年が明けた。
「新年あけまして──」
『おめでとうございまーす!』
新年が明けて一月四日、俺ら『リスさん』チームの五人は高校に最も近い神社に集合していた。時刻は午前十時。早めの時間より昼過ぎの方が混みそうと全会一致でこの時間に決まったのだが、それでもかなり賑わっている。学校より程近いこの神社は規模的にはそこまで広い方ではないが、屋台は出ているし家族で参拝している人が多い。よくよく考えると灰谷と水町もここら辺に住んでるし、特に灰谷の自宅はわかりやすく住宅街だった。そう言えばそうだったわ、俺の目は節穴か。
「じゃあお参り、……どうした瑠比人」
大鳥居をくぐって早速本殿へ、というところでどこか遠い目をした瑠比人が視界に入った。灰谷からさっき貰った水色とか紫とか赤とか黄色が混ざった複雑な色味の、側面が三つ編みみたいになっているニット帽を我先にとかぶって急に立ち止まったのだ。多少心配もする、どうせしょうもないことだろうけど。
「なんか……すっごい良い匂いする」
「やっぱしょうもな! 朝飯食ってねえのかよ!?」
「食べてきましたけど!? 成長期なだけですけど!?」
「言ってそこまで伸びてねえよ!」
「お前にだけは言われたくないわ!」
「なんだとお前!」
一応客観視を提供しておくと、傍から見れば俺らはどんぐりの背比べでしかない。瑠比人の方が多少でかいとは言え多少だ、……本当に多少だ。どっちも平均身長程度である。だからこんなことで言い合いをするのも、まあそういうごっこ遊びだと思ってもらえれば。
「僕もお腹空いたな」すると水町がお腹を摩りながら呟く。「朝御飯食べそびれたんだよ」
「マジ? なんか買ってくる?」
「ねえ、なんか俺の時と対応ちがくない?」
「お前は朝飯食ってるからな」
俺が指摘をすれば瑠比人は頬を膨らませて、何故か御木本を小突きにいった。
「痛っ、なんでおれ!?」
「いちばん小突きやすいキャラだから」「ふざけんな!」
「ねーもーさー、お腹満たしてからお参りしよー?」
お腹空いてるから険悪になんだよー、と灰谷が珍しくまともなことを言ったので、散会し各々食べ物を買ってから自治体設営のテントへ集合することになった。
テントの中は机と椅子が並んでおり、席数は多い訳ではないが飲食も自由な空間となっている。水町が教えてくれた。伯父さんに連れられて毎年来るらしい。
「じゃあ今日も伯父さんいるのか?」
玉こんにゃくを買ってきた御木本が、歯でこんにゃくを食い破りながら水町に尋ねる。水町は首を横に振った。
「伯父さんがいるのは三箇日だけだから。むしろいなくて良かったよ、紹介の仕方が難しいから」
そういうものか……、と御木本と俺は納得した振りをする。水町はうどんを啜っていた。
そうこうしているとたこ焼きと焼き鳥、雑煮を持って、灰谷と瑠比人が帰ってくる。買い過ぎというか食い過ぎじゃね? 朝飯食った奴らの量かよ。
「だいじょーぶ、全部るいてぃーと半分こするから!」
「半分こにしても量が多いわ」
「瑛は、ベビーカステラ? 好きねあなた」
「うん、好き。鈴カステラも好き」
水町が一個ちょうだい、と手を差し伸べてきたので形の良いのを渡す。
「お前らも食べたきゃ言えよやるから」
「「「わーい」」」
俺は目の前に、横並びで座った灰谷と瑠比人が熱さに苦戦しながら食べているのを、じっくりと見物していた。なんか熱いものを頑張って食ってる奴ってつい見ちゃうんだよな、うちの弟もこの間親子丼を必死に食べてたし、なんだか妙に愛おしい気持ちになる。
そんなことを思っていると、瑠比人が俺の方にたこ焼きを寄せてくる。なになに。
「たこ焼き。食べない?」
「……」少し葛藤する俺、うーん。「食う」
「葛藤要らなかったでしょ、多分」
うるせえ、食べ物を前に出せばつい食べてしまうもんなんだぞ、男子高校生って。
俺は瑠比人の箸を受け取り、灰谷に断りを入れてたこ焼きを一個だけ貰う。湯気がもうもう出て、かつお節がはらはらと踊っていてあっつそー……。
「……あっつうぃ……しぬ……」
「とか言いつつ食べれてるわ」
「すっごいねアキラ、オレら口ン中べろんべろんだよ?」
「それはちゃんと冷ましてから食えよ」
そんなこんなで完食をし、ようやく参拝へ向かう。少し時間を置いたおかげか本殿へ並ぶ列はごく短いもので、すぐに順番がやって来た。
「なんか毎回緊張する」瑠比人が財布から十円玉を取り出した。「二礼二拍手一礼だっけ?」
「神社によってルールちがったりもするしねー、ここは二礼二拍手一礼!」
「灯哉がこういうのに詳しいの、なんか解釈ちがいって感じがするな……」
「なあんでよー」
御木本の気持ちはわかる、灰谷が案外伝統やしきたりに詳しいのってイメージに反するんだよな。もっとこう無茶苦茶なことやってそう、絶対にないけど。
五人で二礼二拍手一礼。俺は剣道部についてと家族について、あとはまあ瑠比人についてを少しお願いした。全員で来た道を戻りながら緊張から解き放たれた顔を見せる。
「あきはよく神社に来るの?」
「個人ではあんまだけど、部活で行くことが多いな。ここじゃなくて、もっと北の方に武芸の神様がいるんだよ」
「へえ、やっぱりそういうところもちゃんとしてる部活なんだね」
感心した表情の水町に少し胸を張ってしまう。うちの剣道部はすごく強豪という訳ではなく、強豪まであと一歩、という感じだ。先輩方曰くそこまでになったのはほんの二年くらい前で、その頃から指導者が替わり(今の顧問だ)、上下に関係なく礼儀と礼節重んじる部になったそうだ。だから褒められると、頑張ってきた先輩のことが誇らしくなってつい偉ぶった態度をとってしまうのだ。うちの先輩すごいだろ、どや、的な。
「ともちはなにをお願いしたの」
瑠比人の質問に灰谷は即答した。「コンテスト入賞の障害がなくなりますように! 主に体調面!」
「コンテストか、そう言えばあるな。作品出展だろ?」
「センセーよくご存知で! 服飾のコンテストが毎年あるから、それに出す作品を悔いなく作れますよーにってお願いしたんだー」
「なるほど、だから体調面……太弦は?」
「おれは生徒会選挙だな。二月にある来年度前期生徒会選挙で強い対抗馬が出ませんように、って」
「意外と純粋に神頼みだった……まなまなは?」
「僕は普通に家内安全と、去年もありがとうございました、くらい?」
無欲……! と瑠比人は慄いていたが、水町の内容くらいがむしろ正統派だそうだ。がっつりお願いをするのは間違いとのこと。
「お前はどうなんだよ、瑠比人」
全員に質問をしたくせに、自分のお願いについては話さない瑠比人を詰めてみる。どうせ変な誤魔化し方をするんだろうな、と思っていたら意外なことに気まずげな視線を彷徨わせ、そうだね、と小さい声で呟くのみだった。……どうしたこいつ。
「まーねー、お願い事なんて人それぞれだから!」慌てて灰谷が言葉で空気を埋めた。「それでこれからどーする?」
ファミレスでも行く? 混んでるかなー、なんていう呑気を装った会話をして、俺らは神社の外に出た。
瑠比人の顔は先程とは一変、結局最後まで暗いままで……その日の夜遅くに、発熱した、との連絡があった。
あれだけ飯を食っていたのに実は具合が悪かった、なんて気付ける訳もない。だけど、ただ悔しいとは思う。
新学期が始まって二日経ってもまだあいつは学校に来ない。四日夜に熱を出したあいつは、次の日うちのばあちゃんに連れられて病院へ行った。インフルエンザでもなくただの風邪だったけれどあまりにも熱が高く、今日もまだ微熱が続いている。発熱した時の、あの体がだる重くて、自分じゃ百パーセントの制御が効かない感じ、嫌だよな。
幸い食欲はあるようで明日明後日あたりには学校に行けそうだ、とは本人の談だ。喋れるくらいには回復してきた。
「今日もるいは休み?」
