情けは人のためならず

瑠比人のことにかかりきりになっている場合ではなくなっていた。
 四月になり、インターハイの予選まで二ヶ月を切っている。ゴールデンウィークが終わればあっという間に地区予選、それが終われば同月内に県予選がある。先輩たちと一緒に戦える最後の大会ということもあり、三年生とはちがった気合が二年生の中に充満している。俺ももちろん、その一部だった。

「一部ってゆーか、全部?」黒澤が後片付けをしながらそう呟く。「ハリィのやる気が伝播してってんだよ~」
「ん? そんなことねえだろ。なあ寺地」
「いいや、ハリィの気迫がすべてだと俺も思うな」
「マジか」

 完全下校時刻寸前、居残って練習をしていた俺らは備品を分担して片付けていた。居残り練習は認められているが、下校時刻に間に合わないとペナルティを食らう。ペナルティは部全体に及ぶものであるため『絶対に迷惑はかけない』という固い誓いの下、俺と黒澤、寺地の三人は最も効率の良い下校方法を編み出していた。……とは言え余裕はないのだけど。

「今日もギリセーフ! 十七時五十八分!」
「明日は絶対間に合わなくなるぞこれ……」
「と言いつつ一週間が経とうとしているぞ」

 俺らもなかなかやるなあ、と鷹揚に笑う寺地。汗だく且つ疲弊しまくりの俺と黒澤の隣で、この男は汗ひとつかかない。本当に体力が化け物なんだなと思う。……これは、レギュラー争いもそろそろ気合を入れないとだな。地稽古でも寺地の体幹のブレなさは異常だし。
 この三人は全員バス通学であるため、だらだらと一様にバス停の方に向かった。俺が降りる停留所より前に黒澤が降りて、俺が降りる停留所より大分後に寺地が降りるらしい。

「でも別にオレ、家近い訳じゃないんだよね~。そっから電車だし」
「逆に俺は停留所から徒歩ですぐだな。なんだかんだハリィがいちばん近いんじゃあないか?」
「まあ、良い位置だよな。俺んちって」
「位置で決めたの? 高校」
「そういう訳でもないけど……」

 黒澤からの質問にはいいえと答えるが、正直この高校を受けようと思った理由は忘却の彼方だ。通いやすさ、剣道部のレベル、学力レベル、あと……、

「ジャッキーと一緒の高校に通いたかったから、とかじゃないのか」

 寺地の冗談半分な言葉に俺は一瞬顔が赤くなる。その一瞬を見逃さない寺地ではない、大きく目を見開いて俺の顔をまじまじと見る。いや本当マジ、スルーしてくんないかな!?

「や、すまない。そういう顔をさせるつもりでは、」
「じゃあどういう顔をすれば良かったんすかね……!?」
「えっえっ、どど、どうした? だいじょうぶそ?」

 狭い道の端に追いやられていた黒澤が動揺して俺らの顔を互いに見遣る。幸い赤くなったのは一瞬だけ(と思いたいしそのはずだし)なので黒澤が俺の顔を見たとて、なにが起こったかは把握出来ないだろう。しかし寺地ははっきり見てしまった訳で、こいつの思考能力的に俺が瑠比人に……っていうのはバレる可能性は重々ある。ここで俺が打てる手はひとつ、別の話題で誤魔化す!

「そういや今日御木本から話があった七夕祭のこと、結構でかい規模の祭りになりそうで楽しみなんだけど」
「あー! ねー、オレもそれ思ったー! 地域の人たちと協力して屋台したりとか、めっちゃ良さげじゃ~んって!」

 よし、黒澤が食い付いてきた! こうなると寺地も七夕祭の話をするしかなくなる。案の定寺地もその話に乗ってきた、少し気を遣われた感じもあるがこの場では目を瞑っておこう。恩を仇で返すような真似をしてマジですまん、という気持ちはある。

「そもそもうちの文化祭は生徒の飲食ブースの実施が禁止されているからな。その不満も一挙に解消出来る、ということで非常に上手い施策だと思った」
「二、三年がメインだからうちのクラスもなんかやんのかなー? やるんなら、ジャッキー主導でお菓子系でも良いかも!」

 ……ちょっと待て、なんで話題が瑠比人に舞い戻ってくる? 黒澤は一切悪気なく話題を戻してきた、それは良い。問題は寺地で、こいつは瑠比人の名前が出てきた瞬間、俺の方を見て「すまない」と言いたげなアイコンタクトを送ってきた。いやだから、スルーしてくれって! 頼むから!

