戦争が始まったらしい。
最初にそれを知ったのは、夕食時に流れていたニュースだった。画面の向こうでは黒煙が上がっていた。崩れた建物、燃える車、怒鳴り声とサイレン。テレビ越しでも十分悲惨だった。けれど、正直なところ、実感はなかった。遠い国の出来事だったからだ。
「また戦争だって」
味噌汁を飲みながら呟く。
母さんは顔をしかめた。
「嫌ねぇ……」
「まあでも、日本は関係ないだろ」
何気なく言った言葉だった。
すると向かい側で食事をしていた父さんが箸を止めた。
「そうとも言い切れんぞ」
静かな声だった。
僕は首を傾げる。父さんの言葉の意味が、その時はよく分からなかった。
季節はゆっくりと流れていった。
学校へ行く。授業を受ける。友達と馬鹿な話をする。帰りに七海と河川敷へ寄る。空を見上げる。それまでと何も変わらない。
変わったのはテレビくらいだった。どの局も戦争ばかり流していた。朝も、昼も、夜も。
まるで世界中がその話題しかなくなったみたいに。
「ねえ、湊くん」
戦争が始まった冬の終わりが近づいてきた頃。河川敷で七海がぽつりと言った。
「ん?」
「戦争、怖くない?」
珍しく真面目な声だった。
僕は少し考える。けれど答えはすぐに出た。
「遠い国の話だろ」
「そうだけど」
「そのうち終わるって」
根拠なんてない。ただ、そうであってほしかっただけだ。
七海は何も言わなかった。代わりに夜空を見上げる。その横顔が少しだけ不安そうに見えた。
戦争は終わらなかった。春が過ぎても、夏の終わりになっても、終わらなかった。むしろ広がっていった。戦う国は増え続け、ニュースの内容はどんどん重くなっていった。
それでも僕たちは普通に暮らしていた。だから、どこか他人事だった。
夏の日差しも鳴りを潜めたある日の夜、いつものようにテレビをつける。ニュースでやっぱり戦争の話をしていた。
僕はうんざりしてリモコンを押した。チャンネルを変える。また変える。さらに変える。
「あ」
思わず声が出た。アニメだった。賑やかな主題歌。見慣れたキャラクターたち。世界を救うために走り回る主人公。いつもと変わらない光景だった。
なんとなく肩の力が抜ける。
「……なんだ」
少し笑ってしまう。理由なんてない。本当に、なにもない。
それでも不思議と安心した。テレビ東京がアニメを放送している。なら、まだ大丈夫だ。そんな気がした。
翌日、その話を七海にしたら盛大に笑われた。
「何その基準!」
「いや、分かるだろ」
「全然分かんないよ」
「分かるって」
「分かんないってば」
七海は笑いながら何度も首を振った。
ひとしきり振った後、七海は笑うのをやめてぽつりと言った。
「でも、そのアニメ私も見てる」
一瞬だけ顔を見合わせる。その次の瞬間、二人同時に吹き出した。
その頃はまだ、本当にそう思っていた。テレビ東京がアニメを流している限り、世界は終わらないのだと。
秋の中頃に差しかかった頃、段々と全ての物価が上がっていった。
最初に変わったのはガソリン代だった。給油のたびに値札が上がり、ニュースでは燃料不足の話題が増えていく。
次に電気料金が上がった。父さんは毎月届く請求書を見るたびにため息を吐いていた。
それからだった。スーパーの商品が少しずつ高くなり始めたのは。気付けば棚は以前より寂しくなり、売り切れの札も珍しくなくなっていた。
戦争は遠い国で続いているはずだった。けれど、その影響は確かに僕たちの生活へ入り込み始めていた。
秋が終わる頃には、日本近海でも衝突が起きていた。
連日流れる緊急速報。増えていく避難訓練。空を飛ぶ戦闘機。見慣れた景色が少しずつ変わっていく。
気付けば、学校でも戦争の話ばかりになっていた。誰も「怖い」とは言わない。けれど、休み時間の話題はいつの間にかゲームや恋愛から戦争へ変わった。
皆、不安だったのだと思う。僕も含めて。
それでも、まだどこかで信じていた。ここまでは来ないだろう、と。
秋の涼しさが遠のいていくある日の夜。
何気なくテレビをつけた。ちょうどアニメの放送時間だった。けれど、画面には見慣れない文字が並んでいた。
硬い表情のアナウンサーが淡々と言葉を並べる。戦況。国際情勢。安全保障。聞き慣れない単語ばかりだった。
