校外学習の当日。
学校に一度集まりバス移動となった時、
「凜」
と話しかけられた。振り返ると匠がいて、身体が僅かに緊張してしまう。
一緒に回るのを断って以降も、匠は態度を変えることなかった。俺が彼の視界に入れば、挨拶をするし、頭を撫でてこようとする。それらは子ども扱いみたいで少し恥ずかしいけれど、拒んだら匠が落ち込みそうで、嫌とも言えず、そのままにしている——実際本当に嫌なのか? と問われれば、そうとは言い切れない自分がいるから面倒だ。
「あのさ、バス一人席?」
目の前に停車しているクラス分の大型バスを前に、俺はバス内が自由席である事を思い出した。何となく千葉や瀬尾と近い席に座れば良いか、なんて思っていたから、あまり深く考えていなかった。確かに、最後尾の座席以外は二人並び席だから、三人だと一人あぶれる。一人席と言えばそうかもしれない。
集まり始めていたクラスメイトを見渡し、
「あんま考えてなかったけど、そうかも」
と告げると、
「俺もそうだから一緒に乗ろ」
匠は言葉とほとんど同時に、俺の手を握ってきた。俺が握った時よりも、大きく骨ばった手に、思わず心臓がどきりと音を立てる。
「たくみ~? 何処座る?」
彼の背後から声がして、二人で振り返ると、
「俺は凛と座るから、横浜までばいばーい」
と、匠は軽く手を振った。匠のいるいつもの一軍グループは、驚いたように目を丸くしている。
「ハァ? なにそれ聞いてない!」
と、安田が訴えるが、
「今言った」
匠は臆することなく、さらりと告げると、憤慨するクラスメイトを横目に、俺の手を更にぐいっと引いた。このままでいいのかと、呆気に取られている内に、引きずられるように大型バスの降車口へと向かう。点呼の為に出入り口に待ち受けていた担任教師に名前を告げて、俺たちは軽く振動している車内に乗り込んだ。そうなると、今更苦言を呈する訳にもいかず、後ろ寄りの席に並んで腰を下ろした。
まだ席決めしていないグループが多いのか、車内に人は少ない。俺はスマホで瀬尾に『匠とバス一緒に乗る事になった』と念のためにメッセージを打ち込むと、すぐに既読が付き、『OK』という短い返事がきた。
「……凜、今更なんだけど、ごめん」
「え! 何が?」
突然の謝罪に驚いて顔を上げると、匠は眉を下げて俺を見つめていた。
「強引なことしてるって、自覚ある」
白状するように、匠は視線を下げる。
「でも、少しでもいいから、話したかったんだ……」
俺は匠の言葉に、そう言えば、きちんと向き合って話すのは、中学二年の冬以来かもしれないと思い当たる。久しぶりに二人きりで、顔を突き合わせて言葉を交わすことに、少しだけの緊張と微かな喜びが沸々と湧き上がってくる。
俺は思い詰めたように、靴のつま先へと視線を落としている匠に、首を横に振った。
「確かに強引かもしれないけど、でも嫌じゃないし」
逃げていたのはお互い様だ。だから、こうして話しかけてくれた事に、負い目を感じて欲しくなかった。それに、ある程度強引に引っ張ってもらえなければ、俺はきっと匠に話しかける事すらきっとできなかったから。
「俺も、話したかった」
素直にするっと言葉が出て来た。あの頃は、一文字一言を告げる事に、恥ずかしさや緊張があったけれど――もうあの頃みたいに幼くもない。今ならあの頃よりも、素直に、自分の気持ちを言葉にできるような気がして、俺は匠の双眸を見つめた。
「なんか、二人で逃げちゃったよね」
「……だな、なんでだろ」
「わかんないけど、色々初めてだったからかも知れないね」
まあ、今でも色々初めてのままですけど。なんて、心の中でぼやきながら、俺は隣に居る匠へ顔を上げる。彼もまた、俺を真っ直ぐと捉えるように、こちらへと視線を向けていた。
「匠、マジで変わりすぎてホントびっくりしたよ」
「あ、あー……イメチェン、です」
「にしても、変わりすぎでしょ」
「凜に見合う男になりたかったから……」
そう告げられたところで「たくみぃ」と声が掛かり、その言葉の真意を聞けないまま、俺達は二人で顔を上げた。どかどかと大股で近寄ってきたのは、安田だった。
「安田、なに? 今話し中」
「いや、お前がさっさと行っちまうからさあ」
不満を吐露する安田の視線が、一瞬だけ俺を捉えるけれど、すぐにふっと逸らされる。興味などありません、と真っ直ぐに伝えてくる素直な視線だった。
「どうせ一人あぶれンだから、いいだろ?」
匠はそう言うと、動物でも追い払うように手を振った。
「あたし、匠の隣が良かったのに!」
安田の後ろにいた女の子が声を上げると、匠は「はいはい、またねー」と適当にはぐらかす。
「凜、グミ食べる? 乗り物酔いあったよな?」
そんなことまで覚えているのか。
俺は匠の記憶力に驚きながら、肯く。
「現地でハブだからな!」
「苛めかよ、ダセェ男だな」
ハラハラするようなやり取りを見せられて、些か内心気が気ではない。けれど、そんな俺を察してか、匠は鞄からグミの入った袋を出しながら、
「冗談だから、気にすんなよ」
と笑った。
「それならいいけど……」
「凜はすぐに何でも本気に捉えるからな、そんなん疲れるぞ」
「性格だよ」
「難儀ですな~」
小さく笑いながら買ったばかりだろう、グミの袋を開く。俺は向けられた口から一粒取り出し、口に放り込んだ。マスカットの爽やかな甘みが広がり、鼻を抜けていく。
