手で頭を撫でられる。
クラスにいるたくさんの友達にも、二人きりのときはこういう顔を見せているのだとしたら……胸が苦しくなるほどに嫌だ。
……それって、もう、完全に――。
「こい?」
「へ!?」
「聖來の本棚に飾ってあるやつ、あれって鯉の置物?」
「Koi……あ、ああ、あれね! そう、鯉の置物……近所の神社に売ってあって、今年の初詣のときに買ったんだ」
「へぇ、何か願いが叶う感じなの?」
よりによって今、遥陽に、その質問をされるとは。
いや、神社に売ってあったとか、余計なことを言わなければ良かったのだけど。
「な、なんだっけな……可愛いから買ったんだけど、肝心なところ忘れちゃったかも」
「……そっか、確かに可愛いもんね!」
上手く誤魔化せたみたいでホッとしたのも束の間、今度は玄関の方から「ただいま〜」と母さんの声が聞こえてきて、ビクッと肩が大きく跳ねた。
「あ、じゃあ俺そろそろ帰るね、雨も上がったみたいだし」
遥陽が窓の外を指差すので見てみると、バケツをひっくり返したみたいに降っていた雨はすっかり上がっていた。
もう帰ってしまうのかという寂しさと、やっとドキドキジェットコースターから解放されるんだという安心感を同時に抱く。
「聖來、今日は本当にありがとね。服は洗って返すから」
「こちらこそ、傘入れてくれてありがとう。服のことは全然いいからね。気をつけて帰って」
「うん……」
数秒待っていたが、遥陽がドアノブに触れたまま動かない。
「遥陽?」
「っ、いや、離れ難いなーって思って」
「へ」
「聖來と同じクラスでいられるの、今日が最後かもしれないじゃん? これまでは話そうと思えばいつでも話せるって思ってたけど、二年生でクラスが違ったら……そう思うと、ね」
遥陽に言われてやっと気づいた。
もしも来年度からクラスが別々だったら、遥陽の眠そうな横顔も、おにぎりを美味しそうに食べるところも、みんなに囲まれて笑う姿も、当たり前のように見ることは叶わなくなる。
見ているだけで十分だとか、言うだけなら簡単に言えるけど、見ることにすら努力が必要になる可能性があるのだ。
「ねぇ聖來、もしクラスが変わっても話しに行っていい?」
「っ!」
あの日――初めて席替えをした日の遥陽と重なる。
“席変わっても話しかけていい?”
って、あの日も言ってくれた。
「も、もちろん!」
って、あの日も答えた。
「ふふ、良かったぁ」
でも、あの日は言えなかったことがある。
「お、俺も、話しに行っていい?」
待っているだけじゃなくて、俺も遥陽に近づきたい。
もう、この気持ちは「気になる」なんて程度のものではなく……正真正銘の「恋」だと分かったから。
「もちろん。聖來が話しかけてくれたら、俺めっちゃ嬉しい!」
そう言った遥陽の笑顔は、過去最高にキラキラと眩しくて……この笑顔を見ることができるのなら、もっと早く勇気を出して、俺から話しかけに行けば良かったと思った。
その後、母さんに遥陽を紹介すると、案の定ものすごく驚かれた。俺が友達を連れてきたことに対してもそうだが、遥陽の爽やか好青年っぷりに感動したのだと思われる。
さて、そんなこんなで遥陽と急接近した三月某日。
その夜から、俺はとある秘密を抱えることになる。
◇
「聖來、美味しい?」
ふと気づくと、俺の部屋で遥陽と二人きり。
机の上にはオレンジジュースと有名なドーナツ屋さんのチョコレートドーナツ。
「美味しいよ、遥陽」
そう答えたとき、俺は分かってしまった。
これは俺の夢だ、と。
「聖來、チョコついてるよ」
口の端をちょん、と指す遥陽を見て、甘えたい欲求がうずうずと湧き出してきた。
せっかくこんなにいい夢を見ているのだから、ちょっとくらいしたいことしても……いいよね?