水町が空いたそいつの席を見てから俺へ目線を寄越した。全員あいつの連絡先を知ってるはずなのに、何故か俺に情報を求めてくる。本人に気を遣っているのだ、気持ちはわかる、全然俺に訊いてもらって構わない。そうだな、と俺は返事をした。
「あいつ、疲れとか溜まるとえっぐい風邪引くんだよ。幼稚園の頃からそうだったし、高校入学直後も長く休んでたし」
「……そーだっけ?」
話に入ってきた灰谷が、入ってきて早々に首を傾げていた。まあ友達にもなっていない時期だから覚えていないのも無理ないか。しかし記憶にないのが悔しかったのか、灰谷は御木本に覚えているかどうかを尋ねる。こいつは流石に覚えてそうだけど、と思ったら案の定である。
「あったあった」
「うそん、覚えてるのっ?」
「まあ……なんか、グループ学習とか掃除で綺麗に二対二にわかれちゃって、おれずっと灯哉の世話してた気がする」
「そ、そーでしたっけ!?」
「ああ、そこでたっつーの運命が決まったんだね」
「うん、ルート選択間違えた」
「ちょっとお!」
言い過ぎ言い過ぎと喚く灰谷、水町はフォローせずにこにこと笑っており、御木本も疲れ切った顔で笑っている。去年のこの時期、俺はずっと水町にくっついてたな。なんかふと思い出したわ。それでバレたんだ、瑠比人のことが好きだって。よく気付いたもんだよ。
「それであきはお見舞いとか行くの?」
「……毎日行ってる」
何故かどよめきが起こった、気まずいことこの上ない。いつもは部活終わりに行くんだけど今日は休みだし。俺が部活休みの日は彗の保育園のお迎え当番なんだけど、その前に時間があるので色々差し入れを買って向かうつもりだった。そう言うとおもむろに三人は自分の鞄を漁り出す、なんだなんだ。
「これ、少ないけど」
「えっ、五百円?」
「オレ五百円ないから千円」
「ええっ」
「じゃあともに五百円、僕から渡すからそれで三人分ってことにしておいて」
「い、良いのか……?」
もちろんと頷かれてしまえば俺は拒絶することはできない。だってこれ、三人が瑠比人のことを心配して出してくれたお金だ。俺が断るのも変な話になるし、となると一旦受け取って差し入れの品を買って、そのあと瑠比人に判断を委ねた方が良い。
俺はそれを自分の財布に仕舞い、無言でサムズアップをした。
三人共ほぼ同じタイミングで、サムズアップを返してくれた。
瑠比人の家は、俺んちの一本南にあるマンションだ。俺らが生まれた頃に出来た大きいマンションで、ここにあいつは父親と母親と三人暮らしである。一応。
「ポカリ……は、いっぱいあって良いだろ。あいつ飯食ったかな、食ってそうだけど……」
途中で立ち寄ったスーパーでの購入品を確認しつつ、俺は慣れた足取りでマンションへ赴く。ここんところ毎日行ってるから体がそれに慣れている、一緒に住んでいるみたいで……家族になったみたいで不謹慎だけどちょっと心が浮き立つ。とりま一旦落ち着こう、この感情がバレるのは大変よろしくない。
マンションに着き、ラグジュアリーなエントランスを抜けてオートロックに部屋番号を打ち込む。不思議なチャイム音が響いて数秒、全然覇気のない声で『はい』という返事が聞こえてきた。
「俺。開けて」
二言告げれば充分だ、返事もなく自動ドアのロックが解除される。このままあいつの家のある階に行けば、恐らく鍵を開けて待ってくれていることだろう。不用心だから止めろと言ってるのに。特に今は病身だし。でも辞めようとはしない。
やっぱり家の扉は開いていた。後ろ手に閉め、半身だけ振り返って鍵を閉める。家はどこの電気も点いていない、日が落ちるのも真冬水準で早いため窓の外も大分暗い。体の感覚だけで瑠比人の部屋辿り着き、くそ重たい扉を開けるとベッドに横たわっているそいつがいた。
「よお」
「……今日もご苦労」
「立場がわかってないようだなお前」こんな洋画みたいな台詞を言うことあんの。「今日の差し入れは特別製だぞ」
「どゆこと?」
微熱と多少の喉の痛みで、あとは大分元気な瑠比人がゆっくりとベッドから起き上がった。足取りもしっかりしている。飯は? と尋ねたら、うどん作った、と答えた。昨日俺が買ってきたやつか。
「冷凍うどん茹でて、あっためた茶碗蒸しぶっかけて食べた」
「美味そう」
サバイバリティが高い。個別で買ってきた商品(冷凍うどん五袋入り、茶わん蒸し四つパック)をそう組み合わせるとか。素直に感心する。
「そういや特別製ってどういうこと? 見た感じマルハナのレジ袋だけど」
俺から差し入れを受け取った瑠比人は怪訝そうな表情をした。確かに中身は俺らお馴染みのスーパー、マルハナのものだけどそれを構成しているものがちがう。
これにお金を出してくれたのはあの三人だと話すと、瑠比人は目を大きく見開いた。
「ま、じで」
「みんな心配してんだよ、心配だー! とは俺には言わないけど」
「I!Talkでも全然連絡来ないよ? ……ええ、そうなのかあ、嬉しいなあ」
お礼しないとね、と微笑む瑠比人。ようやく目に光が戻ってきたようだ。嬉しくなって俺はこいつの頭を撫でた、汗で少ししっとりしている髪をかき混ぜるように指の腹で混ぜる。面白いのは頭を撫でられている時、こいつは絶対ちょっと屈むのだ。撫でて欲しいのか、まあ気持ちはわかるけど。お前もしっかりしてるってずっと言われて来た側だもんな。
父と母と一応三人暮らしであるこいつだが、両親はがっつり共働きで小学生の頃から所謂鍵っ子だった。そして現在お母さんの方は不在となっている。安心してほしいのは決して離婚とか別居とかではなく、お母さん方のご実家の都合だ。こいつのおじいさん(お母さんのお父さん)が入退院するという話で一時的に実家に戻っているそうだ。
じゃあお父さんは、って思うだろうがそのことについて考えてはいけない。考えてはいけないったら考えてはいけない……悪い人じゃないんだけどなあ。
「早速みんなの善意の塊、どれかいただこうかな」瑠比人はバニラアイスを取り出す。「うーんいつもとちがった輝き」
「普通にいつものバニラアイスだけどな」
「そりゃまあダッツとかの方が美味しいけど、こういうのは気持ちですから」
ハートよハート、と自分の胸を叩くこいつを見て、大分元気だなと俺は苦笑した。いや良いことなんだけど、良かったなと思うんだけど。あの三人がまだ重症の瑠比人を想像して金を出してくれたなら申し訳ないな、という気持ちになる。みなさん、こいつわりと本調子ですよ、ダルいことも平気で言いますよ。
「じゃあ俺、残り冷蔵庫に入れておくから」「ちょっと待って」
レジ袋からアイスと木のスプーンを取り出し、他のゼリーだかプリンだかをキッチンに持って行こうとしたら引き留められた。なんで? と顔を上げると椅子に座った瑠比人が俺を見上げる。
「俺が食べてるとこ見てて」
「なんで?」今度は声に出た。「意味わからん」
「良いから。俺が元気に食べてるとこ見てて」
言われるがまま俺は瑠比人がゆっくりバニラアイスを食べるのをただ見ていた。普通に元気アピールなのか、それとも嫌がらせ? まじでわからんなと思いつつ、俺はこいつのベッドに腰掛けた。それを横目で見て、少しだけ瑠比人がむっとした顔をする。なぜだ、今日のこいつはいつにも増して意味がわからない。
「瑛って本当、瑛だよね……」
「どういうことですか」
「俺って本当に俺、みたいなこと」
「俺か俺以外か、ってことか?」言うと噴き出された。「そこまで面白かったか今の?」
「いや……」
瑛が言うと面白い、とのことだ。瑠比人は可笑しそうにくふくふ笑っている、まあ笑顔になっていただけたなら良いということにしておこう。
アイスを完食してゴミは勉強机に置きっ放しにされている。洗っといてやるかと立ち上がろうとしたら、瑠比人は俺の肩に手を置いて起立を阻止してくる。行動の意味がよくわからないのですけど……という顔をしている俺に瑠比人はにっこり笑った。
「瑛、嫌だったら断って欲しいんだけど」
「な、なんすか」
「一緒に寝てくれない?」
一緒に寝てくれない? それはそのままの意味で?
