婚儀を終えた日から、初野はしずくの願い通り一定の距離を保ってしずくと接するようになったが、親切さは相変わらずだった。周りの人には気が付かれにくい距離感でしずくのために動いてくれているのを感じる。
気立ての良い娘だ。
屋敷の手伝いをしようとしたが、家令の三田に止められた。西城の娘は信用ならないらしい。食事に毒を盛ったり、家のものを故意に壊すとでも思われているようだ。仕方なく身の回りのことをするにとどまった。
手助けをしてくれる女中は初野以外にはいなかったが、初野のおかげでしずくは快適に過ごせていた。もとより自分のことは何でもできるのである。掃除や洗濯、食事の用意まで、女中が手を出さないのをいいことに自分で好きなようにできることが嬉しかった。
夫婦となった彗斗はしずくに見向きもしないのだ、まるで空気のように扱われているが、誰にも構われない分、西城の家よりも過ごしやすいかもしれない。仲のよい使用人たちと会えないことは寂しかったが、かわりに新しい友人ができた。黒猫である。
黒猫はあの雨の日からちょくちょくしずくのもとを訪れては一緒に過ごすようになった。ときに怪我をしてくることもあるので少々やんちゃな性格らしい。その都度しずくは猫の手当てをし、穏やかな時間をすごした。
それに、意外とやるとこもある。屋敷の中で生活していると、ちょっとした困りごとに遭遇することもままあるのだ。例えば、炊事場に虫が湧くのを防ぐために人知れず薄荷を植えてみたり、先日はある女中が油汚れや茶渋をとるのに苦戦していたので、あとからこっそり重曹や柑橘の皮を使って磨いてみたといった具合に。ほかにも、失せものを見つけてみたり、初野伝手に女中たちに手荒れを防ぐ軟膏を渡してみたりもした。もちろん買ったものではない、薬草と基材から自分で作ったものだ。
気付けば東城家で起こる問題をこっそり解決することが楽しくなっていた。
夫から冷遇されているにもかかわらず、少しも悲壮さを見せず、喜々としているしずくを見て、女中たちは不思議そうな顔をしていた。恋人がいるのだと噂を立てられたこともあったが、やましいところの見つからないしずくの生活に、噂も瞬く間に消えた。
女中たちは少しずつ警戒を解き、態度を軟化させてきたが、三田は彗斗同様、しずくのことを敵視しているようだった。
東城家に嫁いで三か月の時が過ぎていた。驚くべきことというべきか、当然のことというべきか、その間一度も彗斗と話をすることがなかった。東城の妻といっても完全にお飾りで、屋敷のことは相変わらず三田が仕切っている。
なにも屋敷を仕切りたいわけではない。このまま穏やかに日々を過ごすことができたらいうことはないではないか。しずくはそう思い、自ら湯を沸かしてお茶を飲んでいた。すると、いつものように黒猫が遊びにやってきたので招き入れる。
「こんにちは、今日も来てくれたのね」
黒猫はにゃあ、と一声鳴くと、しずくの膝の上に乗る。いつもと違うのは、「しずく殿」と声がかけられたことだ。まさか猫がしゃべるはずはない、視線を上げると、不機嫌そうな彗斗が立っていた。怒っているようにも見える。
「俺の猫に危害を加えていたのはやはりあなたでしたか」
「何をおっしやっているのかわかりません」
「しらじらしい。あなたの膝の上にいるのは私の飼い猫のさくらです。あなたはさくらに怪我をさせたことがあるでしょう? それも一度や二度ではなく幾度にもわたって」
これにはしずくも言い返さないわけにはいかない。傷の介抱をしたことはあれど、こんなに可愛いものに怪我をさせるなどありえない。
「旦那様の目は節穴でしょうか。こんなにもさくらが寛いでいるというのに、私がこの子に怪我を負わせたとでも?」
「それは……だが、華絵嬢があなたがさくらをいじめているのを見たと言っている。彼女はその傷を手当てしてくれたそうだ」
「華絵様が……それは、華絵様がなにか勘違いなさっているのでしょう。私もこの子の傷を手当てしたことがございます」
「嘘はつかなくていい、さくらを返してもらおう」
「どうぞ、私はさくらの意志に任せます」
彗斗はしずくの膝の上からさくらを抱き上げようとしたが、さくらがそれを嫌がった。にゃあと抗議の声を上げてふいっと彗斗から視線を外し、しずくの膝の上に戻る。
「さくらの気がすんだら旦那様のもとに戻ることでしょう。やんちゃな子なのでしょうか、よく怪我をしてこちらに顔を出します。身の回りを気を付けてあげてください。なにか危ないことがないか……」
「あなたに心配してもらうようなことではない、さくら、いくぞ」
彗斗は嫌がるさくらを強引に抱き上げると、しずくの部屋を後にした。東城家と西城家には、簡単には埋められない溝があるようだが、彗斗のしずくへの態度はあまりに取り付く島がない。
夫婦となったのだから少しくらい歩み寄ってくれてもよいのではないだろうか。などと相手に期待してはいけない。自分は自分ができることをするだけだ。
少し居心地がよくなった東城家ではあったが、相変わらず彗斗との距離は遠い。