「……遥陽が取ってよ」
「え?」
「チョコ、どこについてるか分かんない、から……」
夢とはいえ随分恥ずかしいことを言ってしまって俯きかけると、それを阻止するかのように顎を傾けられる。
そして、遥陽の熱っぽい顔がゆっくりと近づいてきて――。
「っ……」
ぎゅっと目を瞑って数秒後、唇に……いや、唇の端の端に柔らかい感触が伝わり、ペロッと一瞬だけ熱い舌の温度も感じた。
「甘いね」
「ぁ……っ、あり、がと」
夢だからいいじゃん、なんて思っていたけれど、全然良くないかもしれない。
ここまで思い通りに、自分の願望のまま進めると、現実の遥陽に対して罪悪感を抱いてしまう。
それに、夢だと分かっていても俺の心臓が持たない。
「……ねぇ、キスされると思った?」
「えっ、いや……す、少しだけ」
「ふうん。聖來はしてほしかったの?」
だから……心臓が持たないって言ってるのに。
夢の中の遥陽は、俺の深層心理を見透かすかのように艶っぽい表情で迫ってくる。
「……聖來……」
「ま、まって遥陽、これ以上は――」
◇
「――ハッ!!」
ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。
「……やばいって……」
その朝、俺はしばらく布団から動けなかった。
幸い、春休みに入ったため、いつものアラームで起きる必要がなかったから助かったけれど。
本当にとんでもない体験をしてしまった。
遥陽の夢を見ることができただけでもラッキーなのに、その夢の中で自分の思い通りに動いたり喋ったりできて……イチャイチャしちゃって。
こういうのって確か……。
「明晰夢……」
Webサイトで適当なワードを入れて検索してみたら、俺に起こった現象を的確に表す単語が見つかった。
明晰夢――夢を見ている際に、「これは夢だ」と自覚できる夢のこと。人によってはある程度自由に夢の展開をコントロールすることもできる。
「一度しか見れない人もいれば、何度も見れる人も……明晰夢を見る方法とかもあるのか……」
もし、もう一度、こんな夢を見ることができたなら。
……いや、こんなの奇跡と呼ぶに相応しい出来事だろう。
もう一度なんて望みすぎだ。
というか、こんな夢を何度も見ていたら、俺はときめきと罪悪感で押し潰されてしまうと思う。
偶然見てしまった、くらいがちょうどいい。
そんな風に思っていたあの日から、
四ヶ月――。
季節は夏、太陽が眩しすぎる七月の朝。
「聖來、おはよ!」
「おはよ、遥陽」
俺――二年一組の三波聖來は、同じく二年一組の前田遥陽に相変わらず恋をしている。
そして……この四ヶ月、俺は、あの「甘すぎる明晰夢」を頻繁に見てしまっている。
決してネットに載っていた「明晰夢を見る方法」などというものを試したわけではない。
それなのに、なぜか週に数回のペースで遥陽と付き合っている夢を見る。
あの日から……。
原因に心当たりがあるとすれば、やはりあの日の相合傘とシャワーしかない。
たった一度の放課後の出来事が引き金となって、遥陽への気持ちが明晰夢というかたちで暴走し始めてしまったのだ。
必死で欲望にブレーキをかけているから、夢の中といえども、キスまでしかしていないけど……現実と比較すれば、その差は歴然としている。
「――ら、聖來」
「な、なに!?」
「ふふ、眠いの? まあ昼食べたあとって一番眠いよねぇ」
現実の関係性だって……遥陽と昼休みに二人で過ごせる日も増えたし、一年の頃よりは進歩したと思う。
俺も自分から遥陽に話しかけられるよう、結構頑張っているつもりだ。
「そろそろ五限だね、教室戻ろうか」
「うん……」
遥陽とは図書室でまったりすることが多い。
きっかけは、俺が今学期の図書委員になったこと。
くじ引きで決まったから最初は乗り気じゃなかったけど、図書室は昼休みでも静かで落ち着くし、遥陽が来てくれるようになってからはそれはもう最高だ。毎日貸し出し当番になったっていいくらい。
「次の時間って、文化祭の役割決めるんだよね」
「あ、そうだね。俺たちのクラスは縁日になったって、実行委員の人が言ってたよね」
「ね、詳しく決めるの楽しみだなぁ」
遥陽のワクワクしたような表情を見ると、俺も胸が躍る。
うちの高校は夏休み明けに文化祭が行われるから、一学期終盤に出し物決めや役割分担を行い、夏休み中に集まって準備をするのが定番なのだ。
よって、昨年に続きこの時期は、学校全体が夏休みと文化祭のムードに包まれて、クラスの隅にいる俺でさえなんとなく気分が上がる。
五限目が始まると、予定通り縁日の役割分担をするらしく実行委員が話を進め出した。
今回は実行委員がまとめ役となり、その他の生徒が屋台ごとにグループを作るかたちになる、とのこと。
その話を聞いている最中から、クラスのみんなは仲良しのメンバーと目配せして、同じグループになろうという空気を醸し出している。
それは遥陽も例外ではなく、特に親しい男子数名にニヤッと視線を送られていた。
「あ、そうだそうだ、屋台の他に、教室全体の装飾担当も二人ほどお願いします」
実行委員が黒板に最後の役割を追加してチョークを置く。
屋台一つにつき六人×六グループ、そして実行委員二人、教室の装飾が二人……。
遥陽の仲良しグループはちょうど六人だし決まりだろう。
他の六人に混ざるのも気が進まないし、俺は教室の装飾が第一希望だ。
しかし、俺と二人きりで装飾担当になってしまう誰かのことを思うと申し訳なくも感じる。
「では、話し合ってグループを作ってみてください。調整は実行委員がしますので」
どうしよう、と脳内で慌てふためく俺をよそに、周囲はスムーズにグループを作っていく。
こんなときも俺は、外見からは落ち着いているように見えるのだろうな、と経験上思う。
みんな、俺が好んで人と群れないのだと信じて疑わない。
まあ一人でいるのもそこそこ快適なのだけど、こういう場面で孤立するのは普通に寂しいものだ。
「聖來」
「っ! 遥陽、どうしたの?」
やはり遥陽は優しい。
自分のグループは一瞬で決まっただろうに、俺のことをこうして気にかけてくれる。
他人と程よい距離感を保ちつつ、決して誰も置いていかない。
遥陽は人気者になるべくしてなっている人だと思う。
「あの……もしよかったらさ、俺と組んでくれませんか?」
「えっ!?」
「教室の装飾、二人じゃん。俺、聖來とやりたい」
「お、おれ?」
頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
いつもの明晰夢ならまだしも、現実でこんな展開があるとは。
動揺は収まらないが、もちろん断る理由なんてない。
「は、遥陽がいいなら、俺も……ぃ、一緒がいいな」
「聖來……!」
夏休み。文化祭。好きな人。二人きり。
ときめきを凝縮したようなワードが連なり、何か大きな歯車が動き出すような予感がする。
もしかして、もしかしたら。
俺の恋は……夢の中で終わらせなくてもいい?
