俺は頭を抱えている。理由は明白で、瑠比人の態度が数日の間にすっかり変わってしまったからだ。
もちろん、悪い方ではない。疎遠になった訳ではない。だからこそずっと心が乱されている。
「ねえ、あのふたり、どうしたの?」
「どうしたんだろーねー……」
灰谷と水町の声が耳に届く。俺が慌てて顔を上げるとふたり共ぎょっとして、鞄も身に着けたままこちらに近付いてきた。俺の真横に鎮座していた瑠比人はそのふたりを、いつも通りの笑顔で迎え入れる。邪険にしないところが逆に恐ろしい。
「おはよ、ともちとまなまな」
「お、おはよ……どうしたの、ふたり……?」
「俺はまともだ。おかしいのは瑠比人だけ」
「えー、瑛ひどい。俺に寄り掛かられて不満なの?」
「重えんだよ! 普通に!」
「うん、重そう」
瑠比人は俺の肩に自分の頭を預け、椅子に座っているとは言え上半身の重みを俺に置くようにしていた。俺はというと持ち前の体幹があるためそれを受け止めているが、身動きは取れないし充分重たい。灰谷と水町は俺に憐憫の眼差しを向ける、しかしだからと言って何かをしてくれる訳でもなく。
「じゃああとは若いおふたりで」
「おい、同い年だろ」
「そだねー、ひとのナントカに首を突っ込むとナントカカントカ」
「そうそう、カントカサンタモニカ」
「地名が入ってきた」
まったく意味がわからないやり取りをしている内に、ふたりはするりといなくなって自分の席へ戻ってしまった。まさかの助けてくれず。俺は唖然としているが瑠比人は上目遣いでこっちを見て「またふたりっきりになっちゃったね」なんてほざいていた。嬉しくない訳ではないのに、訳のわからないことを言われ腹が立ってくる。
「なにが『ふたりっきり』だよ、大分教室ぱんぱんだぞ」
「あれ、そういえば太弦がまだ来てない?」
「御木本? あー確かに?」
こんなギリギリになっても来ないとは、とスマートフォンの時計を見ていると本鈴ギリギリで御木本がやって来る。担任はいつものように遅れているためセーフ、という塩梅だ。珍し過ぎる、と俺と瑠比人は顔を見合わせた。そして瑠比人が自分の席に移動している最中、御木本から、
「はあ~……っっっ」
という地獄の底から漏れ出たような、低い溜息が聞こえてきた。
……何事? 誰も声を掛けられないまま、担任が教室に入って来て視線は教卓の方へ集中する。色々と面倒臭いことが乱立しているっぽい。優先順位的には瑠比人よりも御木本の方が重要そうだ。
「……とも」
「オレぇ? 良いけどさっ」
ショートホームルームからの一限が終わって休み時間。音もなく灰谷の隣へ移動した水町は、御木本の方へ目配せをして意図を伝える。灰谷は一瞬渋い顔をしたが、すぐ普段の顔を作って御木本の前に飛び出した。なんだかんだ心配に思っているのはみんな同じ、だが水町の采配に躊躇がなさ過ぎる。俺には絶対出来ない無情さだ。
「センセーおっつー! どした? 元気ないじゃん?」
「……灯哉か」
腕を机に置いて突っ伏していた御木本だが、灰谷に声を掛けられて視線だけ上げた。意外なことにその目付きは灰谷を煩わしいものとして見ているものではなく、長い道のりの先に自宅を見つけたかのような切実さが灯っている。なんか大丈夫そうじゃね? と言いたげな灰谷のアイコンタクトに、代わりに灰谷の席に座っていた水町は頷いた。
「それ、話聞いて欲しいやつ? 放っといて欲しいやつ?」
「聞いてくれるなら話す」
お、意外と素直。その言葉が聞こえた瞬間、俺と水町、そして瑠比人も席を寄せ合い「聞いていいやつ?」と各々尋ねた。尋ねられた回数分だけ御木本は頷いた。
「めっちゃ簡単に言うと美矢子さんと喧嘩した」
「ええっ! 喧嘩するの!? センセーともあろうお人が!?」
「するだろそりゃ! 血気盛んな高校生だぞ!」
「高校生すべてが血気盛んかと言われると微妙だけど。原因とかは訊いて良い?」
価値観の違いです、とさながら解散したバンドみたいなことを言い放つ御木本。それに対して瑠比人が「解散したバンドみたいだね」と言って水町から頭を叩かれていた。注意していただきたいが、喧嘩しただけであって彼はまだ交際状態である。別れてはいない。瑠比人の発言は不用意過ぎる。
「別れてないもん! これからも別れないし!」
「そうだねー、よしよしっ。るいてぃー流石にヒドスギ!」
「ノンデリカシーにも程があるだろ……」
「自分には春が来たからって、他人の冬は寒くないと?」
「まなまながいちばん心に刺さるようなこと言ってる気がする……」
瑠比人に春? 俺は首を傾げるがそれは兎も角今は御木本だ。あと数分でどうして喧嘩したのかを聞き出さなければ。
「喧嘩した理由はめっちゃ簡単で、単純に七夕祭のあれそれでさ、美矢子さんにも色々相談してたんだけどちゃんと意見が食い違って、それを元に喧嘩しちゃった」
「女子部と合同行事だもんねー、美矢子さんも生徒会長続投だからブレーキもアクセルもちゃんと踏まなきゃ! って思ってんだろーねー」
「そうなんだよな。立場がちがうから見てるものももちろんちがう訳で……」
自分の指をこねこねと触りながら、御木本の頭がどんどん俯いていく。このまま黙り込んでしまうのか、というところで弾けるように顔を上げた。
「いいや、おれもやっぱり良くない」
「あ、そなの? 具体的には?」
「美矢子さんならこの意見には反対するだろうな、と思っていつつ、実際反対されて不機嫌になったとことか」
「それは確かに良くはない……」
「というか珍しいね。たっつーがそんな、試し行動みたいなことするの」
彼女さんへの安心感がカンストしていると思ってたけど、と水町が尋ねると御木本は再び俯いてしまった。どうやらそれは図星だったようで、他人からはっきり言われて堪えたらしい。わかる、好意が駄々漏れって指摘されんのめっちゃ恥ずかしいよな、俺にも経験があるぞ。
御木本はゆっくり頭を上げて、軽く溜息を漏らした。
「単純に、言わなくてもわかってくれると思ったのが本当に良くなかったというか……。生徒会でも揉めててちょっと気が滅入ってたのもあるし、だからと言ってそこのケアを美矢子さんに求めていたのもなんか、やっぱ違ったなと思ったし」
これがもし、御木本が自分の意見は十全に正しく瑕疵がない、と断言出来ていたらこんなことにはならなかったんだろうな。相手から承認を求めている時、それは自分の自信がない時が多い。今得られていない承認を、別の分野で求めてしまうのだろう。
