濃い青の空が徐々に白みを帯びて、更に手が届かなくなったなと切なくなる季節になった。吹く風の冷ややかさが他人行儀で、巻いてきた薄手のマフラーに思わず顎を埋めた。そこでふと、隣を歩いていた奴がいないことに気付く。どこ行ったんだよあいつ、と後ろを向いたら少し戻ったところで瑠比人が立ち止まって俯いていた。
「瑠比人? どうした?」
「寒いから前閉めてた」
「なるほど?」
言いながら俺はこいつの方へ歩く。隣にいないとなんか落ち着かないんだよな。
いたらいたで落ち着かないこともあるけど、それはとても極端な例なので。
「……急に隣におらんくなったからびっくりした」
「なにその、お母さん見えなくなって泣いちゃう赤ちゃんみたいな」
「は? 舐めてる?」
「舐めてない舐めてない。イライラすんなって」
「してねえし」
してねえし、と言いつつ実のところしている。赤ちゃん扱いされて喜ぶような特殊性癖はないし、同い年の男によちよちされたい願望も生憎持ち合わせていないからだ。
瑠比人がじっとりとこちらを見つめてくる。イライラしてるだろ、と言いたいようだ。だから俺から「イライラしてるなあ、って目すんな」と言ったら驚かれた。いや、驚くな、こんなことで。
「何年一緒にいると思ってんの?」
「もう数えるのも諦めました」
「諦めんなよ。それ五十過ぎてからの発言だろ絶対」
「俺って今いくつだっけ?」
「まじかよお前」
ドン引きである。十六歳かそこらで自分の歳忘れるなよ。
その気持ちを視線に思う存分込めていたら、自認と実年齢に乖離があるんだよね、と語られた。えっとなんて?
「自認……?」
「イメージ上の年齢というか、設定の年齢みたいな」
「厨二病……?」
「急に距離とるなよ」
俺は思わず二、三歩後ずさって空間を空ける。その隙間に風が吹いてきた。寒いけど今は逃げなければ──と覚悟を決めた瞬間、こいつは俺の腕を掴んで元いたところに引き戻す。細いくせに、カリッカリなくせにどんな腕力だよ。意表を突かれたことにムカついてしょうがない。なんだよその笑顔。柔らかい眼差しを長い睫毛が彩って、本当に華やかな顔だなとは思うけどさ。
「腹立つ」
一言、吐き捨てた。力いっぱい握られても、ほくそ笑まれても、好きだと感じてしまうのが本当に腹が立つ。
そうしていたら花でも咲いたかと錯覚するような満面の笑みを向けられ、思わず俺はこいつの足を踏んだ。
「いったあ!?」
「なんに対しての笑顔なんだよ、つか腕離せ」
「そりゃあ瑛の意表を突けた喜びの、」
「もう一発いくか?」
「二発目は流石に折れます! やめてください警察呼びますよ!」
急に顔面力を皆無にするような喚き方をする瑠比人。見慣れない顔過ぎて父親を嫌がる赤ちゃんのような仰け反り方をしている。折れる折れないは別にしても、わりと痛くしたからその反応は正しい。ちなみに暴力に訴えた俺は悪い、その自覚もちゃんとある。
もっと痛くも出来るけど、それは流石に可哀想なので。そう思っていたらこいつはにやけていた。
「まだ笑ってる、なに、やっぱMなのお前?」
「瑛は優しいなあと思って」
「はあ?」
足踏まれて頭おかしくなった? と訊いたら、そうはならんだろ、と瑠比人は真顔になった。むしろそうはなりそうだけど、体は全部繋がっている訳だし。ただ「優しい」というその言葉には、妙に引っ掛かる。
「……足踏んだ奴は優しくないだろ」
「その認識はあるんだ」
「常識くらいはあります」暴力が良くないのは当然。「どいつが言ってんだって話だけど」
「あっはは、確かに二枚舌過ぎ。まあでも、」
俺が悪いじゃん? とひとりごちたこいつに、俺は大きく溜息をついた。
ここで悪いと言えるならそもそもあんな柔らかい笑い方はしないで欲しかったとか、あんなことされたのにこう言えちゃうのかとか、勘違いしそうになるからやめてくれとか、色んな考えが胸の中を渦巻いて、上手く言葉を紡ぎ出せなくて、あーあ。
「……足踏んでごめん」