「ん? どしたん、ふたりとも」
「ああ、いや……」寺地濁すな、俺が疑われる。「ジャッキーは難しかろうと思い……、なあハリィ」

 結局俺に話が戻ってきてしまった。まあある意味誤魔化せたは誤魔化せたし、「難しい」っていう部分の説明は俺の方が出来るし。
 やって来たバスのステップを踏み、一番奥の五人掛けを広々と使って俺は寺地に触れられた箇所について話す。

「瑠比人な、軽音部のステージ参加もしないといけないから、多分クラスの出し物そんな関われないっぽいんだよな」
「えっ軽音!?」

 黒澤が驚いて寺地の方を見る。一応進級初日の自己紹介(二年目)でも話していたのだが、二月頃より瑠比人は軽音部のバンドに参加をしている。沖田先輩からのオファーを正式に受け、放課後になると校外のスタジオを借りそこで練習に励んでいるそうだ。わざわざ校外のスタジオを使用しているのは、近隣住民からの騒音のクレームによるものという。どこの部活も色々大変なんだなあ、と俺は思った。

「そっかあ~、ジャッキーって音楽の人だったんだ。ちょっと意外かも」
「部活でもやってない限り、音楽やってるってあんまりイメージつかねえもんな」
「あとジャッキーは美術にも、製菓にも通じている部分がある。音楽だけ特出しているイメージもなかったからな」
「確かに……あいつ小器用なんだよな」

 料理の件もそうだけれど、灰谷と並んでも遜色ないくらい職人肌ではある。自分が求めているレベルまで一旦到達させないと気が済まないし、そもそも手先が器用で上達も早い。昔から気付けば何でも出来るようになっているような男なのだ。

「すげえよな、マジで」

 俺が瑠比人のことをそう評価すると、黒澤が不意に「言ってあげれば?」と呟く。……何を?

「え? すげえって、言ってあげればいいんじゃない?」
「俺が? なんで?」
「なんでって……」

 俺からの純粋な質問に黒澤は言い淀んだ。なんというか、明確な答えがそこに存在しているはずなのに、どうしてもそれを悟られたくないような発言だ。誰かに口止めされている時とか、こういう言い方になりがちである。じゃあ誰に、という話だが……。
 すると黒澤はバスの『次降ります』ボタンを押した。事実次の停留所は黒澤の最寄りだが、あまりにも流れるようなボタン押し。怪し過ぎる。

「黒澤……」
「はや~い! もうオレ、降りなきゃじゃ~ん! じゃあねっばいばいっ」
「……ばいばい」
「また明日。……忙しなかったな」

 なにか隠しているようだ、と寺地が黒澤の降り行く姿を見て囁いた。寺地が思ってるならほぼ確だ、何かを隠している。

「なんだと思う?」

 思わず問う。寺地なら核心に近い推察を持っているかも知れない。しかしこいつは少し難しそうな笑顔を浮かべて唸るだけだ、不確かなことを言いたくない、保身の笑み。

「……あくまでお前の所感が聞きたいだけなんだけど、俺は」
「所感と言うが、それでもハリィの先入観にはなり得ることだ。不用意には言えないな」
「えー、そのレベルなのかよ」

 にしては黒澤の誤魔化しにはちゃんと突っ込んでいたけど。そこは良いのか、と渋い顔付きになってしまう。そんな俺の顔を見て寺地は堪え切れず噴き出す、鬼瓦のようだ、と笑われた。ふっつうに失礼じゃねえか?

