一緒に水族館行こうと約束した半月前。
そこから当たり前のように進展はなく、俺と匠は一定の距離を正しく守ったまま、着かず離れずという平行線を歩んでいた。
俺達のミスマッチな組み合わせも、ようやく日常に溶け込み、千葉や瀬尾から「なんで仲いいの?」と問いかけられる事も、もうない。
俺達は完全に自分の立ち位置に収まり、そしてそこから抜け出すような動きすら失ってしまっていた。
辛うじて、挨拶だけはするけれど、深い関りはない。時折匠から何気ないメッセージが飛んでくることもあるけれど、会話は特に長く続くわけでもなかった。
『明日、体育外だっけ?』
『たぶん、そうだったと思うけど、どうして?』
『何となく気になっただけ』
会話は多くて二往復程度。こんな取るに足らないやり取りだけが、スマホの画面に収まっている。
でも――それがなんだか、昔から知っている、匠のようで、俺は好きだった。
口下手で、話すことが得意じゃないのは知っている。だからこそ、懸命にどうでも良い話のネタを探してきて、こうしてメッセージをくれているような気がするのだ。
長く続くように、話を広げるべきなのかとも思ったが、何となく自分一人が、沼にハマりそうで怖くてできない。
外見も中身も変わってしまった匠の心の中に、何パーセントの俺が残っているのか不安だった。もし俺が残っているとしても、それが好きなのか、ただ回顧を楽しんでいるだけなのか、そこがどうしても分からない。
未練があるというなら、水族館に誘ってくれてもいいのに、それもない。――俺も男なんだから自分から行けよ、と自らの尻を叩く気持ちがないわけではないけれど、一度誘ってくれたなら、そこは匠に通してもらいたい気持ちもあった。――いや、俺がただ匠の気持ちを試したいというところが、本音かもしれない。
そう思うと、やはり考えつく先は、己の不甲斐なさと女々しさを痛感することだった。
「窮屈だ……」
「昼飯食い過ぎたか?」
「腹の話しじゃない」
気持ちの話しだ、と心の中でぼやいて、俺は机に伏せていた上体を起こし、窓の外へと視線を投げた。
五月下旬。梅雨手前ということもあってか、朝から霧雨のような細かい雨が続いている。
深く垂れこめた濃い灰色の厚い雲からは、太陽の光は一切洩れず、遠くまで暗く街を包んでいた。
しっとりと窓ガラスを濡らす雨は、暫く止みそうにない。
「ねえ、体育祭なんだけどさー、クラスT欲しくない?」
背後から聞こえてくる明るい声に、思わず片耳が動く。
「マジいらん」
「金の無駄」
げんなりしたような千葉と瀬尾が、同じように聞こえていたらしい「クラスT」という単語に不満を漏らす。
「そこまで否定する?」
思わずそう問いかけると、二人は「だってなぁ?」と顔を見合わせてから、いかにその「クラスT」が不必要で、お金の無駄で、悪であるのかを懇々と語り出した。俺はそんな二人の恨み節に何か「クラスT」に怨みでもあるのか、と突っ込んでから席を立つ。
「便所?」
「喉乾いた」
俺は財布片手に教室を一人で抜けると、一階の昇降口付近にある自動販売機へと向かった。
「ねえ、そっちのハチマキって何色?」
「うちは黄色〜」
「えー、いいな。うち緑なんだけど、マジ可愛くない。ホント盛れない」
すれ違う女子同士の会話を聞きながら、俺は階段の踊り場から見える窓の外を眺める。
体育祭ってなんで、梅雨の時期か夏終わりの、台風の時期に多いんだろうと、どうでもいい疑問が浮かんでくる。それと一緒に、このまま体育祭も梅雨の力を借りて、豪雨で中止とかにならないだろうかと思ってしまった。
極力、省エネで生きていきたい身としては、体育祭などというイベントごとは、苦痛以外の何ものでもない。楽しみにしている人たちがいるとすれば、大変申し訳ないが、楽しみでないものもいるのだ。
「凛、どこいくの?」
階段を下り切ったところで、背中を軽く叩かれた。振り返ると、そこには匠がいて、彼を認識した途端に、否が応にも身体が勝手に淡く熱を帯びる。緊張とか、不安とか、そういう不安定なものが、身体の芯を揺らした。
「喉乾いたから、お茶買いに……」
「そっか、付いてく」
——なんで? なんて、もちろん聞けるわけもなくて、そう? とその言葉を流して、自動販売機までゆっくりと歩く。
「なあ、凛はクラスTってどう思う?」
不意にあまり今は聞かれたくない質問をされて、俺は言葉を探した。——どう思うと聞かれても、瀬尾たちみたいに、お金の無駄とまでは思わなくとも、正直必要性は感じられない。けれど、体育祭を楽しもうとしている人たちや、いい思い出にしようとしている人たちがいるのは事実だ。そんな人たちの気持ちを、蔑ろにするつもりも、俺にはない。
「うーん、あんまり考えてなかったけど、それがいい思い出になる人がいるなら、いいんじゃない? まあ、多数決が無難かな」
「だよな。なんか女子がめちゃくちゃ張り切ってて、俺そういうノリって今までなかったから、よくわかんねぇ」
俺は首を傾げている匠を盗み見てから、自動販売機の前まで来ると、お茶のボタンを押して、タッチ決済を済ませる。がこん、と落ちてきたペットボトルを取り出して、顔を上げると、匠と目が合った。
「でも、クラスTってことはさ、合法的に凛とお揃いのTシャツが手に入るってことだよな?」
想像の範疇を超えたことを言われて、思わず言葉に詰まった。合法的にお揃い——ってなんだよ。それってつまり、俺とお揃いになるクラスTは欲しいってこと?
