吐いた息が雪みたいに白かった。冬の河川敷は特に冷える。手袋をしていても指先が痛くなるくらいに。
普通なら、とっくに家へ帰っている時間だった。
けれど、隣には七海がいた。だから僕はまだここにいる。
「寒くないのかよ」
僕がそう言うと、七海は寝転がったまま言った。
「寒いよ」
「じゃあ帰れよ」
「帰らない」
「なんで」
「オリオン座が綺麗だから」
「意味分かんないんだけど」
七海はくすりと笑った。吐き出された白い息が夜空へ溶けていくように、僕も空を見上げる。
星なんて詳しくない。オリオン座と言われても、なんとなく分かる程度だ。
だけど、今夜の空が綺麗だということくらいは分かった。冬の澄んだ空気の向こうで、無数の星々が瞬いている。
七海は昔から星が好きだった。小学生の頃は天体図鑑を読んでいたし、中学生になってからは望遠鏡まで買っていた。将来は宇宙に行くのだと、本気で言っている。そんな奴だった。
「ねえ、湊くん」
「なんだよ」
「ベテルギウスって知ってる?」
「知らん」
「オリオン座の肩のところにある赤い星」
「へえ」
「いつか爆発するんだって」
「物騒だな」
「でもね」
七海は空へ向かって人差し指を伸ばした。
「あんなに遠い場所で爆発した星の光が、何百年もかけて地球まで届くんだよ」
「ふーん」
「ロマンないなあ」
「現実的って言ってくれ」
七海が笑う。その笑い声につられて、僕も少しだけ笑った。
静かな夜だった。遠くを走る車の音、川のせせらぎ、冷たい風。そして七海の声。ずっと続けばいいと思った。
そんなこと、考えたこともなかったはずなのに。
「ねえ」
「今度は何」
「宇宙、行きたいな」
「また始まった」
「いいじゃん」
七海は不満そうに頬を膨らませる。
「だって宇宙だよ?」
「宇宙だな」
「夢ないなあ」
「夢だけじゃ宇宙には行けないだろ」
「じゃあ湊くんが現実担当ね」
「勝手に決めるな」
「私は夢担当」
「聞いてない」
「二人で行けば完璧」
そう言って七海は笑う。冬の星空の下で、まるで本当にそうなると信じているみたいに。
しばらく沈黙が続いた。
寒さのせいか、肩が少し震える。その時、七海が空へ向かって手を伸ばした。まるで星を掴もうとしているみたいに。
僕は思わず吹き出した。
「何やってんだ」
「見て分からない?」
「全然」
「星を掴もうとしてる」
「無理だろ」
「またそれ!」
七海は立ち上がった。頬を膨らませながら僕を指差す。
「じゃあ約束しよう」
「何を」
「いつか絶対に」
一拍置いて、七海は満天の星空を、満面の笑みで見上げた。
「二人で星を掴みに行こう」
その声だけは真剣だった。冗談じゃない。いつもの思いつきでもない。本気だった。だから僕は少しだけ返事に困った。
星なんて掴めるはずがない。宇宙に行ける保証もない。現実的に考えれば馬鹿げている。
だけど、七海がそう言うと、本当にできる気がしてしまうから不思議だった。
「……分かったよ」
「ほんと!?」
「その代わり」
「うん!」
「星を掴む方法くらい考えとけ」
一瞬きょとんとした後、七海は声を上げて笑った。
その笑顔が、やけに眩しく見えた。冬の夜空に輝くどの星よりも。
「そろそろ帰ろっか」
七海が立ち上がる。僕も身体を起こした。思った以上に身体が冷えていたらしく、足先の感覚が少し鈍かった。
「寒いって言ったのお前だろ」
「でもまだ見てたい」
「帰るんじゃなかったのかよ」
「帰りながら見る」
「危ないから前見ろ」
「あははっ」
七海は笑いながら先を歩いていく。僕はその後ろ姿を追いかけた。街灯の明かりが川面に反射している。
静かな夜だった。少なくとも、その瞬間までは。
何がきっかけだったのか。今では思い出せない。眩しい光だったかもしれない。甲高いブレーキ音だったかもしれない。七海の叫び声だったかもしれない。
ただ、世界がひっくり返った感覚だけは覚えていた。衝撃、浮遊感、そして――痛み。
目を開けると、真っ白だった。空も地面もない。上下すら分からない。
「……ここ、どこだ」
声は出た。痛みはない。寒くもないし、暖かくもない。何もない。
まるで世界そのものが消えてしまったみたいだった。
「起きた」
突然、声がした。僕は飛び上がりそうになる。
「うわっ!?」
いつの間にか目の前に誰かがいた。
年齢も性別も分からない。子供にも見えるし、大人にも見える。男にも見えるし、女にも見える。ただ、普通じゃないことだけは分かった。
「誰だよ」
「神様」
「は?」
「神様」