僕はしばらく画面を見つめる。そして小さく呟いた。
「終わったな」
アニメじゃなくて。
きっと、もっと別の何かが。
翌日、その話を七海にすると、
「湊くんにとっての終末判定、やっぱりそこなんだ」
と呆れられた。でも七海は笑わなかった。
僕も笑えなかった。
その冬。
日本は参戦した。
朝からサイレンが鳴っていた。聞いたことのない音だった。嫌になるほど長く、大きく、街中に響いていた。
テレビでも特別番組が流れている。テレ東ですらアニメをやっていなかった。
誰もが知っていた。
もう後戻りできないことを。
学校は休校になった。グラウンドには自衛隊車両が並び始める。校庭にいた子供たちの声は消えた。代わりに聞こえるのは、サイレンばかりだった。
街の空気も変わった。人々は下を向いて歩く。スーパーの棚は半分ほど空いている。駅前の大型モニターでは連日戦況が流れていた。
誰も笑わないし、未来の話をしない。
それでも、七海だけは時々空を見上げていた。
「ねえ」
ある日の帰り道。七海が立ち止まって上を見る。
「星」
つられて空を見る。街灯が減ったせいで、以前よりよく見えた。
「皮肉だよね」
「何が」
「世界が悪くなればなるほど、星が綺麗になるんだもん」
返事はできなかった。その通りだと思ってしまったからだ。
その数週間後。
僕のもとに封筒が届いた。開く前から分かっていた。最近テレビで、嫌というほどに何度も見た封筒だった。
徴兵通知。
手のひらが冷たくなる。冬のせいじゃなかった。
夕方、僕は七海を河川敷へ呼び出した。あの日と同じ場所だった。いつも二人で話をしていた場所。星を見上げた場所。馬鹿みたいな約束をした場所。
けれど、その日の景色はどこか違って見えた。冬の風が冷たい。川の流れる音だけが静かに響いている。
七海は僕の隣に立った。だが、しばらく2人とも口を開かなかった。
言いたいことはたくさんあったはずなのに。いざ言葉にしようとすると、何も出てこない。
「……行くんだね」
先に口を開いたのは七海だった。僕は小さく頷く。
「うん」
それだけだった。それだけしか言えなかった。
七海もそれ以上は聞かなかった。
分かっていたのだと思う。徴兵通知が届いたことも。断ることなんてできないことも。僕が怖がっていることも、全部。全部、だ。
「ねえ」
「ん?」
「怪我しないでね」
思わず苦笑する。
「努力はする」
「必ずだよ」
「無茶言うな」
「無茶じゃないもん」
七海は少しだけ頬を膨らませた。いつも通りの表情だった。
それなのに、今にも泣き出しそうに見えた。
「ちゃんと帰ってきて」
その言葉に僕は返事を詰まらせる。
帰れる保証なんてどこにもない。生き残れる保証もない。だけど、ここで本当のことなんて言えるはずがなかった。
「帰るよ」
だからそう言った。
七海は僕の顔をしばらく見つめていた。何かを確かめるように。あるいは、その顔を覚えておくように。
やがて小さく笑う。泣きそうな顔で。
「嘘つき」
「なんでだよ」
「だって今、不安そうな顔してた」
「してない」
「してた」
「してない」
七海は少しだけ笑った。僕も笑う。不思議なくらい、いつも通りだった。だから余計につらかった。
この時間が終われば、僕たちは離れ離れになる。分かっているのに、何もできなかった。
風が吹く。冷たい風だった。七海の髪がふわりと揺れる。
「湊くん」
「ん?」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
七海は何かを言いかけて、少し迷って。そして笑った。
「絶対また会おうね」
その言葉だけで十分だった。言いたいことも、不安も。全部その一言に詰まっている気がした。
僕はゆっくり頷く。
「当たり前だろ」
七海も頷いた。
それ以上、何も言わなかった。言ってしまえば、本当に最後になってしまう気がしたから。
だから僕たちはしばらく黙ったまま、その場所にいた。いつもみたいに。何も変わらないみたいに。
けれど、その約束が、二人で交わした最後の約束になるなんて。
その時の僕たちは、夢にも思っていなかった。
数日後、僕は故郷を離れた。