そう思い当たり、自分なりに理解して答えを出してしまうと、思わず耳の周りが、かあっと熱くなってくる。
「なん、だよ……その言い方、オタクっぽい」
「俺はずっとオタクですが」
「そうじゃなくて……」
揶揄われているのか、それとも本気で言っているのか分からなくて、俺はべりっと剥がすみたいに、匠から視線を外すと階段へと向かう。匠は「凛」と呼びながら、俺の隣まで来ると、
「なんか怒ってる?」
と顔を覗き込んできた。
「怒ってない。匠が変なこと言うから……」
「どこが変だった?」
真っ直ぐと問いかけられて、思わず言葉に詰まってしまった。正直に思ったことを伝えて、思い過ごしだったら怖い。俺だけ一人すれ違ったまま、匠を意識しているのだと——昔馴染みの友達に戻れていないのだと、分かってしまったら——そう思うと、素直に言葉が出てこない。
「凛?」
階段前で手を引かれて、立ち止まり振り返ると、匠が何も知らない無垢な眼差しで、じっと俺を見つめていた。昔から分からないことや理解できないことがあれば、幼い子どもみたいに「なんで?」と真っ直ぐ問いかけて来るあの眼差しが、まだ残っている。
それが悔しくて、切なくて——好きで——でも今は、それが俺を孤独にする。
「……なんでもない」
そう呟くと、思った以上に情けない声音で響いてしまい、俺はいつの間にか下がっていた視線を慌てて上げた。匠はそんな俺をじっと探るように見つめると、俺を引き留めていた手首をゆっくりと離した。
体温の離れていく切なさが、心にかすり傷を負わせる。
「ごめん、なんか嫌な言い方だよね」
「全然。こっちこそ、しつこく聞いてごめん」
俺たちの間にある空白を埋めるように、周りのざわめきが戻ってくる。俺はなんとなく言葉を紡げないまま、匠に背中を向けて階段を上がった。
またこうやって、今度は前とは違うすれ違い方をするのか。そう思うと、自分自身にも苛立ってくるが、匠にも八つ当たりしてしまいそうで怖い。自分から男らしく、はっきりと聞けばいいのに、なんで全部匠から言わせようとするんだ、俺は。女々しいを通り越して、いっそ鬱陶しい。
そんな自己嫌悪に駆られていると、俺を引き止めるように、また手首に力が掛かった。
「凛、あのさ」
反射的に振り返ると、二段下からこちらを見上げる匠がいた。まるで遊園地で迷子になった子どもみたいな眼差しに、今度ははっきりと胸の内側を抉られる。
「誤解して欲しくないから言うんだけど」
わずかに匠の声が震えている気がした。俺は申し訳なさ半分、そして引き留めてくれたことに内心どうしようもない喜びを感じてしまう。
握られた手首が熱い。
「俺、クラスTは凛とお揃いになるんだったら、嬉しいから欲しいって言いたかった」
自分の言葉が相手にどれくらい伝わるかなんて、わからない。だからと言って、言葉を諦めていいわけじゃない。
そんな思いが、匠の声音から伝わってくる。
「ごめん、周りくどかったかも」
そう口籠る匠に、俺は首を横に振った。匠は悪くない、ただ自分が女々しいことに、イライラしていただけなのだから。けれど、俺に誤解されたくはないという彼の気持ちが、ただただ嬉しい。
「……匠、あの」
匠が踏み出してくれた分だけでも、せめて、何か一つでも本当のことを伝えたい。そんな気持ちが湧き出してきて、俺は言葉を探した。
一ミリの寸分の狂いもなく、気持ちを伝えられたらいいと思う。そんなことはできないとは、わかっているけれど。
「ごめん、俺もなんて言っていいか分かんないんだけど」
「うん、それでもいい」
「俺も、それならちょっと欲しいなって」
「うん」
「思ったり、なんかしちゃったり……なんて」
「その思ったり、なんかしちゃったり、……っていうのは必要?」
「……今のところは、必要かもしれないかなって」
勇気が出しきれずに、誤魔化してしまった部分を、匠は笑って許してくれた。仕方ないなあと、子ども言い分を聞き入れる年上みたいに。
それがなんだか悔しい反面、温かくて、優しくて。思わず俺も口元が緩んでしまう。
すると、廊下に昼休みの終了五分前の予鈴が鳴り響き、周りがざわつきながら教室へと足早に戻り始めた。
「教室、戻るか」
「うん」
「あんま戻りたくねーけど」
「サボりは良くないよ」
「凛はずっと真面目だなぁ……」
「呆れたように言うなよ、こっちが正論だろ?」
手首からそっと匠が離れていき、俺はその手で軽く彼の肩を窘めるように叩いた。匠はそれに「はいはい」と、どこか嬉しそうに笑って、俺たちは正しい形で肩を並べると、教室のある三階へと急いだ。