「わーい、隣に瑛がいる」
「いつもいるだろ」
「いつもいるけどさ」
気付けば俺はこいつのベッドの上にいた、隣には当然瑠比人がいて、どうしてこうなった? という疑問が嵐の如く心中吹き荒れて、中継に出たアナウンサーが大変そうな心象風景が脳裏をよぎる。制服でベッドに上がる気にはならなかった俺は、箪笥から引っ張り出した瑠比人の部屋着を着ていてそれもなんか大分まずい。犯罪行為じゃないのに脳から直接「犯罪臭がする!」と叫びかけたくらいだ。しかし問題は時間、現在時刻は四時ちょっと過ぎ。うーん。
「彗のお迎えあるから、一時間だけな」
「おっけ」
了承を得られたところで、仰向けの俺は顔だけを瑠比人の方に向ける。瑠比人は体ごとこっちを向いていて、俺と目が合った瞬間満面の笑みを送ってきた。
非常にまずい。シーツ伝いで感じる瑠比人の体温とか、動きとか、息遣いとかがはっきりわかって冷静を失いかけている。発狂しそうだ。俺が俺でなくなってしまう。
「瑛、もっとそっち詰めらんない?」
「かなり壁だぞ」そもそもセミダブルは男子ふたりで寝ることを考えて作られていない。「俺が壁になるか?」
「それは良くないなあ」
言いつつ瑠比人は、……瑠比人は、えっと、俺の背中に腕を回して俺との距離をゼロにした。
おぇ。一周回って吐きそう、なんでか、多幸感とか? 幸せ過ぎると人間って破滅願望を抱くのかも知れない。今この時を一生のものにしたくて仕方がない。
「ん、ふふ……」
「どうして笑っていますか」
「直訳?」瑠比人の声が跳ねる。「心臓すっごい鳴ってるから」
いやだもう、聞かないでくれ。せめて言わないでくれよ。恥ずかしくて今すぐにマットレス掘ってベッド下に逃げたいくらいだ。
「俺相手でそんなに緊張するの?」
「まあ、……まあ」
「ちなみに俺も緊張してる」
触る? と問われて、なにに? と訊き返せない。瑠比人は俺の手を掴んで、自分の胸に押し当てた。ばくばく言ってる。えっばくばく言ってんの!? 今の俺は青褪めたり赤くなったり忙しないことだろう。なんでお前はばくばくしてんだよ、俺はだってお前のことが好きだからさ、わかるけど、でもお前は。
「るい、」
声を掛けようとして、目の前から聞こえる呼吸音がやたら規則的であることに気付いた。これはもしや、と伏せていた目を上げると彫刻のような寝顔が眼前に広がっていた。お前このタイミングで寝るのか。すごいな。いや病人だから仕方ないか、でもすごいよ。正直これ以上やり取りしていたらボロが出てたと思うし、俺としては全然寝てくれてありがとうなんだけど。なんだけどさ……。
「まあいいか……」
このまま雰囲気に流されて告白とかしていたら、それはそれで変な感じになっていたと思うので良しとしておこう。そもそも今のこいつは正気だったか、かなり疑問ではある。熱は下がっていたとは言え、錯乱していたようにも感じたけれど。
眉間に皺を寄せて眠るこいつの、眉間が真っ平にならないかなと指で伸ばしてみる。しかし長い睫毛だな、逆睫毛が数本出てくるだけで痛みに悶え苦しみそうなくらい長い。シャーペンの芯なら乗りそうでもある。あれだけどきどきさせられた手前、俺も寝るか、みたいな気分にはまったくならなかった。仕方ないから五時まで起きておくか、と思った矢先、多分これは聞いちゃいけなかったこと、だと思う。そんな寝言を聞いた。
「……かあさん」
ビスクドールも同然の顔は、寝顔のままそんなことを呟く。それと同時に、俺の背中に回っていた腕の力が更に強まる。普段なら苦情レベルだけど、あの寝言を聞いた以上起こす気にはならない。俺は絶対、いつもの顔が出来ない。
「そりゃ会いたいよな」俺だってそうなんだから。「お母さん、いつ帰ってくるんだろうな」
こいつのお母さんの御実家は長野にあるそうだ。飛んで帰ってくるにも十分、二十分ではいかない距離だ。
辛い時には一緒にいてほしいけどそれが叶わない、それはもう、どうしようもないことだ。お前のお母さんだって望んでそうしたかった訳じゃない。色々な事情が重なってそうなってしまっただけ。俺は瑠比人の頭を引き寄せる。お前は俺の悲しさに寄り添ってくれた、俺もそうしてやりたい。
でも同時に俺がここにいるのに、それだけじゃ駄目なのかとも思う。それもそうか、唯一無二の度合いがちがう。俺だって母さんか瑠比人かって言われたら……いや、この考え方は良くない。やめよう。また夜の道をあてどもなく歩く、そんな感覚に苛まれるから。
「……これって、どうなんかな」
瑠比人の寝顔を見て愛しさが溢れるけど、この感情は母性に近しいものなのではないかと少し考えてしまう。俺は男だから父性? 男には母性本能とかないか? そして逆に俺が瑠比人に求めているものも、ただの愛情なのだろうか、これも母性ではないのか、と考えてしまう。あーあ、もうなんか、わかんなくなってきたな。
★ ★ ★
翌日もやはり瑠比人は休んでおり、昼休みになると太弦と真汰が教室の外へ出て行く。不審に思った瑛が灯哉に尋ねれば「生徒会選挙のやつだね」と解答を得た。
「生徒会選挙でセンセー、推薦者を真汰にしたから。打合せとかなんじゃなーい?」
「生徒会選挙……もうすぐだもんな」
「アキラはお暇? それならば一緒にご飯を食べよー、あっ外行こ、外!」
「良いけど、俺もお前に訊きたいことあるし」
訊きたいこと? と反芻した灯哉を引き連れて、瑛が訪れたのは中庭だ。ここには机やベンチが多少あり、稀に生徒や先生が昼食をとっている。冬になると外で昼食をとろうと思う奇特な人間はほぼいないため、今日は瑛と灯哉しかその場にはいなかった。ベンチに横並びで座って、各々弁当を取り出す。
「それでーなにさ、訊きたいことって」
「あー、うん、その、お前に訊きたいことっていうか、聞いて欲しいことっていうか」
俺は瑠比人のことが好きなんだけど、と前置きをして瑛は話し出す。ちゃんと正直に言うんだーと灯哉は表情に出さず頷いた。
「え、驚かんの?」
「だって気付いてたし」「は!?」
逆に驚いてしまった瑛に灯哉は仰け反って大笑いをする。実はセンセーも気付いてるよ、と言えば瑛は「それは何となくわかってた」と返した。
「そんなオレって周りのこと見てなさそう!?」
「ゴーイングマイウェイだろ、お前。そんだけ」