この想いは……リアルな君の心に届く日が来る?
淡い期待が爆ぜて、視界をバカみたいにキラキラと輝かせる。
黒板に並んだ「前田」と「三波」の文字に、胸のキュンキュンが止まらない。
「聖來、よろしくね」
「うん。よろしくね、遥陽」
こうして、俺の高校二度目の夏が始まった――。
「聖來、今日の国語寝てたでしょ?」
「あ、バレてたんだ……恥ずかしいな」
「うとうとしてるの可愛かったよ」
俺より少し背の高い君が愛おしそうにこちらを見つめ、ふんわりと頭を撫でてくるから、胸がキュンとくすぐったくて……思わず目を逸らしたけれど、俺だって君のことを見ていたのだと伝えてみる。
「は、遥陽だって、英語のとき眠そうにしてた」
「あ、俺もバレてんだ。あのとき眠すぎてマジでやばかった〜」
「ふふ、そのあとすぐ音読当てられてたよね」
「そうそう、ギリギリセーフって感じだった」
たわいない話題ばかりだけど、君と言葉を交わす行為そのものが、この心を静かに温かく満たしていく。そうして身体は徐々に熱くなって、君をもっともっと求めてしまう。
「……は、遥陽」
シャツの胸元をキュッと掴んで、ちょっぴり背伸びをする。
一瞬だけ触れた唇は、その柔らかい感触とは裏腹に、ビリビリと電流が走るようなときめきを孕んでいる。
「聖來……可愛い、けど足りない」
少し強引に頭を引き寄せられて、再び唇が重なった。
これは一瞬じゃないやつだ――そう思うと、頭がふわふわして甘ったるくなるのに……。
わずかに残された理性が言っている。
俺、こんなことしちゃっていいのかな……?
「……聖來、考え事してるでしょ。今くらい俺のことだけ考えてよ」
「え、ぁ、っ」
……いや、いいんだ。
そうだ、今くらい欲望に身を任せたっていい。
遥陽と好きなだけキスしたって――。
だって、これは全部……俺の夢なのだから。
◇
遥陽と初めて話したのは、高校の入学式の日。
俺と遥陽は一年生のときも同じクラスで、彼の名前が「前田」遥陽、俺の名前が「三波」聖來だから出席番号は隣同士。
もちろん座席も前後なわけで、話しかけるきっかけとしては十分だったが……。
当時、遥陽より先に学校に着いていた俺は、人見知りな性格ゆえ前の席の人が来ても何を話せばいいのか分からず、一人静かに怯えていた。
しかし、そんな俺の心配は一瞬にして吹き飛ばされる。
「俺の席は〜……ここか」
座席番号を確認しながら近づいてきた遥陽は、俺の前の席で足を止めると、
「おっ! 君が三波くん?」
こちらを見てぱあっと顔を輝かせ、なんの躊躇いもなく俺に話しかけてきたのだ。
「っ、うん、三波、聖來です」
「俺は前田遥陽。よろしくね!」
会って十秒で、この人は俺とは違うタイプの人間なのだと分かった。いわゆる陽キャというやつだろう、と。
「てか、聖來ってすげー綺麗な顔してんね。髪も艶々だし……もしかしてモデルとかやってる?」
「えっ!? いやいやまさか……でも、ありがとう。は、遥陽は髪染めてるの?」
咄嗟に名前を呼べたことに自分で驚きつつ、彼の赤みがかった茶色の髪を指して聞いてみると、照れの混じった微笑みを向けられる。
「そうそう、校則でオッケーって知って、染めてみたくなっちゃって。ちょっと変かな……?」
「へ、変なわけないよ! むしろ、似合ってる」
「そ、そう? ふふ、良かったぁ。ありがとね」
このときの俺は、もしかしたらこれから遥陽と一緒に教室移動したりお昼を食べたり、そんな関係になるのかもしれない……なんて淡く期待していた。
でも、そんなわけがなかった。
所詮、俺は人見知りで無愛想なつまらない男。
対して遥陽は、同じクラスに中学からの友達もいたようだし、その友達からさらに新しい友達へと人脈を広げていって……あっという間にクラスの人気者になった。
俺はそんな遥陽をひっそりと見つめているだけだった。
一人で過ごすのには慣れていたし、遥陽のようにキラキラした明るいグループの中に入る自信はなかったから、見ているくらいがちょうど良かった。
遥陽と仲良くしている奴らのことは、やっぱり少し羨ましかったけど。
五月になると、初めての席替えが行われた。
それまでの俺にとって、席替えなんてたいしたイベントではなかったけれど、そのときばかりは心の底から「嫌だ」と思った。
席が前後だから辛うじて遥陽と話せていたのに、離れてしまえば今度こそ接点がなくなる。
「聖來、席どこだった?」
みんながガタガタと座席を移動させる中、遥陽が尋ねてくる。
「ぃ、一番窓側の、一番後ろ……」
「うわ、惜しい〜! 俺、その隣の列の後ろから三番目!」
また一番後ろなんてラッキーだな、と言われたけれど、前の方でもいいから遥陽の後ろか隣が良かった……なんて、当然口にすることはできない想いが足を重くした。
「って、そろそろ俺たちも移動しなきゃな」
「うん……」
「……あ、あのさ、聖來」
「な、なに?」
遥陽は持ち上げかけていた机を一度床に置き直すと、わざわざくるりと俺の方を向いて、
「席変わっても話しかけていい?」
と、首を傾げた。
「っ、も、もちろん」
そう答えて首を縦に振るのが精一杯だった。俺も話しかけたいとか、このままの席が良かったとか、大胆な本音は胸の中で海月のように漂っているだけ。
「ふふ、良かったぁ。じゃ、これからもよろしくね、聖來」
「よ、よろしく、遥陽……」