「いやっ、失礼……ふふふ。ではお詫びの意味を込めて、ひとつだけ思ったことを」
「もったいつけるなあ……」
「恐らくだがクロエは、ハリィにもっとジャッキーのことを褒めて欲しいのだろう」
「は?」一瞬耳がおかしくなったのかと思った。もしくは俺の日本語能力が唐突にバグったのかと。「俺が瑠比人のことをもっと褒めた方が良い、ってこと?」
「ニュアンスが少し異なるが……」

 寺地が思慮深い眼差しを見せる、静謐さを湛えたその目は黒曜石のようだ。次の次で俺は降りないといけないから、早めに言って欲しい。お前はつまり何が言いたい?

「きっと言われたんだろう。『瑛にもっと褒められたい』というようなことを」
「それってつまり、そういうこと……?」
「そういうことだろうな」

 降車ボタンは押しておいた、としてやったりな顔で言われて、俺はろくな返事も出来ずにバスを降りることとなった。覚束ない足取りでよくぞ家まで帰って来れたものだ。
 寺地にはちゃんとI!talkでお礼は言っておいたけど、その文面すらふわふわしている気がする。瑠比人が俺に褒められたい、ってどういうことなんだ?



「ねーねー、るいくん、いつくるの?」

 彗が俺の服の裾を引っ張りながら、不服そうに宣う。俺蛇口を下げて、水滴の付いた手をエプロンで拭いながら振り返った。

「いつ来るんだろうな。あいつも忙しいから」
「えー、にいちゃん、いつもいっしょなのに?」
「最近はそんなでもないなあ」

 えー、という彗の不満全開の声が背後から聞こえてきた。俺はインターハイ前で忙しいし、あいつも七夕祭前で忙しい。クラスは持ち上がりであるため同じだが、昼飯も最近は別々に食べているくらいだ。明らかに昨年より一緒にいる時間は少なくなっている。まあ今までが多過ぎたくらいだ。
 俺は振り返って彗の前にひざまずいた。

「瑠比人もな、俺らしかいない訳じゃないんだよ」
「なにそれ」
「んー、俺ら以外にも友達が出来たり大事なものが出来たりする、ってこと」
「ふーん……」

 そこでふと、先日寺地に言われた「瑠比人が俺に褒められたい」という話を思い出す。あれから少し経つが、だからと言って進展があった訳ではない。黒澤も次の日は元通りだったし、瑠比人も何も言ってこない。……いやまあ、事実だったとしても言えないだろうが。俺は彗の頭を撫でた。
 つまらなさそうな彗だったが、背後から忍び寄る影にいきなり抱きかかえられ、驚きと喜びの叫びを上げる。彗を勢いよく持ち上げたのは、うちの父親だ。

「パパやめて! びっくりした!」

 彗の抗議に父は口を大きく開けて笑う。

「だって彗がつまんなさそうな顔してるから! どうしたんだよ、そんな顔してー」

 そのままリビングへ彗を連行、自分の膝の上に乗せて会話が始まる。
 うちの父親は普通の会社員なのだが、ここのところ炎上していたプロジェクトがようやく鎮火の様相を見せた、とのことで早く家に帰れるようになった。普通にちょっと前まで午前様だったもんな、本当に骨の折れること、大変有り難く思っています。
 早く帰れるようになったらなったで家事もやってくれているし、何より彗と一緒にいる時間を増やそうとしている。生まれた時から父親しか知らないうちの弟にとって、父親が家によくいるというのは精神的安定に繋がっている気もするな。前ほど泣いたり喚いたりが減ったような気が、まあ年齢的なものもあるのか? 彗も年長だ。

「瑠比人が来なくてもいいじゃん。今はパパいるんだし」

 食器を布巾で拭いていると、リビングからそのような言葉が聞こえてきた。どうやら瑠比人の多忙を自分の存在でカバー出来ると父は思っているらしい。はっきり言おう、その考えは甘い。