「てかさ、匠達は中華街どこ回る予定?」
「飯は中華街だけど、赤レンガの方中心に回る予定。なんかイベントやってるらしくて、女子が行きたいって騒いでっから」
匠はそう言いながら鞄を足元に下ろすと、椅子に座り直した。わずかに席が揺れて、隣り合った二の腕が、微かに触れ合う。
俺はそれに少しどきりとしながら、それでも今の空気を壊したくなくて、いいじゃん! と少し気持ちを上げて笑った。
「俺達は中華街中心に食べる歩き」
「いーなー……俺も食べ歩きが良かった。豚まんとか焼き小籠包? あと北京ダック」
「匠の代わりに食べておくね」
「おー、テイクアウトしておいてくれんの? サンキュー」
「言ってない、自慢だけ!」
「性格悪~」
恋を自覚する前に戻ったような、他愛のない言葉が行き交う。匠は無口ではあったけれど、誰かと交流をするのが嫌いというタイプではなかった。得意ではないけれど、テンポよく会話をするまでに時間がかかるのだ。
そんな事を懐かしく思い出しながら、疎らに増えてきた車内を見渡すと、運転席の横に担任が立ち、発車するから静かにしろと、声を上げる。
「午後は? 江の島の水族館の方? それとも島の方?」
俺はそう言えばと思い出す。
お昼までは中華街辺りを散策し、午後は江の島付近へ移動し、そこからまた自由行動となる。決められた行先は二か所選択肢があり、水族館、もしくは江ノ島方面への散策となっている。
もちろん、俺も含めて瀬尾も千葉も楽な方を選びたいという完全一致で、水族館でのんびりする事を選択した。
「水族館だよ、そっちは?」
「俺等も。行先一緒か」
何処となく嬉しそうに呟きながら、匠はスマホを取り出して、水族館のHPを開いた。ほら、と見せられて、一緒に覗き込むと、小さな画面は深い青一色で構成され、その中央には丸い球体の水槽があり、その中でクラゲの泳いでいる姿が映っていた。
「綺麗……それ見たいな」
「俺も。……一緒に見たかったな」
ひと際小さな声で告げられて、思わず視線を上げると、こちらを見ている匠と視線がぶつかった。間近でゆっくりと絡み合う眼差しに、先程よりも心臓が大きく身体の中で鳴り始めている。
——なんて答えればいいのだろう。
匠は、俺のことをどう思っているのだろう。
明確に別れようとは言葉にはしてないけれど、でも確かに俺達は「元」恋人同士であり、全ては過去の話だ。今更甘い言葉などを囁く間柄ではない。こんなふうに、距離を近づけようと、思う事すらない関係のはずなのに。
「一緒に……?」
「うん。凛はどう思う?」
「えっと……」
「そうだね」と、言ってしまいたいのに、喉で詰まってしまったように、声が出てこない。
「うん、そうだね」と言ってしまってもいいのだろうか。俺は何か勘違いしていないか?
今感じるこの気持ちを、過去の自分と重ね合わせて、勘違いしていないか? 懐かしさに当てられて、今も彼が好きだと思い違いなんてしてないだろうか。
この心臓の動きは、どういう意味だろう。
いつの間にか下がっていた視線をゆっくりと上げると、また匠の視線に重なる。熱のこもった眼差しの奥に、中学二年の冬に置き去りにしたはずの恋のとろ火が残っている気がした――これも俺が都合よく解釈して見ている、妄想だろうか。
顔がじんわりと熱くなり、羞恥心のようなものが込み上げてくる。心臓が俺のものじゃないみたいに、とくとくと鼓動を鳴らし、狭い胸の中で息苦しそうに喘いでいる。
「……凜、あのさ」
「なあ、ポッキー食う?」
背凭れが揺れて振り返ると、千葉と瀬尾が後ろの席から、こちらを見下ろしていた。どうやら知らない内に真後ろの席を陣取っていたようだ。
「あ、ありがと!」
一瞬にして現実に引き戻され、差し出された小袋を受け取り、少し大袈裟な声で礼を言うと、俺はその袋の口を開けた。
完全に二人きりの世界に入り込んでしまっていたと、急に羞恥心が込み上げて来て、変な汗が噴き出してくる。
「食べる?」
俺は匠に開け口を向けた。彼も何か目覚めたよう瞬きを繰り返してから「あ、ああ」とポッキーを一本抜き取って、二人に向けて「ありがと」と笑った。
「……なんか二人して大人しかったけど……大丈夫そ?」
「大丈夫、全然平気! 何もない! 遠足楽しみ!」
「小学生かよ」
瀬尾に突っ込みを入れてもらって、少し我に返ってから俺は軽く頭を振った。ポッキーに噛り付くと、チョコレートの甘さが舌の上で溶けて、さっくりとしたビスケットが舌の水分を奪う。
「凜」
呼ばれて顔を上げると、
「今度、ふたりで行こう」
さらりと匠が言って笑う。俺は自分の唇が僅かに震えるのを感じた。その笑顔は、俺が昔から知っている御子柴匠の不器用な笑みだったから。
そして、未だ自分の中に、彼の笑顔が大好きだった自分が、留まり続けていてることに、はっきりと気付いてしまったから。
――俺やっぱりまだ、匠の事を忘れられてないのかな。俺は別れてもずっと、匠のことを好きだったのかな。
匠の気持ちはどうなのだろう。
恋人に戻りたいのか、小学校の頃みたいな親友に戻りたいのか。
俺は視線を逸らすと、自問自答しながらも、
「……うん」
匠から提案された甘い誘惑に、頷いてしまう。
終わったと思っていたはずなのに、どうしよう。
俺は頭の中でぐるぐると考えながら、ちらりと匠をもう一度見上げてみる。あの頃の面影を残した違う顔が、優しく俺に微笑みかけていた。