「奥様、よろしいですか」
初野が声をかけてくる。三田や周りの女中の目を気にしてあまり親しげな姿を見せなかった初野だが、最近女中からの態度が軟化しているので、頻繁に声をかけてくれるようになっていた。だが、今日は少し切迫した空気を感じる。
「どうしましたか」
「次の休日に病院への慰問があるのをご存じですか?」
「いいえ」
首を横の降ると初野は険しい顔になる。慈善事業への参加は貴婦人の義務のひとつである。表立った事業への参加を知らされないしずくは、編んだレースや造花などを初野伝手に寄付してもらっていた。
「やっぱり……これまでも慰問や黎明館での慈善会へのお誘いがあったのですが、三田さんが全部断ってしまっていて……。今度の慰問は藤宮妃殿下も出席されますので、どうにかして出席なさったほうがよいと思うのです」
「本当ですか、教えてくださってありがとうございます。三田さんに確認してみましょう」
初野から話を聞き、すぐに三田に会いに行くことにする。三田は執務室で珈琲を飲んでいた。しずくの姿を見て、あからさまに嫌そうな顔をする。
「なんですか奥様、私になにか御用でも?」
「藤宮妃殿下のご参加される慰問のことです」
三田は「それですか」となんでもないことかのように言う。
「それならばご安心ください、華絵様が行ってくださいます」
「なぜ」
「当たり前でしょう、あなたが行って東城の顔に泥を塗られては困ります。その点、華絵様はちゃんと教育を受けられた淑女ですから何の問題もございません」
優雅に珈琲を飲む三田にしずくは静かに告げる。
「三田、慰問には私が参ります。華絵様にもお目付け役としてご一緒していただけてかまいません」
「なりません! 西城の娘なんかが……」
「三田、私がこの家に嫁いできてからなにか気に障ることがあったでしょうか。東城の名に恥じる行いがあったでしょうか?」
「それは……まだ嫁いで来られて数か月、大人しくしていただけで助かっております」
「そういう認識をしていただけているようでしたらよかった。その慰問には私も参加すると伝えてください」
「ですが……」
「何があっても私の責任、あなたに罪は問いません。旦那様には私に脅されたとでもお伝えください」
唖然とする三田を残して、しずくは執務室を後にする。
慰問に行くのはなにも初めてのことではない。西城家にいたころは義妹の由美子が行きたがらない分たびたび参加したものだ。創部の手当てや包帯を巻くのも手馴れている。
心配なのは華絵のほうだ。傷口を見ただけで倒れてしまうのではないかと心配になる。彗斗の従妹だという彼女はたびたび東城家を訪れているようだから、その際に三田に頼まれたのだろう。彗斗の手前こ断れなかったにちがいない。
慰問当日、しずくの心配は現実になった。華絵は動きやすい着物で来たのはいいが、衣服が汚れるのを嫌がり、患者にも触れたがらない。創部を見ては悲鳴を上げ、気分が悪くなったと席を外してしまった。まるで義妹の由美子を見ているようだった。
藤宮妃殿下も困った様子で「先に帰ってもよろしいですよ」と優しく声をかけていた。
結局馬車を用意してもらい、華絵は先に帰ることになった。一方でしずくは献身的に看病に当たった。創部の手当てや包帯の巻き方、薬の知識もあるので他の貴婦人たちにも驚かれることになった。
「しずくさんでしたよね、まだご結婚前に私の友人が一緒に慰問に行ったことがあると言っておりました。手際よく手当てに当たられる方で、感じもよい方だと言っておりましたが、本当のことでしたね」
「ありがとうございます。久しぶりの慰問で緊張いたしましたが、当時の勘が残っておりました」
声をかけてくれたのは那須野夫人という女性で、しずくよりもかなり年配に見えた。
「東城夫人、今日は来てくださってありがとうございました。あなたのおかげでよい奉仕活動になりました」
「妃殿下のご指導の賜物です」
「まあ、謙遜なさって、かわいい方ですね」
藤宮妃殿下からも賛辞をもらうことになり、ほかの貴婦人たちとも打ち解け、しずくにとって良い慰問となった。
この慰問から、しずくに対する三田の態度が目に見えて軟化した。女中たちも気軽に挨拶をしてくれるようになり、東城家での居心地がさらに良くなったのである。
「三田さんが奥様のことを誉めていらっしゃったんですよ。かわりに華絵様には呆れたご様子で、私、正直華絵様のことが苦手だったのでざまあみろでした」
すっかり親しくなった初野は清々した様子でそう語った。
「慰問に慣れていなかったのだと思います。初めてのことで驚かれたのかと」
「それに対して奥様の献身的な姿に藤宮妃殿下も心を打たれていらっしゃったそうですよ、その話を聞いて私も感動いたしました」
「大袈裟ですよ初野さん」
「そんなことありませんよ、今、屋敷の中で奥様の株が上がっているところです。初日から奥様にほれ込んでいた私としては鼻が高いです」
嬉しそうに語る初野を見て、しずくも嬉しい気持ちになった。