「えーパパぁ?」わかりやすく声のトーンが下がっていた。「パパかあ……」
「えっパパじゃ駄目? 瑠比人が良いの?」
「うん!」
「うん……そうか……」

 あえなく撃沈。そりゃそうだ、だって俺だって瑠比人に負けるのに。
 やっぱり美形の方が良いんだろうか、と一瞬過って、そう言えば俺も瑠比人の顔はかなり好みの部類であることに気付く。単純に兄弟揃って好きな顔の系統が同じ、というだけか。ちょっと嫌な事実に気付いてしまったな。

「まあパパも瑠比人、好きだけどな……」

 親子揃って面食いかよ我が家! 確かに母さんも美形だけど、瑠比人とは違うタイプの美人さんだけど! 
 呪われた血筋に思いを馳せているとインターホンが鳴る。時刻は夜の八時過ぎ、こんな時間になんだろう。宅配? などと考えながら玄関のカメラを覗くと、現在進行形で彗が恋しがっているその男の姿が映っていた。

「どうした、こんな時間に」
「うーん、ちょっとありまして……」
「るいくんだー!」
「あっ、彗じゃーん」

 彗が駆け寄ると同時に腰をかがめて目線を同じくする瑠比人。そしてそのまま両手ハイタッチ、彗の「あのね」攻撃が始まる。最近あった面白いことを全部瑠比人に教えたいようだ、マジで教えようとするので適当なところで区切るのがベスト。じゃないと瑠比人は朝までここに拘束されることになってしまう。
 話が幼稚園で歌った歌まで辿り着いたところで、後ろから父が彗を抱き上げる。さっきと似た構図だけど、抱え方が違う。さっきがつまらなさそうな彗のテンションを上げるための抱え方で、今はヒートアップしてしまった彗の気持ちを落ち着ける抱え方だ。

「彗、瑠比人とお話ししたいのはわかるけど、瑠比人は瑛に会いに来たんだよ?」
「えーでも、でも、にいちゃんはがっこうでもあえるから!」
「そうだけど、瑠比人は瑛のお友達だからね」

 邪魔しちゃ駄目、と父は弟に言い含める。言われたことを理解したのか、それとも真剣な様子に怖くなったのか、彗は父の首に腕を回してぎゅ、と引き寄せた。父は彗の後頭部を撫でながら瑠比人に視線を向ける。

「こんばんはー。瑠比人、また背伸びた?」
「こんばんは、佑さん、お久し振りです」
「……俺は今、諸事情で君のことが少し憎い」
「えっなんで!?」そらそうなる。

 急に敵意を向けられた瑠比人は動揺を隠し切れないが、父もだからと言って気配の刃を鞘へ収めたりはしない。向けた刃はそのままで、俺らに向かって語りかける。

「ちょっと遅いけど、ふたりで話してきたら?」
「い、いいんですか?」
「ちょっとだけな。最近物騒だから」

 気を付けて、と手を振られふたりで象の公園へと向かうことにした。
 四月も後半戦。日中は温かくなってきたが夜はまだ冷える。俺はソファに引っ掛けてあった上着を取って、羽織りながら靴を履いて瑠比人の後ろについていく。秋の始まりを思わせる空気の冷たさだけど、匂いがほのかに青臭くて陽の香りが混ざっていて、春なんだなあと実感した。桜もとうに散っているが、アスファルトにこびりついた花びらだけはしばらくはそのままだ。

「それで、どうしたんだよ」

 象の公園のいつものベンチ、並んで座って俺は瑠比人の顔を見遣る。
 視線を合わせないこいつの様子に、脳裏に「褒められたい」の六文字が駅の電光掲示板よろしく浮かび上がる。落ち着こう。実際にこいつが俺に褒められたいとしても、今日来た理由がそれだとは断言出来ない。そもそもあれも寺地の推測だしな、うん。