ただ、そこで承認をしてくれるのが果たして本当に自分が好きになった彼女なのか。そこを御木本は悩んで、否と突き付けた。
「おれはね、美矢子さんの目的のために歯を食い縛れるところが好きなんだ。おれにはないその強さに憧れたし、今でもずっとおれの目標。それなのにさ、……情けないね。甘えるなら良いけど、縋るのは本当に良くない」
要するに御木本は、自分の甘えた態度に苛ついていたらしい。内情を知っている分、彼女が自分の行動の良し悪しを判断出来ると分かっていたのにも関わらず、本質を見ない表面だけの優しさを求めて縋った。そのことに腹が立っていたのだ。
俺らはかけるべき言葉が見当たらずに黙ってしまう。あと二分で休み時間が終わる、そんなところで水町が声を上げた。
「……たっつー、ちょっと、起立」
「はい?」
言われるがまま御木本は席を立つ。椅子を机の下に仕舞いこみ、一体なにをと思っていたらノーモーションで水町は御木本に抱き着いた。
「え、あの」
「ぎゅー……」
「み、水町さん……?」
しっかりを背中に腕を回し、掌は御木本の背中をぽふぽふと叩いている。突然のことで驚いてフリーズする御木本、ぎゅーという効果音を発しながら抱き締め続ける水町、なぜか興奮している灰谷。俺と瑠比人、そして他のクラスメイトはその光景に驚いて声も出なくなっている。
「……よし、終わり」
「……えーっと、今のは?」
「ハグ」「それはわかりますけど!?」
なんで!? と御木本は叫ぶ。確かにビビるよな、水町ってこういうことするタイプじゃねえし。すると水町は自分を親指で指差した。
「こういう時には僕を頼りなさいよ、ってこと」
「はい?」
「いやだから、美矢子さんには求められないなら求められる人間を作った方が良いということ。そしてその役目は友人が担った方が良いと思ったの。で、君にとって僕は?」
「と、友達?」
「そういうこと」
「なーるほど!」
灰谷が天啓を得たと言わんばかりに叫び、未だ困惑の渦中で溺れている御木本へ勢い良く抱き着いた。これはあれだ、サッカーの得点シーンみたいなハグだ。
「何がなるほどなんだよ!」
「センセーを慈しむのはオレらの役割だぜ! 友達だから頼っても良いんだぜ!」
「ゆっくり灯哉!? ゆっくりしていってね!?」
「あ、次の方はこちらでお待ちくださーい」
「水町さんも列整すんな! お前らも並ぶな!」
気付けば騒ぎに耳をそばだてていたクラスメイト全員が列を為し、疲弊した彼を慰めるべくハグに努める。というなかで授業が始まる鐘が鳴るがそんなことはどうでも良い、今大事なのは御木本のメンタルケアだ。
「詳しくは知らないけどマジで頑張ってると思うよ」「期待してます副会長」「家帰ったらゆっくりするんだよー」「少しくらい弱音吐いてもええんちゃう?」「彼女さんのこと本当に好きなんだねえ……」「もう愛だよ愛」「別れたら慰めてやるからな!」
「いや別れねえから」
教科担任が教室に入って来てもハグの列は終わらない。比較的フリーダムな人物が多い弊あおば組にとって『打ち切り』なんて言葉は端から存在していないのだ。教科担任もそれをわかっているようで、勝手にパイプ椅子を引っ張り出しては見物する姿勢に入った。見ていて楽しいものなのかは謎だ。
「仲良いですねえ、本当に君達は……」
嫌味のような発言でも額面通り受け止めれば微笑ましく思ってくれている、ということになる。クラス全員で、それほどでも~、と返せば教科担任は引き攣った笑顔を浮かべていた。
「あ、土方」
「どうも。ハグさせてもらいます」
出遅れた俺らは最後一、二番目に陣取っていた。最後から二番目にいるのは瑠比人だ。優しい手つきで御木本の背中に腕を回すと、彼の肩に自分の頭を寄せる。背中を柔らかく叩いて「偉いね」と囁いた。
「あざす」
「次、瑛なんだけど」そこで瑠比人は声をワントーン下げる。「くれぐれも長引かないように」
「は、はい」
あいつはまた余計なことを……。美人の凄んだ顔って怖いんだよな、と思って御木本の顔を見るとわかりやすく怯えていた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……手短にいきます」
「あんま気にしなくて良いぞ」
俺と御木本でなんかあるとか百パー有り得ねえし。俺はスポーツマンライクにハグをする。健闘を称えるかのように相手へ触れて、離れてから握手をした。俺は真っ直ぐこいつを見つめて「勉強になったわ」と小声で伝える。やっぱり実際に恋人がいて、その関係を継続している人間から得られる教訓は重たい。色々と気付かされるな、と考えながら席に座ろうとすると瑠比人から一瞬抱き着かれた。マジでなに? 訊く前に授業が始まる。
そんなこんなで約五分遅れで始まった授業だったが、すべての設問で御木本がまず当てられるというさながら千本ノックのような様相が繰り広げられていた。発端は御木本とは言えこいつも被害者側なのに……滅茶苦茶不憫だなと思った。
「しんどかったな……二時間目の授業……」
昼休みになると疲弊した御木本が弁当片手に呟く。それを聞いて、何故か穏やかに微笑んでいる水町。
「でもクラス全員からパワーを貰って心強かったでしょ?」
「それについては否定出来ないけど、水町さんがそれを言うのはなんかちがうと思う」
「そう?」
そうってなんだよとツッコむ御木本に笑い出す灰谷と瑠比人、俺も呆れながら笑っていた。なんだか元気になったようで良かった、あとは彼女さんとふたりの問題だからこれ以上俺らが口を挟む必要はない。それより俺はひとつ、瑠比人に訊かなければいけないことがあった。
「え? ハグの件?」
「それもだけど、え、でもあれどうせ上書きとかだろ」
「うん、上書きだけど……」
「……上書きですって、真汰。どう思う?」
「ちょっとやらしいね、公共の場で使って良い言葉なのかな」
「つかおれ、ばい菌扱いされてる?」
「そういう訳じゃないから」
聞こえるようにひそひそと噂され、御木本からは自虐にも程がある発言が出て即座に瑠比人が否定した。ばい菌とかじゃなくて、なんかあれだろ、飼ってる犬とか猫が飼い主にちがう匂いがつくのが嫌みたいなやつだろ。その話はまあ良くて。
「そうじゃなくて、お前が中学ん時途中で退部した理由、こいつらに話さなくても良いのかよ、って」
「え、別に良いよ」
そう断じたのは瑠比人、では当然なく、水町だった。よく見ると他のふたりも同意の表情をしている。
「言いたくないなら言わなくても良いよ。あんまり良い話じゃないのはわかるし」
「そーそー、オレらそんなにゴシップ好きな訳じゃないからー」
