情けは人のためならず

「あっそうだ、真汰、見て見てー」

 翌日、教室にいると視界の端で灰谷が水町を自分の方に向かせていた。灰谷の席は、出席番号順なので針生である俺の前。そのため何をしているかははっきりと見ることが出来る。俺の右斜め後ろに座っている水町は、ゆっくりと灰谷に顔を向けた。

「もしや『あれ』?」
「『あれ』?」
「そのとーり! まま、アキラも見ておいて」

 そう言って灯哉は赤いニット帽から青のニット帽に替え、髪の毛をすべて帽子の中に入れる。そして耳に何か白い球体をつけて、俺らに背中を向けた。
 なんだ?

「はい、『真珠の耳飾りの少女』」
「なんで?」
「おおー、完成度高い。素晴らしい」
「えへへー、ありがとうございます、ありがとうございます、あっおひねりまで」
「ないです、おひねり」
「なんで水町はそんなすんなり飲み込めるんだよ……」

 ちなみに真珠の耳飾りは、家に溜めてあるそのうち何かに使えそうな球体に発泡スチロールだそうだ。どうでもいい情報の極致だ。

「や、オレもよくわかんないんだけど昨日真汰にリクエストされて」
「昨日の今日で実行するの意味わからん」
「っていうかニット帽可愛い。青から黄色のグラデーションになってる」
「去年のオレのニット帽ブームにマジサンキュー」

 灯哉はこんな感じだが手芸好きである。欲しい鞄がなければ自分で作るし、服に穴が空けば刺繍で埋めることも出来るらしい。
 普段かぶっているニット帽も自作だそうで、高校受験が終わって暇だったため大量生産したそうだ。様々な色味、形のニット帽が大量に仕舞われている。

「そして未だに増え続けている……」
「バイバインでもあんのか、お前の家」
「編み物ってマイブーム来るとやばいらしいよね」
「まじ、ほんと、それ」

 どうやら編み物ブームが自分の中で発生すると、制作活動に勤しんでも勤しんでも足りず、どんどん物を量産してしまうそうだ。そんなやばい中毒性があるのか、編み物って。ちゃんと研究して、世界のために役立てた方が良いだろ。その感じだと。

「で、今も増え続けているため、テスト勉強が手につきません」
「あー、その話に持って行くんだ。あき、逃げよう」
「逃がすか! アキラ、真汰だけ置いて行け!」
「一息で矛盾させんな、滅茶苦茶混乱したじゃねえか」

 そう言ってると休み時間の終了を告げる鐘が鳴る。中学で聴いたものより厳かなそれに、最近ようやく慣れてきた。
 次の授業は古典……部活も休みになったし、俺もテスト勉強をそろそろやらないと。前のテストの古典は散々だった、現代文はそこまで酷いことにならないのに古典だといきなりとんでもないことになるのはなんでなんだ。誰かに教えてもらえたら良いんだけど、と思ってそう言えば灰谷が得意科目とか言っていたことを思い出す。
 ……うん、灰谷に教わるのはないな。なんか負けた気がするから。



「っていう訳で勉強会をしたいと思いまーす! はい、全員参加」
「提案じゃなくて強制かよ」
「すいませんね、うちのともちが」
「いえいえ、本当に元気の良いお子さんで……」
「水町の言い方が嫌味過ぎる」

 あと瑠比人が灰谷の親面をしていることにすごくモヤモヤする。嫡出なんて認めねえからな。
 購買で買ってきたパンをハムスター食いしている灰谷に目を向ける。

「お前、そんなやばいの? テスト」
「マジでヤバい、冬休み存亡の危機」
「滅ぼしとけばいいんじゃねえの?」
「ねー昨日真汰にも似たこと言われたんだけどー! 脳内共有してんのか!」
「脳内クラウドが共有設定になってるの、普通にクレーム案件だわ」