同じ教室内での小さな移動さえ、大きな感情のジェットコースターを巻き起こす。みんなが席替えで一喜一憂していた理由を、俺は高一にして初めて知ったのだ。
そっか、俺、遥陽のこと――。
まだ恋と呼ぶには早すぎる気がして、そのときは「気になる」という表現で自分を納得させた。
けれど、胸の中で光るその想いは、俺が思うよりずっと速く膨らんでいくことになる。
◇
席が変わっても話しかけていいか、と聞いてきたとはいえ、実際は遥陽のような人気者が俺に構うことなどないだろう。
あれはその場限りの社交辞令みたいなもの……と、自分を戒めるために言い聞かせていたのに。
遥陽は、そんな俺の努力を真正面から優しく打ち砕いた。
いつも一緒にいるグループに俺を入れてくれたわけではない。
ただ、遥陽は、一日に最低一回は必ず話しかけに来てくれるのだ。
授業と授業の合間にある小休憩だったり、掃除終了から帰りのホームルームが始まるまでのわずかな時間だったり……それは決して長いものではなかったけれど、俺にとっては十分すぎるくらい幸せな時間だった。
きっと遥陽は俺の性格をなんとなく察し、賑やかなグループに誘うより、個人的に話しかけることを選んでくれた。
普段の彼の様子を見ていると、それは遥陽にとって特別なことじゃなくて、他にも色んな人に、こういう優しさを平等に与えているのだと思う。
誰にでも優しいのだ。前田遥陽という男は。
そう分かっているのに、優しくされた方はどうしたって意識してしまう。
自分が特別なのではないかと期待してしまう。
実際、何人もの女子が彼に告白し、涙を流すことになってしまったとか。
気の毒だけど、告白する勇気のある女子たちのことを俺は心の底から尊敬する。
俺はというと、一年生の冬になっても、遥陽に話しかけてもらえる毎日に慢心していた。
遥陽に恋人ができる気配もないし、俺もこのまま良き友人関係を保てたら満足だと。
そう、思っていたのに――。
一年生最後の終業式の日……とんでもないことが起こってしまった。
あの日は、午後から急に天気が不安定になって、風も結構強くて……俺は出かける前に天気予報を見ていたから、大きな傘を持っていたけど、クラスメイトの中には慌てて親に連絡する人や「気合いで走って帰る!」と話す人もいた。
俺が気にしていたのは、もちろん遥陽のこと。遥陽はしっかり者だから、きっと傘も準備バッチリで持っているに違いない。
でも、もしかしたら……。
小さじ二分の一くらいの期待を抱きながら、窓際で集まっている遥陽のグループの様子を窺う。
「遥陽〜、お前も傘持ってんの?」
「持ってるよ」
「んだよ、忘れたの俺だけか。遥陽、駅まで入れてくんね?」
友人の一人が両手を合わせて頼んだそのとき――。
「っ!」
遥陽と偶然目が合ってしまい、咄嗟に視線を逸らした。
こっそり見つめていたことがバレたのではないかと思って、心臓もドキンドキンと分かりやすく焦っている。
そういえば、今日はまだ遥陽と話せていない。
明日から春休みに入ってしまうのに……俺はたったこれだけのことで動揺して……。
「聖來!」
「っ、遥陽……」
自己嫌悪に陥りかけていると、遥陽の声が薄明光線のように俺の胸を照らす。
「聖來、もう帰るよね?」
「あ、うん……遥陽も?」
「うん、今日はバレー部も休みだから。ところで、聖來は傘持ってるの?」
窓の外をチラッと見てから遥陽は尋ねる。
彼の表情からは、その質問の意図が分からない。
でも、ここはひとまず、安心安全な選択を――。
「……持って、ない」
まずい。安心安全の真逆を選んでしまった。
声に出す寸前までは「持ってるよ」と言おうとしてたはずだ。
けれども、実際に俺の口からスルリと出たのは大胆な返答。
「っ、でも、なんとかなるし」
慌てて引き返そうとしたダサい俺に、遥陽は手を差し伸べる。
「一緒に帰ろう」
「えっ」
「俺、結構大きな傘持ってるからさ」
「……でも……」
先ほど遥陽と話していた男子に一瞬だけ視線をやると、遥陽は俺の言いたいことを察してくれたようだった。
「あいつは大丈夫だよ。他にも傘持ってるやついたから、そいつに頼むってさ」
「そう、なんだ……あ、でも、俺の家と電車の駅、逆方向だし」
俺は徒歩通学で、遥陽は電車通学。
わざわざ俺の家に寄ってから駅に戻るとなると、遥陽を無駄に歩かせてしまうことになる。
こんなこと少し考えたら分かるのに、自分の欲を抑えきれず、傘を持ってないなどとしょうもない嘘をついた。
……今ならまだ間に合う。
優しい遥陽に迷惑をかけるようなことはしたくない。
「ぁ、俺、やっぱり傘、」
「俺は聖來と帰りたいんだけど、ダメかな?」
「ぇ、っ!」
遥陽は俺の発言に被せるようにして少女漫画の王子様みたいなセリフを放った。
俺はヒロインのようにハートのど真ん中を射抜かれた。
実際はモブBあたりの立ち位置だと思うけど。
「……遥陽がいいなら、俺も、一緒に帰りたいよ」
「やった! んじゃ、荷物まとめてくるね」
きっと遥陽は俺が罪悪感を感じないように、気を遣ってくれたのだと理解している。
それでもやっぱり俺はキュンとしてしまった。
わたがしみたいに甘くてふわふわした夢を見ているような気がして、自分の机の方へ戻っていく遥陽の背中をしばらくボーッと見つめていた。
まもなく遥陽がリュックを背負ってこちらへ向かってきたため、ハッとして俺も急いで荷物をまとめた。