「昔の話より先の話が聞きたいっていうのもあるな。今のバンドの話とか」
ねー、なんて仲良く同意をする三人。さて瑠比人はどう思うか、と視線をそちらに向けると和やかな空気とは裏腹にひどく思い詰めた顔をしていた。ああ、まあそりゃそういう顔にもなるよな。なんてったって、瑠比人の退部理由はそこまで深刻な話じゃないんだから。
深刻でもない話なのにここまで気を遣われると逆に居心地が悪いだろう。俺は瑠比人を肘でせっついて「どうする?」と口の形だけで尋ねた。瑠比人は間髪入れずに頷いた。
「あの、大変申し訳ないんですが……」
瑠比人の言葉に三人は耳を傾けた。瑠比人は意を決して、本心を伝える。
「もう大分面白い話になっちゃってるんですよ……」
かいつまんで話すと色恋沙汰で色々あった、というだけのことだ。
俺らが通ってた中学はただの公立校だったのだが、音楽系の部活は吹奏楽部じゃなくてジャズアンサンブル部という名前だった。
「シャレてるー」
「ジャズをやっていたってこと? るいは」
「うん、ゴリゴリにジャズのギターをやってた」
「格好良いな……!」
存外御木本がキラキラした目で瑠比人を見つめる。確かにジャズのギターをやっていた、という響きはカッコイイ。ただ内情としては普通の公立中学校の部活動でしかない。顧問は多少横暴だし、上下関係はそんなに厳しくなかったが部内でうっすらとしたグループがあったそうだ。一枚岩とは言えない集団だったという。
瑠比人にとっての事件があったのは二年生の時である。
アンサンブル部は当時二年生が二十人弱ほどおり、その中でも男子は瑠比人含めて五人くらいだ(その中のひとりに例の斎藤がいる)。そしてその男子五人の中で瑠比人がいちばん美形であり、演奏の腕も良かった。
「ここだけで大分察するに余りあるな」
「実力のある美人さんだもんねー、あとるいてぃーって女子ウケしそうな性格してるし」
「そうかなあ」
「女子ウケはするでしょ。若干変なところがある優しいひと、って人類みんな好きと言えばそうだし」
水町からの褒め言葉にわかりやすく照れて、なんでか俺の方をガン見する瑠比人である。別に俺は、お前のことは好きだけどそういう性格だから好きになった、と言われるとうーん……。まあ俺の話は良いんだよ別に。問題はそんな女子ウケしそうなこいつがいて、色恋沙汰で揉めるのは至極当然という話だ。
結論を言うと部内でそこそこ目立つ女子二人が同時に瑠比人のことを好きになって、どっちを選ぶのか詰め寄られて──
「え、君らのうちのどっちかしか駄目なの? って言っちゃったの、俺が」
「そ、それは……、るいてぃー……」
「正論ではあるけれど……」
「るいってこういうところでは空気読めないんだよね」
「中学生ではあるけれど、まあ酷いよな普通に」
俺がコメントをした瞬間、とんでもない顔の瑠比人に睨まれたのはスルーしておこう、
こうして女子二人が振られたのを皮切りに、外面上は女子VS瑠比人のような構図になってしまったのだ。実際のところはそうでもなく、大半の部員は瑠比人に同情的なのだけどその女子二人の影響力たるや、という話である。結局あらゆることに面倒臭くなった瑠比人は部活動を辞めた。辞めてからも趣味でギターを続けており、こいつの人生の中での損失があんまりなかったのは幸いだったが。
「男子校選んだのもそういうことか?」
「まあそれもある。あと通いやすさと学力レベルと、瑛と一緒に行けそうなところで選んだ感じ」
「へー愛だねー」
灰谷の適当過ぎる相槌に瑠比人は「愛だよー」と返す。そのあと水町と御木本がなにやら含みのあるアイコンタクトをしていたのが気になった。
「だから、あんま気にしないで。俺は昔のことはもう水に流してるし、今のバンドは楽しいし」
「今楽しいなら良いね、僕らも嬉しくなる」
良かった、と笑う三人に瑠比人は満面の笑顔を返す。花が咲いたみたいに笑うなあ、こいつが笑う度にいつも思う。
「でもさ、正直断り方については気を遣ってこれだったんだよね」
「気を遣って?」
どういうことなの、と疑問符を頭上に浮かべた灰谷に瑠比人は至って普通のことのように、それを言った。
「だって俺、その時には瑛のこと好きだったし、変な噂が立たないように一刀両断するしかなくなったんだよね」
時が止まった感覚がした。
周りがスローモーションに見える。御木本がペットボトルの蓋を掴み損ね、灰谷は両手で自分の口を抑える、水町はというとかなり呆れた眼差しを以て瑠比人を貫く。
そして肝心の瑠比人とは言うと、俺に対して花すら自分で枯れることを選びそうな、はにかんだ薄ら笑いを浮かべていた。
★ ★ ★
「お前本当有り得ねえからな」
放課後、互いに部活を終えていつもの象の公園。今日はどちらかが突然誘った訳ではなく、学校にいる間に何時頃会うと約束をして今ここにいる。
先に着いていた瑠比人を見て、瑛はゆっくりと彼の下へ歩み寄る。その足取りがあまりに重たいことで、瑠比人は察した。自分はなにかとんでもないことをやらかしたのではないのか、と。そして冒頭に繋がる。
「ごめん、なんか、止まんなくて……」
「止まんなくても止めろよ。明日の朝が怖過ぎるわ」
あの三人からどんな尋問を受けるか、それを考えただけでもぞっとする。しかし肝心の瑠比人はそこにはピンと来ていないようで、曖昧に笑っていた。……いや、ピンと来ていない訳ではない。恐らく瑛からの答えをとっくに理解していて、そのことで浮かれているだけだ。だからこそより瑛の苛立ちを煽るというか、本来なら瑛ももっと浮かれたかったはずなのだが……。
「タイミングが悪過ぎる。俺、インターハイ前だぞ」
「うっ、それは……」
今は四月下旬、インターハイの地区予選はゴールデンウィーク直後にある。確かに告白するタイミングとしては恐ろしく悪い。
瑠比人も言われて気付いたようで、バツの悪そうな顔で瑛を覗き込んだ。
「お前だって七夕祭前だし、もっと適切なタイミングがあったんじゃねえのか」
「……それ言ったら、いつ言えるかわかんなくなるし」
「なんか、心境の変化でもあった? 急にべたべたし出すし」
誰かから入れ知恵をされたか、と瑛が呟けば瑠比人はぎくりと背筋を伸ばした。どうやら図星らしい。恐らく入れ知恵をしてきた相手はバンドのメンバーだろう、バンドが本格始動し始めた頃から様子がおかしくなったのでこれはほぼ確定だ。
なんだかイライラするな。瑛は気まずそうに立ち竦んでいる瑠比人を見て、溜め息をつく。なににイライラしているのかは上手く言語化出来ないけれど。