 そういうアキラくんはどーなんですか! と灰谷が負け惜しみのように問い掛けてくる。うわあ、本当のことを言いたくなさ過ぎる……! それとなく誤魔化した回答を、

「瑛は古典がやばいよ。それこそ冬休み存亡の危機」
「瑠比人お前、言うなよ!」
「仲間じゃん! ともだーち!」
「友達だけど仲間じゃねえ!」

 瑠比人が不用意に事実を漏らしたため、目を爛々とした灰谷が手を差し伸べてくる恐怖映像が目の前で再生される。俺は素知らぬ顔でサンドイッチを食べている瑠比人を、恨みを込めて睨みつける。

「俺の個人情報をペラペラ喋るんじゃねえよ、まじで」
「まあでも、ここで変に嘘ついてもねえ? 理系科目はあんなに出来るのに、どうして古典はこんな……」
「うるせえ。お前だって数学ギリギリだろ」
「でも赤点取ったことはないですし」
「ぐう……」

 ぐうの音が出た。確かに赤点を取ったことがない時点で、俺よりも瑠比人の方が上等だ。この顔の良い男、俺より数段要領が良いんだよな。理系科目も俺が滅茶苦茶出来るだけで、こいつも数学以外の科目はちゃんと出来るし。俺が勝てるのって、体力とか運動神経くらいなものじゃないか……?

「まあ古典なら、頼まれたら教えてやっても良いけど」
「えっと、それは、」
「あっこっちで勉強会しようって話してるのに! 抜け駆けやめて!」

 あとオレも古典は教えられるよ! と灰谷が視界の端で喚く。こいつに教わるのは嫌だ、負けた気がするから。これは勘だけど、こいつも俺に数学教わるのを嫌がる気がする。どこまでいっても等価交換出来ない友達同士だ。
 それに、瑠比人の提案には少し思惑を感じざるを得られない。俺の気のせいだったら嫌だけど、と思いつつ咳払いをした。

「灰谷、は、まあいいとして」
「どの『いい』!? なんの『いい』!? 絶対『Nice』の『良い』じゃない!」
「うるせえ……でも、瑠比人に教わるのは、その、吝かではない……」
「はあ?」
「教えてください、お願いします」

 対等ぶろうとしたら相槌だけで一刀両断されたので、慌てて頭を下げた。美人の真顔ほど怖いものはない、見慣れてる俺でさえ思うんだから周りの奴らは凍り付いていることだろう。ちらりと視線だけ上げれば灰谷、御木本は硬直しており、水町は苦笑していた。水町強いな。

「ねーえ、俺発案の勉強会はー?」
「普通に乗っかるつもりだった。ね、太弦とまなまなも来るでしょ?」
「頭数に入れられてる!?」
「なんで来るって思われてたのかな」
「だって、俺だとともちの苦手科目教えらんないし……」

 お前の都合かよ、そう思ったのか御木本と水町の表情がぐしゃりと潰れる。案外顔に出る奴らだ。

「瑛は教えられるだろうけど、ともちは瑛に教わりたくないだろうし」
「マジそれ! るいてぃー、わかってるーぅ!」
「俺も察しはしてたけど、面と向かって言われるの結構腹立つな」

 話が綺麗に畳まれようとしていたのを察したようで、御木本と水町は一瞬アイコンタクトを取り、ほぼ同時に頷いた。
 観念しますと言っているような、哀愁を感じる。

「……じゃあ、灯哉んちで? やります?」

 太弦の質問に「おけーい!」と灰谷は元気良く答える。こうして放課後の勉強会の開催が決定された。
 その決定になのか、それ以外のことになのか、瑠比人が少しだけ微笑んだことに俺は目ざとく気付いてしまうのだった。



 進学先を家の近さだけで選んだ灰谷の家は、俺ら四人の家のどこよりも近くにある。俺は初めて行くけど、その近さを聞いて目を剥いたレベルだ。普通ビビるだろ、朝八時に起きても余裕で間に合う距離って。

「水町の家もここら辺なんだっけ」

 校門を出て歩きつつ、そう言えばと思って俺は尋ねる。ここのふたりは同じ中学だ、つまり自ずと家のある方向は同じになる。
 自転車を引いていた水町は前だけ向いて「そうだよ」と答えた。