「それ絶対褒めてなーいー!」
「あーあーわかったから、ごめんだからさっさと要件話していいか!?」
許しを得た瑛は昨日の瑠比人の家で思ったことを、多少フェイクを入れながら話す。瑠比人の家での出来事とか、一緒に布団に入った時の感情とか、そこら辺は全部伏せた。深掘りされると面倒だし、どういう顔をされるかもわからないし。灯哉は終始、一切口を挟まず聞いていた。
瑛が話し終わって、やっと灯哉は口を開く。
「つまり、お母さんがいないコンプレックスから瑠比人に恋したみたいなこと?」
灯哉の要約に瑛は頷いた。そうなんじゃないか、という疑念が自分の中に芽生えている。灯哉にこれを訊いたのは、客観視が出来て言語化も上手な彼なら、正確に自分の感情を推し量ってくれるのではないかと思ったからだ。瑛は緊張しながら灯哉の言葉を待った。そして、
「それはさー、ちがうんじゃない?」
ちがう、その言葉に一瞬瑛はほっとしたのち、灯哉は「いや待って!」と声を荒げた。驚いた瑛は箸を取り落としそうになり、灯哉を睨む。
「ごめーん。そのさーオレが色々言うのあんま良くないかも……」
「っていうと?」
「オレ、ご存知の通り言語化が鬼じゃん? オレが言った言葉が納得出来たら、ああ自分の気持ちってこういうことなんだー、って実はちがうのに思い込んじゃう可能性あるくない? っていうかあると思う。昔あったから、そーゆーこと」
なるほど、と瑛は神妙に頷いた。灯哉の目に見えないものを言葉にする能力は一級品で、それで助かったこともあればメンタルが折られかけたこともままある。また内容に説得力はあるけれど自分の考えと異なる場合ももちろんあり、そういった時に気まずい雰囲気になってしまうことも多い。灯哉が恐れているのはそういうことだ。自分の言葉で他人の口を封じることは、時と場合によっては必要だけど基本的には良くないことだと思っていた。
瑛は悩む。悩み込んで、自分の考えを吐き出した。
「別に色々言ってくれて大丈夫だ、うん」
「そう?」
「お前の考えが聞きたいっていうのが俺の意思? だし、これは」
それを踏まえて俺が判断するから、と瑛は断言した。
灯哉は少しだけ考えて、葛藤した表情で口を開く。
「……じゃあ、オレの考えとして聞いて欲しいんだけどー」
身構える瑛、こいつは一体どんなことを言うのか、想像だに出来なかった。
「まず、アキラがるいてぃーに抱いてる感情は、自分のお母さんに持つべき感情だった、っていう推測は間違ってると思ってて」
「おう」
「お父さんがいなくて、って言うなら百歩譲ってわかるんだけど、お母さんならなくない?」
元来得られるはずの父性が足りていなくて、男性ならば同性愛の道に、女性ならば年上の男性との恋愛という道に進んでしまうことはなきにしもあらず。しかし瑛に不在なのは母親である。
「そもそも、えーっと、アキラってるいてぃーにドキドキしたりはするんでしょ?」
「うん、普通に」
「ぎゅってしてほしいとか、キスしたいとか」
「な、なくはない……」
「じゃあそれは安心感を欲してるっていうより、性愛なんじゃなーい?」
性愛。はっきり言われて、瑛は崩れ落ちる。空になっているとは言え弁当箱を落とすのは忍びなく、両手でがっしりと弁当箱は支えていた。灯哉は悲鳴を上げる。
「うわ────!? アキラっ、死ぬな!」
「勝手に殺すな、よろめいただけ……うわそうか……性愛か……」
「今まで気付いてなかったの……もしかして……」
見るからに灯哉がドン引きしていることに瑛はドン引きしていた。
「……おっ俺と瑠比人は三歳からの幼なじみで、俺があいつを好きになったのは十歳の頃で、っていうとその頃にはもう既に友達以上家族程度の間柄で、下手すれば遠方に住む父方のじいちゃんばあちゃんよりも土方家の人の方がよく知ってるレベルでっ」
「遠くの親戚より近くの他人ね! わあった、わあったから!」
とどのつまり恋人という間柄を飛ばして家族ポジションに瑠比人はいたから、瑛にとっての性的なものと自ずと隔絶されてしまったのだ。奇しくも灯哉の推測がここで正確だったことが認識される。結局瑛にとって瑠比人は、性愛の領域から隠されていたのだ。
「ただアキラ、そういうのは恥ずかしいことではないよ」
大体の人はそんなもんじゃん、と淡々と灯哉は伝える。
「逆にそういう欲求がないって言うのも、別に気取ってるとか潔癖とか関係なくて、ない人はないだけのことだから。あるならあるで良い、とオレは思う」
「……お前良い奴だな。視座高いし」
そこでふと、なんでここまで偏見がないのだろうと瑛は不思議に思った。この際自分が恋心だだ漏れだったことは置いておくとして、それでも同性愛自体に嫌悪を覚えていたら遠ざかるなり何なりするだろう。掃除の班はあくまで掃除の班、仲良くしなければいけないというきまりはないのだ。
「それは単純にオレが少女漫画好きな、恋愛フリークなだけだねー」
「なんか前言ってたような……」
「前言った! うちの母親の蔵書なんだけど、昔の少女漫画ってけっこー同性愛要素もあったから、なんか抵抗なくなった」
そういうものか? と瑛は信じられないような気持になるが、灯哉がこういう嘘をつくような奴だとも思えない。
まあ、良いか。深掘りして真偽を尋ねたところで何にもならない。
「お前に話して良かったわ、ガチで」
「あざーす。あ、そうだ。良い参考文献が世の中には沢山あるんですー、今度貸すよ?」
「少女漫画のことか? ……や、でもフィクションって侮れないからな」
おすすめあったら貸して欲しいと告げれば、灯哉はいきなり立ち上がってガッツポーズをかました。どうやら本当に嬉しいらしい。身近に同じ趣味の人間がいないそうなので、当然の帰結とも言える。
「じゃあ教室帰ろ、「ちょっと」
ベンチから立ち上がろうとしかけたその瞬間、後ろから声を掛けられる。突然の第三者の登場に瑛も灯哉もその場で固まる。ぎぐぎぐと後ろを振り向けば水色の髪をした男が、ふたりを見下ろしていた。
「一年あおば組?」
いきなりクラスを当てられ、ふたりはより疑心を深める。どうしていきなりクラスを? ほとんど睨みつけるように水色の髪の男を見ていると「あ、ごめん」と唐突に謝られた。なんなんだ……?
