故郷を離れてから、どれくらい経ったのだろう。
最初の頃は数えていた。一日、一週間、一か月。けれど戦場に出てしまえば、そんなものはすぐ曖昧になる。昨日と今日の違いすら分からなくなるからだ。
戦場は地獄だった。硝煙の匂いに、鳴り止まない砲撃音。怒号と悲鳴が混ざり合い、血の匂いさえしてくる。
初めて実戦に出た日、僕は吐いた。仲間の死体を見た日の夜も吐いた。二人目の時も、三人目の時も。
でもそのうち吐かなくなった。慣れたくないものに、慣れてしまった。
「おい、新兵」
最初に話しかけてきたのは高坂さんだった。三十歳手前くらいの男で、人懐っこい笑顔が印象的な人だった。戦場にいることが不思議なくらいよく笑う。
そして、よく生き残る人だった。
「顔色悪いな」
「……そうですか」
「悪い」
高坂さんは笑いながら缶コーヒーを放って寄越す。
「死ぬなよ」
その言葉は妙に軽かった。けれど戦場では、それが挨拶代わりだった。
高坂さんには色々教わった。身を隠す場所、危険な音、安全な音、銃の扱い、生き残る方法。
「覚えとけ」
高坂さんは笑って言う。
「英雄は死ぬ」
「はい…?」
「生き残る奴が一番偉い」
戦場らしい理屈だった。けれど、その言葉のおかげで何度も助かった。
戦争は終わらなかった。むしろ悪化していった。地球各地の戦線は崩壊し始めていた。どれだけ兵を送り込んでも足りない。勝っているのか負けているのかも分からない。
ただひとつ分かることがあった。人類は確実に追い詰められていた。
そんな頃だった。宇宙移民計画なんて噂が流れ始めたのは。
「聞いたか?」
休憩中、誰かが言った。
「何を」
「宇宙移民計画だよ」
その場にいた皆が笑った。
「また与太話か」
「今度は火星か?」
「いや、もっと遠いらしいぞ」
誰かが肩を竦める。
「人類を宇宙へ逃がすんだとさ」
その頃はまだ、僕も、仲間も、上司も、誰も信じていなかった。
高坂さんが負傷したのは、その少し後だった。
病室には消毒液の匂いが漂っていた。
ベッドの上の高坂さんはいつものように笑っていた。けれど顔色は悪い。誰が見ても分かるくらいに。
「起きてていいんですか」
「寝てても暇なんだよ」
高坂さんは苦笑する。そして僕を見るなり呆れたように言った。
「お前も大概だよな」
「何がです」
「その傷だよ」
視線が脇腹へ向く。先週の戦闘で受けた銃創だった。あと少しずれていたら助からなかったらしい。実際、一度は心肺停止までいったと聞いている。
それなのに僕は、こうして普通に立っていた。歩けるし、食事もできる。痛みだって、もうほとんど残っていない。
「医者も驚いてたぞ」
「そうなんですか」
「そうなんですかじゃねえよ」
高坂さんは呆れたように笑った。
「お前はいつもそうだ」
「?」
「重傷を負っても、気付いたら元気になってる」
言われてみればそうだった。死にかけたことは一度や二度じゃない。爆風に巻き込まれたこともある。瓦礫の下敷きになったこともある。それでも僕は生きていた。
「運がいいだけですよ」
そう言うと、高坂さんはゆっくり首を振った。
「違うな」
病室に沈黙が落ちる。機械音だけが規則正しく響いていた。
しばらく天井を見つめていた高坂さんが、ぽつりと呟く。
「俺はダメみたいだ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「そんな――」
「分かるんだよ」
高坂さんは笑った。いつもの穏やかで元気な笑顔だった。けれど、どこか諦めたような笑顔でもあった。
「自分の身体のことくらいな」
何も言えなかった。何か言わなければいけない気はした。でも言葉が出てこない。
「だからさ」
高坂さんはゆっくりと、真っ直ぐにこちらを見る。
「生き残れよ」
「高坂さん……」
「お前なら大丈夫だろ」
いつもの調子で、いつもの軽口みたいな口調だった。いつもと、なんら変わっていなかった。
「しぶといからな」
そう言って、高坂さんは今まで僕が見てきた中で1番元気に、嬉しそうに笑った。
高坂さんは三日後に死んだ。
そして、その一か月後。
噂だったはずの宇宙移民計画は現実になった。世界中の端末へ同じ放送が流れる。
「人類の存続は困難である。地球放棄を決定し、移民船を発進する」
誰も笑わなかった。誰も信じていなかった噂が、本当になってしまったからだ。
その日、僕たちは地球を捨てた。
発進してから少し経つと、窓の外に青い星が見えた。生まれ育った世界で、家族がいた場所で、七海がいた場所。そして、高坂さんが眠る場所。
小さくなっていく地球を見ながら、僕はただ黙っていた。何を言えばいいのか分からなかったからだ。見送る言葉も、別れの言葉も。何一つ浮かばなかった。
移民船の中では、誰もが疲れ果てていた。