「そうなんだけど、僕んちはもうちょい西の方だね。灯哉とは小学校は違うから」
「同じ中学か」
「そう。悪名高き黒葉中学校」

 水町の一言に、同じく自転車を引いていた灰谷が噴き出す。悪名ってなんだ、と訊く前に水町の説明が始まる。

「生徒の質がピンキリだからいじめの温床なんだよね」
「……それ笑って話せることか?」御木本の顔に笑顔はない。「事実なら相当やばいぞ」

 しかし灰谷はけろっとした顔で「まあオレが撲滅さしたからだいじょーぶ」と答えた。
 
「いじめ撲滅? ともちすごいじゃん」
「えっへへ、るいてぃーサンキュー。もーめっちゃ大変だった」
「すごいっていうか……」

 御木本が引き攣った顔で灰谷の方を見る。俺も同じ顔をしていただろう、だってそれくらい凄まじいことをやっている。いじめ撲滅なんて理想にはよく掲げられているが、現実における実現は難しいこと極まりない。どうやって、と思わず呟けば水町は、驚かないでよ、と人差し指を立てた。

「口喧嘩で負かせていったんだよ、ともは、いじめっ子を」
「うわあ、ともちらしい」
「つかそんなこと可能なのか!?」
「いやーアッチアチの戦いでしたな!」
「よく報復とかに遭わなかったな……」

 いじめっ子と不良がイコールかどうかはその土地によるだろうが、それでも撲滅させるくらい派手な動きをしてしまったら灰谷がターゲットになる可能性だってあった。灰谷の性格的に自分を犠牲にしていじめられている人間の安全を確保する、ということはあんまり想像出来ないが……。

「もう二度とすんなよ、そんなこと」よく考えて俺は苦言を呈した。
「えっ!? まさかの褒められない!?」
「褒められないっていうか……」

 俺が口籠ると、おれも同意、と御木本が話に入ってきた。

「えーなんでー」
「お前に何かあったら嫌だと思った。針生もそういうことだろ?」
「……、……まあ」

 たまたま当時は上手くいったかも知れないし、こいつが口喧嘩で負ける様を想像は出来ない。だけど相手の性質が悪く、予想だにしない方へ被害が出てしまうこともままある。
 御木本に同意を促されて癪だが、言いたいことはおおよそ同じだった。心配、ではある。

「瑛ってツンデレだよね」
「俺をテンプレート化するんじゃねえ」
「べっ、別に、アキラに優しくされたからって喜んでる訳じゃないんだからねっ!」
「むしろツンデレはこっちみたいだね」
「おれに心配されたのは嬉しいってことになってるぞ」

 最後の御木本の言葉に、うん、と灰谷は大きく頷いた。照れる御木本……を見て、なんか負けた気分になる俺。なんでだよ。



 灰谷の家はお母さん、おじいさん、おばあさんの四人暮らしらしい。お母さんは夜まで仕事、おじいさんとおばあさんは町内会の旅行に行っていて明日帰ってくるそうだ。「ゆっくりしていってね!」と叫びながら灰谷は一軒家の二階にある、自分の部屋に俺らを追い立てる。そういう怪異みたいな振る舞いをするな。

「生首のともち……『ゆっくりともやだぜ!』『今日はみんなを「テスト勉強しないと出られない部屋」に閉じ込めてみたぜ!』『今日も、ゆっくりしていってね!』」
「おい瑠比人、お前なにぶつぶつ言ってんだよ」

 水町の号令で部屋の中にある折り畳み机を出し、今日授業があった科目の教科書や問題集、ノートを出しつつ瑠比人がなにかを呟いていた。まあ全部聞こえてはいる。同じ部屋にいる御木本がえぐいくらい笑っていて、少し不気味に感じた。
 家主以外全員の勉強する準備が整ったところで、灰谷がお茶とお菓子を持って部屋に戻ってくる。湯呑の色がそれぞれ違うのは水町曰く「メンカラ」らしい。俺は青を貰った、今後ここに来ることがあればこの湯呑でお茶を出してくれる、というリピーター特典があるそうだ。
 早速勉強を始めるが、案の定真っ先に弱音を吐いたのは灰谷だった。数学の問題集を片手に疲弊を隠さず、つっても五分もやってないが、よろめき具合で御木本に近寄っていく。