「えっ。や、いいけど別に……」
「良くない、……痛かったでしょ」
二発食らえばしばらく行動不能になるような攻撃を、日常生活で放つべきではないのだ。
相手の好意とか今までの経験値に甘えて横暴が過ぎれば、きっといつかは嫌われる未来が待つ。創作の常套である、ざまあ系あるあるだ。
そもそも嫌われたら普通に生きていけないほど心身に瑠比人の存在が根差しているのに、こんな雑な扱いばかりしていて良いのかと時折本気で不安になる。今だって──
「えいっ」
「ぃでっ!?!!?」
急に額に鋭い痛みが襲う。デコピン。その四文字が脳裏を閃光のように駆け抜けた。無理矢理顎を上げさせられ、視線が曇り空に向かう。やり返されたか、俺は懸命にそいつの顔に目を向けた。
「お、まえっ」
「えー? でも俺も痛かったし?」
んぐ。喉に言葉が詰まって変な声が出た。
……いやでも、これきっと俺の方が痛かったと思う。顎が上がるくらい勢いのあるデコピンとか、必殺技以外の何物でもないだろ。
「これでおあいこってことで」
「……、……、……おう」
俺から始めた物語だから飲み込まざるを得ないけど、すさまじい葛藤が俺の中に渦巻き続ける。飲み込みますけど? 俺が悪いし、ここで蒸し返してまた変な雰囲気になるのもごめんだし。
でもさあ、これは不満じゃないけど、お前の方が俺よりよっぽど優しいと思うんだよ。
「はあ……」そんなことを思っていたら瑠比人が溜息をついた。「なんだかなあ」
「どうしたよ」
「なんか、たまにあなたのことが心配になる」
「……自分のことをまず心配しろよ」
「えっ暴言?」
瑠比人が驚いて口をぱくぱくさせているのが面白くて、俺は声を上げて笑ってしまった。
暴言ではない。むしろ褒め言葉寄り。どうせ俺のことを優しすぎるとか思ったんだろう、逆だから、それは。
「暴言じゃないにしても、今のどういうこと!?」
「そのまんまの意味だろ、自分で考えろよ」
「うわーん! 幼なじみからの扱いが雑だよー!」
いつか法廷で待ってるからな! と耳元で大声を出され、それはただの待ち合わせにしか聞こえない、と俺は顔を引き攣らせた。
★ ★ ★
「あいつら、だらだら歩きすぎだってー!」
「えっじゃあどうする? 通り過ぎる?」
「無理でしょ。友達スルーするような奴らじゃないよ」
一方その頃、騒ぎながら歩くふたりの後ろ十数メートルあたりに三人の男子高校生。彼らは前ふたりの様子を見ながら、のろのろと歩いていた。
「何の話してたか聞こえたか?」
太弦が問いかけると隣のふたりはふるふると首を横に振る。
「なーんも。でも楽しそうなのは伝わった! 歩くのおっせーけど!」
灯哉は、憧れ半分呆れ半分といった様子で感想を述べる。
「どうせいつもの、ふたりにしか分からないテンポと内容のあれでしょ?」
真汰の慣れ切った発言に、あー、と太弦と灯哉は同感の呻きを上げる。
「それはほぼ確だろうね。おれらが聞いてもさっぱりなやつ、っていうかおれらの存在が薄れるやつ」
「ふたりの世界ってやつなー。あれまじでどーなってんだろ、だってオレらは存在してんじゃん?」
「お互いがいればお互いのことしか見てないのがあのふたりだよ」
真汰は目を細めて笑う。嘲るようなものでも、呆れたようなものでもない。幼子のごっこ遊びを見ているかのような、庇護欲の高まった笑みだ。
同級生に向ける笑顔としては少し違和感があるが、それも致し方ない事情がある。
「あれで、どうして片思いだって思えるんだろうね……」
「一周回って好きじゃないんじゃね、って疑ってる」
「それはないだろう。日本海側から昇る太陽並みに、ない」
傍目でも余程深い仲だと察してしまうほどのじゃれ合いと、湿度と信頼の割合が黄金比な視線の交わし合い。他者の感情に多少鈍くても薄く察してしまうくらいの、距離感の近さがこのふたりにはある。あるのにも関わらず、三人は揃いも揃って頭を抱えた。
この時、三人の気持ちは同一のもので、発された言葉も奇跡的に同じ音韻であった。