「俺、お前のここ最近の心境の変化についてはまったくわかってねえから、出来れば説明してもらえると有り難い」
ならば説明してもらうが早いかと瑛は頭を切り替えた。このままうだうだ自分の中で答えを探そうとしてもきっと見つからない。瑠比人から直接話してもらえれば、イライラの理由だって見つかりやすくなるはずだ。いつものベンチに瑛は腰掛け、隣に座るよう瑠比人に手招きする。瑠比人は座り様に話し始めた。
「その、まず先輩たちに色々言われたのがきっかけ、と言えばきっかけかな……。ちゃんと好きな子にはアプローチをした方が良い、なるべく接近して、自分の熱を伝えた方が良いとか言われて、それもそうかって思った」
「納得したんだ、先輩たちの言葉を」
瑠比人ははっきりと頷いた。
「お前に人間関係としての優先順位を下げられ続けるくらいなら、そういうことしていった方が確かに良いなって……」
ここまでは瑛も理解出来た。そもそも互いに片思いだと思っていたのだ、いつか他の誰かと付き合ったり結婚したりして優先順位が落ちる想像は瑛だってしたことがある。しかし自分はちっとも動き出せなかったのに対し、瑠比人は先輩たちからの後押しですぐに行動に移した。部活に入って少し脳が能動的になっていたとは言え、普通出来ることではない。なるほど、俺はそこを悔しく思っているのもある、と瑛は自己分析を進めた。
「で、アプローチしていって、すぐに告白しちゃったと」
「元々その、先輩たちからプランニングされてて……」
「プランニング!? え、お前の意思じゃなかったってこと!?」
「ちがうちがう! あーもう、これ見て!」
瑛の大声を更なる大声でかき消した瑠比人が取り出したのは、小さく折りたたまれたルーズリーフだ。瑛が慎重にそれを開くと、筆跡がばらばらの文字がのったくった何かが出てくる。これが瑠比人の言うところの『プランニング』というものだろう。じっくり読んでみると今後瑠比人がすべきことの羅列の下に、「一年くらい経って告白!」とでかでかと書かれている。つまり、
「本当に止まらんかっただけかよ」
「だってさあ! 日に日に独占欲の抑えが効かなくなって、まじで取られたらどうしよう死ぬしかないみたいなとこまでいって……!」
「死ぬしかないは流石に行き過ぎだけど、……そんなに俺のこと好きだったのか、お前」
驚きを盛大に溢れさせた声音で瑛が呟けば、心外と言いたげに瑠比人は「そうだよ」とぶっきらぼうに応える。
「ずっと好きだったの。でも幼なじみとして一緒に一生いれれば良いかなと思ってて……その考え自体が甘いことに気付いたけど」
「まあ、人生ってどこで何があるかわかんないからな。俺も水町とかにずっと早く告白しろって言われてたし」
「えっまなまなに? なんで? 知ってたの、その、」
瑠比人が言葉を詰まらせる。現時点で瑛は瑠比人自身に対し、恋愛として好きだという話は一切していない。だから口籠ってしまったのだろう。
瑛はあえてそこには触れず、話を続ける。
「怖かったから」
「は……」
「怖かったんだよ、俺の一言で大好きな幼なじみがいなくなるかも知れないって思ったら、普通に怖くって」
母性の話がよぎったのも、きっと防衛本能だったんだろう。恋愛部分を透明化して見ない振りをしていた期間が長かった。それで問題が解決される訳でもないのに。
瑛がイライラしていたのは瑠比人でもなく、瑠比人を後押ししたバンドメンバーでもなく、自分にだ。
自分との今後を考えて急だったけど真摯に考えて行動した瑠比人に悔しさを覚えて、色々と言い訳をして動こうとしなかった自分が腹立たしくて仕方がない。今ここでふたりで、並んで座れているのだって瑠比人の努力のおかげで、自分はそれを甘受しているだけ。なんと情けないことか。
「瑛、」「んだよ」
「ごめん、こんなこと言われるの嫌かもしんないけど、俺すごい安心してる。今」
「安心?」
驚いて瑠比人の方へ顔を向けた瑛、瑠比人は真摯に頷いた。
「瑛ってたまに俺の理想過ぎて怖くなる時があって、強くてストイックでカッコイイ、みたいな」
「理想じゃなくて良かったってこと? なんだそれ」
「っていうかその、俺が好きになった頃の瑛ってもっと雑っていうか、年相応だったから……」
太弦だって言ってたじゃん、と言われて瑛は納得する。今日話題に上がった御木本太弦の恋愛観。彼女と喧嘩をして自分を律するあの言い分は、今の自分たちにも適用され得るものだ。瑛だって今日勉強になると言ったばかりだったのに。
「都合が良いから好きになった訳じゃないの。都合の悪いところも好きだなと思えたから好きなんだよ」
「名言かよ」
「どやあ。俺はしっかりしててお兄ちゃんやってる瑛も好きだけど、雑で適当なこだわり強めな瑛も好きだから」
瑛は? と瑠比人に尋ねられ、危うく瑛は口を滑らせかけた。
そりゃあ俺だって、と心の中で呟く。瑠比人の真摯な優しさも好きだけど、天然入っていて唐突に変なことを言い出すところだって当然好きだ。存在が、日々の助けになっているのだから、傍にいてくれるだけで嬉しいし有り難い。ずっと隣で笑っていてほしい。
そう言いたくて、堪えた。今じゃない。
「瑛?」
「瑠比人、俺もお前のことが好きだ。好きだけど」
だけど、と言われて瑠比人の表情が曇る。その顔を見て心は痛むが、瑛は鬼となり断言した。
「告白の正式な返事は、七夕祭後」
「後っ!? ええ……あと二ヶ月以上もあんの……?」
「しゃあねえだろ。気ぃ緩むとやべえんだって」
今一番大事なのはインターハイ予選。これに関しては瑛だけではなく、先輩の進退も関わってくる。浮かれて真面目に向き合えませんでした、では済まない事情があるのだ。
そしてその事情は瑠比人も把握している。そもそも瑠比人だって七夕祭はブランクを埋め、また新たなジャンルに挑戦しているため浮かれている暇はないのだ。だからタイミングが悪いと言ったのに、と今更悔やんでももう遅い。
目に見えて落ち込んでいる瑠比人の肩を、瑛は叩いてサムズアップした。
「最後の両片想い期間、楽しもうぜ」
「……普通に両想い期間へ移行させたいのに……」
「しゃあない、じゃあまた明日」
「しゃあないじゃない~! くっそ、また明日!」
これくらいは良いか、と最後瑛は立ち上がった瑠比人に盛大に抱き着いた。呆気に取られた瑠比人の間抜け顔を拝み、ここ最近の意趣返しが出来たと瑛はスキップでもしたい気分で帰宅する。帰宅後、I!talkには怒りのスタンプで溢れ返っていた。怒りたいのはこちらの方であるというのに。