最初にそれを知ったのは、夕食時に流れていたニュースだった。画面の向こうでは黒煙が上がっていた。崩れた建物、燃える車、怒鳴り声とサイレン。テレビ越しでも十分悲惨だった。けれど、正直なところ、実感はなかった。遠い国の出来事だったからだ。
「また戦争だって」
味噌汁を飲みながら呟く。
母さんは顔をしかめた。
「嫌ねぇ……」
「まあでも、日本は関係ないだろ」
何気なく言った言葉だった。
すると向かい側で食事をしていた父さんが箸を止めた。
「そうとも言い切れんぞ」
静かな声だった。
僕は首を傾げる。父さんの言葉の意味が、その時はよく分からなかった。
季節はゆっくりと流れていった。
学校へ行く。授業を受ける。友達と馬鹿な話をする。帰りに七海と河川敷へ寄る。空を見上げる。それまでと何も変わらない。
変わったのはテレビくらいだった。どの局も戦争ばかり流していた。朝も、昼も、夜も。
まるで世界中がその話題しかなくなったみたいに。
「ねえ、湊くん」
戦争が始まった冬の終わりが近づいてきた頃。河川敷で七海がぽつりと言った。
「ん?」
「戦争、怖くない?」
珍しく真面目な声だった。
僕は少し考える。けれど答えはすぐに出た。
「遠い国の話だろ」
「そうだけど」
「そのうち終わるって」
根拠なんてない。ただ、そうであってほしかっただけだ。
七海は何も言わなかった。代わりに夜空を見上げる。その横顔が少しだけ不安そうに見えた。
戦争は終わらなかった。春が過ぎても、夏の終わりになっても、終わらなかった。むしろ広がっていった。戦う国は増え続け、ニュースの内容はどんどん重くなっていった。
それでも僕たちは普通に暮らしていた。だから、どこか他人事だった。
夏の日差しも鳴りを潜めたある日の夜、いつものようにテレビをつける。ニュースでやっぱり戦争の話をしていた。
僕はうんざりしてリモコンを押した。チャンネルを変える。また変える。さらに変える。
「あ」
思わず声が出た。アニメだった。賑やかな主題歌。見慣れたキャラクターたち。世界を救うために走り回る主人公。いつもと変わらない光景だった。
なんとなく肩の力が抜ける。
「……なんだ」
少し笑ってしまう。理由なんてない。本当に、なにもない。
それでも不思議と安心した。テレビ東京がアニメを放送している。なら、まだ大丈夫だ。そんな気がした。
翌日、その話を七海にしたら盛大に笑われた。
「何その基準!」
「いや、分かるだろ」
「全然分かんないよ」
「分かるって」
「分かんないってば」
七海は笑いながら何度も首を振った。
ひとしきり振った後、七海は笑うのをやめてぽつりと言った。
「でも、そのアニメ私も見てる」
一瞬だけ顔を見合わせる。その次の瞬間、二人同時に吹き出した。
その頃はまだ、本当にそう思っていた。テレビ東京がアニメを流している限り、世界は終わらないのだと。
秋の中頃に差しかかった頃、段々と全ての物価が上がっていった。
最初に変わったのはガソリン代だった。給油のたびに値札が上がり、ニュースでは燃料不足の話題が増えていく。
次に電気料金が上がった。父さんは毎月届く請求書を見るたびにため息を吐いていた。
それからだった。スーパーの商品が少しずつ高くなり始めたのは。気付けば棚は以前より寂しくなり、売り切れの札も珍しくなくなっていた。
戦争は遠い国で続いているはずだった。けれど、その影響は確かに僕たちの生活へ入り込み始めていた。
秋が終わる頃には、日本近海でも衝突が起きていた。
連日流れる緊急速報。増えていく避難訓練。空を飛ぶ戦闘機。見慣れた景色が少しずつ変わっていく。
気付けば、学校でも戦争の話ばかりになっていた。誰も「怖い」とは言わない。けれど、休み時間の話題はいつの間にかゲームや恋愛から戦争へ変わった。
皆、不安だったのだと思う。僕も含めて。
それでも、まだどこかで信じていた。ここまでは来ないだろう、と。
秋の涼しさが遠のいていくある日の夜。
何気なくテレビをつけた。ちょうどアニメの放送時間だった。けれど、画面には見慣れない文字が並んでいた。
硬い表情のアナウンサーが淡々と言葉を並べる。戦況。国際情勢。安全保障。聞き慣れない単語ばかりだった。
