「妊娠した」公園の清水道香はその二文字を頭の中で何度も繰り返した。個室の薄い扉一枚を隔てた向こうでは、子どもが笑いながら走り回る音がする。ブランコの鎖が軋み、遠くでカラスが一声鳴いた。昼下がりの公園はいつもどおりで、世界は何一つ変わっていないように見える。変わったのは、自分だけだった。
 白い検査薬を握る指先が冷たい。陽性を示す線は、驚くほど迷いなく現れた。見間違いであってほしいと願う時間さえ与えず、はっきりと。
 道香は蓋を閉め、ポケットに押し込んだ。鏡を見る。そこには十七歳の、ごく普通の女子高校生が立っていた。
 肩まで伸びた黒髪は朝きちんと結んだはずなのに、湿気でほつれている。紺色の制服のリボンは少し曲がり、目の下には昨夜ほとんど眠れなかったせいで薄い影が落ちていた。
 どこから見ても、教室に一人はいるような女の子だった。少なくとも十分前までは。
 鏡の中の自分のお腹に目を向ける。もちろん何も変わっていない。制服のスカートはいつもどおりの位置で留まり、お腹が膨らんでいるわけでもない。それでも、そこにはもう自分一人ではないという事実だけが、鉛のような重さで沈んでいた。
「……嘘」
 声に出してみても、現実は少しも軽くならない。
 スマートフォンを開くと、検索履歴は同じ言葉で埋め尽くされていた。
『生理 二週間遅れ』
『妊娠検査薬 いつから』
『高校生 妊娠』
『陽性 間違い』
 どの記事にも、自分が読みたい答えは書いていなかった。
 通知が一件届き、道香の肩がびくりと上がった。
「今日の数学、小テストあるから忘れないで!」
 クラスメイトからのメッセージだった。見た瞬間、道香は思わず笑いそうになった。そんなもの、十分前までなら世界で一番大きな問題だったのに。
 スマートフォンを握る手が勝手に震えていた。
 最初に誰へ伝えればいい。母親か。父親か。それとも、この子の父親か。
 重い足取りで帰り道を歩きながら、道香の脳裏に、以前テレビで見た一人の少女の顔が浮かんだ。
 西条玲奈。
 十八歳で妊娠がわかり、葛藤の末に出産を選んだ女子高生だった。
 生まれたのは女の子。玲奈は「麗花」と名付け、母・明美や叔母・智子に支えられながら子育てを始めたという。けれど、現実は想像以上に過酷だった。
 昼夜を問わない授乳、終わりの見えない夜泣き、張り詰めたような泣き声。眠ることも、心を休めることもできない日々が続き、玲奈は少しずつ追い詰められていった。
そして、ある夜。
 玲奈は眠る麗花を抱き、自転車に乗って家を出た。向かった先は、町外れの橋だった。深夜の静まり返った橋の上で、玲奈はしばらく川面を見つめていたという。
 その後、麗花を抱いたまま欄干を越え、二人は闇の中へ身を投げた。
 ニュースキャスターは淡々と事実を伝えていたが、画面の向こうで泣き崩れる家族の姿だけは、道香の記憶から消えることがなかった
《どうして相談してくれなかったの》
 涙ながらにそう語る明美の声を、今でも覚えている。
 あのとき道香は、夕食を食べながら何気なくニュースを見ていただけだった。
「どうして相談しなかったんだろうな」
 父がぽつりと呟き、母はしばらく黙って画面を見つめていた。
「……相談できなかったのよ」
「どうしてそう思うんだ?」
「相談した先で、一番最初に責められるって分かってたから」
「それでも、一人よりはよかっただろ」
 道香も、そのときは何も考えずに同じようなことを思った。
 どうしてそんなことをしたんだろう。どうして誰かに助けを求めなかったんだろう。
そんな疑問を抱いていた。
 けれど今は違う。胸の奥に沈んでいた言葉が、少しだけ理解できる気がしてしまった。
誰にも言えない。
 言った瞬間、自分の人生が壊れてしまう。そんな恐怖が、人を孤独にするのかもしれない。
 道香は思わず立ち止まった。住宅街の向こうでは、夕焼けが空を赤く染めている。
 ランドセルを背負った小学生が笑いながら家へ帰り、自転車に乗った高校生が道香を追い越していく。世界はいつもどおりだった。なのに、自分だけが別の世界へ放り出されたような気がした。
 制服のスカートのポケットに手を入れると、中には、さっきの検査薬が入っている。捨てようと思った。捨ててしまえば何もなかったことにできるような気がした。それなのに、大事そうに持って帰っている今の自分が、情けない。
 震える指でスマートフォンを開き、検索窓に「中絶」とゆっくり文字を打ち込むも、最後の一文字を入力したところで、親指が止まった。
 本当に、この言葉を検索してしまっていいのだろうか。検索した瞬間、自分が「産まない」という選択肢を考えていることを認めてしまうのではないか。
 しばらく画面を見つめたあと、意を決して検索ボタンを押すと、画面いっぱいに並ぶ検索結果はどれも、ほんの数十分前までの自分には縁のない言葉だった。それなのに今は、一つひとつが自分の未来を決める材料のように見える。
『人工妊娠中絶とは』
『妊娠週数による違い』
『費用』
『相談窓口』
 どんな言葉が書いてあっても、それは自分に向けられた現実なのだと思うと、続きを読む勇気が出ない。産めるわけ、ない。心の中でそうつぶやいた瞬間、別の声が聞こえた。じゃあ、命をなくすの?頭の中で二人の自分が言い争っている。
 親には言えない。学校にも行かなきゃいけない。考えれば考えるほど、胸が締めつけられる。こんなことになるなら。あの日、あの時間に戻れたら。そんな考えばかりが頭の中を巡る。けれど、どれだけ後悔しても、画面の検索結果は消えてくれない。
 道香はスマートフォンの電源を切ろうとして、ふと自分の手がお腹の上に置かれていることに気づいた。
 まだ何も変わっていないはずのお腹。それなのに、その小さなぬくもりに触れた瞬間、涙が一粒だけ頬を伝った。
「……どうしたらいいの」
 その声に答える人は、誰もいなかった。