もちろん、悪い方ではない。疎遠になった訳ではない。だからこそずっと心が乱されている。
「ねえ、あのふたり、どうしたの?」
「どうしたんだろーねー……」
灰谷と水町の声が耳に届く。俺が慌てて顔を上げるとふたり共ぎょっとして、鞄も身に着けたままこちらに近付いてきた。俺の真横に鎮座していた瑠比人はそのふたりを、いつも通りの笑顔で迎え入れる。邪険にしないところが逆に恐ろしい。
「おはよ、ともちとまなまな」
「お、おはよ……どうしたの、ふたり……?」
「俺はまともだ。おかしいのは瑠比人だけ」
「えー、瑛ひどい。俺に寄り掛かられて不満なの?」
「重えんだよ! 普通に!」
「うん、重そう」
瑠比人は俺の肩に自分の頭を預け、椅子に座っているとは言え上半身の重みを俺に置くようにしていた。俺はというと持ち前の体幹があるためそれを受け止めているが、身動きは取れないし充分重たい。灰谷と水町は俺に憐憫の眼差しを向ける、しかしだからと言って何かをしてくれる訳でもなく。
「じゃああとは若いおふたりで」
「おい、同い年だろ」
「そだねー、ひとのナントカに首を突っ込むとナントカカントカ」
「そうそう、カントカサンタモニカ」
「地名が入ってきた」
まったく意味がわからないやり取りをしている内に、ふたりはするりといなくなって自分の席へ戻ってしまった。まさかの助けてくれず。俺は唖然としているが瑠比人は上目遣いでこっちを見て「またふたりっきりになっちゃったね」なんてほざいていた。嬉しくない訳ではないのに、訳のわからないことを言われ腹が立ってくる。
「なにが『ふたりっきり』だよ、大分教室ぱんぱんだぞ」
「あれ、そういえば太弦がまだ来てない?」
「御木本? あー確かに?」
こんなギリギリになっても来ないとは、とスマートフォンの時計を見ていると本鈴ギリギリで御木本がやって来る。担任はいつものように遅れているためセーフ、という塩梅だ。珍し過ぎる、と俺と瑠比人は顔を見合わせた。そして瑠比人が自分の席に移動している最中、御木本から、
「はあ~……っっっ」
という地獄の底から漏れ出たような、低い溜息が聞こえてきた。
……何事? 誰も声を掛けられないまま、担任が教室に入って来て視線は教卓の方へ集中する。色々と面倒臭いことが乱立しているっぽい。優先順位的には瑠比人よりも御木本の方が重要そうだ。
「……とも」
「オレぇ? 良いけどさっ」
ショートホームルームからの一限が終わって休み時間。音もなく灰谷の隣へ移動した水町は、御木本の方へ目配せをして意図を伝える。灰谷は一瞬渋い顔をしたが、すぐ普段の顔を作って御木本の前に飛び出した。なんだかんだ心配に思っているのはみんな同じ、だが水町の采配に躊躇がなさ過ぎる。俺には絶対出来ない無情さだ。
「センセーおっつー! どした? 元気ないじゃん?」
「……灯哉か」
腕を机に置いて突っ伏していた御木本だが、灰谷に声を掛けられて視線だけ上げた。意外なことにその目付きは灰谷を煩わしいものとして見ているものではなく、長い道のりの先に自宅を見つけたかのような切実さが灯っている。なんか大丈夫そうじゃね? と言いたげな灰谷のアイコンタクトに、代わりに灰谷の席に座っていた水町は頷いた。
「それ、話聞いて欲しいやつ? 放っといて欲しいやつ?」
「聞いてくれるなら話す」
お、意外と素直。その言葉が聞こえた瞬間、俺と水町、そして瑠比人も席を寄せ合い「聞いていいやつ?」と各々尋ねた。尋ねられた回数分だけ御木本は頷いた。
「めっちゃ簡単に言うと美矢子さんと喧嘩した」
「ええっ! 喧嘩するの!? センセーともあろうお人が!?」
「するだろそりゃ! 血気盛んな高校生だぞ!」
「高校生すべてが血気盛んかと言われると微妙だけど。原因とかは訊いて良い?」
価値観の違いです、とさながら解散したバンドみたいなことを言い放つ御木本。それに対して瑠比人が「解散したバンドみたいだね」と言って水町から頭を叩かれていた。注意していただきたいが、喧嘩しただけであって彼はまだ交際状態である。別れてはいない。瑠比人の発言は不用意過ぎる。
「別れてないもん! これからも別れないし!」
「そうだねー、よしよしっ。るいてぃー流石にヒドスギ!」
「ノンデリカシーにも程があるだろ……」
「自分には春が来たからって、他人の冬は寒くないと?」
「まなまながいちばん心に刺さるようなこと言ってる気がする……」
瑠比人に春? 俺は首を傾げるがそれは兎も角今は御木本だ。あと数分でどうして喧嘩したのかを聞き出さなければ。
「喧嘩した理由はめっちゃ簡単で、単純に七夕祭のあれそれでさ、美矢子さんにも色々相談してたんだけどちゃんと意見が食い違って、それを元に喧嘩しちゃった」
「女子部と合同行事だもんねー、美矢子さんも生徒会長続投だからブレーキもアクセルもちゃんと踏まなきゃ! って思ってんだろーねー」
「そうなんだよな。立場がちがうから見てるものももちろんちがう訳で……」
自分の指をこねこねと触りながら、御木本の頭がどんどん俯いていく。このまま黙り込んでしまうのか、というところで弾けるように顔を上げた。
「いいや、おれもやっぱり良くない」
「あ、そなの? 具体的には?」
「美矢子さんならこの意見には反対するだろうな、と思っていつつ、実際反対されて不機嫌になったとことか」
「それは確かに良くはない……」
「というか珍しいね。たっつーがそんな、試し行動みたいなことするの」
彼女さんへの安心感がカンストしていると思ってたけど、と水町が尋ねると御木本は再び俯いてしまった。どうやらそれは図星だったようで、他人からはっきり言われて堪えたらしい。わかる、好意が駄々漏れって指摘されんのめっちゃ恥ずかしいよな、俺にも経験があるぞ。
御木本はゆっくり頭を上げて、軽く溜息を漏らした。
「単純に、言わなくてもわかってくれると思ったのが本当に良くなかったというか……。生徒会でも揉めててちょっと気が滅入ってたのもあるし、だからと言ってそこのケアを美矢子さんに求めていたのもなんか、やっぱ違ったなと思ったし」
これがもし、御木本が自分の意見は十全に正しく瑕疵がない、と断言出来ていたらこんなことにはならなかったんだろうな。相手から承認を求めている時、それは自分の自信がない時が多い。今得られていない承認を、別の分野で求めてしまうのだろう。
ただ、そこで承認をしてくれるのが果たして本当に自分が好きになった彼女なのか。そこを御木本は悩んで、否と突き付けた。