もう一度言われたが、意味が分からない。
「信じてない顔だね」
「当たり前だろ」
「まあそうか」
神様と名乗ったそれは、妙に楽しそうに笑った。まるで他人事みたいに。
「君、死にかけてるんだ」
「……」
「あと少しだったのにね」
「何が」
「人生」
ぞくり、とした。その言葉だけ妙に現実味があった。七海は、僕は、どうなったんだ。
「七海は!?」
「ああ、大丈夫」
神はあっさり答える。
「生きてるよ」
張り詰めていたものが少しだけ緩む。
よかった。本当によかった。それだけが頭に浮かんだ。
神はそんな僕を見て、また笑った。
「でもさ」
「……?」
「もったいないなぁ」
不意にそんなことを言った。
「何がだよ」
「君」
神は、不満そうに唇を尖らせた。まるで、気に入っていた遊びを途中で終わらせなければならなくなった子供みたいな顔だった。
「面白そうなのに」
「は?」
「ここで終わっちゃうの、もったいないじゃん」
本当に意味が分からなかった。この自称神様は何を言っているんだ。
けれど神は気にした様子もない。何かを思いついた子供みたいな顔をしていた。
「あ、そうだ」
ぽん、と神が手を叩く。
「祝福をあげるよ」
「……は?」
「特別サービス」
嫌な予感がした。理由は分からない。でも、その笑顔を見た瞬間、なぜかそう思った。
「いらない」
「そう?」
「そうだよ」
「でももう決めた」
神は笑う。無邪気に、楽しそうに、そして。
「長生きできるよ」
そう笑って指を鳴らした。
次に目を開けた時、強い消毒液の匂いがした。白い天井が見えて、規則的な電子音が聞こえる。病院だった。
「……」
身体を起こそうとして、やめる。頭が重い。
けれど生きている。確かに、生きている。
「湊くん」
聞き慣れた声だった。
顔を向ける。そこには今にも泣きそうな顔でこちらを見る七海がいた。
「良かった……」
その一言を放った瞬間、七海の目から涙が零れ落ちた。僕は少しだけ慌てる。
「そんな泣くなよ」
「だ、だって……」
「生きてるだろ」
「それでも!」
七海は涙を拭いながら笑った。その顔を見て、僕も少しだけ笑った。
窓の外では冬の空が広がっている。あの日見た星空はもう見えない。けれど、今はそれで良かった。
その時の僕はまだ知らなかった。
あの日受け取ったものの意味を。
普通なら、とっくに家へ帰っている時間だった。
けれど、隣には七海がいた。だから僕はまだここにいる。
「寒くないのかよ」
僕がそう言うと、七海は寝転がったまま言った。
「寒いよ」
「じゃあ帰れよ」
「帰らない」
「なんで」
「オリオン座が綺麗だから」
「意味分かんないんだけど」
七海はくすりと笑った。吐き出された白い息が夜空へ溶けていくように、僕も空を見上げる。
星なんて詳しくない。オリオン座と言われても、なんとなく分かる程度だ。
だけど、今夜の空が綺麗だということくらいは分かった。冬の澄んだ空気の向こうで、無数の星々が瞬いている。
七海は昔から星が好きだった。小学生の頃は天体図鑑を読んでいたし、中学生になってからは望遠鏡まで買っていた。将来は宇宙に行くのだと、本気で言っている。そんな奴だった。
「ねえ、湊くん」
「なんだよ」
「ベテルギウスって知ってる?」
「知らん」
「オリオン座の肩のところにある赤い星」
「へえ」
「いつか爆発するんだって」
「物騒だな」
「でもね」
七海は空へ向かって人差し指を伸ばした。
「あんなに遠い場所で爆発した星の光が、何百年もかけて地球まで届くんだよ」
「ふーん」
「ロマンないなあ」
「現実的って言ってくれ」
七海が笑う。その笑い声につられて、僕も少しだけ笑った。
静かな夜だった。遠くを走る車の音、川のせせらぎ、冷たい風。そして七海の声。ずっと続けばいいと思った。
そんなこと、考えたこともなかったはずなのに。
「ねえ」
「今度は何」
「宇宙、行きたいな」
「また始まった」
「いいじゃん」
七海は不満そうに頬を膨らませる。
「だって宇宙だよ?」
「宇宙だな」
「夢ないなあ」
「夢だけじゃ宇宙には行けないだろ」
「じゃあ湊くんが現実担当ね」
「勝手に決めるな」
「私は夢担当」
「聞いてない」
「二人で行けば完璧」
そう言って七海は笑う。冬の星空の下で、まるで本当にそうなると信じているみたいに。
しばらく沈黙が続いた。
寒さのせいか、肩が少し震える。その時、七海が空へ向かって手を伸ばした。まるで星を掴もうとしているみたいに。
僕は思わず吹き出した。
「何やってんだ」
「見て分からない?」