地球はもうない。少なくとも、帰れる場所ではなくなった。故郷を失ったのは僕だけじゃない。皆同じだった。
誰もが何かを置いてきた。それは家族だったかもしれない。友人だったかもしれない。あるいは、未来だったかもしれない。
皆、何かを失って、人類の生き残りとしてこの船に乗っていた。
それでも人間は強かった。数年が経つ頃には笑う人も増えた。色んな人の子供も生まれた。新しい学校が作られた。新しい街もできた。
人類は前を向こうとしていた。
僕も手伝った。街を、畑を作るのを。人が暮らす場所を作るのを。
理由なんて、高坂さんに怒られそうだと思ったからだ。生き残れと言われたのだ。なら、生きなければならない。
それでも、七海のことを忘れたことは一日もなかった。
移民名簿を調べた。乗船記録を調べた。避難船の記録を調べた。何度も、何年も、何十年も。けれど見つからなかった。
「まだ探してるのか?」
何回も仲間に聞かれたことがある。
「幼馴染なんだ」
そう答えると、皆それ以上は聞かなかった。
新しい星へ移住した。また別の星へ移住した。人類は生き残るために移動を続けた。
僕もその旅路を共にした。
気付けば周囲の顔ぶれは変わっていた。昔から知っている人もいた。その子供もいた。孫もいた。
「歳だなあ」
白髪を増やした仲間が穏やかな顔で言う。
「そうですね」
「お前には分からんだろうが」
笑い声が上がる。
その頃はまだ、僕も一緒に笑っていた。
それからさらに年月が流れる。街が増えた。人が増えた。墓も増えた。
見送ることにも慣れてしまった。慣れたくなんてなかったのに。
ある日、食堂で仲間たちと食事をしていた時だった。
「そういやさ」
誰かが言った。
「ん?」
「お前、全然変わんねぇな」
周囲が笑う。
「あー、確かに」
「若作りか?」
「秘訣教えろよ」
冗談だった。いつも通りの軽口だった。
だからこそ、僕だけ笑えなかった。
目の前の仲間には皺が増えている。白髪も増えている。昔は黒かった髪が、いつの間にか灰色になっていた。そう言えば、その息子ももう大人だった。
その時初めて気付いた。変わっていないのは僕だけだと。
食堂の窓ガラスに映る自分を見る。そこにいたのは、何十年も前と変わらない自分だった。
不意に、忘れかけていた顔が脳裏をよぎる。無邪気に笑う神。
『長生きできるよ』
あの日の言葉だった。
その瞬間に、胸の奥に小さな不安が芽生えた。
そして、それは生まれて初めて感じる種類の恐怖だった。
最初の頃は数えていた。一日、一週間、一か月。けれど戦場に出てしまえば、そんなものはすぐ曖昧になる。昨日と今日の違いすら分からなくなるからだ。
戦場は地獄だった。硝煙の匂いに、鳴り止まない砲撃音。怒号と悲鳴が混ざり合い、血の匂いさえしてくる。
初めて実戦に出た日、僕は吐いた。仲間の死体を見た日の夜も吐いた。二人目の時も、三人目の時も。
でもそのうち吐かなくなった。慣れたくないものに、慣れてしまった。
「おい、新兵」
最初に話しかけてきたのは高坂さんだった。三十歳手前くらいの男で、人懐っこい笑顔が印象的な人だった。戦場にいることが不思議なくらいよく笑う。
そして、よく生き残る人だった。
「顔色悪いな」
「……そうですか」
「悪い」
高坂さんは笑いながら缶コーヒーを放って寄越す。
「死ぬなよ」
その言葉は妙に軽かった。けれど戦場では、それが挨拶代わりだった。
高坂さんには色々教わった。身を隠す場所、危険な音、安全な音、銃の扱い、生き残る方法。
「覚えとけ」
高坂さんは笑って言う。
「英雄は死ぬ」
「はい…?」
「生き残る奴が一番偉い」
戦場らしい理屈だった。けれど、その言葉のおかげで何度も助かった。
戦争は終わらなかった。むしろ悪化していった。地球各地の戦線は崩壊し始めていた。どれだけ兵を送り込んでも足りない。勝っているのか負けているのかも分からない。
ただひとつ分かることがあった。人類は確実に追い詰められていた。
そんな頃だった。宇宙移民計画なんて噂が流れ始めたのは。
「聞いたか?」
休憩中、誰かが言った。
「何を」
「宇宙移民計画だよ」
その場にいた皆が笑った。
「また与太話か」
「今度は火星か?」
「いや、もっと遠いらしいぞ」
誰かが肩を竦める。
「人類を宇宙へ逃がすんだとさ」
その頃はまだ、僕も、仲間も、上司も、誰も信じていなかった。
高坂さんが負傷したのは、その少し後だった。
病室には消毒液の匂いが漂っていた。
ベッドの上の高坂さんはいつものように笑っていた。けれど顔色は悪い。誰が見ても分かるくらいに。
「起きてていいんですか」
「寝てても暇なんだよ」
高坂さんは苦笑する。そして僕を見るなり呆れたように言った。
「お前も大概だよな」
「何がです」
「その傷だよ」
視線が脇腹へ向く。先週の戦闘で受けた銃創だった。あと少しずれていたら助からなかったらしい。実際、一度は心肺停止までいったと聞いている。