「おれはね、美矢子さんの目的のために歯を食い縛れるところが好きなんだ。おれにはないその強さに憧れたし、今でもずっとおれの目標。それなのにさ、……情けないね。甘えるなら良いけど、縋るのは本当に良くない」
要するに御木本は、自分の甘えた態度に苛ついていたらしい。内情を知っている分、彼女が自分の行動の良し悪しを判断出来ると分かっていたのにも関わらず、本質を見ない表面だけの優しさを求めて縋った。そのことに腹が立っていたのだ。
俺らはかけるべき言葉が見当たらずに黙ってしまう。あと二分で休み時間が終わる、そんなところで水町が声を上げた。
「……たっつー、ちょっと、起立」
「はい?」
言われるがまま御木本は席を立つ。椅子を机の下に仕舞いこみ、一体なにをと思っていたらノーモーションで水町は御木本に抱き着いた。
「え、あの」
「ぎゅー……」
「み、水町さん……?」
しっかりを背中に腕を回し、掌は御木本の背中をぽふぽふと叩いている。突然のことで驚いてフリーズする御木本、ぎゅーという効果音を発しながら抱き締め続ける水町、なぜか興奮している灰谷。俺と瑠比人、そして他のクラスメイトはその光景に驚いて声も出なくなっている。
「……よし、終わり」
「……えーっと、今のは?」
「ハグ」「それはわかりますけど!?」
なんで!? と御木本は叫ぶ。確かにビビるよな、水町ってこういうことするタイプじゃねえし。すると水町は自分を親指で指差した。
「こういう時には僕を頼りなさいよ、ってこと」
「はい?」
「いやだから、美矢子さんには求められないなら求められる人間を作った方が良いということ。そしてその役目は友人が担った方が良いと思ったの。で、君にとって僕は?」
「と、友達?」
「そういうこと」
「なーるほど!」
灰谷が天啓を得たと言わんばかりに叫び、未だ困惑の渦中で溺れている御木本へ勢い良く抱き着いた。これはあれだ、サッカーの得点シーンみたいなハグだ。
「何がなるほどなんだよ!」
「センセーを慈しむのはオレらの役割だぜ! 友達だから頼っても良いんだぜ!」
「ゆっくり灯哉!? ゆっくりしていってね!?」
「あ、次の方はこちらでお待ちくださーい」
「水町さんも列整すんな! お前らも並ぶな!」
気付けば騒ぎに耳をそばだてていたクラスメイト全員が列を為し、疲弊した彼を慰めるべくハグに努める。というなかで授業が始まる鐘が鳴るがそんなことはどうでも良い、今大事なのは御木本のメンタルケアだ。
「詳しくは知らないけどマジで頑張ってると思うよ」「期待してます副会長」「家帰ったらゆっくりするんだよー」「少しくらい弱音吐いてもええんちゃう?」「彼女さんのこと本当に好きなんだねえ……」「もう愛だよ愛」「別れたら慰めてやるからな!」
「いや別れねえから」
教科担任が教室に入って来てもハグの列は終わらない。比較的フリーダムな人物が多い弊あおば組にとって『打ち切り』なんて言葉は端から存在していないのだ。教科担任もそれをわかっているようで、勝手にパイプ椅子を引っ張り出しては見物する姿勢に入った。見ていて楽しいものなのかは謎だ。
「仲良いですねえ、本当に君達は……」
嫌味のような発言でも額面通り受け止めれば微笑ましく思ってくれている、ということになる。クラス全員で、それほどでも~、と返せば教科担任は引き攣った笑顔を浮かべていた。
「あ、土方」
「どうも。ハグさせてもらいます」
出遅れた俺らは最後一、二番目に陣取っていた。最後から二番目にいるのは瑠比人だ。優しい手つきで御木本の背中に腕を回すと、彼の肩に自分の頭を寄せる。背中を柔らかく叩いて「偉いね」と囁いた。
「あざす」
「次、瑛なんだけど」そこで瑠比人は声をワントーン下げる。「くれぐれも長引かないように」
「は、はい」
あいつはまた余計なことを……。美人の凄んだ顔って怖いんだよな、と思って御木本の顔を見るとわかりやすく怯えていた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……手短にいきます」
「あんま気にしなくて良いぞ」
俺と御木本でなんかあるとか百パー有り得ねえし。俺はスポーツマンライクにハグをする。健闘を称えるかのように相手へ触れて、離れてから握手をした。俺は真っ直ぐこいつを見つめて「勉強になったわ」と小声で伝える。やっぱり実際に恋人がいて、その関係を継続している人間から得られる教訓は重たい。色々と気付かされるな、と考えながら席に座ろうとすると瑠比人から一瞬抱き着かれた。マジでなに? 訊く前に授業が始まる。
そんなこんなで約五分遅れで始まった授業だったが、すべての設問で御木本がまず当てられるというさながら千本ノックのような様相が繰り広げられていた。発端は御木本とは言えこいつも被害者側なのに……滅茶苦茶不憫だなと思った。
「しんどかったな……二時間目の授業……」
昼休みになると疲弊した御木本が弁当片手に呟く。それを聞いて、何故か穏やかに微笑んでいる水町。
「でもクラス全員からパワーを貰って心強かったでしょ?」
「それについては否定出来ないけど、水町さんがそれを言うのはなんかちがうと思う」
「そう?」
そうってなんだよとツッコむ御木本に笑い出す灰谷と瑠比人、俺も呆れながら笑っていた。なんだか元気になったようで良かった、あとは彼女さんとふたりの問題だからこれ以上俺らが口を挟む必要はない。それより俺はひとつ、瑠比人に訊かなければいけないことがあった。
「え? ハグの件?」
「それもだけど、え、でもあれどうせ上書きとかだろ」
「うん、上書きだけど……」
「……上書きですって、真汰。どう思う?」
「ちょっとやらしいね、公共の場で使って良い言葉なのかな」
「つかおれ、ばい菌扱いされてる?」
「そういう訳じゃないから」
聞こえるようにひそひそと噂され、御木本からは自虐にも程がある発言が出て即座に瑠比人が否定した。ばい菌とかじゃなくて、なんかあれだろ、飼ってる犬とか猫が飼い主にちがう匂いがつくのが嫌みたいなやつだろ。その話はまあ良くて。
「そうじゃなくて、お前が中学ん時途中で退部した理由、こいつらに話さなくても良いのかよ、って」
「え、別に良いよ」
そう断じたのは瑠比人、では当然なく、水町だった。よく見ると他のふたりも同意の表情をしている。
「言いたくないなら言わなくても良いよ。あんまり良い話じゃないのはわかるし」
「そーそー、オレらそんなにゴシップ好きな訳じゃないからー」