「全然」
「星を掴もうとしてる」
「無理だろ」
「またそれ!」
七海は立ち上がった。頬を膨らませながら僕を指差す。
「じゃあ約束しよう」
「何を」
「いつか絶対に」
一拍置いて、七海は満天の星空を、満面の笑みで見上げた。
「二人で星を掴みに行こう」
その声だけは真剣だった。冗談じゃない。いつもの思いつきでもない。本気だった。だから僕は少しだけ返事に困った。
星なんて掴めるはずがない。宇宙に行ける保証もない。現実的に考えれば馬鹿げている。
だけど、七海がそう言うと、本当にできる気がしてしまうから不思議だった。
「……分かったよ」
「ほんと!?」
「その代わり」
「うん!」
「星を掴む方法くらい考えとけ」
一瞬きょとんとした後、七海は声を上げて笑った。
その笑顔が、やけに眩しく見えた。冬の夜空に輝くどの星よりも。
「そろそろ帰ろっか」
七海が立ち上がる。僕も身体を起こした。思った以上に身体が冷えていたらしく、足先の感覚が少し鈍かった。
「寒いって言ったのお前だろ」
「でもまだ見てたい」
「帰るんじゃなかったのかよ」
「帰りながら見る」
「危ないから前見ろ」
「あははっ」
七海は笑いながら先を歩いていく。僕はその後ろ姿を追いかけた。街灯の明かりが川面に反射している。
静かな夜だった。少なくとも、その瞬間までは。
何がきっかけだったのか。今では思い出せない。眩しい光だったかもしれない。甲高いブレーキ音だったかもしれない。七海の叫び声だったかもしれない。
ただ、世界がひっくり返った感覚だけは覚えていた。衝撃、浮遊感、そして――痛み。
目を開けると、真っ白だった。空も地面もない。上下すら分からない。
「……ここ、どこだ」
声は出た。痛みはない。寒くもないし、暖かくもない。何もない。
まるで世界そのものが消えてしまったみたいだった。
「起きた」
突然、声がした。僕は飛び上がりそうになる。
「うわっ!?」
いつの間にか目の前に誰かがいた。
年齢も性別も分からない。子供にも見えるし、大人にも見える。男にも見えるし、女にも見える。ただ、普通じゃないことだけは分かった。
「誰だよ」
「神様」
「は?」
「神様」
もう一度言われたが、意味が分からない。
「信じてない顔だね」
「当たり前だろ」
「まあそうか」
神様と名乗ったそれは、妙に楽しそうに笑った。まるで他人事みたいに。
「君、死にかけてるんだ」
「……」
「あと少しだったのにね」
「何が」
「人生」
ぞくり、とした。その言葉だけ妙に現実味があった。七海は、僕は、どうなったんだ。
「七海は!?」
「ああ、大丈夫」
神はあっさり答える。
「生きてるよ」
張り詰めていたものが少しだけ緩む。
よかった。本当によかった。それだけが頭に浮かんだ。
神はそんな僕を見て、また笑った。
「でもさ」
「……?」
「もったいないなぁ」
不意にそんなことを言った。
「何がだよ」
「君」
神は、不満そうに唇を尖らせた。まるで、気に入っていた遊びを途中で終わらせなければならなくなった子供みたいな顔だった。
「面白そうなのに」
「は?」
「ここで終わっちゃうの、もったいないじゃん」
本当に意味が分からなかった。この自称神様は何を言っているんだ。
けれど神は気にした様子もない。何かを思いついた子供みたいな顔をしていた。
「あ、そうだ」
ぽん、と神が手を叩く。
「祝福をあげるよ」
「……は?」
「特別サービス」
嫌な予感がした。理由は分からない。でも、その笑顔を見た瞬間、なぜかそう思った。
「いらない」
「そう?」
「そうだよ」
「でももう決めた」
神は笑う。無邪気に、楽しそうに、そして。
「長生きできるよ」
そう笑って指を鳴らした。
次に目を開けた時、強い消毒液の匂いがした。白い天井が見えて、規則的な電子音が聞こえる。病院だった。
「……」
身体を起こそうとして、やめる。頭が重い。
けれど生きている。確かに、生きている。
「湊くん」
聞き慣れた声だった。
顔を向ける。そこには今にも泣きそうな顔でこちらを見る七海がいた。
「良かった……」
その一言を放った瞬間、七海の目から涙が零れ落ちた。僕は少しだけ慌てる。
「そんな泣くなよ」
「だ、だって……」
「生きてるだろ」
「それでも!」
七海は涙を拭いながら笑った。その顔を見て、僕も少しだけ笑った。
窓の外では冬の空が広がっている。あの日見た星空はもう見えない。けれど、今はそれで良かった。
その時の僕はまだ知らなかった。
あの日受け取ったものの意味を。