「「「あいつら、なんで付き合ってないんだろ」」」
三人は、常に目の前で繰り広げられる友人たちの恋路を憂いて大きな溜め息をついた。
「瑠比人? どうした?」
「寒いから前閉めてた」
「なるほど?」
言いながら俺はこいつの方へ歩く。隣にいないとなんか落ち着かないんだよな。
いたらいたで落ち着かないこともあるけど、それはとても極端な例なので。
「……急に隣におらんくなったからびっくりした」
「なにその、お母さん見えなくなって泣いちゃう赤ちゃんみたいな」
「は? 舐めてる?」
「舐めてない舐めてない。イライラすんなって」
「してねえし」
してねえし、と言いつつ実のところしている。赤ちゃん扱いされて喜ぶような特殊性癖はないし、同い年の男によちよちされたい願望も生憎持ち合わせていないからだ。
瑠比人がじっとりとこちらを見つめてくる。イライラしてるだろ、と言いたいようだ。だから俺から「イライラしてるなあ、って目すんな」と言ったら驚かれた。いや、驚くな、こんなことで。
「何年一緒にいると思ってんの?」
「もう数えるのも諦めました」
「諦めんなよ。それ五十過ぎてからの発言だろ絶対」
「俺って今いくつだっけ?」
「まじかよお前」
ドン引きである。十六歳かそこらで自分の歳忘れるなよ。
その気持ちを視線に思う存分込めていたら、自認と実年齢に乖離があるんだよね、と語られた。えっとなんて?
「自認……?」
「イメージ上の年齢というか、設定の年齢みたいな」
「厨二病……?」
「急に距離とるなよ」
俺は思わず二、三歩後ずさって空間を空ける。その隙間に風が吹いてきた。寒いけど今は逃げなければ──と覚悟を決めた瞬間、こいつは俺の腕を掴んで元いたところに引き戻す。細いくせに、カリッカリなくせにどんな腕力だよ。意表を突かれたことにムカついてしょうがない。なんだよその笑顔。柔らかい眼差しを長い睫毛が彩って、本当に華やかな顔だなとは思うけどさ。
「腹立つ」
一言、吐き捨てた。力いっぱい握られても、ほくそ笑まれても、好きだと感じてしまうのが本当に腹が立つ。
そうしていたら花でも咲いたかと錯覚するような満面の笑みを向けられ、思わず俺はこいつの足を踏んだ。
「いったあ!?」
「なんに対しての笑顔なんだよ、つか腕離せ」
「そりゃあ瑛の意表を突けた喜びの、」
「もう一発いくか?」
「二発目は流石に折れます! やめてください警察呼びますよ!」
急に顔面力を皆無にするような喚き方をする瑠比人。見慣れない顔過ぎて父親を嫌がる赤ちゃんのような仰け反り方をしている。折れる折れないは別にしても、わりと痛くしたからその反応は正しい。ちなみに暴力に訴えた俺は悪い、その自覚もちゃんとある。
もっと痛くも出来るけど、それは流石に可哀想なので。そう思っていたらこいつはにやけていた。
「まだ笑ってる、なに、やっぱMなのお前?」
「瑛は優しいなあと思って」
「はあ?」
足踏まれて頭おかしくなった? と訊いたら、そうはならんだろ、と瑠比人は真顔になった。むしろそうはなりそうだけど、体は全部繋がっている訳だし。ただ「優しい」というその言葉には、妙に引っ掛かる。
「……足踏んだ奴は優しくないだろ」
「その認識はあるんだ」
「常識くらいはあります」暴力が良くないのは当然。「どいつが言ってんだって話だけど」
「あっはは、確かに二枚舌過ぎ。まあでも、」
俺が悪いじゃん? とひとりごちたこいつに、俺は大きく溜息をついた。
ここで悪いと言えるならそもそもあんな柔らかい笑い方はしないで欲しかったとか、あんなことされたのにこう言えちゃうのかとか、勘違いしそうになるからやめてくれとか、色んな考えが胸の中を渦巻いて、上手く言葉を紡ぎ出せなくて、あーあ。
「……足踏んでごめん」
「えっ。や、いいけど別に……」
「良くない、……痛かったでしょ」
二発食らえばしばらく行動不能になるような攻撃を、日常生活で放つべきではないのだ。