「そう、あの最近さ、あんまり話せてないから……近況報告?」
「近況報告か……瑠比人、最近バンドは、その、どうなんだ」
「なんでお父さん構文なんだよ」

 可笑しそうに笑う瑠比人、しかしそこから先、話は膨らまない。至上稀に見る気まずい空気が漂い、俺は思わず空を見た。生憎の曇り空で月すら朧気だ。その行動がつまらなさそうに見えたのか、顔を下げた時瑠比人は申し訳なさそうな顔をしていた。いやそういう顔をさせたい訳でも、して欲しかった訳でもなくて。
 ……これは賭けに出るタイミングか? 褒められたいらしい、と今度はネオン街よろしく脳内にビカビカと文字が点滅する。これでもしドン引かれたら寺地、は可哀想なので黒澤のせいにしよう。よし、決めた。俺は自分の保身より、こいつとの空気を良くすることに重きを置きたい。

「瑠比人」
「あ、はい……」
「お前すげえよ」

 一言、思っていることを言えば瑠比人から情けない声が出た。へえ、だの、はえ、だの吐き出された瞬間、これは悪い感触ではないと思って言葉を続ける。
 到底目は見れなかったけど。

「軽音部にスカウトされてから、役割果たそうとすっげえ頑張ってんじゃん。マジですげえし、偉いと思ってる。休み時間に運指復習してるし、中学時代はジャズで今はロックでそれだけでも苦労しそうなのに……本当、尊敬してる」

 嘘は一切なく、方便も使っていない。正真正銘俺の本音だ。急にこんなこと言われて気味悪く思われる可能性もあるが、真心的なものだけは伝わると思っての発言である。流石に、ここは付き合いの長さでどうにかなると信じたい。俺らは三歳から互いの黒歴史も全部丸のみしてきた仲だろう?
 言い切って恐る恐る瑠比人の顔を見る。蛍光灯の青白い光に照らされた瑠比人の耳は真っ赤に染まっていて……ええ?

「なに照れてんだよ」
「うっさい! 全部お前のせいだろ!」
「確かに?」

 俺が急に褒めてきたため、瑠比人は照れまくってしまったらしい。これは……寺地が正解、ということ?

「嬉しいの? 俺に褒められて」

 純粋な質問として言葉をぶつけると、恨みがましそうな目で睨まれた。

「……お前さ、どういうつもりでそんなこと言ってんの……?」
「あ、ごめん。普通に心ない感じで言ったわ」
「大分心なかったよ。俺を辱めてどうしたいの、って思ったし」
「ごめんて。それでどう?」
「まだ質問続けんの!?」

 羞恥を煽るような質問を続行する俺に、瑠比人は心底有り得ないと言いたげに真っ赤な顔を歪ませる。心底有り得ないことはしている自覚はある、逆のことをされたら俺だって同じ反応になる。でもなんか、いつもドキドキさせられっぱなしだったから、今立場が逆転した感じがしてすごく楽しい……! 良くない蜜の味を覚えてしまった感覚がある。
 結局、俺が一歩も引かなかったため、瑠比人が折れざるを得なかった。

「…………、……ぃよ」
「なんだって?」
「っ、だからあ、嬉しいよっ、って!」
「はは、そうなんだ、嬉しいんだ」
「滅茶苦茶腹立つな……滅茶苦茶にしてやろうか……」
「ゾッとするようなこと言うのやめろよ……」

 滅茶苦茶にするってどういうことだよ。なんとなく身の危険を感じていると険しい顔から一転、瑠比人は目を輝かせて有り得んくらい良い笑顔をしてこちらににじり寄る、待て待て待て! 大分怖い! 元はと言えばこっちが悪いとは言え大分怖い!

「第三者から見られたらお前が不審者だぞ!?」
「俺を犯罪者にしないよう、瑛には頑張っていただきたい」
「なんで俺が頑張んなきゃいけねえんだよ! 自力でどうにかしろ!」

 近所迷惑も考えずぎゃあぎゃあ喚いている内に、俺の腹回りに瑠比人の腕が巻き付いてきてとんでもない力で引き寄せられる。半身に触れている熱から、これは顔を振り向かせた瞬間あいつの顔が至極近いところに存在するんだろうな、と推測出来てしまったためその場から動けない。下手に腕を振り回せば瑠比人に当たる可能性があるし、……足踏むくらいなら兎も角、故意でないとは言えこいつを殴る羽目になるのは嫌だ。
 俺はだらんと腕を下げ、瑠比人に体を預けることにした。無条件降伏、である。

「……瑛」

 耳元で熱っぽい声が聞こえて、背筋がぞわりと粟立つ。まさしくチキンスキン。今の俺なら参鶏湯になれそう、何の話だ?