「急に後輩にクラス訊くとか不審者過ぎるぅ……っ」
どうやら客観視は出来るようだった。
「あの、どちら様ですか」
「あっボク、二年ふじ組の沖田という男です! えーと一年あおば組のよいこのみなさんですか?」
「一年は組のよいこ、みたいに言われても……」
忍たまではないし、ここは忍術学園でもない。しかし一年あおば組であることはその通りなので頷いた。
「あっ良かった。その、訊きたいことがあって」
「訊きたいこと」
「土方瑠比人という人は、今日学校来ていないんですか?」
いきなり出てきた見知り過ぎた名前に、瑛も灯哉も表情が固くなった。
「新年あけまして──」
『おめでとうございまーす!』
新年が明けて一月四日、俺ら『リスさん』チームの五人は高校に最も近い神社に集合していた。時刻は午前十時。早めの時間より昼過ぎの方が混みそうと全会一致でこの時間に決まったのだが、それでもかなり賑わっている。学校より程近いこの神社は規模的にはそこまで広い方ではないが、屋台は出ているし家族で参拝している人が多い。よくよく考えると灰谷と水町もここら辺に住んでるし、特に灰谷の自宅はわかりやすく住宅街だった。そう言えばそうだったわ、俺の目は節穴か。
「じゃあお参り、……どうした瑠比人」
大鳥居をくぐって早速本殿へ、というところでどこか遠い目をした瑠比人が視界に入った。灰谷からさっき貰った水色とか紫とか赤とか黄色が混ざった複雑な色味の、側面が三つ編みみたいになっているニット帽を我先にとかぶって急に立ち止まったのだ。多少心配もする、どうせしょうもないことだろうけど。
「なんか……すっごい良い匂いする」
「やっぱしょうもな! 朝飯食ってねえのかよ!?」
「食べてきましたけど!? 成長期なだけですけど!?」
「言ってそこまで伸びてねえよ!」
「お前にだけは言われたくないわ!」
「なんだとお前!」
一応客観視を提供しておくと、傍から見れば俺らはどんぐりの背比べでしかない。瑠比人の方が多少でかいとは言え多少だ、……本当に多少だ。どっちも平均身長程度である。だからこんなことで言い合いをするのも、まあそういうごっこ遊びだと思ってもらえれば。
「僕もお腹空いたな」すると水町がお腹を摩りながら呟く。「朝御飯食べそびれたんだよ」
「マジ? なんか買ってくる?」
「ねえ、なんか俺の時と対応ちがくない?」
「お前は朝飯食ってるからな」
俺が指摘をすれば瑠比人は頬を膨らませて、何故か御木本を小突きにいった。
「痛っ、なんでおれ!?」
「いちばん小突きやすいキャラだから」「ふざけんな!」
「ねーもーさー、お腹満たしてからお参りしよー?」
お腹空いてるから険悪になんだよー、と灰谷が珍しくまともなことを言ったので、散会し各々食べ物を買ってから自治体設営のテントへ集合することになった。
テントの中は机と椅子が並んでおり、席数は多い訳ではないが飲食も自由な空間となっている。水町が教えてくれた。伯父さんに連れられて毎年来るらしい。
「じゃあ今日も伯父さんいるのか?」
玉こんにゃくを買ってきた御木本が、歯でこんにゃくを食い破りながら水町に尋ねる。水町は首を横に振った。
「伯父さんがいるのは三箇日だけだから。むしろいなくて良かったよ、紹介の仕方が難しいから」
そういうものか……、と御木本と俺は納得した振りをする。水町はうどんを啜っていた。
そうこうしているとたこ焼きと焼き鳥、雑煮を持って、灰谷と瑠比人が帰ってくる。買い過ぎというか食い過ぎじゃね? 朝飯食った奴らの量かよ。
「だいじょーぶ、全部るいてぃーと半分こするから!」
「半分こにしても量が多いわ」
「瑛は、ベビーカステラ? 好きねあなた」
「うん、好き。鈴カステラも好き」
水町が一個ちょうだい、と手を差し伸べてきたので形の良いのを渡す。
「お前らも食べたきゃ言えよやるから」
「「「わーい」」」
俺は目の前に、横並びで座った灰谷と瑠比人が熱さに苦戦しながら食べているのを、じっくりと見物していた。なんか熱いものを頑張って食ってる奴ってつい見ちゃうんだよな、うちの弟もこの間親子丼を必死に食べてたし、なんだか妙に愛おしい気持ちになる。
そんなことを思っていると、瑠比人が俺の方にたこ焼きを寄せてくる。なになに。
「たこ焼き。食べない?」
「……」少し葛藤する俺、うーん。「食う」
「葛藤要らなかったでしょ、多分」
うるせえ、食べ物を前に出せばつい食べてしまうもんなんだぞ、男子高校生って。
俺は瑠比人の箸を受け取り、灰谷に断りを入れてたこ焼きを一個だけ貰う。湯気がもうもう出て、かつお節がはらはらと踊っていてあっつそー……。
「……あっつうぃ……しぬ……」
「とか言いつつ食べれてるわ」
「すっごいねアキラ、オレら口ン中べろんべろんだよ?」
「それはちゃんと冷ましてから食えよ」
そんなこんなで完食をし、ようやく参拝へ向かう。少し時間を置いたおかげか本殿へ並ぶ列はごく短いもので、すぐに順番がやって来た。
「なんか毎回緊張する」瑠比人が財布から十円玉を取り出した。「二礼二拍手一礼だっけ?」
「神社によってルールちがったりもするしねー、ここは二礼二拍手一礼!」
「灯哉がこういうのに詳しいの、なんか解釈ちがいって感じがするな……」
「なあんでよー」
御木本の気持ちはわかる、灰谷が案外伝統やしきたりに詳しいのってイメージに反するんだよな。もっとこう無茶苦茶なことやってそう、絶対にないけど。
五人で二礼二拍手一礼。俺は剣道部についてと家族について、あとはまあ瑠比人についてを少しお願いした。全員で来た道を戻りながら緊張から解き放たれた顔を見せる。
「あきはよく神社に来るの?」
「個人ではあんまだけど、部活で行くことが多いな。ここじゃなくて、もっと北の方に武芸の神様がいるんだよ」
「へえ、やっぱりそういうところもちゃんとしてる部活なんだね」
感心した表情の水町に少し胸を張ってしまう。うちの剣道部はすごく強豪という訳ではなく、強豪まであと一歩、という感じだ。先輩方曰くそこまでになったのはほんの二年くらい前で、その頃から指導者が替わり(今の顧問だ)、上下に関係なく礼儀と礼節重んじる部になったそうだ。だから褒められると、頑張ってきた先輩のことが誇らしくなってつい偉ぶった態度をとってしまうのだ。うちの先輩すごいだろ、どや、的な。
「ともちはなにをお願いしたの」
瑠比人の質問に灰谷は即答した。「コンテスト入賞の障害がなくなりますように! 主に体調面!」
「コンテストか、そう言えばあるな。作品出展だろ?」
「センセーよくご存知で! 服飾のコンテストが毎年あるから、それに出す作品を悔いなく作れますよーにってお願いしたんだー」
「なるほど、だから体調面……太弦は?」
「おれは生徒会選挙だな。二月にある来年度前期生徒会選挙で強い対抗馬が出ませんように、って」
「意外と純粋に神頼みだった……まなまなは?」
「僕は普通に家内安全と、去年もありがとうございました、くらい?」
無欲……! と瑠比人は慄いていたが、水町の内容くらいがむしろ正統派だそうだ。がっつりお願いをするのは間違いとのこと。
「お前はどうなんだよ、瑠比人」
全員に質問をしたくせに、自分のお願いについては話さない瑠比人を詰めてみる。どうせ変な誤魔化し方をするんだろうな、と思っていたら意外なことに気まずげな視線を彷徨わせ、そうだね、と小さい声で呟くのみだった。……どうしたこいつ。
「まーねー、お願い事なんて人それぞれだから!」慌てて灰谷が言葉で空気を埋めた。「それでこれからどーする?」
ファミレスでも行く? 混んでるかなー、なんていう呑気を装った会話をして、俺らは神社の外に出た。
瑠比人の顔は先程とは一変、結局最後まで暗いままで……その日の夜遅くに、発熱した、との連絡があった。
あれだけ飯を食っていたのに実は具合が悪かった、なんて気付ける訳もない。だけど、ただ悔しいとは思う。
新学期が始まって二日経ってもまだあいつは学校に来ない。四日夜に熱を出したあいつは、次の日うちのばあちゃんに連れられて病院へ行った。インフルエンザでもなくただの風邪だったけれどあまりにも熱が高く、今日もまだ微熱が続いている。発熱した時の、あの体がだる重くて、自分じゃ百パーセントの制御が効かない感じ、嫌だよな。