玄関の傘立てにある自分の傘に知らんぷりをして外へ出ると、幸か不幸か雨の勢いは先ほどより増している。
遥陽は傘を広げると、空を見上げながらぽつりと溢す。
「こういうの、花時雨って言うんだっけ」
その声はいつもの明るくハキハキしたものではなく、落ち着いた艶のある音をしていた。
なんだか、聞いてはいけないものを聞いてしまったような変な気分になる。
今から二人きりで帰るというのに勘弁してくれ……と心の中でため息を吐いていると、
「聖來、濡れちゃう。もっとこっち寄って」
「っ、うん」
肩を優しく抱かれ、一瞬にして身体の距離がゼロになる。
ほんのりとしか知らなかった遥陽の匂いも、ぶわりと甘く濃く香って神経が麻痺しそうだ。
「……何気にさ、こうやって二人で帰るの初めてだよね」
遥陽は右手を俺の肩から離し、ゆっくりと傘を持ち替え、いつもの明るく優しいトーンで話す。
「普段は小休憩のときとか、ちょっとしか話せないし……一回、聖來とゆっくり話してみたいなって思ってたんだ」
「そう、なんだ……俺も、いつも話しかけてもらえるの嬉しくて、もっと話してみたいって思ってたよ」
「ほんと? 良かったぁ〜」
遥陽が左手を胸に当て、大袈裟に深く息を吐くから、思わずクスッと笑みが溢れた。
「ふふ、なんでそんなに『ホッとした〜』みたいな感じなの」
「いや、俺はね? 聖來が嫌がってるようには見えなかったよ。でもほら、他のクラスメイトは、聖來のことを孤高の美少年って思ってるからなのか……俺が聖來と話して戻ってくると、『お前、しつこいと思われてない? 大丈夫なのか?』って、心配してくるんだよ」
「お、俺ってそんなに冷たい人だと思われてるのか……いや、まあそうだよね。俺、昔から人見知りだし、感情を表に出すのが苦手だから……誤解されることも多いかも」
小さい頃から、周囲に言われることはだいたい決まってる。
その一、「美人だねぇ」。これは純粋に嬉しい。
母が綺麗な顔立ちの人だから、運良く遺伝したのだろう。
問題なのはその二、「何考えてるか分からない」。
さらに酷いと「気取ってる」とか「調子乗ってる」とか。
幸い高校に入ってからは、そういった陰口を言われているような空気を感じたことはないけれど……小中の頃はたまに悪意のこもった言葉を聞くこともあり、ひっそりと傷ついていた。
俺が昔のちょっぴり苦い思い出に胸を痛めていると、遥陽がうーん、と軽く唸った。
「俺からすると、真逆なんだけどな」
「へ?」
「俺とは初対面から色々話してくれたし、聖來ってかなり表情豊かだと思うんだけど」
「えっ」
驚きと照れがほとんど同時に襲ってきた。
表情が豊かだと言われたのは初めてだったけど、遥陽にだけそう見えてしまうとしたら、その理由にはしっかりと心当たりがあるからだ。
「ふふ、ほら今も。赤くなってるもん」
「っ……」
胸の奥からドバッと甘酸っぱい何かが噴き出したように、強く感情を揺さぶられたそのとき――。
「あれ、なんか急に雨激しくなってない!?」
「わ、ほんとだ、あとちょっとで着くのに……」
俺の心の揺れとリンクしたみたいに、雨の降り方が途端に激しくなる。
「聖來、走ろう! 家までの道、教えて!」
「う、うんっ」
遥陽は再び俺の肩をぐっと引き寄せ、駆け足で家路を辿った。
たった二、三分の距離だったのに途中で強風にも見舞われて、家に着く頃にはお互いびしょ濡れで……。
「遥陽……ごめんね……」
「ふふ、結局傘の意味あんまりなかったねぇ。でもなんか、水遊びみたいで楽しかった!」
「そ、そう?」
遥陽は「うん!」と太陽みたいな眩しい笑顔で笑ってくれたけど、直後に「くしゅん!」と大きなくしゃみをしたので、俺は咄嗟にその腕を掴んだ。
「か、風邪引いちゃうから、シャワー浴びて!」
「えっ!?」
「あ、いや、ほら、シャワー浴びてる間に雨も落ち着くだろうし……ちょうどいいかなって……」
シャワーの提案をしたのは、本当に遥陽に風邪を引いてほしくなかったからだ。
でも後を追ってすぐに顔を出した下心に気づかれそうな気がして、声量がみるみるうちに小さくなってしまった。
「……聖來がそう言うなら、お言葉に甘えようかな」
「っ!」
「ただし! 聖來が先にシャワー行ってきて」
「え、俺はあとでいいよ」
「だーめ。これで聖來の方が風邪引いちゃったら、俺、悲しいもん」
シュンとした声でそんなことを言われ、眉を下げて微笑まれてしまっては、俺もこれ以上は断れなかった。
浴室の外には、遥陽がいる。
そう思うと、間違いなくここは俺の家なのに、なんだか知らない場所でシャワーを浴びている気分になった。
普段は何も考えず雑につけていた化粧水や乳液の塗り方も急に気になってしまい、スマホで調べようとしたけど、荷物丸ごとリビングに置いたままだと気づいて諦めた。
「遥陽、あがったよ〜……」
恐る恐るリビングに戻ると、遥陽は壁に飾ってある俺の昔の写真を眺めていた。
その表情がものすごく優しいものだったから、胸がときめいてムズッとする。
「おかえり。ごめん、勝手に写真見ちゃってた」
「ううん、全然いいよ。ちょっと恥ずかしいけど……」
「聖來、やっぱり昔から可愛いんだね」
「ん……ん?」
「あ、じゃあシャワーお借りします!」
「は、はいどうぞ!」
聞き間違いだっただろうか。
俺のこと「昔から可愛い」って……それはつまり、今も可愛いと思っているということ?