「あの瑠比人さん、……喋るんなら普通に向かい合えばいいんじゃないすか」
「じゃあ瑛がこっち向きなよ」
「絶対嫌だ」
「そこまでガチで拒否らなくても……」

 るいてぃー泣いちゃう、と絶対泣かないような声音であいつは呟く。俺は溜息をついた、重く湿った、梅雨時みたいな溜息。なんだかんだ瑠比人に甘いんだよ俺は、そう理由付けて首だけ後ろを向く。想像通り、鼻先がくっつきかねない距離に瑠比人の顔はあった。超至近距離だ。

「近過ぎ……お前の全体的な、顔のバランスの良さが一切感じられない……良さが死んでる……」
「言い過ぎでしょ。そこまでぼこぼこに言わなくても」

 えい、と瑠比人が俺の額に自分の額を擦りつけた。咄嗟のことだったので目を瞑って顎を引く、あっぶね、キスされるんかと思った。その思考回路がまずやばいけど!
 恐る恐る目を開けると、瞳に宇宙を浮かばせた瑠比人が唖然とした顔で俺を見ていた。なんだなんだ。

「え、キス顔?」
「黙れ! んな訳ねえだろ!」
「だ、だよねえ……」

 なんでお前が気まずそうなんだ、と上着の中に手を入れて脇腹を摘まめば、痛い痛い! という悲痛な叫び声が上がった。今度は俺が通報されそうである。
 結局超至近距離で向かい合う姿勢のまま、場が落ち着いてしまった。ここから再度ぎゃあぎゃあ騒げる気力もなく、なんだか疲れたので俺は瑠比人の肩に顔を埋めた。突然の行動だったからか、瑠比人の肩が少し跳ねる。そしてこいつは何故か、片方の腕を俺の背中に回して、もう片方の手で俺の後頭部を撫でる。

「なんで撫でてんの……?」
「いやあ、瑛も頑張ってるから」

 もうすぐインターハイでしょ? と問われ、覚えてくれてるんだ、と嬉しくなった。

「俺が頑張れるのは瑛のおかげもあるから」
「どういうことだよ……」
「ほら、頑張ってる人が近くにいると頑張れるから。瑛は俺のこと尊敬してるって言ってくれたけど、俺も瑛のこと尊敬してるんだよ。ストイックだし、家のこともやってるし、家族思いで友達思いだし、優しいし」
「褒め過ぎだわ、それは」

 やめろよ、と言おうとして息を吸って、瑠比人からの言葉に息が詰まった。

「俺にだけ優しくしてほしいな、って思う時もたまにあるけど」

 帰ろうか、そう瑠比人から体を離されて俺は呆気に取られた。なんだ今の発言? 言葉だけ見れば、てか聞けば、独占欲の発露? え、なんで?

「帰らないの?」

 瑠比人は俺の髪を耳にかけながら尋ねた。優しげな指先と笑顔の奥底に、ちがった色の光が見える気がして眩暈がしてくる。
 俺は今、お前の言葉に戸惑って動けなくなっています。なんて説明出来たらどれだけ良かったか。

「……帰ります」
「うん、わかった。じゃあまた明日」
「また明日……」

 軽音部に所属してから、瑠比人は変わった。
 そりゃ互いに忙しくて会える時間もあんまりないけど、だからと言ってこの変化の仕方は聞いていない。
 気のせい、だったら良いんだけど、いやでもあんな「一人占めしたい」みたいな目、気のせいな訳なくないか……?

