静かだった。船内には静寂しかない。
生命維持装置の低い駆動音だけが、かろうじてこの船が生きていることを教えてくれていた。
僕は通路を歩く。誰もいない通路を。何度も歩いた通路を。
もう何年になるのだろう。いや、何百年かもしれない。いつから数えるのをやめたのかさえ覚えていなかった。
仲間は皆死んだ。老衰、病気、事故、餓死──理由は様々だった。だが結果は同じだ。皆先に行ってしまった。
高坂悠人が息を引き取った日から、この宇宙船に残された人間は僕だけだった。人類最後の生存者。その言葉を何度も口にした。だが、全て虚しくなるだけだった。誇りにもならない。自慢にもならない。ただ孤独なだけだ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「結局、最後までか」
窓の外には星々が広がっていた。地球で見たものよりずっと多い。どこまでも続く光の海。
七海なら、きっと目を輝かせただろう。そう思った。思ってしまった。もう、何百年も考えないようにしてきたのに。
七海。天川七海。初恋の人。大切な幼馴染。戦争で離れ離れになった少女。
『絶対また会おうね』
最後に聞いた声。最後に交わした約束。
そのあとどれだけ探しただろう。移民船の名簿も、避難記録も、遭難船も、消息不明者の一覧も、全て見尽くした。だが見つからなかった。一度も。一度たりとも。
「会いたかったな」
ぽつりと呟く。返事はない。もう慣れたことだった。
通信室へ向かう。毎日の習慣だ。誰も送ってこない通信を確認する。もう何百年も続けている習慣だった。
自分でも馬鹿だと思う。それでもやめられなかった。もしかしたら、奇跡みたいに、どこかで誰かが生きているかもしれない。人類じゃなくとも、きっと誰かは。そんな期待を完全には捨てられなかった。
端末を起動して、受信ログを確認する。いつも通り空だ。席を立って別の場所に行こうと思った──その時だった。微かな電子音が響いた。僕は顔を上げた。見間違いかと思った。何度も画面を確認する。確かに表示されている。
「……え?」
信号?今さら?
鼓動が速くなる。震える手でログを開いた。
波形は酷く乱れていた。途切れ途切れの断片。何度も宇宙塵に削られたような微弱なデータ。それでも、確かに音声が含まれている。
解析を実行する。数秒。いや、体感では永遠のような時間だった。
やがてスピーカーからノイズが流れ始める。聞き取れない。雑音ばかりだ。外れかと思った。
けれど、次の瞬間。
『……な……と……く…』
僕は息を止めた。いや、正確には無意識に止まっていた。心臓が大きく跳ねる。
今のは。今の声は。
『……みな……と……くん』
全身が震えだす。ありえない。ありえるはずがない。だが、間違えようがなかった。何百年経っても。何千年経っても。忘れられるはずがなかった。その声は、天川七海だった。
『……湊くん』
雑音。沈黙。また雑音。それでも声は届く。
『もう……一度』
指先が震えて、涙が落ちるのが止まらない。理由なんて分かっていた。聞きたかったからだ。ずっと、ずっと。長い歳月をかけて探し続けるほど、聞きたかったから。
『あなたに……会いたかった』
そこで通信は終わった。ノイズだけが残る。再生終了。もう何も聞こえない。聞けない。
僕は動けなかった。何時間そうしていたのだろう。あるいは数分だったのかもしれない。
ただ分かることが一つだけあった。七海も、同じだったのだ。会いたかった。探していた。忘れていなかった。それだけでよかった。それだけで、救われた気がした。
「七海」
呼んでも返事はない。もう返ってこない。それでも、不思議と寂しくなかった。七海の最後の願いは届いた。なら、今度は自分の番だ。
窓の外で星々が輝いている。幼い頃、二人で見上げたあの夜空みたいに。
約束は果たせなかった。だけど、願うことはできる。誰もいなくなった、こんな場所でも。
僕はゆっくりと顔を上げた。そして、部屋をぐるりと見渡す。
かつては多くの人間が行き交っていた場所だった。管制官、整備士、通信士。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが明日を語っていた。
でも今はもう誰もいない。残されているのは、空席ばかりだった。皆が先に行ってしまう中で、僕だけが宇宙船と一緒に何百年も残された。
今にも消えてしまいそうな淡い光を放っている画面を操作する。送信画面を開くが、送り先も、宛先もない。人類は滅びたのだ。受け取る者など、どこにもいない。それでも構わなかった。
七海の通信だってそうだった。届くかどうかなんて関係なかったのだ。ただ伝えたかった。ただ願いたかった。それだけで。