「昔の話より先の話が聞きたいっていうのもあるな。今のバンドの話とか」
ねー、なんて仲良く同意をする三人。さて瑠比人はどう思うか、と視線をそちらに向けると和やかな空気とは裏腹にひどく思い詰めた顔をしていた。ああ、まあそりゃそういう顔にもなるよな。なんてったって、瑠比人の退部理由はそこまで深刻な話じゃないんだから。
深刻でもない話なのにここまで気を遣われると逆に居心地が悪いだろう。俺は瑠比人を肘でせっついて「どうする?」と口の形だけで尋ねた。瑠比人は間髪入れずに頷いた。
「あの、大変申し訳ないんですが……」
瑠比人の言葉に三人は耳を傾けた。瑠比人は意を決して、本心を伝える。
「もう大分面白い話になっちゃってるんですよ……」
かいつまんで話すと色恋沙汰で色々あった、というだけのことだ。
俺らが通ってた中学はただの公立校だったのだが、音楽系の部活は吹奏楽部じゃなくてジャズアンサンブル部という名前だった。
「シャレてるー」
「ジャズをやっていたってこと? るいは」
「うん、ゴリゴリにジャズのギターをやってた」
「格好良いな……!」
存外御木本がキラキラした目で瑠比人を見つめる。確かにジャズのギターをやっていた、という響きはカッコイイ。ただ内情としては普通の公立中学校の部活動でしかない。顧問は多少横暴だし、上下関係はそんなに厳しくなかったが部内でうっすらとしたグループがあったそうだ。一枚岩とは言えない集団だったという。
瑠比人にとっての事件があったのは二年生の時である。
アンサンブル部は当時二年生が二十人弱ほどおり、その中でも男子は瑠比人含めて五人くらいだ(その中のひとりに例の斎藤がいる)。そしてその男子五人の中で瑠比人がいちばん美形であり、演奏の腕も良かった。
「ここだけで大分察するに余りあるな」
「実力のある美人さんだもんねー、あとるいてぃーって女子ウケしそうな性格してるし」
「そうかなあ」
「女子ウケはするでしょ。若干変なところがある優しいひと、って人類みんな好きと言えばそうだし」
水町からの褒め言葉にわかりやすく照れて、なんでか俺の方をガン見する瑠比人である。別に俺は、お前のことは好きだけどそういう性格だから好きになった、と言われるとうーん……。まあ俺の話は良いんだよ別に。問題はそんな女子ウケしそうなこいつがいて、色恋沙汰で揉めるのは至極当然という話だ。
結論を言うと部内でそこそこ目立つ女子二人が同時に瑠比人のことを好きになって、どっちを選ぶのか詰め寄られて──
「え、君らのうちのどっちかしか駄目なの? って言っちゃったの、俺が」
「そ、それは……、るいてぃー……」
「正論ではあるけれど……」
「るいってこういうところでは空気読めないんだよね」
「中学生ではあるけれど、まあ酷いよな普通に」
俺がコメントをした瞬間、とんでもない顔の瑠比人に睨まれたのはスルーしておこう、
こうして女子二人が振られたのを皮切りに、外面上は女子VS瑠比人のような構図になってしまったのだ。実際のところはそうでもなく、大半の部員は瑠比人に同情的なのだけどその女子二人の影響力たるや、という話である。結局あらゆることに面倒臭くなった瑠比人は部活動を辞めた。辞めてからも趣味でギターを続けており、こいつの人生の中での損失があんまりなかったのは幸いだったが。
「男子校選んだのもそういうことか?」
「まあそれもある。あと通いやすさと学力レベルと、瑛と一緒に行けそうなところで選んだ感じ」
「へー愛だねー」
灰谷の適当過ぎる相槌に瑠比人は「愛だよー」と返す。そのあと水町と御木本がなにやら含みのあるアイコンタクトをしていたのが気になった。
「だから、あんま気にしないで。俺は昔のことはもう水に流してるし、今のバンドは楽しいし」
「今楽しいなら良いね、僕らも嬉しくなる」
良かった、と笑う三人に瑠比人は満面の笑顔を返す。花が咲いたみたいに笑うなあ、こいつが笑う度にいつも思う。
「でもさ、正直断り方については気を遣ってこれだったんだよね」
「気を遣って?」
どういうことなの、と疑問符を頭上に浮かべた灰谷に瑠比人は至って普通のことのように、それを言った。
「だって俺、その時には瑛のこと好きだったし、変な噂が立たないように一刀両断するしかなくなったんだよね」
時が止まった感覚がした。
周りがスローモーションに見える。御木本がペットボトルの蓋を掴み損ね、灰谷は両手で自分の口を抑える、水町はというとかなり呆れた眼差しを以て瑠比人を貫く。
そして肝心の瑠比人とは言うと、俺に対して花すら自分で枯れることを選びそうな、はにかんだ薄ら笑いを浮かべていた。
★ ★ ★
「お前本当有り得ねえからな」
放課後、互いに部活を終えていつもの象の公園。今日はどちらかが突然誘った訳ではなく、学校にいる間に何時頃会うと約束をして今ここにいる。
先に着いていた瑠比人を見て、瑛はゆっくりと彼の下へ歩み寄る。その足取りがあまりに重たいことで、瑠比人は察した。自分はなにかとんでもないことをやらかしたのではないのか、と。そして冒頭に繋がる。
「ごめん、なんか、止まんなくて……」
「止まんなくても止めろよ。明日の朝が怖過ぎるわ」
あの三人からどんな尋問を受けるか、それを考えただけでもぞっとする。しかし肝心の瑠比人はそこにはピンと来ていないようで、曖昧に笑っていた。……いや、ピンと来ていない訳ではない。恐らく瑛からの答えをとっくに理解していて、そのことで浮かれているだけだ。だからこそより瑛の苛立ちを煽るというか、本来なら瑛ももっと浮かれたかったはずなのだが……。
「タイミングが悪過ぎる。俺、インターハイ前だぞ」
「うっ、それは……」
今は四月下旬、インターハイの地区予選はゴールデンウィーク直後にある。確かに告白するタイミングとしては恐ろしく悪い。
瑠比人も言われて気付いたようで、バツの悪そうな顔で瑛を覗き込んだ。
「お前だって七夕祭前だし、もっと適切なタイミングがあったんじゃねえのか」
「……それ言ったら、いつ言えるかわかんなくなるし」
「なんか、心境の変化でもあった? 急にべたべたし出すし」
誰かから入れ知恵をされたか、と瑛が呟けば瑠比人はぎくりと背筋を伸ばした。どうやら図星らしい。恐らく入れ知恵をしてきた相手はバンドのメンバーだろう、バンドが本格始動し始めた頃から様子がおかしくなったのでこれはほぼ確定だ。
なんだかイライラするな。瑛は気まずそうに立ち竦んでいる瑠比人を見て、溜め息をつく。なににイライラしているのかは上手く言語化出来ないけれど。
