恋知らぬ冷徹官僚と薄幸のかすみ草

「…花純」


 彼が名前を呼んだのを聞き、鞄を手に持った。

 これ以上ここに留まれば、甘えたくなってしまう。決意が揺らぐ前に、ここを出ていかなければ。


「待て。こっちで住処《すみか》は用意する。金も」

「そんなわけには行きません」

「少しくらいは俺の言うことを聞け!」


 そう言い放つと、私の部屋を出ていった。

 あそこまで声を荒げるのを聞いたこともなかった。去り際になって、旦那様の多様な一面を見られるなんて思っていなかった。こんな時になって、こんなにも揺さぶられるなんてことも、思っていなかった。

 私の決意は固く、最後の挨拶もまともに済ませずに、玄関に向かった。

 これ以上は、だめになってしまうから。早くここから立ち去らないと。

 敷地を越え門の前に出ると、振り返る。その前で一度、一礼した。短い間だったけれど、自由を少しでも感じられた、大切な居場所だった。旦那様とも、幸せなひと時を過ごせた。

 これ以上、旦那様の元では、私は幸せや自由を求めてはいけない。もう少し自分だけで抗ってみたいと思った。

 きっと簡単ではない。今も路頭に迷っているところなのに、幸せや自由のことを考えている場合でもない。だけど、決して希望は捨てずに、自分の道を模索したい。

 決意を新たに、久我家を静かに去った。