   ★   ★   ★

 数日前の話である。

「ちょっとー、ひーくんオーバーワークじゃなぁい?」

 休憩時間は休憩するんだよ! と声を荒げて注意する沖田初世だったが、瑠比人はそんな彼に一瞥もくれず練習を続ける。明らかに無視された沖田は膨れ面となり、背後にいた永倉駿(ながくらしゅん)に対して八つ当たりの如く口を開いた。

「ねーぇ、がっちゃん! この反応、同級生としてどう思う!? ボク先輩なんだけどぉ!?」
「えー、それオレに言います?」

 がっちゃんこと永倉は苦笑しつつ、柔らかい関西の方言を一切隠さない口調で返した。

「そもそも練習熱心なのはええことやないですかあ。ただでさえ初世さんの作った曲難しいのに、それを三ヶ月かかそこらで数曲を完璧にってずっとやってた人でも難しいですよ」

 ですよね伊東さん? 永倉は隣に座り込んでいる黒縁眼鏡の男に同意を求める。彼、伊東由雪(いとうよしゆき)は大きく頷いた。

「そうだぞ、初世。お前はもっと演奏者のことを考えろ。自分が無理をさせているという自覚をしろ、加害者め」
「そこまで言われるのおかしくない悪気もないのに!? うわーん! ヨシのばかぁ!」

 伊東から心をへし折らんばかりのことを言われ、沖田は貸しスタジオかから飛び出していった。いつものことである。沖田が何かを思いついて発言し、それに永倉が冷静に反論し、伊東が永倉の言葉を追随して沖田の意見を封殺し、沖田が場から逃げ出す。それがこのバンドのテンプレートだ。
 扉が勢いよく閉まったところで瑠比人は顔を上げた。

「あれ、今なんか言いました?」
「聞いてなかっただけかい」
「集中力すごいな。あのうるさい初世の声を完全にシャットアウトするとは」

 沖田の声を無視していた訳ではなく、聞こえていなかっただけの瑠比人。きょとんとしている彼を永倉、伊東は苦笑しつつ見つめる。そしてそこでようやく沖田が不在であることに気付いた。

「そういえば沖田さん、どこ行きました?」
「どこ行ったんやろなあ」
「え」
「走り去ったからな。行方知れずだ」
「ええー……」

 そんなこと許されるの、なんて呟く瑠比人に永倉は生暖かい目を送る。発端はお前だよ、と言いたいが言ったところで沖田が帰ってくるとも限らない。そもそも逃げて行った原因は伊東であるし。そんな伊東はというと、どうせ少ししたら戻ってくるだろうと予想をしており、その予想通り五分ほどでコンビニの袋を持った沖田は帰ってきた。

「アイス買ってきたよー、休憩しよ、休憩。はい、がっちゃんはチョコモナカジャンボね」
「アツい! あざっす」
「オミはガリガリ君」
「なんだかんだこれがいちばんうまいよな」
「で、ひーくんは好みわからなかったからパピコ」
「あ、ありがとうございます。好きです」
「えっ」

 急に頬を赤らめる沖田。その様子を見て瑠比人は淡々と「好きなアイスです」と言葉を重ねた。勘違いも甚だしい。沖田は瞬間で真顔に戻っていた。

「パピコうまいよねー、ひとりで食べるにはちょっと量多いけど」
「あ、そうか」

 俺しかいないのか、とひとりごちる瑠比人に三人は顔を見合わせた。
 つまりどういうことだ、いつもなら一緒に食べている人がいるのに、ということか。もしかして、

「ひーくん、恋人いるの?」
「え!? いませんよ!?」
「えー、でもいつも誰かと食べてる口振りだったじゃーん。怒らないから言うてみ?」
「だからいませんって、あと怒られるのも意味不明です」
「でも正直うちのクラスでも結構不思議がられてんで、あんた」

 訳知り顔をしているのは永倉だ。永倉はこの中で唯一の同学年、やまぶき組の生徒である。ただ瑠比人が所属するあおば組とやまぶき組は教室の位置が両端で、洗濯授業などでの接点もまったくない。それなのに俺の話を……? と不思議がる瑠比人の心の機微を察し、永倉は慌ててフォローを入れた。

「目立つから! 土方クン、イケメンやし! あと斎藤もおるし!」
「あー斎藤いるなら、まあ……」
「あいつ、土方クンのこと好きすぎやない……?」
「大変恐縮ではあるけどね」