「俺、お前のここ最近の心境の変化についてはまったくわかってねえから、出来れば説明してもらえると有り難い」
ならば説明してもらうが早いかと瑛は頭を切り替えた。このままうだうだ自分の中で答えを探そうとしてもきっと見つからない。瑠比人から直接話してもらえれば、イライラの理由だって見つかりやすくなるはずだ。いつものベンチに瑛は腰掛け、隣に座るよう瑠比人に手招きする。瑠比人は座り様に話し始めた。
「その、まず先輩たちに色々言われたのがきっかけ、と言えばきっかけかな……。ちゃんと好きな子にはアプローチをした方が良い、なるべく接近して、自分の熱を伝えた方が良いとか言われて、それもそうかって思った」
「納得したんだ、先輩たちの言葉を」
瑠比人ははっきりと頷いた。
「お前に人間関係としての優先順位を下げられ続けるくらいなら、そういうことしていった方が確かに良いなって……」
ここまでは瑛も理解出来た。そもそも互いに片思いだと思っていたのだ、いつか他の誰かと付き合ったり結婚したりして優先順位が落ちる想像は瑛だってしたことがある。しかし自分はちっとも動き出せなかったのに対し、瑠比人は先輩たちからの後押しですぐに行動に移した。部活に入って少し脳が能動的になっていたとは言え、普通出来ることではない。なるほど、俺はそこを悔しく思っているのもある、と瑛は自己分析を進めた。
「で、アプローチしていって、すぐに告白しちゃったと」
「元々その、先輩たちからプランニングされてて……」
「プランニング!? え、お前の意思じゃなかったってこと!?」
「ちがうちがう! あーもう、これ見て!」
瑛の大声を更なる大声でかき消した瑠比人が取り出したのは、小さく折りたたまれたルーズリーフだ。瑛が慎重にそれを開くと、筆跡がばらばらの文字がのったくった何かが出てくる。これが瑠比人の言うところの『プランニング』というものだろう。じっくり読んでみると今後瑠比人がすべきことの羅列の下に、「一年くらい経って告白!」とでかでかと書かれている。つまり、
「本当に止まらんかっただけかよ」
「だってさあ! 日に日に独占欲の抑えが効かなくなって、まじで取られたらどうしよう死ぬしかないみたいなとこまでいって……!」
「死ぬしかないは流石に行き過ぎだけど、……そんなに俺のこと好きだったのか、お前」
驚きを盛大に溢れさせた声音で瑛が呟けば、心外と言いたげに瑠比人は「そうだよ」とぶっきらぼうに応える。
「ずっと好きだったの。でも幼なじみとして一緒に一生いれれば良いかなと思ってて……その考え自体が甘いことに気付いたけど」
「まあ、人生ってどこで何があるかわかんないからな。俺も水町とかにずっと早く告白しろって言われてたし」
「えっまなまなに? なんで? 知ってたの、その、」
瑠比人が言葉を詰まらせる。現時点で瑛は瑠比人自身に対し、恋愛として好きだという話は一切していない。だから口籠ってしまったのだろう。
瑛はあえてそこには触れず、話を続ける。
「怖かったから」
「は……」
「怖かったんだよ、俺の一言で大好きな幼なじみがいなくなるかも知れないって思ったら、普通に怖くって」
母性の話がよぎったのも、きっと防衛本能だったんだろう。恋愛部分を透明化して見ない振りをしていた期間が長かった。それで問題が解決される訳でもないのに。
瑛がイライラしていたのは瑠比人でもなく、瑠比人を後押ししたバンドメンバーでもなく、自分にだ。
自分との今後を考えて急だったけど真摯に考えて行動した瑠比人に悔しさを覚えて、色々と言い訳をして動こうとしなかった自分が腹立たしくて仕方がない。今ここでふたりで、並んで座れているのだって瑠比人の努力のおかげで、自分はそれを甘受しているだけ。なんと情けないことか。
「瑛、」「んだよ」
「ごめん、こんなこと言われるの嫌かもしんないけど、俺すごい安心してる。今」
「安心?」
驚いて瑠比人の方へ顔を向けた瑛、瑠比人は真摯に頷いた。
「瑛ってたまに俺の理想過ぎて怖くなる時があって、強くてストイックでカッコイイ、みたいな」
「理想じゃなくて良かったってこと? なんだそれ」
「っていうかその、俺が好きになった頃の瑛ってもっと雑っていうか、年相応だったから……」
太弦だって言ってたじゃん、と言われて瑛は納得する。今日話題に上がった御木本太弦の恋愛観。彼女と喧嘩をして自分を律するあの言い分は、今の自分たちにも適用され得るものだ。瑛だって今日勉強になると言ったばかりだったのに。
「都合が良いから好きになった訳じゃないの。都合の悪いところも好きだなと思えたから好きなんだよ」
「名言かよ」
「どやあ。俺はしっかりしててお兄ちゃんやってる瑛も好きだけど、雑で適当なこだわり強めな瑛も好きだから」
瑛は? と瑠比人に尋ねられ、危うく瑛は口を滑らせかけた。
そりゃあ俺だって、と心の中で呟く。瑠比人の真摯な優しさも好きだけど、天然入っていて唐突に変なことを言い出すところだって当然好きだ。存在が、日々の助けになっているのだから、傍にいてくれるだけで嬉しいし有り難い。ずっと隣で笑っていてほしい。
そう言いたくて、堪えた。今じゃない。
「瑛?」
「瑠比人、俺もお前のことが好きだ。好きだけど」
だけど、と言われて瑠比人の表情が曇る。その顔を見て心は痛むが、瑛は鬼となり断言した。
「告白の正式な返事は、七夕祭後」
「後っ!? ええ……あと二ヶ月以上もあんの……?」
「しゃあねえだろ。気ぃ緩むとやべえんだって」
今一番大事なのはインターハイ予選。これに関しては瑛だけではなく、先輩の進退も関わってくる。浮かれて真面目に向き合えませんでした、では済まない事情があるのだ。
そしてその事情は瑠比人も把握している。そもそも瑠比人だって七夕祭はブランクを埋め、また新たなジャンルに挑戦しているため浮かれている暇はないのだ。だからタイミングが悪いと言ったのに、と今更悔やんでももう遅い。
目に見えて落ち込んでいる瑠比人の肩を、瑛は叩いてサムズアップした。
「最後の両片想い期間、楽しもうぜ」
「……普通に両想い期間へ移行させたいのに……」
「しゃあない、じゃあまた明日」
「しゃあないじゃない~! くっそ、また明日!」
これくらいは良いか、と最後瑛は立ち上がった瑠比人に盛大に抱き着いた。呆気に取られた瑠比人の間抜け顔を拝み、ここ最近の意趣返しが出来たと瑛はスキップでもしたい気分で帰宅する。帰宅後、I!talkには怒りのスタンプで溢れ返っていた。怒りたいのはこちらの方であるというのに。