僕はマイクへ手を伸ばす。まだわずかに震える指先が、起動スイッチに触れる。電子音が鳴り、録音が開始される。
でも、船内には静寂が降りる。窓の向こうでは、無数の星々が静かに瞬いていた。まるで見守っているかのように。
僕は目を閉じて、思い出す。七海の笑顔、灰色になった空、炎に包まれた街、幾度となく立った戦場、先に旅立っていった仲間たち──そして、誰よりも長く続いた自分の人生を。長かった。本当に、長かった。
僕は小さく息を吐いてから、静かに口を開く。
「あーあー。」
掠れた声が響く。
「聞こえていますか。」
返事はない。当然だった。
「誰に聞こえていてもいい。誰にも聞こえていなくてもいい。」
少しだけ笑う。昔の僕なら、こんなことは言わなかっただろう。でも今なら分かる。願いは届くことよりも、願うことに意味があるのだと。
「僕はもう疲れました。」
素直な言葉だった。取り繕うことも、見栄を張ることもやめた。そんな相手さえも、いなかったから。
「皆、先に行ってしまった。」
七海も。家族も。仲間たちも。故郷の人々も。
「皆、輝いてしまった。」
窓の外の星々を見る。きっとあそこにいる。そんな気がした。根拠なんてない。それでも、そう思いたかった。
「だけど、できることなら。」
声が震える。けれど止まらない。止められない。
「あの子と、」
七海の声が蘇る。
『二人で一緒に、星を掴みに行こう』
あの日の、叶わなかった約束。それでも大切だった約束。今なら、少しは叶えれる気がした。
「皆と同じ銀河で輝く一等星となりたい──」
涙が一粒だけ頬を伝った。録音ランプが静かに点滅している。
僕はしばらく黙っていた。
何かを付け加えようとして、けれど何も思い浮かばなかった。
きっと、それでよかった。伝えたいことは全部伝えた。願いたいことも、全部願った。
僕は送信ボタンを押した。
最後の通信が、静かな宇宙へ解き放たれる。
光よりも遅く。
願いよりも永く。
いつか誰かへ届くことを願いながら。いや、もう願う必要さえないのかもしれない。
僕は冷凍保存機へ向かうために、立ち上がる。長い旅路を終えるために。その足取りは、不思議なほど穏やかだった。でも、通路の角でつまずいた。何百年も歩いた場所なのに。思わず笑ってしまった。
冷凍保存機へ身を横たえる。窓の向こうでは、星々が綺麗に輝いていた。どれもこれもが、僕の最後を見届けてくれるように、力強く明るく。
「七海。」
もう一度、小さく名前を呼んで、人差し指を伸ばす。それが最後だった。
冷凍保存機の蓋が閉じて、光が消える。意識が遠のく。静かな電子音だけが響いた。
やがて、僕の──相沢湊の人生は深い眠りへ沈んでいった。
生命維持装置の低い駆動音だけが、かろうじてこの船が生きていることを教えてくれていた。
僕は通路を歩く。誰もいない通路を。何度も歩いた通路を。
もう何年になるのだろう。いや、何百年かもしれない。いつから数えるのをやめたのかさえ覚えていなかった。
仲間は皆死んだ。老衰、病気、事故、餓死──理由は様々だった。だが結果は同じだ。皆先に行ってしまった。
高坂悠人が息を引き取った日から、この宇宙船に残された人間は僕だけだった。人類最後の生存者。その言葉を何度も口にした。だが、全て虚しくなるだけだった。誇りにもならない。自慢にもならない。ただ孤独なだけだ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「結局、最後までか」
窓の外には星々が広がっていた。地球で見たものよりずっと多い。どこまでも続く光の海。
七海なら、きっと目を輝かせただろう。そう思った。思ってしまった。もう、何百年も考えないようにしてきたのに。
七海。天川七海。初恋の人。大切な幼馴染。戦争で離れ離れになった少女。
『絶対また会おうね』
最後に聞いた声。最後に交わした約束。
そのあとどれだけ探しただろう。移民船の名簿も、避難記録も、遭難船も、消息不明者の一覧も、全て見尽くした。だが見つからなかった。一度も。一度たりとも。
「会いたかったな」
ぽつりと呟く。返事はない。もう慣れたことだった。
通信室へ向かう。毎日の習慣だ。誰も送ってこない通信を確認する。もう何百年も続けている習慣だった。
自分でも馬鹿だと思う。それでもやめられなかった。もしかしたら、奇跡みたいに、どこかで誰かが生きているかもしれない。人類じゃなくとも、きっと誰かは。そんな期待を完全には捨てられなかった。
端末を起動して、受信ログを確認する。いつも通り空だ。席を立って別の場所に行こうと思った──その時だった。微かな電子音が響いた。僕は顔を上げた。見間違いかと思った。何度も画面を確認する。確かに表示されている。
「……え?」
信号?今さら?