脳での処理が追いつくと、顔が一気に熱くなった。
湯船に浸かっていないのに、長風呂でのぼせたような感覚だ。
入学式の日に「綺麗な顔をしてる」と言ってもらえたのはよく覚えてる。
でも、それとはまた違う。
可愛いというワードチョイスのことだけじゃない。
その言い方に、この一年間で築いてきたささやかな何か……じんと温かいものを感じてしまったのだ。
もちろん、意識せずとも「そうだったらいいな」という俺の期待も少々含まれているとは思うけど。
甘い思考に支配された俺に追い打ちをかけるように、まもなく遥陽がリビングに戻ってきた。
「聖來、シャワーとドライヤーありがと。服も貸してもらっちゃって……」
「っ、いえいえ……トレーナー大きいの選んだけど、遥陽にはちょうど良かったね」
「聖來がこれ着たらぶかぶかってこと? ちょっと見てみたいかも」
ふふっとからかい混じりの笑みを見せられても、嫌な気はしない。むしろキュンとしている自分がいる。
「そういえば、聖來はこの時間一人なの? ご両親とかは……」
「あっ、そうだ、そろそろ母さんが帰ってくるかも……と、とりあえず二階の俺の部屋行こ!」
何もやましいことはしていないはずなのに、慌てて遥陽の背中を押して階段を上るよう促してしまった。
俺は冷蔵庫にあった新品のオレンジジュースを迷わず開け、二つのコップに注いでから、急いで自分の部屋へ持っていく。
「あれ、遥陽、先に入ってて良かったのに」
遥陽は俺の部屋の扉の前でそわそわしていた。
その様子がちょっぴり可笑しくて口角が上がってしまう。
「いやぁ、やっぱり聖來が来てからじゃないと」
「ふふ、別に気にしなくても」
さあどうぞ入って、と扉を開けた瞬間に、そういえば掃除をしていなかったと気づく。
昨夜取り組んでいた参考書は机上に広げっぱなしだし、布団はぐちゃぐちゃだし、ゴミ箱もそこそこいっぱいだし……これじゃあ清潔感がないやつだと一発で嫌われてしまうかもしれない。
「へぇ、ここが聖來の部屋かぁ」
「は、遥陽っ、ごめん、今片付けるから」
「えっ、どこを? 十分綺麗じゃん」
「いやいや、ほんと、恥ずかしい……」
参考書を本棚に戻しサッと布団を畳んで、ゴミ箱は……とりあえず隅の方に置いて、机上をウェットティッシュで拭いて……。
「ど、どうぞ、座ってください」
「ふふ、失礼します」
今度は遥陽に笑われる番だった。
あわあわする俺の姿はさぞ可笑しかっただろう。
「事前に分かってたら、ちゃんと片付けたのに……」
「そうだよね、急だったもんね。でも、俺は嬉しかったよ」
「……俺が焦ってるのが面白かったの?」
このまま拗ねてやろうかと思ったのに、遥陽の回答は予想外のものだった。
「違うよ。クラスのみんなが知らない聖來のこと、また一つ、俺だけが知れて嬉しかったってこと」
隣に腰を下ろした遥陽の纏う空気が、学校のそれとは違う。
これは絶対、俺の気のせいなんかじゃない。
甘やかにじっと見つめられ、大きな温かい手で頭を撫でられる。
クラスにいるたくさんの友達にも、二人きりのときはこういう顔を見せているのだとしたら……胸が苦しくなるほどに嫌だ。
……それって、もう、完全に――。
「こい?」
「へ!?」
「聖來の本棚に飾ってあるやつ、あれって鯉の置物?」
「Koi……あ、ああ、あれね! そう、鯉の置物……近所の神社に売ってあって、今年の初詣のときに買ったんだ」
「へぇ、何か願いが叶う感じなの?」
よりによって今、遥陽に、その質問をされるとは。
いや、神社に売ってあったとか、余計なことを言わなければ良かったのだけど。
「な、なんだっけな……可愛いから買ったんだけど、肝心なところ忘れちゃったかも」
「……そっか、確かに可愛いもんね!」
上手く誤魔化せたみたいでホッとしたのも束の間、今度は玄関の方から「ただいま〜」と母さんの声が聞こえてきて、ビクッと肩が大きく跳ねた。
「あ、じゃあ俺そろそろ帰るね、雨も上がったみたいだし」
遥陽が窓の外を指差すので見てみると、バケツをひっくり返したみたいに降っていた雨はすっかり上がっていた。
もう帰ってしまうのかという寂しさと、やっとドキドキジェットコースターから解放されるんだという安心感を同時に抱く。
「聖來、今日は本当にありがとね。服は洗って返すから」
「こちらこそ、傘入れてくれてありがとう。服のことは全然いいからね。気をつけて帰って」
「うん……」
数秒待っていたが、遥陽がドアノブに触れたまま動かない。
「遥陽?」
「っ、いや、離れ難いなーって思って」
「へ」
「聖來と同じクラスでいられるの、今日が最後かもしれないじゃん? これまでは話そうと思えばいつでも話せるって思ってたけど、二年生でクラスが違ったら……そう思うと、ね」