僕はしばらく画面を見つめる。そして小さく呟いた。
「終わったな」
アニメじゃなくて。
きっと、もっと別の何かが。
翌日、その話を七海にすると、
「湊くんにとっての終末判定、やっぱりそこなんだ」
と呆れられた。でも七海は笑わなかった。
僕も笑えなかった。
その冬。
日本は参戦した。
朝からサイレンが鳴っていた。聞いたことのない音だった。嫌になるほど長く、大きく、街中に響いていた。
テレビでも特別番組が流れている。テレ東ですらアニメをやっていなかった。
誰もが知っていた。
もう後戻りできないことを。
学校は休校になった。グラウンドには自衛隊車両が並び始める。校庭にいた子供たちの声は消えた。代わりに聞こえるのは、サイレンばかりだった。
街の空気も変わった。人々は下を向いて歩く。スーパーの棚は半分ほど空いている。駅前の大型モニターでは連日戦況が流れていた。
誰も笑わないし、未来の話をしない。
それでも、七海だけは時々空を見上げていた。
「ねえ」
ある日の帰り道。七海が立ち止まって上を見る。
「星」
つられて空を見る。街灯が減ったせいで、以前よりよく見えた。
「皮肉だよね」
「何が」
「世界が悪くなればなるほど、星が綺麗になるんだもん」
返事はできなかった。その通りだと思ってしまったからだ。
その数週間後。
僕のもとに封筒が届いた。開く前から分かっていた。最近テレビで、嫌というほどに何度も見た封筒だった。
徴兵通知。
手のひらが冷たくなる。冬のせいじゃなかった。
夕方、僕は七海を河川敷へ呼び出した。あの日と同じ場所だった。いつも二人で話をしていた場所。星を見上げた場所。馬鹿みたいな約束をした場所。
けれど、その日の景色はどこか違って見えた。冬の風が冷たい。川の流れる音だけが静かに響いている。
七海は僕の隣に立った。だが、しばらく2人とも口を開かなかった。
言いたいことはたくさんあったはずなのに。いざ言葉にしようとすると、何も出てこない。
「……行くんだね」
先に口を開いたのは七海だった。僕は小さく頷く。
「うん」
それだけだった。それだけしか言えなかった。
七海もそれ以上は聞かなかった。
分かっていたのだと思う。徴兵通知が届いたことも。断ることなんてできないことも。僕が怖がっていることも、全部。全部、だ。
「ねえ」
「ん?」
「怪我しないでね」
思わず苦笑する。
「努力はする」
「必ずだよ」
「無茶言うな」
「無茶じゃないもん」
七海は少しだけ頬を膨らませた。いつも通りの表情だった。
それなのに、今にも泣き出しそうに見えた。
「ちゃんと帰ってきて」
その言葉に僕は返事を詰まらせる。
帰れる保証なんてどこにもない。生き残れる保証もない。だけど、ここで本当のことなんて言えるはずがなかった。
「帰るよ」
だからそう言った。
七海は僕の顔をしばらく見つめていた。何かを確かめるように。あるいは、その顔を覚えておくように。
やがて小さく笑う。泣きそうな顔で。
「嘘つき」
「なんでだよ」
「だって今、不安そうな顔してた」
「してない」
「してた」
「してない」
七海は少しだけ笑った。僕も笑う。不思議なくらい、いつも通りだった。だから余計につらかった。
この時間が終われば、僕たちは離れ離れになる。分かっているのに、何もできなかった。
風が吹く。冷たい風だった。七海の髪がふわりと揺れる。
「湊くん」
「ん?」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
七海は何かを言いかけて、少し迷って。そして笑った。
「絶対また会おうね」
その言葉だけで十分だった。言いたいことも、不安も。全部その一言に詰まっている気がした。
僕はゆっくり頷く。
「当たり前だろ」
七海も頷いた。
それ以上、何も言わなかった。言ってしまえば、本当に最後になってしまう気がしたから。
だから僕たちはしばらく黙ったまま、その場所にいた。いつもみたいに。何も変わらないみたいに。
けれど、その約束が、二人で交わした最後の約束になるなんて。
その時の僕たちは、夢にも思っていなかった。
数日後、僕は故郷を離れた。