鼓動が速くなる。震える手でログを開いた。
波形は酷く乱れていた。途切れ途切れの断片。何度も宇宙塵に削られたような微弱なデータ。それでも、確かに音声が含まれている。
解析を実行する。数秒。いや、体感では永遠のような時間だった。
やがてスピーカーからノイズが流れ始める。聞き取れない。雑音ばかりだ。外れかと思った。
けれど、次の瞬間。
『……な……と……く…』
僕は息を止めた。いや、正確には無意識に止まっていた。心臓が大きく跳ねる。
今のは。今の声は。
『……みな……と……くん』
全身が震えだす。ありえない。ありえるはずがない。だが、間違えようがなかった。何百年経っても。何千年経っても。忘れられるはずがなかった。その声は、天川七海だった。
『……湊くん』
雑音。沈黙。また雑音。それでも声は届く。
『もう……一度』
指先が震えて、涙が落ちるのが止まらない。理由なんて分かっていた。聞きたかったからだ。ずっと、ずっと。長い歳月をかけて探し続けるほど、聞きたかったから。
『あなたに……会いたかった』
そこで通信は終わった。ノイズだけが残る。再生終了。もう何も聞こえない。聞けない。
僕は動けなかった。何時間そうしていたのだろう。あるいは数分だったのかもしれない。
ただ分かることが一つだけあった。七海も、同じだったのだ。会いたかった。探していた。忘れていなかった。それだけでよかった。それだけで、救われた気がした。
「七海」
呼んでも返事はない。もう返ってこない。それでも、不思議と寂しくなかった。七海の最後の願いは届いた。なら、今度は自分の番だ。
窓の外で星々が輝いている。幼い頃、二人で見上げたあの夜空みたいに。
約束は果たせなかった。だけど、願うことはできる。誰もいなくなった、こんな場所でも。
僕はゆっくりと顔を上げた。そして、部屋をぐるりと見渡す。
かつては多くの人間が行き交っていた場所だった。管制官、整備士、通信士。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが明日を語っていた。
でも今はもう誰もいない。残されているのは、空席ばかりだった。皆が先に行ってしまう中で、僕だけが宇宙船と一緒に何百年も残された。
今にも消えてしまいそうな淡い光を放っている画面を操作する。送信画面を開くが、送り先も、宛先もない。人類は滅びたのだ。受け取る者など、どこにもいない。それでも構わなかった。
七海の通信だってそうだった。届くかどうかなんて関係なかったのだ。ただ伝えたかった。ただ願いたかった。それだけで。
僕はマイクへ手を伸ばす。まだわずかに震える指先が、起動スイッチに触れる。電子音が鳴り、録音が開始される。
でも、船内には静寂が降りる。窓の向こうでは、無数の星々が静かに瞬いていた。まるで見守っているかのように。
僕は目を閉じて、思い出す。七海の笑顔、灰色になった空、炎に包まれた街、幾度となく立った戦場、先に旅立っていった仲間たち──そして、誰よりも長く続いた自分の人生を。長かった。本当に、長かった。
僕は小さく息を吐いてから、静かに口を開く。
「あーあー。」
掠れた声が響く。
「聞こえていますか。」
返事はない。当然だった。
「誰に聞こえていてもいい。誰にも聞こえていなくてもいい。」
少しだけ笑う。昔の僕なら、こんなことは言わなかっただろう。でも今なら分かる。願いは届くことよりも、願うことに意味があるのだと。
「僕はもう疲れました。」
素直な言葉だった。取り繕うことも、見栄を張ることもやめた。そんな相手さえも、いなかったから。
「皆、先に行ってしまった。」
七海も。家族も。仲間たちも。故郷の人々も。
「皆、輝いてしまった。」
窓の外の星々を見る。きっとあそこにいる。そんな気がした。根拠なんてない。それでも、そう思いたかった。
「だけど、できることなら。」
声が震える。けれど止まらない。止められない。
「あの子と、」
七海の声が蘇る。
『二人で一緒に、星を掴みに行こう』
あの日の、叶わなかった約束。それでも大切だった約束。今なら、少しは叶えれる気がした。
「皆と同じ銀河で輝く一等星となりたい──」
涙が一粒だけ頬を伝った。録音ランプが静かに点滅している。
僕はしばらく黙っていた。
何かを付け加えようとして、けれど何も思い浮かばなかった。
きっと、それでよかった。伝えたいことは全部伝えた。願いたいことも、全部願った。
僕は送信ボタンを押した。
最後の通信が、静かな宇宙へ解き放たれる。
光よりも遅く。
願いよりも永く。
いつか誰かへ届くことを願いながら。いや、もう願う必要さえないのかもしれない。
僕は冷凍保存機へ向かうために、立ち上がる。長い旅路を終えるために。その足取りは、不思議なほど穏やかだった。でも、通路の角でつまずいた。何百年も歩いた場所なのに。思わず笑ってしまった。
冷凍保存機へ身を横たえる。窓の向こうでは、星々が綺麗に輝いていた。どれもこれもが、僕の最後を見届けてくれるように、力強く明るく。
「七海。」
もう一度、小さく名前を呼んで、人差し指を伸ばす。それが最後だった。
冷凍保存機の蓋が閉じて、光が消える。意識が遠のく。静かな電子音だけが響いた。
やがて、僕の──相沢湊の人生は深い眠りへ沈んでいった。