相手の好意とか今までの経験値に甘えて横暴が過ぎれば、きっといつかは嫌われる未来が待つ。創作の常套である、ざまあ系あるあるだ。
そもそも嫌われたら普通に生きていけないほど心身に瑠比人の存在が根差しているのに、こんな雑な扱いばかりしていて良いのかと時折本気で不安になる。今だって──
「えいっ」
「ぃでっ!?!!?」
急に額に鋭い痛みが襲う。デコピン。その四文字が脳裏を閃光のように駆け抜けた。無理矢理顎を上げさせられ、視線が曇り空に向かう。やり返されたか、俺は懸命にそいつの顔に目を向けた。
「お、まえっ」
「えー? でも俺も痛かったし?」
んぐ。喉に言葉が詰まって変な声が出た。
……いやでも、これきっと俺の方が痛かったと思う。顎が上がるくらい勢いのあるデコピンとか、必殺技以外の何物でもないだろ。
「これでおあいこってことで」
「……、……、……おう」
俺から始めた物語だから飲み込まざるを得ないけど、すさまじい葛藤が俺の中に渦巻き続ける。飲み込みますけど? 俺が悪いし、ここで蒸し返してまた変な雰囲気になるのもごめんだし。
でもさあ、これは不満じゃないけど、お前の方が俺よりよっぽど優しいと思うんだよ。
「はあ……」そんなことを思っていたら瑠比人が溜息をついた。「なんだかなあ」
「どうしたよ」
「なんか、たまにあなたのことが心配になる」
「……自分のことをまず心配しろよ」
「えっ暴言?」
瑠比人が驚いて口をぱくぱくさせているのが面白くて、俺は声を上げて笑ってしまった。
暴言ではない。むしろ褒め言葉寄り。どうせ俺のことを優しすぎるとか思ったんだろう、逆だから、それは。
「暴言じゃないにしても、今のどういうこと!?」
「そのまんまの意味だろ、自分で考えろよ」
「うわーん! 幼なじみからの扱いが雑だよー!」
いつか法廷で待ってるからな! と耳元で大声を出され、それはただの待ち合わせにしか聞こえない、と俺は顔を引き攣らせた。
★ ★ ★
「あいつら、だらだら歩きすぎだってー!」
「えっじゃあどうする? 通り過ぎる?」
「無理でしょ。友達スルーするような奴らじゃないよ」
一方その頃、騒ぎながら歩くふたりの後ろ十数メートルあたりに三人の男子高校生。彼らは前ふたりの様子を見ながら、のろのろと歩いていた。
「何の話してたか聞こえたか?」
太弦が問いかけると隣のふたりはふるふると首を横に振る。
「なーんも。でも楽しそうなのは伝わった! 歩くのおっせーけど!」
灯哉は、憧れ半分呆れ半分といった様子で感想を述べる。
「どうせいつもの、ふたりにしか分からないテンポと内容のあれでしょ?」
真汰の慣れ切った発言に、あー、と太弦と灯哉は同感の呻きを上げる。
「それはほぼ確だろうね。おれらが聞いてもさっぱりなやつ、っていうかおれらの存在が薄れるやつ」
「ふたりの世界ってやつなー。あれまじでどーなってんだろ、だってオレらは存在してんじゃん?」
「お互いがいればお互いのことしか見てないのがあのふたりだよ」
真汰は目を細めて笑う。嘲るようなものでも、呆れたようなものでもない。幼子のごっこ遊びを見ているかのような、庇護欲の高まった笑みだ。
同級生に向ける笑顔としては少し違和感があるが、それも致し方ない事情がある。
「あれで、どうして片思いだって思えるんだろうね……」
「一周回って好きじゃないんじゃね、って疑ってる」
「それはないだろう。日本海側から昇る太陽並みに、ない」
傍目でも余程深い仲だと察してしまうほどのじゃれ合いと、湿度と信頼の割合が黄金比な視線の交わし合い。他者の感情に多少鈍くても薄く察してしまうくらいの、距離感の近さがこのふたりにはある。あるのにも関わらず、三人は揃いも揃って頭を抱えた。
この時、三人の気持ちは同一のもので、発された言葉も奇跡的に同じ音韻であった。
「「「あいつら、なんで付き合ってないんだろ」」」
三人は、常に目の前で繰り広げられる友人たちの恋路を憂いて大きな溜め息をついた。