「み、みきもとセンセー……たーすけてー……」
「やっぱり来たか、……ぶふっ」

 初めは険しい顔をしていた御木本だったが、灰谷の顔を見るや否や堪え切れず噴き出してしまった。それくらいこいつの萎れ具合は御木本の笑いの琴線に触れるそうだ。俺にはまったくわからない感覚である。ちなみに他のクラスの奴ら曰く、萎びた灰谷には一定のファンがついているそうで、とんでもなく庇護欲を煽られるとのこと。まじでまったくわからん、燃やしとけとしか思わない。

「わ、からーん……」
「どこが難しそう?」
「なんかぁ、基礎がわかってる自認だったんだけど、応用になると一気にふわふわすっから、多分基礎もわかってないんだよなあ……」
「自己認識力の高さ、やべえな」

 灰谷の言語化能力の高さに舌を巻く御木本。こいつは数学がやたら出来ないだけであって、その他の教科はそれなりにこなせるし現代文に関しては学年トップクラスだ。この科目に関して俺は敵う気が一切していない、そもそも戦う気もないのだけど。

「なにぼんやりしてるの」

 教科書とノートを出しただけ、開かずにいると隣に瑠比人が座ってくる。その顔はちゃんと呆れていた。

「ぼんやり、は、してたかもだけど……」
「お前も次のテスト赤点だと冬休みないんだからね? 部活、そういうの厳しいんでしょ?」
「ぐう……」

 事実、俺が所属している剣道部では赤点を取り補習となった人間はレギュラーから外される。それは御免だ、何のために頑張ってきたって話になる。……だけど、

「……やらなくても生きてはいけるのに」
「学校っていう環境の中でその理屈は無駄だから。ほらさっさと教科書開いて」
「ちくしょう、文科省許せねえ」
「古典の授業がある程度で恨まれる文科省、ちょっと可哀想」

 苦しんでいる俺より文科省の方に同情がいったため、渋々と教科書、ノートを開く。一応板書はとってるが、まじでなにが書いてあるのか意味がわからん。
 古典は嫌いだ。何が嫌いって、日本語なのに日本語のように読めないところが。……だがしかし、

「今回の範囲は蜻蛉日記、『うつろひたる菊』だね。なにこの話って感じだけど……」

 古典が得意で、少し浮ついた雰囲気のある瑠比人。こんなご機嫌なこいつの隣にいられると、自ずと嬉しくなってしまう。
 あーなんていうか、こんな日もあっていいのかもなあ、なんて……、
 

 ──前言撤回。

「根を上げるのが早いわお前」
「うるせえ……なに書いてあるかさっぱりわかんねえんだよ……」
「えー」

 隣にうきうきな瑠比人がいたとしても古典勉強の苦痛さは特に軽減されない。っていうかこいつ、普通にスパルタ過ぎてしんどい。手取り足取り、丁寧な教え方が出来ないなんて、長年一緒にいるからよく分かっていたはずなのに。……まあ手取り足取り教えられてもキモイから良いんだけど。

「授業でちゃんとやってるのになあ。ほら、お前のノートにも書いてあるし」
「俺が古典の授業をまともに理解してるとでも?」
「なんで上から目線な物言いなの? 言ってること大分クソだよ?」

 呆れ顔の瑠比人は大きく溜息をついた。だってさあ、と俺は視線を逸らす。
 蜻蛉日記という作品は文字通り日記だ、平安時代に生きた藤原道綱母という人の日記だそうだ。内容の全貌はよくわかんねえけど、今回テスト範囲になっている『うつろひたる菊』に関しては夫がなかなか家に来てくれないし自分に興味がないみたいでマジ病み、みたいな話らしい。

「そんな内容を高校生に読ませてどうしたいんだよ文科省」
「気持ちはわかるけど現実逃避やめてね」
「つか藤原道綱母も藤原道綱母だよ! なんでこんな物分かりが良い風の振る舞いしてんの? 興味なくされて悔しい、他の女んとこ行くな、って言えば良いのに!」
「うーん、この時代の女性は嫉妬に狂うことがめっちゃ醜いとされてたからねえ……」
「くっだらね。怒っても良いだろ、こんなことされたら」