幸い食欲はあるようで明日明後日あたりには学校に行けそうだ、とは本人の談だ。喋れるくらいには回復してきた。
「今日もるいは休み?」
水町が空いたそいつの席を見てから俺へ目線を寄越した。全員あいつの連絡先を知ってるはずなのに、何故か俺に情報を求めてくる。本人に気を遣っているのだ、気持ちはわかる、全然俺に訊いてもらって構わない。そうだな、と俺は返事をした。
「あいつ、疲れとか溜まるとえっぐい風邪引くんだよ。幼稚園の頃からそうだったし、高校入学直後も長く休んでたし」
「……そーだっけ?」
話に入ってきた灰谷が、入ってきて早々に首を傾げていた。まあ友達にもなっていない時期だから覚えていないのも無理ないか。しかし記憶にないのが悔しかったのか、灰谷は御木本に覚えているかどうかを尋ねる。こいつは流石に覚えてそうだけど、と思ったら案の定である。
「あったあった」
「うそん、覚えてるのっ?」
「まあ……なんか、グループ学習とか掃除で綺麗に二対二にわかれちゃって、おれずっと灯哉の世話してた気がする」
「そ、そーでしたっけ!?」
「ああ、そこでたっつーの運命が決まったんだね」
「うん、ルート選択間違えた」
「ちょっとお!」
言い過ぎ言い過ぎと喚く灰谷、水町はフォローせずにこにこと笑っており、御木本も疲れ切った顔で笑っている。去年のこの時期、俺はずっと水町にくっついてたな。なんかふと思い出したわ。それでバレたんだ、瑠比人のことが好きだって。よく気付いたもんだよ。
「それであきはお見舞いとか行くの?」
「……毎日行ってる」
何故かどよめきが起こった、気まずいことこの上ない。いつもは部活終わりに行くんだけど今日は休みだし。俺が部活休みの日は彗の保育園のお迎え当番なんだけど、その前に時間があるので色々差し入れを買って向かうつもりだった。そう言うとおもむろに三人は自分の鞄を漁り出す、なんだなんだ。
「これ、少ないけど」
「えっ、五百円?」
「オレ五百円ないから千円」
「ええっ」
「じゃあともに五百円、僕から渡すからそれで三人分ってことにしておいて」
「い、良いのか……?」
もちろんと頷かれてしまえば俺は拒絶することはできない。だってこれ、三人が瑠比人のことを心配して出してくれたお金だ。俺が断るのも変な話になるし、となると一旦受け取って差し入れの品を買って、そのあと瑠比人に判断を委ねた方が良い。
俺はそれを自分の財布に仕舞い、無言でサムズアップをした。
三人共ほぼ同じタイミングで、サムズアップを返してくれた。
瑠比人の家は、俺んちの一本南にあるマンションだ。俺らが生まれた頃に出来た大きいマンションで、ここにあいつは父親と母親と三人暮らしである。一応。
「ポカリ……は、いっぱいあって良いだろ。あいつ飯食ったかな、食ってそうだけど……」
途中で立ち寄ったスーパーでの購入品を確認しつつ、俺は慣れた足取りでマンションへ赴く。ここんところ毎日行ってるから体がそれに慣れている、一緒に住んでいるみたいで……家族になったみたいで不謹慎だけどちょっと心が浮き立つ。とりま一旦落ち着こう、この感情がバレるのは大変よろしくない。
マンションに着き、ラグジュアリーなエントランスを抜けてオートロックに部屋番号を打ち込む。不思議なチャイム音が響いて数秒、全然覇気のない声で『はい』という返事が聞こえてきた。
「俺。開けて」
二言告げれば充分だ、返事もなく自動ドアのロックが解除される。このままあいつの家のある階に行けば、恐らく鍵を開けて待ってくれていることだろう。不用心だから止めろと言ってるのに。特に今は病身だし。でも辞めようとはしない。
やっぱり家の扉は開いていた。後ろ手に閉め、半身だけ振り返って鍵を閉める。家はどこの電気も点いていない、日が落ちるのも真冬水準で早いため窓の外も大分暗い。体の感覚だけで瑠比人の部屋辿り着き、くそ重たい扉を開けるとベッドに横たわっているそいつがいた。
「よお」
「……今日もご苦労」
「立場がわかってないようだなお前」こんな洋画みたいな台詞を言うことあんの。「今日の差し入れは特別製だぞ」
「どゆこと?」
微熱と多少の喉の痛みで、あとは大分元気な瑠比人がゆっくりとベッドから起き上がった。足取りもしっかりしている。飯は? と尋ねたら、うどん作った、と答えた。昨日俺が買ってきたやつか。
「冷凍うどん茹でて、あっためた茶碗蒸しぶっかけて食べた」
「美味そう」
サバイバリティが高い。個別で買ってきた商品(冷凍うどん五袋入り、茶わん蒸し四つパック)をそう組み合わせるとか。素直に感心する。
「そういや特別製ってどういうこと? 見た感じマルハナのレジ袋だけど」
俺から差し入れを受け取った瑠比人は怪訝そうな表情をした。確かに中身は俺らお馴染みのスーパー、マルハナのものだけどそれを構成しているものがちがう。
これにお金を出してくれたのはあの三人だと話すと、瑠比人は目を大きく見開いた。
「ま、じで」
「みんな心配してんだよ、心配だー! とは俺には言わないけど」
「I!Talkでも全然連絡来ないよ? ……ええ、そうなのかあ、嬉しいなあ」
お礼しないとね、と微笑む瑠比人。ようやく目に光が戻ってきたようだ。嬉しくなって俺はこいつの頭を撫でた、汗で少ししっとりしている髪をかき混ぜるように指の腹で混ぜる。面白いのは頭を撫でられている時、こいつは絶対ちょっと屈むのだ。撫でて欲しいのか、まあ気持ちはわかるけど。お前もしっかりしてるってずっと言われて来た側だもんな。
父と母と一応三人暮らしであるこいつだが、両親はがっつり共働きで小学生の頃から所謂鍵っ子だった。そして現在お母さんの方は不在となっている。安心してほしいのは決して離婚とか別居とかではなく、お母さん方のご実家の都合だ。こいつのおじいさん(お母さんのお父さん)が入退院するという話で一時的に実家に戻っているそうだ。
じゃあお父さんは、って思うだろうがそのことについて考えてはいけない。考えてはいけないったら考えてはいけない……悪い人じゃないんだけどなあ。
「早速みんなの善意の塊、どれかいただこうかな」瑠比人はバニラアイスを取り出す。「うーんいつもとちがった輝き」
「普通にいつものバニラアイスだけどな」
「そりゃまあダッツとかの方が美味しいけど、こういうのは気持ちですから」
ハートよハート、と自分の胸を叩くこいつを見て、大分元気だなと俺は苦笑した。いや良いことなんだけど、良かったなと思うんだけど。あの三人がまだ重症の瑠比人を想像して金を出してくれたなら申し訳ないな、という気持ちになる。みなさん、こいつわりと本調子ですよ、ダルいことも平気で言いますよ。
「じゃあ俺、残り冷蔵庫に入れておくから」「ちょっと待って」
レジ袋からアイスと木のスプーンを取り出し、他のゼリーだかプリンだかをキッチンに持って行こうとしたら引き留められた。なんで? と顔を上げると椅子に座った瑠比人が俺を見上げる。
「俺が食べてるとこ見てて」
「なんで?」今度は声に出た。「意味わからん」
「良いから。俺が元気に食べてるとこ見てて」
言われるがまま俺は瑠比人がゆっくりバニラアイスを食べるのをただ見ていた。普通に元気アピールなのか、それとも嫌がらせ? まじでわからんなと思いつつ、俺はこいつのベッドに腰掛けた。それを横目で見て、少しだけ瑠比人がむっとした顔をする。なぜだ、今日のこいつはいつにも増して意味がわからない。
「瑛って本当、瑛だよね……」
「どういうことですか」
「俺って本当に俺、みたいなこと」
「俺か俺以外か、ってことか?」言うと噴き出された。「そこまで面白かったか今の?」
「いや……」
瑛が言うと面白い、とのことだ。瑠比人は可笑しそうにくふくふ笑っている、まあ笑顔になっていただけたなら良いということにしておこう。
アイスを完食してゴミは勉強机に置きっ放しにされている。洗っといてやるかと立ち上がろうとしたら、瑠比人は俺の肩に手を置いて起立を阻止してくる。行動の意味がよくわからないのですけど……という顔をしている俺に瑠比人はにっこり笑った。
「瑛、嫌だったら断って欲しいんだけど」
「な、なんすか」
「一緒に寝てくれない?」
一緒に寝てくれない? それはそのままの意味で?