遥陽に言われてやっと気づいた。
もしも来年度からクラスが別々だったら、遥陽の眠そうな横顔も、おにぎりを美味しそうに食べるところも、みんなに囲まれて笑う姿も、当たり前のように見ることは叶わなくなる。
見ているだけで十分だとか、言うだけなら簡単に言えるけど、見ることにすら努力が必要になる可能性があるのだ。
「ねぇ聖來、もしクラスが変わっても話しに行っていい?」
「っ!」
あの日――初めて席替えをした日の遥陽と重なる。
“席変わっても話しかけていい?”
って、あの日も言ってくれた。
「も、もちろん!」
って、あの日も答えた。
「ふふ、良かったぁ」
でも、あの日は言えなかったことがある。
「お、俺も、話しに行っていい?」
待っているだけじゃなくて、俺も遥陽に近づきたい。
もう、この気持ちは「気になる」なんて程度のものではなく……正真正銘の「恋」だと分かったから。
「もちろん。聖來が話しかけてくれたら、俺めっちゃ嬉しい!」
そう言った遥陽の笑顔は、過去最高にキラキラと眩しくて……この笑顔を見ることができるのなら、もっと早く勇気を出して、俺から話しかけに行けば良かったと思った。
その後、母さんに遥陽を紹介すると、案の定ものすごく驚かれた。俺が友達を連れてきたことに対してもそうだが、遥陽の爽やか好青年っぷりに感動したのだと思われる。
さて、そんなこんなで遥陽と急接近した三月某日。
その夜から、俺はとある秘密を抱えることになる。
◇
「聖來、美味しい?」
ふと気づくと、俺の部屋で遥陽と二人きり。
机の上にはオレンジジュースと有名なドーナツ屋さんのチョコレートドーナツ。
「美味しいよ、遥陽」
そう答えたとき、俺は分かってしまった。
これは俺の夢だ、と。
「聖來、チョコついてるよ」
口の端をちょん、と指す遥陽を見て、甘えたい欲求がうずうずと湧き出してきた。
せっかくこんなにいい夢を見ているのだから、ちょっとくらいしたいことしても……いいよね?
「……遥陽が取ってよ」
「え?」
「チョコ、どこについてるか分かんない、から……」
夢とはいえ随分恥ずかしいことを言ってしまって俯きかけると、それを阻止するかのように顎を傾けられる。
そして、遥陽の熱っぽい顔がゆっくりと近づいてきて――。
「っ……」
ぎゅっと目を瞑って数秒後、唇に……いや、唇の端の端に柔らかい感触が伝わり、ペロッと一瞬だけ熱い舌の温度も感じた。
「甘いね」
「ぁ……っ、あり、がと」
夢だからいいじゃん、なんて思っていたけれど、全然良くないかもしれない。
ここまで思い通りに、自分の願望のまま進めると、現実の遥陽に対して罪悪感を抱いてしまう。
それに、夢だと分かっていても俺の心臓が持たない。
「……ねぇ、キスされると思った?」
「えっ、いや……す、少しだけ」
「ふうん。聖來はしてほしかったの?」
だから……心臓が持たないって言ってるのに。
夢の中の遥陽は、俺の深層心理を見透かすかのように艶っぽい表情で迫ってくる。
「……聖來……」
「ま、まって遥陽、これ以上は――」
◇
「――ハッ!!」
ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。
「……やばいって……」
その朝、俺はしばらく布団から動けなかった。
幸い、春休みに入ったため、いつものアラームで起きる必要がなかったから助かったけれど。
本当にとんでもない体験をしてしまった。
遥陽の夢を見ることができただけでもラッキーなのに、その夢の中で自分の思い通りに動いたり喋ったりできて……イチャイチャしちゃって。
こういうのって確か……。
「明晰夢……」
Webサイトで適当なワードを入れて検索してみたら、俺に起こった現象を的確に表す単語が見つかった。
明晰夢――夢を見ている際に、「これは夢だ」と自覚できる夢のこと。人によってはある程度自由に夢の展開をコントロールすることもできる。
「一度しか見れない人もいれば、何度も見れる人も……明晰夢を見る方法とかもあるのか……」
もし、もう一度、こんな夢を見ることができたなら。
……いや、こんなの奇跡と呼ぶに相応しい出来事だろう。
もう一度なんて望みすぎだ。
というか、こんな夢を何度も見ていたら、俺はときめきと罪悪感で押し潰されてしまうと思う。
偶然見てしまった、くらいがちょうどいい。
そんな風に思っていたあの日から、
四ヶ月――。
季節は夏、太陽が眩しすぎる七月の朝。
「聖來、おはよ!」
「おはよ、遥陽」
俺――二年一組の三波聖來は、同じく二年一組の前田遥陽に相変わらず恋をしている。