 俺は吐き捨てた。正直なところ、書いている内容がわからない、というのは文法や単語の理解不足っていう話もそうなんだけど、感情移入もまったく出来ないためでもある。時代における常識に納得出来ないっていうか、好きな相手ならもっと頑張れよ、という気持ちになるのだ。
 瑠比人が耳を傾けてくれているのを良いことに、俺は調子に乗ってべらべら話し続ける。

「好きだから怒ってんだろ、相手の男のことが好きだからこんな風になっちゃうんだろ。全部肯定する奴しか好きじゃない、自分のやってること全部認めてくれる奴じゃないと困るっていうのはちがうんじゃねえのか、相手の男がまーじで意味わからん」

 蛙化なんて言葉が昨今流行ってるらしいが、要するに失望ということだろう。気持ちはわからんでもない、実体験はないけど、好きな奴がトイレ行って自分の服で手を拭いてたり、店員さんへお礼してる人を馬鹿にしたりしたら百年の恋だって永久凍土と化す。でも場合によっては、そこがお前は好きだったんじゃないか? みたいな事案もある。好きな部分と決別する原因は裏返しなことも多い、結局欲しい要素だけ得るなんて人間関係では土台無理なだけなのだ。

「……まあぶっちゃけ俺もそう思うな」

 急にきた同意の言葉に、俺ははっきりと驚いてしまう。机に臥せっていた頭を無理矢理起こしてしまうくらいには。うわあぁ、という情けない悲鳴を瑠比人は上げていた。
 言っとくけどお前より俺の方がビビってるからな? まさかお前にも、恋愛関連に対して一定の思想があるだなんて。

「あるでしょそりゃ。思想くらいありますよー」
「そうすか……恋愛事、苦手だと思ってたけど」
「もちろん苦手だよ」瑠比人は視線を伏せた。顔立ちの造形美が強調される。「お前ならおわかりでしょうが」
「まあな」

 瑠比人は恋愛沙汰にトラウマというか、良くない思い出がある。男子校に進学した理由もそこが大きい、あと通いやすさとかもあるけど。
 正直そこを解決しないと俺が好きなんて話をするのにも至らない。よく水町が「実は好きなことバレてるんじゃ」と言ってくるが、そうじゃないと断言する理由はここにある。瑠比人は俺という安全地帯を、自分が苦手な恋愛感情に塗れているという認識をしたくないのだ。先入観が強固過ぎて恐らく気付けなくなっている。別に良いんだけどね。むしろ都合は良い、ずっと安全地帯と思ってもらえたら万々歳だ。
 
「じゃあ続きやろうか、範囲にはまだ漢文もあるし」
「えー……」
「えーじゃないよ、赤点取ったらどうすんの」
「取らなかったらどうする?」

 俺は意地悪のつもりで言ってみた。どうせ何も出来ないだろう、そう思っていたら考え込んでいた瑠比人が口を開けた。

「ご褒美」

 一瞬耳を疑った。

「ご褒美?」
「そう、前回の古典が平均五十八とかだったから……六十点取ったらご褒美あげる、っていう風にしたらモチベ上がりそう?」

 机に右肘をつけて頬杖をつく瑠比人、ノートに突っ伏している俺を柔らかい視線で見下ろしている。長い睫毛の影が肌に落ちていて、本当に絵になる顔してんなあと雑念がよぎった。

「まあ、いいだろう」
「なんだその上から目線。言っとくけど頑張るのお前だからな?」
「そりゃそうだろ」

 この時点で俺のモチベはかなり上がっていた、限界ギリギリまで上がり切っている。
 だけど瑠比人には出来ればバレたくない。なんとなく、自分がそんなチョロい人間だと思われたくなくて、……どこかで聞いた話だなと思って教科書を眺めて撃沈した。
 『うつろひたる菊』、マジで一切馬鹿に出来ないじゃん。