「わーい、隣に瑛がいる」
「いつもいるだろ」
「いつもいるけどさ」
気付けば俺はこいつのベッドの上にいた、隣には当然瑠比人がいて、どうしてこうなった? という疑問が嵐の如く心中吹き荒れて、中継に出たアナウンサーが大変そうな心象風景が脳裏をよぎる。制服でベッドに上がる気にはならなかった俺は、箪笥から引っ張り出した瑠比人の部屋着を着ていてそれもなんか大分まずい。犯罪行為じゃないのに脳から直接「犯罪臭がする!」と叫びかけたくらいだ。しかし問題は時間、現在時刻は四時ちょっと過ぎ。うーん。
「彗のお迎えあるから、一時間だけな」
「おっけ」
了承を得られたところで、仰向けの俺は顔だけを瑠比人の方に向ける。瑠比人は体ごとこっちを向いていて、俺と目が合った瞬間満面の笑みを送ってきた。
非常にまずい。シーツ伝いで感じる瑠比人の体温とか、動きとか、息遣いとかがはっきりわかって冷静を失いかけている。発狂しそうだ。俺が俺でなくなってしまう。
「瑛、もっとそっち詰めらんない?」
「かなり壁だぞ」そもそもセミダブルは男子ふたりで寝ることを考えて作られていない。「俺が壁になるか?」
「それは良くないなあ」
言いつつ瑠比人は、……瑠比人は、えっと、俺の背中に腕を回して俺との距離をゼロにした。
おぇ。一周回って吐きそう、なんでか、多幸感とか? 幸せ過ぎると人間って破滅願望を抱くのかも知れない。今この時を一生のものにしたくて仕方がない。
「ん、ふふ……」
「どうして笑っていますか」
「直訳?」瑠比人の声が跳ねる。「心臓すっごい鳴ってるから」
いやだもう、聞かないでくれ。せめて言わないでくれよ。恥ずかしくて今すぐにマットレス掘ってベッド下に逃げたいくらいだ。
「俺相手でそんなに緊張するの?」
「まあ、……まあ」
「ちなみに俺も緊張してる」
触る? と問われて、なにに? と訊き返せない。瑠比人は俺の手を掴んで、自分の胸に押し当てた。ばくばく言ってる。えっばくばく言ってんの!? 今の俺は青褪めたり赤くなったり忙しないことだろう。なんでお前はばくばくしてんだよ、俺はだってお前のことが好きだからさ、わかるけど、でもお前は。
「るい、」
声を掛けようとして、目の前から聞こえる呼吸音がやたら規則的であることに気付いた。これはもしや、と伏せていた目を上げると彫刻のような寝顔が眼前に広がっていた。お前このタイミングで寝るのか。すごいな。いや病人だから仕方ないか、でもすごいよ。正直これ以上やり取りしていたらボロが出てたと思うし、俺としては全然寝てくれてありがとうなんだけど。なんだけどさ……。
「まあいいか……」
このまま雰囲気に流されて告白とかしていたら、それはそれで変な感じになっていたと思うので良しとしておこう。そもそも今のこいつは正気だったか、かなり疑問ではある。熱は下がっていたとは言え、錯乱していたようにも感じたけれど。
眉間に皺を寄せて眠るこいつの、眉間が真っ平にならないかなと指で伸ばしてみる。しかし長い睫毛だな、逆睫毛が数本出てくるだけで痛みに悶え苦しみそうなくらい長い。シャーペンの芯なら乗りそうでもある。あれだけどきどきさせられた手前、俺も寝るか、みたいな気分にはまったくならなかった。仕方ないから五時まで起きておくか、と思った矢先、多分これは聞いちゃいけなかったこと、だと思う。そんな寝言を聞いた。
「……かあさん」
ビスクドールも同然の顔は、寝顔のままそんなことを呟く。それと同時に、俺の背中に回っていた腕の力が更に強まる。普段なら苦情レベルだけど、あの寝言を聞いた以上起こす気にはならない。俺は絶対、いつもの顔が出来ない。
「そりゃ会いたいよな」俺だってそうなんだから。「お母さん、いつ帰ってくるんだろうな」
こいつのお母さんの御実家は長野にあるそうだ。飛んで帰ってくるにも十分、二十分ではいかない距離だ。
辛い時には一緒にいてほしいけどそれが叶わない、それはもう、どうしようもないことだ。お前のお母さんだって望んでそうしたかった訳じゃない。色々な事情が重なってそうなってしまっただけ。俺は瑠比人の頭を引き寄せる。お前は俺の悲しさに寄り添ってくれた、俺もそうしてやりたい。
でも同時に俺がここにいるのに、それだけじゃ駄目なのかとも思う。それもそうか、唯一無二の度合いがちがう。俺だって母さんか瑠比人かって言われたら……いや、この考え方は良くない。やめよう。また夜の道をあてどもなく歩く、そんな感覚に苛まれるから。
「……これって、どうなんかな」
瑠比人の寝顔を見て愛しさが溢れるけど、この感情は母性に近しいものなのではないかと少し考えてしまう。俺は男だから父性? 男には母性本能とかないか? そして逆に俺が瑠比人に求めているものも、ただの愛情なのだろうか、これも母性ではないのか、と考えてしまう。あーあ、もうなんか、わかんなくなってきたな。
★ ★ ★
翌日もやはり瑠比人は休んでおり、昼休みになると太弦と真汰が教室の外へ出て行く。不審に思った瑛が灯哉に尋ねれば「生徒会選挙のやつだね」と解答を得た。
「生徒会選挙でセンセー、推薦者を真汰にしたから。打合せとかなんじゃなーい?」
「生徒会選挙……もうすぐだもんな」
「アキラはお暇? それならば一緒にご飯を食べよー、あっ外行こ、外!」
「良いけど、俺もお前に訊きたいことあるし」
訊きたいこと? と反芻した灯哉を引き連れて、瑛が訪れたのは中庭だ。ここには机やベンチが多少あり、稀に生徒や先生が昼食をとっている。冬になると外で昼食をとろうと思う奇特な人間はほぼいないため、今日は瑛と灯哉しかその場にはいなかった。ベンチに横並びで座って、各々弁当を取り出す。
「それでーなにさ、訊きたいことって」
「あー、うん、その、お前に訊きたいことっていうか、聞いて欲しいことっていうか」
俺は瑠比人のことが好きなんだけど、と前置きをして瑛は話し出す。ちゃんと正直に言うんだーと灯哉は表情に出さず頷いた。
「え、驚かんの?」
「だって気付いてたし」「は!?」
逆に驚いてしまった瑛に灯哉は仰け反って大笑いをする。実はセンセーも気付いてるよ、と言えば瑛は「それは何となくわかってた」と返した。
「そんなオレって周りのこと見てなさそう!?」
「ゴーイングマイウェイだろ、お前。そんだけ」
「それ絶対褒めてなーいー!」
「あーあーわかったから、ごめんだからさっさと要件話していいか!?」
許しを得た瑛は昨日の瑠比人の家で思ったことを、多少フェイクを入れながら話す。瑠比人の家での出来事とか、一緒に布団に入った時の感情とか、そこら辺は全部伏せた。深掘りされると面倒だし、どういう顔をされるかもわからないし。灯哉は終始、一切口を挟まず聞いていた。