それなのに僕は、こうして普通に立っていた。歩けるし、食事もできる。痛みだって、もうほとんど残っていない。
「医者も驚いてたぞ」
「そうなんですか」
「そうなんですかじゃねえよ」
高坂さんは呆れたように笑った。
「お前はいつもそうだ」
「?」
「重傷を負っても、気付いたら元気になってる」
言われてみればそうだった。死にかけたことは一度や二度じゃない。爆風に巻き込まれたこともある。瓦礫の下敷きになったこともある。それでも僕は生きていた。
「運がいいだけですよ」
そう言うと、高坂さんはゆっくり首を振った。
「違うな」
病室に沈黙が落ちる。機械音だけが規則正しく響いていた。
しばらく天井を見つめていた高坂さんが、ぽつりと呟く。
「俺はダメみたいだ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「そんな――」
「分かるんだよ」
高坂さんは笑った。いつもの穏やかで元気な笑顔だった。けれど、どこか諦めたような笑顔でもあった。
「自分の身体のことくらいな」
何も言えなかった。何か言わなければいけない気はした。でも言葉が出てこない。
「だからさ」
高坂さんはゆっくりと、真っ直ぐにこちらを見る。
「生き残れよ」
「高坂さん……」
「お前なら大丈夫だろ」
いつもの調子で、いつもの軽口みたいな口調だった。いつもと、なんら変わっていなかった。
「しぶといからな」
そう言って、高坂さんは今まで僕が見てきた中で1番元気に、嬉しそうに笑った。
高坂さんは三日後に死んだ。
そして、その一か月後。
噂だったはずの宇宙移民計画は現実になった。世界中の端末へ同じ放送が流れる。
「人類の存続は困難である。地球放棄を決定し、移民船を発進する」
誰も笑わなかった。誰も信じていなかった噂が、本当になってしまったからだ。
その日、僕たちは地球を捨てた。
発進してから少し経つと、窓の外に青い星が見えた。生まれ育った世界で、家族がいた場所で、七海がいた場所。そして、高坂さんが眠る場所。
小さくなっていく地球を見ながら、僕はただ黙っていた。何を言えばいいのか分からなかったからだ。見送る言葉も、別れの言葉も。何一つ浮かばなかった。
移民船の中では、誰もが疲れ果てていた。
地球はもうない。少なくとも、帰れる場所ではなくなった。故郷を失ったのは僕だけじゃない。皆同じだった。
誰もが何かを置いてきた。それは家族だったかもしれない。友人だったかもしれない。あるいは、未来だったかもしれない。
皆、何かを失って、人類の生き残りとしてこの船に乗っていた。
それでも人間は強かった。数年が経つ頃には笑う人も増えた。色んな人の子供も生まれた。新しい学校が作られた。新しい街もできた。
人類は前を向こうとしていた。
僕も手伝った。街を、畑を作るのを。人が暮らす場所を作るのを。
理由なんて、高坂さんに怒られそうだと思ったからだ。生き残れと言われたのだ。なら、生きなければならない。
それでも、七海のことを忘れたことは一日もなかった。
移民名簿を調べた。乗船記録を調べた。避難船の記録を調べた。何度も、何年も、何十年も。けれど見つからなかった。
「まだ探してるのか?」
何回も仲間に聞かれたことがある。
「幼馴染なんだ」
そう答えると、皆それ以上は聞かなかった。
新しい星へ移住した。また別の星へ移住した。人類は生き残るために移動を続けた。
僕もその旅路を共にした。
気付けば周囲の顔ぶれは変わっていた。昔から知っている人もいた。その子供もいた。孫もいた。
「歳だなあ」
白髪を増やした仲間が穏やかな顔で言う。
「そうですね」
「お前には分からんだろうが」
笑い声が上がる。
その頃はまだ、僕も一緒に笑っていた。
それからさらに年月が流れる。街が増えた。人が増えた。墓も増えた。
見送ることにも慣れてしまった。慣れたくなんてなかったのに。
ある日、食堂で仲間たちと食事をしていた時だった。
「そういやさ」
誰かが言った。
「ん?」
「お前、全然変わんねぇな」
周囲が笑う。
「あー、確かに」
「若作りか?」
「秘訣教えろよ」
冗談だった。いつも通りの軽口だった。
だからこそ、僕だけ笑えなかった。
目の前の仲間には皺が増えている。白髪も増えている。昔は黒かった髪が、いつの間にか灰色になっていた。そう言えば、その息子ももう大人だった。
その時初めて気付いた。変わっていないのは僕だけだと。
食堂の窓ガラスに映る自分を見る。そこにいたのは、何十年も前と変わらない自分だった。
不意に、忘れかけていた顔が脳裏をよぎる。無邪気に笑う神。
『長生きできるよ』
あの日の言葉だった。
その瞬間に、胸の奥に小さな不安が芽生えた。
そして、それは生まれて初めて感じる種類の恐怖だった。