   ★   ★   ★

「結局いつも通り、ふたりの世界だったっつーか」

 オレの配慮も不要でしたかねぇ! と灯哉が声を上げるが隣にいた真汰はじっと彼の横顔を見つめたまま、何も言わずにそこに立っていた。
 大きな声に対して何のツッコミもないことに居心地が悪くなったのか、灯哉は真汰を恐る恐る見下ろす。

「……どしたん、真汰」
「どうしたもこうしたも、だよ」

 五人での勉強会も思った以上に集中力が保ち、夕方六時を過ぎる頃には解散となった。学校まで公共交通機関で通っている瑛、瑠比人、太弦の三人は一度学校に戻った方が早いと言って来た道を帰り、ふたりで彼らの背中を見送ったその瞬間だった。

「ちょっと良い? ちょっとだから、家の前で良いんだけど」
「ん? そーぉ? お茶とか出さなくて良い?」
「さっきしこたま飲んだから良いよ」

 灰谷家のお茶ってなんであんなに美味しいんだろうね、と呟いた真汰に、空気が乾燥してたからじゃね? と灯哉は訳の分からない返事をした。

「真汰が外で寒くないなら良いけど……本当にどしたん。わざわざ三人帰すため、自分も帰るフリなんてしちゃってさー」
「帰るフリっていうか、普通に話そうと思ってたこと忘れて帰りかけただけだよ。思い出せて良かった」

 真汰はそのまま言葉を続ける。

「この間たっつーから、なんでふたりを応援してるか、って質問があったよね」
「あー、その話っすかー」

 灯哉が気まずそうに視線を泳がせる。既に辺りは暗くなり、ささやかに星が輝く。近くにある街路灯の蛍光灯がチカチカ震えていて、灯哉の雰囲気の不穏さを煽った。

「別に言いたくないなら良いけど。ただ、お前が黙るの珍しいなって」
「オレいつも喋ってるっけ」
「秘密主義ではないよね、裏表もない。だからいじめを撲滅出来たんだろうし」

 来る最中に話していた内容について、あそこでは灯哉の口喧嘩の強さをフィーチャーしていたが、真汰はそこが本質でないと理解していた。
 ずっと近くで見ていたのだ、あれは灯哉の人間力の勝利なのである。

「自分の意見をきちんと口に出さない、本音で言えない方がダサい、って風潮を作り上げたのは本当にすごいよ」
「いやいやいや……真汰も手伝ってくれたじゃーん」
「でも僕は、あのムーブメントを先導することは出来ないから」

 憧れるなあ、と真汰がしみじみ言えば灯哉はじわじわと照れる。耳や首が赤くなっていたが外は暗いため気付かれず、内心安堵の息を灯哉は吐いた。

「……ありがと」
「照れていやがるな、お前」

 真汰がにやりと笑い、灯哉は太鼓を叩くサルのおもちゃのような挙動で彼を遠ざけた。

「っていうか! アキラにもうお節介しないって話したんだっけ!?」
「露骨に話替えたね、うん、したよ。わかったーって、超あっさりだった」

 元々要らないお節介だった自覚は真汰にもある。『そういうノリ』として楽しかった面もあったが、それで瑠比人がハブられ気味だったことも否めない。どうせならみんなで笑えるようにしたよね、と話したら一発で瑛は了承してくれた。本人としても思うところがあったのだろう。

「じゃあ帰るよ。ごめんね、長々と引き留めて」
「全然だいじょーぶ」

 真汰が自転車にまたがったのを見て、灯哉は手を振った。ちょっと気が早い、真汰が笑う。

「お前がどうしてふたりを応援するか、については話したくなったら話して。単純に、僕が興味あるだけだし」
「一生喋らなくてもいいの?」
「うん、別に。墓場まで持って行ってもらっても構いません。それでお前のこと信頼しなくなったり、仲間外れにしたりとかはないから。たっつーも同じだと思う」

 妙な裏声で、ほななー、と走っていった真汰が、次の角を曲がって見えなくなるまで灯哉はその場所にいた。
 帰ってきた母親に外で鉢合わせて、どうしたの、と訊かれる。なんでもない、と彼は充足感を帯びた表情で答えた。