瑛が話し終わって、やっと灯哉は口を開く。
「つまり、お母さんがいないコンプレックスから瑠比人に恋したみたいなこと?」
灯哉の要約に瑛は頷いた。そうなんじゃないか、という疑念が自分の中に芽生えている。灯哉にこれを訊いたのは、客観視が出来て言語化も上手な彼なら、正確に自分の感情を推し量ってくれるのではないかと思ったからだ。瑛は緊張しながら灯哉の言葉を待った。そして、
「それはさー、ちがうんじゃない?」
ちがう、その言葉に一瞬瑛はほっとしたのち、灯哉は「いや待って!」と声を荒げた。驚いた瑛は箸を取り落としそうになり、灯哉を睨む。
「ごめーん。そのさーオレが色々言うのあんま良くないかも……」
「っていうと?」
「オレ、ご存知の通り言語化が鬼じゃん? オレが言った言葉が納得出来たら、ああ自分の気持ちってこういうことなんだー、って実はちがうのに思い込んじゃう可能性あるくない? っていうかあると思う。昔あったから、そーゆーこと」
なるほど、と瑛は神妙に頷いた。灯哉の目に見えないものを言葉にする能力は一級品で、それで助かったこともあればメンタルが折られかけたこともままある。また内容に説得力はあるけれど自分の考えと異なる場合ももちろんあり、そういった時に気まずい雰囲気になってしまうことも多い。灯哉が恐れているのはそういうことだ。自分の言葉で他人の口を封じることは、時と場合によっては必要だけど基本的には良くないことだと思っていた。
瑛は悩む。悩み込んで、自分の考えを吐き出した。
「別に色々言ってくれて大丈夫だ、うん」
「そう?」
「お前の考えが聞きたいっていうのが俺の意思? だし、これは」
それを踏まえて俺が判断するから、と瑛は断言した。
灯哉は少しだけ考えて、葛藤した表情で口を開く。
「……じゃあ、オレの考えとして聞いて欲しいんだけどー」
身構える瑛、こいつは一体どんなことを言うのか、想像だに出来なかった。
「まず、アキラがるいてぃーに抱いてる感情は、自分のお母さんに持つべき感情だった、っていう推測は間違ってると思ってて」
「おう」
「お父さんがいなくて、って言うなら百歩譲ってわかるんだけど、お母さんならなくない?」
元来得られるはずの父性が足りていなくて、男性ならば同性愛の道に、女性ならば年上の男性との恋愛という道に進んでしまうことはなきにしもあらず。しかし瑛に不在なのは母親である。
「そもそも、えーっと、アキラってるいてぃーにドキドキしたりはするんでしょ?」
「うん、普通に」
「ぎゅってしてほしいとか、キスしたいとか」
「な、なくはない……」
「じゃあそれは安心感を欲してるっていうより、性愛なんじゃなーい?」
性愛。はっきり言われて、瑛は崩れ落ちる。空になっているとは言え弁当箱を落とすのは忍びなく、両手でがっしりと弁当箱は支えていた。灯哉は悲鳴を上げる。
「うわ────!? アキラっ、死ぬな!」
「勝手に殺すな、よろめいただけ……うわそうか……性愛か……」
「今まで気付いてなかったの……もしかして……」
見るからに灯哉がドン引きしていることに瑛はドン引きしていた。
「……おっ俺と瑠比人は三歳からの幼なじみで、俺があいつを好きになったのは十歳の頃で、っていうとその頃にはもう既に友達以上家族程度の間柄で、下手すれば遠方に住む父方のじいちゃんばあちゃんよりも土方家の人の方がよく知ってるレベルでっ」
「遠くの親戚より近くの他人ね! わあった、わあったから!」
とどのつまり恋人という間柄を飛ばして家族ポジションに瑠比人はいたから、瑛にとっての性的なものと自ずと隔絶されてしまったのだ。奇しくも灯哉の推測がここで正確だったことが認識される。結局瑛にとって瑠比人は、性愛の領域から隠されていたのだ。
「ただアキラ、そういうのは恥ずかしいことではないよ」
大体の人はそんなもんじゃん、と淡々と灯哉は伝える。
「逆にそういう欲求がないって言うのも、別に気取ってるとか潔癖とか関係なくて、ない人はないだけのことだから。あるならあるで良い、とオレは思う」
「……お前良い奴だな。視座高いし」
そこでふと、なんでここまで偏見がないのだろうと瑛は不思議に思った。この際自分が恋心だだ漏れだったことは置いておくとして、それでも同性愛自体に嫌悪を覚えていたら遠ざかるなり何なりするだろう。掃除の班はあくまで掃除の班、仲良くしなければいけないというきまりはないのだ。
「それは単純にオレが少女漫画好きな、恋愛フリークなだけだねー」
「なんか前言ってたような……」
「前言った! うちの母親の蔵書なんだけど、昔の少女漫画ってけっこー同性愛要素もあったから、なんか抵抗なくなった」
そういうものか? と瑛は信じられないような気持になるが、灯哉がこういう嘘をつくような奴だとも思えない。
まあ、良いか。深掘りして真偽を尋ねたところで何にもならない。
「お前に話して良かったわ、ガチで」
「あざーす。あ、そうだ。良い参考文献が世の中には沢山あるんですー、今度貸すよ?」
「少女漫画のことか? ……や、でもフィクションって侮れないからな」
おすすめあったら貸して欲しいと告げれば、灯哉はいきなり立ち上がってガッツポーズをかました。どうやら本当に嬉しいらしい。身近に同じ趣味の人間がいないそうなので、当然の帰結とも言える。
「じゃあ教室帰ろ、「ちょっと」
ベンチから立ち上がろうとしかけたその瞬間、後ろから声を掛けられる。突然の第三者の登場に瑛も灯哉もその場で固まる。ぎぐぎぐと後ろを振り向けば水色の髪をした男が、ふたりを見下ろしていた。
「一年あおば組?」
いきなりクラスを当てられ、ふたりはより疑心を深める。どうしていきなりクラスを? ほとんど睨みつけるように水色の髪の男を見ていると「あ、ごめん」と唐突に謝られた。なんなんだ……?
「急に後輩にクラス訊くとか不審者過ぎるぅ……っ」
どうやら客観視は出来るようだった。
「あの、どちら様ですか」
「あっボク、二年ふじ組の沖田という男です! えーと一年あおば組のよいこのみなさんですか?」
「一年は組のよいこ、みたいに言われても……」
忍たまではないし、ここは忍術学園でもない。しかし一年あおば組であることはその通りなので頷いた。
「あっ良かった。その、訊きたいことがあって」
「訊きたいこと」
「土方瑠比人という人は、今日学校来ていないんですか?」
いきなり出てきた見知り過ぎた名前に、瑛も灯哉も表情が固くなった。