 何の話をしているのかさっぱりわかっていない三年生ふたり、沖田と伊東のために瑠比人は説明を挟む。やまぶき組にいる斎藤という男は土方瑠比人に脳を焼かれた男なのだ、と。そして瑠比人が中学時代に部活動を途中退部した理由を知っている、数少ない人間でもある。

「つまり、永倉は知ってるってことだね。俺の退部理由」
「それは知らんけど」
「あ、そうなの?」
「斎藤はお前んことなんでもよぉ喋るけど、それだけは絶対口割らんかったからな」

 ええ奴やで、と永倉が感じ入ったように話すのを見て、瑠比人もささやかに感銘を受けた。自分をアイコンではなく、ちゃんと人間として見ているのかと。

「ねーぇ、ひーくんに恋人がいなくて不思議って話は?」

 そんな穏やかな雰囲気の中で、沖田は話の続きを強請ってくる。折角良い話でまとまりそうだったのに、睨みつける瑠比人に沖田は何も考えていなさそうな笑顔を返す。

「沖田さんには関係ないでしょ」
「あ、わかった! 好きな子いるんだ!」「ちがいますって!」
「図星だぁ」

 否定速度が速過ぎる、と笑われて瑠比人は奥歯を噛み締める。好きな子は実際いる、いるがここでそれが露呈するのは避けたい。瑠比人はぐるぐると考えていると、横から伊東が口を挟んできた。

「付き合ったりとかはしないのか」
「えっ俺ですか?」
「ああ。これだけの顔面なのだから、言い寄られる方も悪い気はしないだろう」
「ちょっとヨシ! それはちがうよ!」

 何故か伊東の発言を否定する沖田。瑠比人は置いてけぼりになっていた。

「ちがうとは?」
「ひーくんレベルの子だと、自分の顔がどうとか思ってる人を好きになる訳ないじゃん! 多分顔はオールスルーで、なんかその、気さくな振る舞い? とかぁ、さりげない優しさ? とかぁ、そういうのでひーくんを射止めたんだよ!」

 妙に鋭くて冷や汗をかく瑠比人。確かに瑠比人の好きな人、針生瑛はそういうタイプの人間だ。顔に興味がないのもそう、彼の場合は面食いというより瑠比人の顔だから好き、くらいは言ってくれる。顔が良いことは認めてくれているけれど、それだけで落とせるかと言えばNOだ。

「だからひーくんがその子とくっつくためには、もっと接近戦が大事だとボクは思っててぇ」
「待ってください、なんの話ですか?」

 急に話の方向が百八十度変わった。いきなり急旋回をさせられた話題に振り落とされかけた三人を思いっ切り無視し、沖田はそのままの勢いで話を続行する。

「なにってひーくんがどうやったらその子とハッピーエンディングを迎えられるかの作戦会議だよ! ボクとしてはひーくんってもっとドンドン押してった方が良いと思うんだけど、どう?」
「ど、どうと言われましても」
「まあでも確かに? 土方クンってちょっと低体温っぽいとこあるから、一気に熱っぽく迫られたらドキドキするでしょうね」
「え、永倉まで……!?」
「あと自分の願望は素直に言っていった方が夢が叶う、と言われている。口に出すことも肝要ではないか」
「伊東さんまでそんな……っ」

 バンドの練習そっちのけで瑠比人の恋愛戦略について真面目に考える三人。考えられている本人としては居た堪れないが、それでも気付かされる部分があった。
 瑛とどうにかなりたい、と思ったことがないと言えば嘘になる。だけどこのまま幼なじみという枠の中で、人間関係の優先順位を下げられ続けてしまうのは避けたい。となるとここは一旦、戦略を参考にさせてもらうのも手なのではないか。

「ねぇ、どうかな! ひーくん!」

 沖田たちが出した案は、ルーズリーフに綺麗にまとめられて瑠比人の手元にやって来た。それを有り難く頂戴しつつ瑠比人は、大きく声を上げた。

「ねえ練習しましょうよ!?」