そして……この四ヶ月、俺は、あの「甘すぎる明晰夢」を頻繁に見てしまっている。
決してネットに載っていた「明晰夢を見る方法」などというものを試したわけではない。
それなのに、なぜか週に数回のペースで遥陽と付き合っている夢を見る。
あの日から……。
原因に心当たりがあるとすれば、やはりあの日の相合傘とシャワーしかない。
たった一度の放課後の出来事が引き金となって、遥陽への気持ちが明晰夢というかたちで暴走し始めてしまったのだ。
必死で欲望にブレーキをかけているから、夢の中といえども、キスまでしかしていないけど……現実と比較すれば、その差は歴然としている。
「――ら、聖來」
「な、なに!?」
「ふふ、眠いの? まあ昼食べたあとって一番眠いよねぇ」
現実の関係性だって……遥陽と昼休みに二人で過ごせる日も増えたし、一年の頃よりは進歩したと思う。
俺も自分から遥陽に話しかけられるよう、結構頑張っているつもりだ。
「そろそろ五限だね、教室戻ろうか」
「うん……」
遥陽とは図書室でまったりすることが多い。
きっかけは、俺が今学期の図書委員になったこと。
くじ引きで決まったから最初は乗り気じゃなかったけど、図書室は昼休みでも静かで落ち着くし、遥陽が来てくれるようになってからはそれはもう最高だ。毎日貸し出し当番になったっていいくらい。
「次の時間って、文化祭の役割決めるんだよね」
「あ、そうだね。俺たちのクラスは縁日になったって、実行委員の人が言ってたよね」
「ね、詳しく決めるの楽しみだなぁ」
遥陽のワクワクしたような表情を見ると、俺も胸が躍る。
うちの高校は夏休み明けに文化祭が行われるから、一学期終盤に出し物決めや役割分担を行い、夏休み中に集まって準備をするのが定番なのだ。
よって、昨年に続きこの時期は、学校全体が夏休みと文化祭のムードに包まれて、クラスの隅にいる俺でさえなんとなく気分が上がる。
五限目が始まると、予定通り縁日の役割分担をするらしく実行委員が話を進め出した。
今回は実行委員がまとめ役となり、その他の生徒が屋台ごとにグループを作るかたちになる、とのこと。
その話を聞いている最中から、クラスのみんなは仲良しのメンバーと目配せして、同じグループになろうという空気を醸し出している。
それは遥陽も例外ではなく、特に親しい男子数名にニヤッと視線を送られていた。
「あ、そうだそうだ、屋台の他に、教室全体の装飾担当も二人ほどお願いします」
実行委員が黒板に最後の役割を追加してチョークを置く。
屋台一つにつき六人×六グループ、そして実行委員二人、教室の装飾が二人……。
遥陽の仲良しグループはちょうど六人だし決まりだろう。
他の六人に混ざるのも気が進まないし、俺は教室の装飾が第一希望だ。
しかし、俺と二人きりで装飾担当になってしまう誰かのことを思うと申し訳なくも感じる。
「では、話し合ってグループを作ってみてください。調整は実行委員がしますので」
どうしよう、と脳内で慌てふためく俺をよそに、周囲はスムーズにグループを作っていく。
こんなときも俺は、外見からは落ち着いているように見えるのだろうな、と経験上思う。
みんな、俺が好んで人と群れないのだと信じて疑わない。
まあ一人でいるのもそこそこ快適なのだけど、こういう場面で孤立するのは普通に寂しいものだ。
「聖來」
「っ! 遥陽、どうしたの?」
やはり遥陽は優しい。
自分のグループは一瞬で決まっただろうに、俺のことをこうして気にかけてくれる。
他人と程よい距離感を保ちつつ、決して誰も置いていかない。
遥陽は人気者になるべくしてなっている人だと思う。
「あの……もしよかったらさ、俺と組んでくれませんか?」
「えっ!?」
「教室の装飾、二人じゃん。俺、聖來とやりたい」
「お、おれ?」
頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
いつもの明晰夢ならまだしも、現実でこんな展開があるとは。
動揺は収まらないが、もちろん断る理由なんてない。
「は、遥陽がいいなら、俺も……ぃ、一緒がいいな」
「聖來……!」
夏休み。文化祭。好きな人。二人きり。
ときめきを凝縮したようなワードが連なり、何か大きな歯車が動き出すような予感がする。
もしかして、もしかしたら。
俺の恋は……夢の中で終わらせなくてもいい?
この想いは……リアルな君の心に届く日が来る?
淡い期待が爆ぜて、視界をバカみたいにキラキラと輝かせる。
黒板に並んだ「前田」と「三波」の文字に、胸のキュンキュンが止まらない。
「聖來、よろしくね」
「うん。よろしくね、遥陽」
こうして、俺の高校二度目の夏が始まった――。



